あらすじ
食べることには憂愁が伴う。猫が青草を噛んで、もどすときのように――父がつくったぶえんずし、獅子舞の口にさしだした鯛の身。土地に根ざした食と四季について、記憶を自在に行き来しながら多彩なことばでつづる豊饒のエッセイ。著者てずからの「食べごしらえ」も口絵に収録。
...続きを読む感情タグBEST3
Posted by ブクログ
とても好きなエッセイだった。
お料理というよりもその背景にある熊本の人たちの暮らしや土の匂いが漂ってくる。著者の父親の生きざま、貧乏であるからこそ人間のプライドに向き合うということ、お金を使わずに食べものと向き合うこと。
現代では難しい、とても難しいことが書かれていて心が痛いところもあったが、少しでも心の隅におきながら生活したいと思う。お団子とか、お菓子が作りたくなった。年に一度や特別なとき、四季折々のお祝い事など、折にふれてこんな料理をしてみたいなと思う。
醤油のいいにおいが心に流れ込んでくる本。
Posted by ブクログ
石牟礼道子が語る「食べごしらえ」は、いわゆるごちそうではないのだろうが、本当にうまそうなのは、これは、土と、海とをそのまま食べているようなものだからだろう。それに、村そのものと食べているような、家族・家の記憶がないまぜになる。そんな幸せな記憶が、こうして書き手を見つけて残されることの尊さを考える。
Posted by ブクログ
食にまつわるエッセイでさらさらとテンポよく読み進められるようで、読むごとに無性に郷愁がつのっていく。思い出す手仕事、食卓、人びと、土地の恵み。もう会えないとかできないことの切なさ。私は特に亡くなった祖母を思い出してしまった
(最後にエッセイ全体を振り返った筆者が「今思うといかに(料理を)失敗したかという話をした方がおもしろかったかも…」と冗談めかしていた。確かにそんなのも読みたいかもと思った)
Posted by ブクログ
石牟礼道子さんといえば「苦海浄土」で、その作品で名を知った方なんだけれど、いまだその一冊には手を出せずにいる。数年前に手に取ったのは「椿の海の記」というエッセイのような自伝のような一冊で、そこには辛いことも楽しいことも、悲しいことも嬉しいこともごたまぜになった「生活」が記されていた。この一冊を知ったのは「生まれた時からアルデンテ」平野紗季子さんのエッセイで「この序文がすごい大賞(もしあれば)受賞。」と書かれていた。序文がすごいが、中もすごい。豊穣のエッセイ。そのまんまだった。
Posted by ブクログ
作家が磨き抜かれた言葉で振り返る、天草、水俣で過ごした幼い日々の暮らしと食べごしらえ。味わい深い土地の言葉、凛とした父母の生き様、地に根差した食べ物。すべて失われて帰らぬからこそ、輝き、せつない。
Posted by ブクログ
小池一夫さんが読むと懐かしくなる、と薦めていた本。
読んでいた私は世代も育った地域も全く違うので懐かしくはならない。ただ九州育ちの義母なら知っている風景なのかな、と想像した。
食べるためには野菜を作ること、下処理をすること、お釜を洗う事。一つ一つ手間がかかる。
そしてその向こうに年中行事の九州の人々が見えてくる。料理の紹介というよりはエッセイみたいな本だと思った。
Posted by ブクログ
手が荒れてしまうからアクの強い野菜を扱うのは避けてしまいがちだけど、そういう軟弱な姿勢を見直したいと思いました。思い通りにいかない野菜や魚にちゃんと向き合って、おいしく食べる気概。
Posted by ブクログ
読み進めるうちに、映画「阿賀に生きる」の映像が頭に浮かんできた。作者の名前を見て、あの「水俣」の、とつい思ってしまったが、「阿賀に生きる」に描かれた阿賀野川流域と同様、水俣にも豊かな自然と風土、四季折々を慈しみ、節目節目を大切にする人々の生活があったのだ。この本ではそういう暮らしが「食べごしらえ」を通じていきいきと描かれている。それは公害病という災厄に見舞われても、その災厄と様々な形で付き合わざるを得ないということも日常に取り込みながら、続いてきたのだろうと思う・・・阿賀野川流域がそうだったように。
Posted by ブクログ
生きることをかみしめながら、口に運ぶものを自分の手でこしらえる石牟礼さん。
その豊かな記憶の広い世界が描かれていた。
食べごしらえ、おままごとの中に描かれていることもすでに失われているものが多い。私などよりも、描かれている出来事を体験したことのある読者の方が受ける感銘は大きいのではないかと思う。文章の感触は失われなくてもそういうことはありそうでうらやましい。
FOOD2040によると、2040年には日本の食品の70%が家庭外で作られるようになるとされているから驚いてしまうが、徐々に進行しつつある気はする。服の主流が既製服になったように、既成食になっていくのか。
そうした意味でも今読んでみると、苦い記憶のようにつきささるエッセイだった。冒頭文の猫が草を食む描写などがすばらしい。
Posted by ブクログ
食べてきたもの、作ったものが
思い出と結びついている。
熊本の郷土料理のことも
いろいろ書かれていますが
祭事や行事の記憶も綴られていて
その料理がその土地で
愛されてきたのがわかる。
母の行商についていって待ちぼうけ。
洗い場の女衆たちが
大きな夏蜜柑をくれたという逸話に
ちょっとほろり。
Posted by ブクログ
「椿の海の記」を先に読んでおいてよかった。
グルメエッセイって苦手なのだが、本書は作者自らグルメではないと主張、印象的なタイトルへつなげる。
実際読んでいて浮かぶのは食べ物そのものではなく、そんな食事や料理を営んできた人々の姿だ。
特に作者の父母や弟の顔が、もちろん知らないけど浮かぶかのようだ。もちろん「椿の海の記」の影響。
石牟礼道子は1927年生まれ。わが祖父と同じくらいか。ちなみに、
三島由紀夫は1925年生まれ。
水木しげるは1922年生まれ。
育ちや環境は全然異なるが。
以下メモ。
父の歳時記への拘り。
母が子を五日で喪う。
馬の背さながらの俎板。
子を寝かしつける母は即興詩人。
流産した産婦さんに、赤ちゃんはすぐまた、のさりなはります、と母。
誕生日も命日も夫に任せきりだった母。亡くして初めて困る。笑い泣き。
子油徳利を語るうち、こわくなる母。
みんみん滝。おみよが身投げして蝉に生まれ変わって。
獅子舞の口を開けて、アーンしなはりまっせ、ほら、と正月の料理を若衆に。
リヤカーで行商にいくとき、5つの娘を連れることで、夜道のこわさを紛らわせる母。
菖蒲を切りにゆくときは主人公のように思っていた弟。父が息子に、菖蒲を鉢巻きのように巻いて。
から薯→おさつ。
どっさり作る→ものごとをする。
宮沢賢治が特別の位を与えて、苹果と読んだ。
解説は池澤夏樹。
Posted by ブクログ
『苦海浄土』で知られる作家、石牟礼道子が自らがこれまでに作り食べてきた数々の手料理について、実際に調理しながら描いたエッセイ集。
出てくる料理はどれも熊本での市井の生活に根差したものであり、その一つ一つの料理に尽くせない思い出が潜んでいる。ただ料理を描くのではなく、料理を通して、石牟礼道子という希代の作家が感じたことが丹念に描かれる。
巻頭の石牟礼道子自身が調理した料理の数々の画像も大変素晴らしい。
Posted by ブクログ
しょうゆや味噌まで手づくりしていた昔に思いをはせた食エッセイ。今の時代に同じことをやろうとすれば、女はとてもじゃないが会社で仕事などできないだろう。
にも関わらず、昔の暮らしが、今よりずっと豊かに思えて、うらやむ気持ちを止めることができない。
Posted by ブクログ
一昔前の田舎の人が、どのように作物や獲物を食べ物にしていたかがよくわかるだけでなく、どんな思いでその行為を行っていたかがわかる。
昔の人がお米一粒でも捨てたりしなかったのは、ここに書かれたような苦労をして(今の農業よりずっと過酷)やっと手に入れたものだからなのだと改めて思ったし、添加物などもちろんなく、すべて捕ったものか作ったもので作った食事がいかに滋味に富んだものであったかは、化学的な味になれてしまった身としては想像するしかないが、どんなにおいしかったことだろう。
今だって、大金を払えば、この本にあるような食材を使った手のかかった料理を食べることはできるかもしれないが、ここに書かれているほどの喜びと感謝をもたらしはしない。
たった数十年で、こんなに変わってしまった日本人の食生活が恐ろしくもある。
『苦海浄土』や『椿の海の記』などの代表作を読んだ後に読むと味わいが増すので、先にそれらを読んでほしいと個人的には思う。
この豊かな恵みをもたらした海が汚され、こうして貧しいながらも満ち足りて暮らしていた人々を不幸のどん底に落とし、決して完全にもとの海にもどることはなく、このささやかな平和な暮らしも消えてしまったことを思うと、本当に辛い。
この本自体は幸せを描いているのに。