石牟礼道子のレビュー一覧
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ネタバレ北から順に、
長崎 ……お小夜がみずなとして遊郭に。直衛が仕事で(三之助を伴って)たびたび訪れ、お小夜を落籍。
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天草 ……志乃の出身。お糸と重左。
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葦野=水俣 ……萩原家。直衛。嫁いだ志乃。娘のお咲。婿入りの国太郎。孫娘の綾。
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薩摩 ……弟の三之助と姉のお小夜の出身。
(すべて不知火海の近辺)
という位置関係だと整理した。
で、同じく著者の家族を題材にした「椿の海の記」で、以下のようにメモした。
・祖父。松太郎。天草の石。天草出身の石工。
・祖母。おもかさま。めくらさま。蓬髪。狂女。神経殿(どん)。漂浪(され)く。
・後妻。おきやさま。権妻殿(ごんさいどん)。
・大伯母。お -
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ネタバレひときわ悲哀を感じさせる物語で、余韻を噛み締めた。
土木業を営む萩原家を中心として、その現在と過去が継ぎ目なく語られていく。夢か現か、次第にどちらでもよいように思えてくる。きっと志乃の生きている世界はこれに似ているのだろう。
盲目で夢の世界に生きている志乃は、本人はあまり多くを語れないのにも関わらず、その存在感が強く印象に残る。ときどき正気に戻ったように喋るのが切ない。志乃と娘のお咲、孫の綾が愛情という絆で繋がっているようで胸が熱くなった。いつかあの世へ渡るとき、よき舟がこの親子のもとに迎えにきてくれたらいいのにな。
土木業界の騒がしい宴会の場面から始まったために、荒々しい男性の世界という印象 -
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侍も、苗字のなか者共もひとしなみになるちゅう噂は本当らしゅうもあった。どこらあたりの庄屋殿じゃったろうかな、こういう噂がながれてきた。一日、村の人間を集めてご馳走する、といわるげな。その庄屋殿の家のにわに、今まで使いよった肥桶と肥柄杓がきれいに洗いおさめてある。その洗い上げた肥桶になみなみと酒をいっぱい入れてあるちゅう。それから洗った肥柄杓で湯呑に酒をついで、「一統づれよう来て呉れた。今日はご馳走するぞ。何ば遠慮するか、さあ呑め」と配ってまわる。「呑まれんかのう。呑まれんじゃろうのう。やっぱりそうじゃろうとも。お前共平民も、苗字を名乗ってよかごとなるちゅうて威張ってみよるが、元はと言えばおまえ
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発売と同時に買ったのに,ずっと積ん読。
まる2年以上も!
きのう、雨に降り込められ、何となく読み始めたら
止まらなくなった。
よくぞ、買っておいたものよ、でかした2年前の私!
当時は石牟礼道子を、ちょこちょこと読んでいたので買ったものの
池澤夏樹が、ちょっとなぁ、若い頃好きだっただけに、最近は・・・と
読むのをためらっている間に、まる2年!
けれど『また会う日まで』で池澤長編を読み、
池澤の本へのためらいが解けたところ
なのも良かったのか。
前置きが長くなってしまった。
本書で、わたしは、大きな間違いをしでかしていたことに気づく。
「苦界浄土」はルポルタージュだと思っていた。
あれは紛 -
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神様と動物と人間の魂が、今よりも近くつながっていた頃のお話しです。
いろんなところに神様がおられて、お葉もおじいさんもそのことをとても大切にして暮らしています。
私はこの時代に生きたことがないけど、胸がじんとして懐かしい気持ちになります。
石牟礼さんの書く物語は、人間の深いところに流れているものと繋がっているからでしょう。
山福朱実さんの版画も本当に素敵です。
小学校上級以上と書いてありますが、子どもの頃に読んでいても、あらすじだけを楽しんで、この本のしみじみとしみ入るようなよさはわからなかっただろうなと思います。
今、出会えてよかったです。
手元に置いて何度も読み返したい1冊になりました。 -
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ネタバレ石牟礼道子さん、1927.3.11~2018.2.10、享年90。「魂の秘境から」、2018.4発行。2015.1から2018.1の間、朝日新聞に掲載されたもの。チッソ工場が廃棄物を水俣川河口に。有機水銀に汚染された不知火海。当初「奇病」と呼ばれた患者が運ばれたのが避病院。医者がいるわけではない。あばら屋の板敷きの上に、病者たちが寝かされていた。海辺の猫たちは、鼻で逆立ちしてきりきり回り、最後は海に飛び込んで狂い死にしたと。死期を悟った猫は人に知られず姿を消す。そんな恥じらいを知る猫にとって「狂い死に」とは、あまりにむごい最期。
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ネタバレ今回読んだのは、赤い平凡社新書(2007)。以下、目次。
■まえがき 石牟礼道子
■第一章 飢えと空襲の中で見たもの
パーキンソン症候群──読めなくなる、書けなくなる/声が出なくなるかもしれない/食べ物をつくれないのが不自由/石牟礼さんの印象に残っている死についてうかがいたい/飢えの経験/水俣の空襲人間ってこんなものか/物資不足と竹槍訓練/そのころ、お年寄りはどうしてましたか/お年寄りも「この世に用があって生きている」
■第二章 印象に残っている死とは
祖母の死/あの世は「良か所」/祖父・松太郎/父の死──猫のミーを懐に入れて、ぽとんと/いい死に方をした父/父は殺されたぽんたの解剖に立ち会った -
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水俣病の歴史を知っている。しかし、その時代の前後した熊本に生きる人々の生き生きとした生活を4歳から5歳であろうみっちゃんの目からみたままを描写する。
その後に起こる水俣の悲しい歴史を想像して、豊かな自然に暮らす人々が公害により自然と奪われ変わっていく様と相まって、えも言われない気持ちになる。決してチッソを憎む気持ちが根底に垣間見えるわけではない。ただ淡々と描写する。日本は自然豊かな、地方地方の独自の文化を持つ国だったのだなという気持ち、現代の波にのまれ変わってしまった今、もう二度あの頃の日本は戻ってこないだなという気持ちがわいてくる。
ゆったりとした時間のなかでも一度読み直したい本 -
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ネタバレ「苦海浄土――わが水俣病」は、ルポルタージュとも小説とも言い切れない、「凄い文章」と呼ぶしかない、異様な散文だった。
それに対する本書は、いわば「苦海浄土」エピソード・ゼロ。
著者が1927年生まれなので、作中のみっちんがおおむね4歳ということは、1930年前後の水俣が舞台なのだろう。
しかし4歳児がここまで精緻に記憶していたかは怪しい。
そして彼女を取り巻いていた大人の事情をここまで把握していたはずはない。
単行本は1976年刊行。
50歳近い著者が、45年前の自分自身や、今は亡き家族親族知り合い、どころか村自体を憑依させて、書いた。
(その村は、人が自然死するよりも理不尽に、決定的に損なわ -
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本を開いて一行目でもう、匂いや風まで感じられるように浮かぶ、行ったことも見たこともない昭和初期、熊本県水俣の、部落の生々しい風景。
4歳から5歳くらいの頃の著者の「目」を通した世界を、大人になった著者が書いているのだが、あとがきで池澤夏樹氏が言うように、エッセイや回想録というにはあまりにも深淵な世界が描かれている。
幼い日に抱いたなんともいえない寂しさとか恐怖心とか、本来ならば言葉には到底おこせない「心の中にむらがりおこって流れ出る想念」を、言葉にすることに不完全さを感じながらも極限まで尖らせ、尚且つ生身の血の脈打つのを感じる言葉をもって、「送り出してしまうことに」なっている。
片足は象皮 -
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石牟礼道子さんと、藤原新也さんの対談。東日本大地震の、いや、福島原発事故の後、3ヶ月後から行われた対談。石牟礼道子さんの語りが美しすぎて、、藤原新也さんの子ども時代との共通体験に話は滑らかに進行するが、今から10年前のこの時にも、今なお水俣病を発症し何世代にもわたりこの病に苦しまへている方がいる、この衝撃。私も学生の頃水俣にお伺いして、とてもおいしいお刺身をご馳走になり、今風に言えば、本当に利他の心、そしてダライ・ラマの教えに通じる慈悲の心に満ちた方々にお会いした、美しい海、風景を思い出しながら、今なお、、と思うと怒りが湧き起こる。当時は成長成長で風景を壊し環境や生命を破壊破損しそれが正義だっ
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七つのお葉は幼い頃に両親を川で亡くし、爺さまに慈しみ育てられている。
喪失の哀しみを持った子どもは、声なき声に耳を澄まし、異界に足を踏み込んでしまうのだろうか。
お葉の幼いながらも凛とした強さと優しさが、種を越えたものたちをも惹き付けるのだろうか。
山犬ランや黒猫おノン、千年狐のごんの守、大なまず、木の精など不思議な力を持つものに対する畏敬を念を持ち、人々の暮らしと共にある。
今はどうだろう。大切で美しいものを手放してしまったような気がする。
この不思議な話は、まさに阿蘇山のまわり山岳地帯から生まれた。雄大な阿蘇の自然と高千穂の神話、民間伝承や信仰が息づいている。
阿蘇の草千里、秋の野の尾