小林秀雄のレビュー一覧
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この文庫を手に取ってみて、きっとはじめは奇異に感じるだろう。というのも、出だしの数編が小林秀雄の若書きの小説であったり、詩が入っていたりすることだ。しかもそれが暗いシニックなもので面白くない(そしてたぶんそんなに上手くない)ものであればなおさらだ。
最初は疑問に思いながらも読み進めて行くと、『Xへの手紙』あたりで突然、批評家としての小林秀雄が顔を出すことにきづく。「俺は自分の感受性の独特な動きだけに誠実でありさえすればと希っていた。希っていたというより寧ろそう強いられていたのだ。文字通り強いられていたのだ。」(p76)と、強烈に自己を意識した文章が飛び出してくる。この「感受性」の上に、彼の批評が成り立っていく。曰く、文学の新人へ向けて「君の自我がどんなに語り難いものにせよ、又語る時を君がどんなに軽蔑しようと、僕は依然として君の自我を尊敬するし、僕の欲しいものは君の自己証明なのだ。」(p188)と述べる。
この本には小林秀雄の芸術の捉え方を明かすものが多く収録されている、マルクス主義文学論に対して書かれた『様々なる意匠』、芸術家の表現について書かれたそのもの『表現について』などが収録されている。それら収録された一篇毎に、小林は批評を通じて「美とは、新しい生き方の事であり、人間の新しい意味であり思想であった事」(p276)を確認し続けようとした。
読み終わると、最初の小説群の意味が少しわかる。これらは、批評家・小林秀雄への導入だったのだと。素人には小林秀雄の批評はとっつきにくい。著者の受けた印象が文の前面に出ていて、批評元の作品から遊離していて何を言っているのかわからなくなるところがあるからだ。しかし、この本を読んでみると、小林秀雄が何を目指して批評活動をしていたのかが分かってくるのではないか。 -
Posted by ブクログ
「かたち」が沁みてくる。このひとはこのひとである以上、どうしようもなかつた、そのことに気づかされる時、「かたち」が浮かび上がつてくる。批評とは問題点を取り上げて改善を促す類のものではなく、この「かたち」に辿り着くことだと思ふ。
「かたち」を物語として書いたところにも彼の姿が映つてゐるが、彼が生き響いた対象に対して語りかけ、そのぎりぎりの境界に辿り着くまでには、一体どれほどの存在が通り過ぎていつたのか。
Xへの手紙はそんな彼の歩いた道のひとつの里程標だと思ふ。Xと名づけられた未知の存在。生まれたての物書き。ただひたすらに書いていくことを望んだ新人。表現するとは自分であること以上のことは何もできないと知つてしまつた小林からの限りない哀惜と、それゆえに新たな表現を見出せる可能性を背負つた存在。
彼はいくつもの手紙をかうして書いては誰に宛てるでもなく、しまつていたのかもしれない。
ひとがそれ以上何にもなれないといふことを知ることは、ひとの生命、人生をみることに他ならない。意匠とでもいふものか。それに触れる時、ひとはさういふものでしかないと思い知らされると同時に、さういふひとしか生きてこなかつたといふ明滅が目の前に拡がる。その明滅はミクロで見れば不連続なものかもしれないが、いくつもの明滅が重なりマクロで見ていけばひとつの線となる。直線は定義上始点も終点も存在しない。これまで存在しなかつたといふことも、今後存在しないといふこともない。「在る」とはそんな風にできてゐる。 -
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文筆家としての自覚と矜持を貫いた小林秀雄は、講演や対談の場での自らの話し言葉を文字にするときは、必ず速記原稿に目を通し、書き言葉に調えることを必須としていたとのこと。
今回のこの本は、小林氏の著作権継承者である白洲明子氏の検分と容認を得てようやく刊行されたものなのです。
そのような経緯があるのですが、収録された学生たちの質問と小林氏の応答は、他に類の見ない小林氏の「会話教育」と「質問教育」の実態を、現代に、ひいては後世に伝えるべく、国民文化研究会と新潮社に残された音声を新たに文字化されたものなのです。
内容ですが、
講義 文学の雑感
講義 信ずることと知ること
講義 「現代思想につおて」後の学生との対話
講義 「常識について」後の学生との対話
講義 「文学の雑感」後の学生との対話
講義 「信ずることと考えること」後の学生との対話
講義 「感想——本居宣長をめぐって——」
後の学生との対話
信ずることと知ること
小林秀雄先生と学生たち 國武忠彦
問うことと答えること 池田雅延
日本人が先祖から伝えてきたことの価値観の重要性、所謂「科学」への懐疑、いわんや「唯物史観」への嫌悪、小林秀雄さんの真髄を垣間見させていただきました。 -
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もし、自分がこの場にいたら、きっとお腹の調子がおかしくなったり、呼吸が変なことになってしまっただろうな。という空気感さえ伝わってくる。
「現代思想について」
「常識について」
「文学の雑感」
「信ずることと知ること」
の講義後に行われた対話集。
印象に残ったのは、科学と心理の話。
科学とは物と物の関係性を解明することだが、それは人がどう良く生きるか、心とはどのような性質を持っているかということとは無関係である。
本居宣長と「もののあはれ」の話。
それから、質問の仕方について。
これは『人間の建設』でもそうだが、良い質問をするよう求める。
学生の幾つかの質問には、遠慮なくぶった切っているものもある(笑)
抽象的であるとか、本質をまず捉え違っているとか。。。
批評について。
まさか、褒めることという帰結に結びつくとは。
「調べて、古えに関する知識を得たのではない。古えの口ぶり、手ぶりがまざまざと目に見えるようになった、そこまで行った人なのです。……なぜなら、諸君の現在の心の中にあるのだから、歴史をよく知るという事は、諸君が自分自身をよく知るということと全く同じことなのです。」
「だから、考えるということは、自分が身を以て
相手と交わるということです。宣長の言によると、考えるとはつきあうという意味です。ある対象を向うに離して、こちらで観察するという意味ではありません。考えるということは、対象と私とが、ある親密な関係へ入り込むということなのです。」 -
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彼の叫びが木霊する。世界は明滅を繰り返す。
生きていることが地獄であると知ってしまうことはどれほど窮屈なことだろうか。社会だとか、貧困だとかで地獄なのではない。そんなものは彼が何よりも嫌ったものだ。生きて死ぬこと、このことを前にしては、そんなもの些末なことに過ぎない。どんなにことばの地獄で汚そうとしても、どんなにことばで新しいものを錬金しても、どこまで行ってもことばから離れられない、そして、それゆえにすべてのことが許されてしまっている。だから、地獄なのだ。もう、ひとにもまれて踏みにじられ、そうやって生活して生きるよりほかないのだ。人生は茶番ではない。
そんな彼の乾いた孤独を誰がわかってくれただろう。あのヴェルレーヌでさえ、結局は腑抜けた腰抜けだった。
筆を折ったのはもう語ることが何ひとつないと気づいてしまったからなのか。『酔いどれ船』で宇宙に飛び出したかと思っていたが、彼が飛び込んだのは実は深い深い土の中だった。その時彼は泣かなかったのだろうか。書くということから背を向けて歩き出す彼の姿が、強く見えて、でも悲しく見える。 -
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ネタバレ詩集の題名は『 UNE SAISON EN ENFER 』で、直訳すると『地獄時代』になる。「普仏戦争・ランボーが熱狂的に応援した革命政府(パリ・コミューン)の崩壊・ヴェルレーヌとの地獄の旅」を体験したランボーの青春は確かに「地獄時代」かもしれない。ただ、フランス語の「SAISON」には英語と同じく「季節」という意味があり、「比喩」と見て『地獄の季節』という題名でも問題ないと思う。
ランボーは自筆原稿・本の多くを燃やし、小林秀雄が『飾画』と訳した『イリュミナシオン』はランボーが「燃やさずに残した詩を未完成のまま編集した詩集」だった。
このためランボーの詩のテキスト整理に時間がかかり、『地獄の季節』の「gargouilles (怪獣の形をした屋根の雨水落とし・屋根を流れる雨水を受けて、地上や下水道に導くための樋)」を「蛇口」と訳すなど、少し誤訳がある。しかし、これはランボーの責任であり、小林秀雄の不運だったと弁護しておく。
『イリュミナシオン』の原稿が最悪で、「二つの詩が一つの詩に見える・韻文詩が散文詩に見える」という代物だった。こうした悪条件の中で、ランボーの翻訳に取り組んだ小林秀雄の努力は評価すべきだと思う。
ちなみに「『Fairy』と『戦』は一つの詩だった」という説もあり、「ランボーのフランス語テキスト」がまた、変更される可能性もあり。 -
Posted by ブクログ
こんなにも大きく豊かな広がりがあって、強く重く濃い作品をも、ひとは詩と呼ぶのだろうか。より適切な表現は何かないものだろうか・・・とランボーの詩に触れるたびに考えていた私にとって、この岩波書店の文庫は表紙からすばらしい。
「ヴェルレーヌが『非凡な心理的自伝』と評した散文詩」という(私にとっては)衝撃的&心底納得する事実や、その他ランボーに関する大まかな情報が、表紙を使って的確に紹介されているのである。
『非凡』であることは分かりきっていたけど、なるほど、『心理的自伝』とはさすがヴェルレーヌ氏。ものすごくしっくりくる表現である。
そして『非凡な心理的自伝』は、ランボーが、選び抜いた言葉をもっとも魅力的に組み合わせて、ランボーのみが持つ「地獄の季節」という世界を描き切ったものであるが、それを小林秀雄が用いる日本語で置き換えてあるからこそ、なおさら、私を惹きつけてやまない作品となっている。
天才と天才の相乗作用は、計り知れないものがある。
ランボーに強く惹かれているときは、原文を理解できない自分が残念に思えたりもするのだが、ランボー作・小林秀雄訳という形を読めるということには、大変な幸せを感じる。
といっても、どのみち理解できたとはいい難い。
もちろん原文のままでは話にならず、小林秀雄氏の力は先に述べたとおり、充分すぎるほど充分なのだが、それでも熱中して読んでいると理解できない、というより、理解する気にならない、という感覚に陥る。
おそらくランボーの言葉たちは、私の理性にはまったく働かず、感性や本能といった部分を直撃してくるのだろう。