あらすじ
「もののあはれ」の説は、単に「源氏」研究の学説に留まるものではなかった。宣長において、それは、実人生の情(こころ)を論じる際にも一貫していた。ひらすら宣長の肉声に耳を傾けながら、その徹底した学問と人生の態度を味わい、いかに生くべきかを究めた本書は、同時に現代最高の知性、小林秀雄の思索の到達点でもあった。 ※対談『「本居宣長」をめぐって』江藤淳/小林秀雄は、掲載しておりません。
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Posted by ブクログ
上巻に続く下巻。
「物学び」「やまとごころ」「もののあはれ」をキーワードとして、形式的な当時の学問世界や、中国から輸入された儒学への傾倒を批判。
師匠である賀茂真淵や、同時代の学者である上田秋成との論争についても触れられている。
ひとえに自分自身の経験不足からであるが、古事記や書紀(宣長は『日本書紀』という言い方を嫌う)にある神話世界が非常に重要であるということが、どうしてもはっきりとした納得性を持ってこない。
「文字」を持たなかった時代に人々によって「口伝」として語り継がれた神話こそ重く見るべき物語、というのは何となく理解できる。
しかしそれでもやはり文字の力は覆せない、と若輩者は思ってしまう。
また、ものごとをそのまま感じる「自然主義」よりも、科学や現実と言った「理屈」に偏るのは、いつの時代も変わらない課題のようだが、現代は特にそうだと思う。
その中で、ありのままを見て信じることは難しいことだと感じた。
一神教と多神教、日本と西洋における自然主義の違い、言葉と文字、信じる力など、色々頭に去来する読書体験であった。
小林秀雄の書き方が、私にはいただけない。
「そう言っていいと思う」、「そう考えるしかない」など、自分自身を無理やり納得させているような語尾。
押しも押されもせぬ歴史的な批評家に何を言えるものでもないが、残念ながら今の自分の年齢にはまだ感じとれぬものがあるようであった。
Posted by ブクログ
小林秀雄の「本居宣長」、やっと上下巻を読み終える。とは云っても、新潮文庫のこの下巻のうち、付録としてついていた「補記Ⅰ」、「補記Ⅱ」はパスした上でのことだが・・・・。なんせ少し古文体を読むのに疲れてしまったというのが理由。情けないね。
さて、この「本居宣長」、小林秀雄が11年半をかけて書いた、まさに畢生の大作と云っていいのだろう。若い時分に宣長の「古事記伝」を読んだ感動をずっと暖め、30年後にこうした成果で結実したということのよう。古事記や万葉集はもちろんのこと、契沖、賀茂真淵、荻生徂徠、中江藤樹、上田秋成ら古学者の古典、書き物にはほとんど眼を通した上での執筆というから、その膨大な裾野の上にこの本ができているということには感嘆以外のなにものでもない。彼らの書からの引用が多々引かれているわけだが、いわば本書における登場人物のような役割を演じており、それらの人物を通じて宣長の人物像、思想が浮かび上がっているというところだろうか。
「よろづの事を、心にあぢはへて、そのよろづの事の心を、わが心にわきまへしる、是事の心をしる也、物の心をしる也 -わきまへしりて、其しなにしたがひて、感ずる所が、物のあはれ也」(紫文要領)と。そしてその極め付けが、かの「源氏物語」だという。宣長、これを評して曰く「やまと、もろこし、いにしへ、今、ゆくさきにも、たぐふべきふみはあらじとぞおぼゆる」のだと。宣長は、源氏物語にせよ古事記にせよ、「さかしら(今の世に一般的な定見や理屈)」で観たり読んだりするのではなく、その古代の時代に生きた人々と同じ眼の高さで、自然そのままに、その書いてあるところを読む、これが大事なのだということを強く主張する。だからこそ世の学者からは異端視されてしまうのだが、孤高とも云うべき姿勢を決して崩すことはなかったのだという。このあたりの小林秀雄の書きっぷりは、静かに淡々と続くのだが、その言葉の連なりの中には宣長への熱い気持ちが息づいているとも云える。著者の晩年をかけた熱い思いが滲み出た作品と云っていいのだろう。それにしても古典をこうして読みこなし書をものにできる情熱が素晴らしい。
ほとんど偶然なのだが、ずっと以前に予約していた現代語訳の「古事記」が借りれることになり、明日から頁を開くことになるのが、不思議な縁とでも云えようか。リンボウ先生の「謹訳源氏物語」もそうだが、現代語訳版というところが、小林秀雄とは月とスッポンであることを証明してしまったことにはなるのだが・・・・・。