小林秀雄のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
2011.01.17-
『地獄の季節』
苦しみを、怒りを、煮詰めて凝縮させて美しい結晶にまで高めた。
全身全霊で詩と向き合い、己の全てをかけて捨て去った。きっと彼は自分の思うとおりに生きたんだろう。そう信じたい。
地獄の夜
明らかに、俺たちはこの世にはいない。何の音も聞こえて来ない。俺の触感は消えた。ああ、俺の城館、俺のサックスと柳の林。夕を重ね、朝を重ね、夜は明けて、昼が来て、……ああ、俺は疲れた。
怒りのために俺の地獄が、驕りのために俺の地獄が、――さては愛撫の地獄が、俺には要ったのかも知れない。地獄の合奏。
疲れた果てはのたれ死だ。いよいよ墓場か、この身は蛆虫どもにくれてやる。ああ、思ってもやりきれない。悪魔め、貴様も道化者だ、いろいろな妖力で、この俺が蕩かしたいとは。よし、俺は要求する、戟叉(げきさ)の一撃、火の雫、いいとも、結構だ。
ああ、また、生活へよじて行くのか、俺たちの醜さに眼を据えるのか。この毒、この口づけ、重ね重ねも呪わしい。この身の弱さと、この世の辛さ。ああ神様、お情けだ。この身を匿い給え、俺にはどうにも扱えない。――俺は隠されている、しかも隠されていない。
火は亡者を捲いて立ち直る。
「飾画」
大洪水後
『大洪水』の記憶もようやく落着いた頃、
一匹の兎が、岩おうぎとゆらめくつりがね草との中に足を停め、蜘蛛の網を透かして、虹の橋にお祈りをあげた。
少年時
Being Beauteous
酩酊の午前
断章
網を鐘塔から鐘塔へ、花飾りを窓から窓へ、金の鎖を星から星へと張り渡し、俺は踊る。
街
道徳も言葉もとうとう、ほんの単純な表現に還元されてしまった。自分を識ろうとする要求を持たぬ、この幾百万の人々は、すべて一列一体、教育を、職業を、老齢を曳いていく。
街々
鐘楼の群れは、人々の想いを歌い、骨で築いた城からは、聞いたこともない楽の音が洩れる。
ランボオは金属や宝石が好き。 -
Posted by ブクログ
小林秀雄『モオツァルト・無常という事』を読む。
これまで小林秀雄の著作にはほとんどなじみがなかったが、
新潮新書の『人生の鍛錬 小林秀雄の言葉』を折に触れ開く。
小林秀雄の著作・講演から選り抜かれた言葉を
ゆっくり味わいながら、宝の山に分け入ることになった。
「無常という事」は、
高校国語の教科書で読んで以来40年ぶりに読み直した。
自分の受け止め方が変わった部分変わらない部分があることを
面白く思った。
過不足ない言葉で思想をカタチにする明晰。
情におぼれず、かと言って
論理でがんじがらめになることのない自由。
文章のリズムが気持ちよく身体になじんでいく。
僕も自分自身を見失うことなく、
小林秀雄との対話を自分の速度で続けていきたい。
台風11号が関東に近づき、
日本も自公政権から民主党主導政権に交替することになった。
こんなときこそ浮ついた言葉に惑わされず、
政治家たちの仕事ぶりをきっちり見ていきたい。 -
Posted by ブクログ
和歌のくだりはごっつ眠いのでモオツァルトのみ評価。世間一般で知られている小林秀雄の評価から僕らの思い浮かべる人物像とはほど遠く感じる実際の秀雄像が、語り口からひしひしと感じられる気がします。CD等で聞いた印象を踏まえる限りサバサバした物言いの方なのだと思います。
導入はほどほどに、モオツァルトの評論は楽しいです。ちゃんと聞いていない方、もしくは聞いていても材料として提出された曲目が分からない方でも読み飛ばしてその世界観に触れる事が出来ます。もちろん、聞いている方が望ましいですが、ここから始め、深める道もあるでしょう。テーマがモオツァルトということですが、現在それに触れている一般の方を想像する限り学生かクラッシックを学ばれている方ぐらいしか想像出来ません。そんなあまり一般的でないテーマでありながら、読む進めるうちに実際に彼の短調のメロディラインを聞きながら読みたい、と思えるのは筆力からなのか、それとも絡みつく様な話力からなのか。
それにしても、対比として出されるスタンダールやワーグナーの天才性ですが、そこにも一悶着ありそうな扱い方でその辺でも、もしかしたら短編でも 書いていそうな勢いで、テーマにも構築する材料にも愛情が感じられ心地良く、また好奇心を掻き立てる内容でした。
あまり触れませんが残りの和歌が7割を占め、そちらも素晴らしく、西行や実朝の分析も面白いです。引用が豊富で一般的な高校の古典レベルでは、少しハードルが高く予備知識なしでは厳しいかと思います。 -
Posted by ブクログ
ランボオに関する記述が好きだ。人っていうのはそりゃあ恐ろしく理解できない部分を持っている。ボクがボク自身でもあまり理解できない部分を持っていて。なんでさっきまでみんなとカラオケをしてぶっ飛んでバカ騒ぎをしていたのに。バイバイした後。喫茶店でおもむろに。読みかけのランボオを開いているのかと。そこでなぜランボオかと。これは何かの間違いじゃないかと。そう思うときが正直ある。あまり自分を肯定できない瞬間だ。でもこの本には救われた。人々は品物に惚れこむと心の裡に他人にはわからぬ秘密を育て上げるものだ。と。さらにこの秘密は愚かさと共に棲みながらもっとも正しい事情をつかんでいるのを常とする。最後に。人間の心の豊かさとはただただこの秘密の量である。
-
Posted by ブクログ
感情、記憶、情緒。
これらの言葉の理解が深まった素敵な対談。
理性を使った、知の結晶のように思えてた数学。ただこの本を読んで認識がガラッと変わった。数学者の、わかるという感覚や、これが発見であるというセーブポイントの付け方は、人間の情に依るもので。さらにはそれを積み上げられたという事実が、情が個人を横断するものだという証拠で。情を持ってでしか人は進んでいけないという確信を、知や意ではなく情に腹落ちした。
個人という言葉を一貫して小我と呼ぶ岡潔に、西洋の限界に気づこうぜ日本人!の継承魂を感じた。
やはり仏教は情を理解する上で避けては通れなさそう。
つぎは岡潔の仏教系の本を読もう。
小林さんが、対話相手としての力不足感を感じる。そして、後書きが茂木健一郎なのが嫌すぎる。 -
Posted by ブクログ
“読め”はするが、本当に読むことが、難解であると感じる一冊だった。おそらく自分の知識量では解像度が低いだろう。例えば、ドストエフスキーとトルストイの対比について論じられているとき、もちろん作品のことについても論じられるのだけど、作品のあらすじしか知らない自分にとっては、特に解像度が低い。そういった意味では、この本で述べられている、物語を読み、人物を知り、数学を少し学んだりして、また本書を読んでみると新しい観点や、発見があるだろうから、今後も読み返したい。本書の素人目線の感想としては、岡先生がこんなに文学に関わっているとは知らなかった。私にはまだ、問題さえ理解もできないような問題を解決した大数学者の岡先生の知らない一面を知ることができて、とても面白かった。「情緒」も解像度は低いとはいえ共感できるところもあったし、素読教育や、思考時の言語化についても共感した。しかし、岡先生はナショナリズムが強い方なのだろうかそれとも小我と大我について深い思索を重ねた末の結果なのだろうかわからないが、小我を去ることで、特攻ができると論じられていたところにはいささか疑問と嫌悪感を覚えた。また、自己中心的な個人主義への見解も現代の感覚からは受け入れ難い。一方、小林先生に対する私の印象は、『様々なる意匠』の印象だったが、本書ではいろいろなことについて語られていて、自分にとっては新鮮であった。