石牟礼道子のレビュー一覧
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七つのお葉は幼い頃に両親を川で亡くし、爺さまに慈しみ育てられている。
喪失の哀しみを持った子どもは、声なき声に耳を澄まし、異界に足を踏み込んでしまうのだろうか。
お葉の幼いながらも凛とした強さと優しさが、種を越えたものたちをも惹き付けるのだろうか。
山犬ランや黒猫おノン、千年狐のごんの守、大なまず、木の精など不思議な力を持つものに対する畏敬を念を持ち、人々の暮らしと共にある。
今はどうだろう。大切で美しいものを手放してしまったような気がする。
この不思議な話は、まさに阿蘇山のまわり山岳地帯から生まれた。雄大な阿蘇の自然と高千穂の神話、民間伝承や信仰が息づいている。
阿蘇の草千里、秋の野の尾花すすきが陽(ひい)さまに照らされ金色の光の波となって輝き、恐竜が走り回って遊ぶ情景が目に浮かぶ。
川が人々の暮らしと密接に関わり、あの世とこの世を繋ぐ。
長い歴史のある土地ならではの、時空間を越えた神と種を越えたものたちの大きな不思議で美しい世界を堪能しました。
爺さまの言葉に
「片目じゃの、片耳じゃの、ものの言えない者じゃの、どこか、人とはちがう見かけの者に逢うたら、神さまの位を持った人じゃと思え」とあった。石牟礼道子さんの声と重なる。
山福朱実さんの木版画が力強くあたたかい。 -
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当時福音館の雑誌「子どもの館」に連載され、「児童書」に分類されているのだが、 実際に読むのは児童ではなく親だろうけれど、 これを子供が読んだらなんと贅沢な読書体験だろうと思う。
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不知火に住むみっちんは、海と山に囲まれた村に住んでいる。
村の人々たちは人間以外の海や山の”あのひとたち”の気配を感じている。
あのひとたちは八千万憶の世から来らいました方々。
あのひとたちの歌が聞こえてくる、 山のものと海のものが入れ替わる時は喧騒が起きる、人々を助けてくれることも、悪さをすることもある。
山というのはなんと多くものを養っているのか、山と海とは入り混じりあい、山が海のものを養っているのか、海が山のものを養っているのか分からないくらいだ。
そしてみっちんの側には”半分神に近い人たち”がいる。
祖母おもかさまは盲目で気狂い。三歳の子と八十のめくらさまとの魂とは確かに交じり合っている。
一本足の仙造じいさまは、”山のあのひとたち”の使い人だと言われている。
火葬場の隠亡(おんぼう)の岩殿は一人で死人さんを火葬して弔っている。
海や川を流れてきた赤子の死人さんの葬儀をしながらみっちんにいう。
「この世に来るのは、おたがい、難儀なこっちゃ、大仕事じゃ」
犬の仔 (いんのこ) せっちゃんは、懐に犬の子を入れての山を流離っている。ある時その懐に人間の赤子を抱いていた。産めたのは龍神様とそのおつかいが手伝ってくれたからだという。
大男のヒロム兄やん(あんやん)は、大きすぎる体に小さすぎる着物を巻きつけて、会う人会うものに丁寧挨拶をする。挨拶を忘れられた者は、自分はヒロム兄さんに見えないものになってしまったのではないかと思う。
みっちんはあのひとたちの気配を感じて歌を聞くと、まるで魂が半分天の方に行ってしまったような、自分が魂だけになってしまったような気持ちになる。
そして本当に魂だけになりたいと思うことがある。
村の子供たちがおもかさまや犬の仔せっちんに石を投げつけてくるのを見るのはつらい、そしてあのひとたちが酷い歌を歌ってくるのを聞くのは怒りを感じる。
みっちんはたとえあのひとたちであっても、間違いは間違いだと思っているのだ。 -
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八歳のお葉は船頭の祖父千松爺と二人暮らし。
父と母は水に呑まれてしまった。
両親がいなくて町はずれに住むお葉は村の子供たちと一緒に遊べない。
お葉は大犬の”らん”と親しくなる。らんは盲の山伏に寄り添っていた犬で、きっと山の神様のおつかいだ。
らんに連れられお葉は山の奥深くに入り込む。
お葉は”ごんの守”に会う。
ごんの守は神様のおつかいで、位の良い狐だ。そしてそのお役目は、山の胎の水を浄めることだ。
お葉はごんの守と一緒に山のお胎(おなか)のような湖の底にお籠りをして、その時から山の声が聞こえるようになった。
ある時地面が揺れ山が火と石とを飛び散らせる。
山が火を噴けば石は飛び地面は割れ山の水は枯れてしまう。
村人だけでなく、ごんの守、らん、そして片耳片目の黒猫”おノン”も山を守ろうとするのだ。
村人は「どこか人とは違う見かけのものは神様の位を持った人だ」と思っている。
だから片目片耳の黒猫おノンは特別な猫だ。
人間の村には、たまに人間の世界とは違う風貌の動物がいる。おノンもそうだ。おノンは人間には行けない”猫嶽”と人間会とを出入りしているのだろう。
おノン強い雌猫だ、しかし強すぎて赤子にはすべて死なれてしまった。
山では神や精霊たちのお祭りがおこなわれる。おノンは今年のお祭りで山を守った霊力が認められ神様から位を与えられるという。しかしおノンが欲しかったのは、ただ小さな子供だったのだ…。 -
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著者が過ごした不知火の思い出語り。
祖父松太郎は天領天草出身を誇りとしている。土方仕事を「仕事は人を絞ってやるんじゃない、信用でやるんだ」と、天候による損失もすべて自分の山や土地を売って補填してきた。だから家はどんどん身代を崩していった。
その本妻である祖母のおもかさまは魂が漂浪(され)き、盲の神経殿となり表を流離う。細い右足と象膚病で肥大化し膨れ上がった左足を引きずり着物の裾を破き歩く。おもかさまに付き添うのが孫のみっちゃん。 おもかさまは山に行けば「やまのものはカラス女の、狐女の、兎女のもんじゃるけん、慾慾こさぎっては成らん」という。家ではすっかり色の替わった白無垢をいじりながらみっちゃんに大人しく髪を梳かれている。こうして老狂女と幼女はこの世の無常を編みほぐして過ごす。
祖父松太郎は、おもかさまが神経殿になってからは、権妻殿(妾)のおきやさまを家に入れ妻妾同居としていた。おきやさまは、村人からは獣の性などと言われている。けれどもおきやさまの歌う浄瑠璃にその性の深さをしみじみと感じる。
みっちゃんは母の春乃からは人の世の事をならい、父の亀太郎からは海や山につながる人の生をならった。
亀太郎は、松太郎の養子扱いで殿様気質の松太郎と気は合わなかったが、土方仕事には共に競い合った。土方の兄様衆とはその後も付き合いがつながり続けていた。
身代の崩れたみっちゃんの家は天領天草から水俣の町の外れに引っ越す。
えらい落ちぶれらいた…と言われるその家の先には、のちに水俣病患者たちを入院させた避難病院があり、その先はそのまま斎場になっている。避難病院から先はすでに彼岸だった。
漁村の女たちは逞しく魚を獲り売りさばいていた。彼女たちの二世三世たちが水俣病にかかるのである。
日本窒素肥料株式会社というもんができ港ができ道路ができ町ができる。
町が栄えると女郎屋ができる。貧しい家から売られたおなごどもが生き身で商売する店だ。
みっちゃんは女郎衆の姉さんたちの膝で髪を結ってもらう。
おもかさまが町を彷徨えば、姉さんたちが家まで連れてきてくれる。盲目の老狂女と風呂帰りで白粉と紅の匂いを漂わせる妓たちとの道行はさぞかし人目をひいたことだろう。
この姉さんたちは貧しく売られたが心優しく、本来なら土方の兄さんたちと似合いの夫婦になったであろう。
そんな姉さんの一人、ぽんたと源氏名を付けられた十六歳の娘が殺される。刺したのは十五歳の中学生だった。
貧しく売られたぽんたの実家からは葬式は出さない、そして悋気の店からも葬式は出ない。みっちゃんの父の亀太郎さんは解剖に立ち会い、ぽんたへの哀れを思って嘆く。
不知火の山や海には人以外のものの気配があった。
山には神様が、そして妖怪変化がいる。山の神様と海の神様はその行き合う道で喧嘩をしている。村人たちはその気配を感じながら暮らしている。一人遊びしている幼い子供の姿を山童と思われたのかもしれない。
村では通常と違う人間には敬称が付けられる。神経殿、癩病殿、鼻欠け殿(淋病患者) 、そういう者たちは神様に近いとされている。
そして祖父松太郎と父亀太郎が作っている道というのはなんと不思議なものか。道には生き物の証が、ついさっきまで生き物の中にいた糞や、まだ生命を感じる死んだ身体が横たわっている。道とは人の世と獣の世界を繋ぐものなのだろうか。
山には山の幸、海には海の幸があり、それを分けてもらって生きている。まさに生活が歳時記そのものなのに、なぜこの島は貧しく、男は出稼ぎ、女は売られて淫売と言われるようにならなければならないのだろう。
四歳のみっちゃんは「家を出ていんばいになります」と、町の大通りを一人花魁道中で練り歩く。その後はサーカスを始める。村の人は 「魂のおかしな娘」という。気の触れた祖母おもかさまは「魂の深か子」という。みっちゃんはその感性で世界を見ようとしていた、この世あらわす言葉を探していたのだ。 -
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【わし共(どま)、西郷戦争ちゅうぞ。十年戦争ともな(※明治十年/1877年)。一の谷の熊谷さんと敦盛さんの戦さは昔話にきいとったが、実地に見たのは西郷戦争が初めてじゃったげな。それからちゅうもん、ひっつけひっつけ戦があって、日清・日露・満州事変から、今度(こんだ)の戦争―。西郷戦争は、思えば世の中の展(ひら)くる初めになったなあ。わしゃ、西郷戦争の年、親たちが逃げとった山の穴で生まれたげなばい】(P7)
日本最後の内乱、西南戦争を知る地元の老人たちに聞いた聞き語り。
著者が話を聞いた相手は、
西南役からアメリカがアポロの打ち上げを行った時代まで生きた老人、亭主に嫁入りして八十年の老女、乞食非人出身のじょろり(浄瑠璃)御前。
(1877年(明治10年)西南役
1956年(昭和31年)水俣病公式確認
1969年(昭和44年)アポロ11号により史上初の月面着陸
…の時代を生きた)
そして彼らの語りや残された資料から辿る不知火地方の歴史。島原の乱から、「うまく踏めなければ子供さえ牢に繋がれた」踏絵の時代、そして一揆を起こして処刑、遠島にされた村人たち。
老人たちの方言での語りの合間に顔を出す著者の真摯な言葉。
【老百姓達が、支配権力を語る時、なぜこうも、民話ふうに語れるのか。】(P9)
【目に一丁字もない人間が、この世をどう見ているか、それが大切である。権威も肩書も地位もないただの人間がこの世の仕組みの最初のひとりであるから、と思えた。それを百年分くらい知りたい。それくらいあれば、一人の人間を軸とした家と村と都市と、その時代がわかる手がかりがつくだろう。そういう人間に百年前を思い出してもらうには、西南役が思い出しやすいだろう。始めたときそう思っていた。それは伝説の形であるだろう。たとえば天草の乱の底などに流れている「隠れ」の思想が現代ではどうなっているか。「伝説」から読み解けないであろうか。そのほの見える入口に立ったかと思う。】(P278)
老人たちの語る西南役では、戦に巻き込まれ、無理やり兵役に取られ、親家族と死に別れ…しかし彼らにとってこれが日常、生きるには強かさをも持ち合わせる。
【上が弱うなって貰わにゃ、百姓ん世はあけん。戦争しちゃ上が替り替りして、ほんによかった。今度(こんだ)の戦争じゃあんた、わが田になったで。おもいもせんことじゃった。】(P9)
戦争の地元を生きる農民たちの日常。
官軍から徴兵令が出たが、変わったばかりの天皇さんと言われてのピンと来ない、四十四艘の船に繋がれて官軍に合流するその途中で四十艘までが逃げ帰ってきた。
闘いの合間に、山に逃げたおかみさんたちが隠し持っていた食糧で弁当を作り、官軍に売りに行ったが、東京の巡査たちと九州の百姓たちのの貨幣価値が違い、たいそうな儲けとなった。ためしに山をくれと願ってみたら、案外叶ってしまって、しかし山の分け方には苦心した。
【椎山の側にある切り立った高獄から、追いつめられた賊軍が何十人と墜死した。いくさが済んだ後、『あんまり幽霊が出て困った』ので、村人たちは骨を拾い、寄墓を作ってやった。ながい間人も寄りつかぬまま、ラッパや、袖布らしのが、高獄の崖の枝に、雨晒しになったまま、老人達が、幼い頃まで引っかかっていた、高獄を今は妄霊嶽(もれだけ)とよんでいる】(P11)
【変わらんものは『剣付き鉄砲そうら豆』じゃ。ケンツキデッポウソウラマメとは、十年のいくさの時の亡霊の言葉でござす。はい、官と賊とが斬り合うて死んで、いくさの通った筋には、亡霊達が、夜さりになると迷うて出て、やっぱり官と賊とにわかれて泣きながら喧嘩する。賊の亡霊が、
『けんつきでっぽう―』
と恨むと、官の亡霊が、
『そうらまめえ―』
と馬鹿にして恨み返す。薩摩の方ではいくさの所帯が立たずに、鉛弾どころか、そら豆をば弾の替わりに使いよったそうなで。
ひとたび仇になりあえば九生までも仇のまんま、亡霊になってからも泣いて恨み申す】(P41)
【寿命で死ねば阿弥陀様が引き取ってやらすが、戦で死ねば未来に引き取り手もなかもんを。】(P44)
彼らには日本の政権の変更も噂程度でしか知らない。
西郷さんが新しい天皇さんに物申そうとしたらしい…。
熊本城の御一新の時の殿さまは知らんが、清正公は知っている。
【お前さまは、御一新ちゅうても知っとるかえ。
今じゃどこにゆこうがはいと言う言葉ひとつ持ってゆけば、上下なしに世の中を通られるが、十年のいくさの前頃までは、『はい』が通らん世の中でやしたで。
ただただこらえておるばっかりに、はいと言うても、それが通らん世でやした。侍の組共が、いざと言えば斬るぞ斬るぞと言う風で。】(P25)
【ここの村は、耶蘇教のいくさ(※島原の乱)にも遭わん村じゃったが、村中の働き手をさらってゆかれてみると、苗字のなか者の世がくるちゅうても、お上がくるちゅうても、お上と言うものがあるかぎり、取り立ててることばっかり。御一新とはどがな世が来ると心配しとったら、案のごとく人を奪(と)ってゆかいた。
(…)
侍衆のいくさなら、さむらい同士だけで片付けてよかりそうなもんを、罪とがもなか刀も持たん者共を、なぜ奪ってゆかいたろうかい】(P34)
そんな”御一新”の時代の変化で「侍も、名字のなか者共もひとしなみになる噂」があった。
しかし百姓たちが庄屋殿にご馳走に呼ばれてみれば、肥桶、肥柄杓をあらったもんに酒を入れたものを出され【お前ら平民共も、名字を名乗ってよかごとなるちゅうていばってみよるが、元はと言えばおまえどもはこの、肥柄杓や肥えタゴとおんなじ身分の、どん百姓ぞ、よかか、洗うても肥桶は肥桶ぞ】(P28)などと言われる。
そして不知火の生活は漁と共にある。
【畑仕事と漁師仕事を務め、だんだん船長の次の「表づり」になりやした。
表づりになるには漁の腕と、船頭と紀子たちとの間にもめごとが起き兄用に、舳に立って海のメントをらを見て、羅針盤より上の役目をつとめねばならん、表づりの目の行く方に船は従っていく、
(…)
ひとさまの命をば預かり申していて、それば見えずに嵐の中にでも連れ込めば、乗り組みぜんぶ死なせてしまうことになる】(P53~)
老人たちの語りはさらに時代をさかのぼる。
熊本の農民たちは、島原の乱により幕府直轄地となった百姓たちが土地替え令により移転して住み着いた。
島原の乱とは武士にとってはそれまでの武士足軽相手の戦という概念とは全く違うものだったのだ。武器すら碌に持たない女子供に百姓漁師たちを一人も余さず殲滅した勝ち戦では勝鬨をあげる気にはならなかったのだろう。
そして島原の乱の後幕府から遣わされた代官も、島民のあまりの惨状に心を打たれたか、命を懸けて幕府への年貢軽減を訴える。
【この島には、為政者たちのいわゆる徳政を促してやまぬものが具わっていたらしい】(P180)
作者は、処刑された一揆の首謀者の家はどうなったのか、遠島になったものたちはどう生きたのかの記録を探してゆく。
【犬養(※記者として同行した犬養毅)が、いや、もし生きて増田栄太郎がふたたび九重山系を巡って帰郷したならば、阿蘇連山に向かい合いながら二十の峠あたりから沸蓋山(わいた)、久住山をめぐって息を呑むほどに凄絶妖麗に、九州の春梁を成している大高原の秋をどのように見たことでしょう。敵方をして神色自若たりと云わしめて首打たれた青年は、その最後の姿においてこの大乱の風土を背景としつつ、色の深い詩藻をそこに創り出しています。
(…)
この山筋の人々が、なにかは知らねど馬上姿の増田を立派な人と見、水俣の百姓たちが、西郷生存を信じていたのは、なんのゆえであろうとわたしは考え始めるのです。「まあよしとしましょう」と云った増田の最後の言葉はそれが伝聞であるにしても事を起こそうとして焉ったものの、苦みを含んだ言葉にも聞こえます。それは何であったのか、南小国や筋湯の人たちの話を増田に聞かせ、その感想を聞きたい誘惑にかられます。】(P228)
島原の乱の後、天草は幕府直轄地になった、そして命令により別の地へ開拓のため移住する。
狭くても先祖の土地から離れた百姓たちは、また新たな土地の”土に惚れて”住み着く。
【きつかったともきつかったとも。百姓の体は苦労でしか成らんでや。そいでも地(じだ)に惚れてなあ、地に惚れたばっかいで、ここの地に居ついてしもうた】(P144)
【天草の親々の代には天下さまの勢いじゃった。ここの薩摩に来てみれば、薩摩の殿様の勢いじゃ。けれどもちらちらこの頃聞くところでは、その薩摩さまの天下も、この頃では天皇さまちゅうひとに降参しやったそうじゃ。殿さま同士は降参しやったが、家来に降参せん衆がおって、その旗頭がここの薩摩では、西郷どんというおひとじゃそうな。
(…)
さあなあ、薩摩の殿さまは薩摩で一番えらかおひとじゃ、天皇さまちゅうお人は日本の国でいちばんえらかおひとじゃちゅうても、日本の国というのはどういう国じゃやら、薩摩の国でさえ、生きておる間に廻りもこなさぬものを、日本がどこにあるやら、どのようになっておるやら、天下さまと天皇さまと入れ替わいやったというても、一向になあ、あたいどんの知り申さん、上々の話の事じゃ】(P74)
西南戦争の後を生きる者たち。
侍組の株を売り、娘を遊郭に売った家はその後没落した。売られた娘は遊郭で客に噛みつき暴れて追い出され、”色じんけい殿”(神経殿は精神を患ったもの)として村々をそして山々を彷徨う。
西南の役の最中に親と死に別れた娘は、親から教わった”河原じょろり(浄瑠璃)”で身を立て、のちに一緒になった亭主は獄門首を処理する家の出だった。
西南役に参加し、投獄され国に帰った後、日清戦争にも徴収され、そして静かに枯れて行った者もいる。
【ごく希に人は生涯のある時期、自分自身を充填して爆ぜねばならぬ時がある。それが発火したにもかかわらず、不発に終わったときはどうするか。そのようなとき、残余の生命が未だ死なない本能で秘かに何かを営むとする。その魂の内側と外側で、営みを促すのはなんであろうか。】(P270)
【死者と生者がむきあって、ふっと呼吸を躱すような気配の中に、あたしは引き入れられ、そのようにして引き継がれて行く時間の連続の中に、這入りこんだような気がした。】(P276)
老百姓たちの語りは、明治10年の西南役から明治27年(1894年)の日清戦争の時代へ。
西南役の調整を免れても、日清戦争では徴兵された息子を泣きながら見送る老人、そして地元の百姓の間では、西郷隆盛は城山では死なず、中国に渡り、日清・日露戦争の時に日本軍の参謀として出没して危機を救ったのだと信じていた。
さらに時を経て水俣に日本窒素が建ち、奇病が出る。
漁民たちが窒素の工場に船を並べて抗議に向かった姿は、昔の合戦を思わせるようだったという。
【ああたの生まれなはるちょっと前くらいには、この山の迫(さこ)にゃあ、ぞろんこぞろんこ、子連れ狐のおって、人間見ても逃げはしませんでしたよ。まあ、知り合いのようなもんで。あの衆(し)たちが居らん今は、味のなか世の中でございますなあ】(P286)
そういう者たちを残して世界は近代化してゆく。 -
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80歳、パーキンソン病の詩人、石牟礼道子さんと詩人・伊藤比呂美さんの「死を想う」こと。伊藤が聞き手となって、石牟礼の家族の死のこと、そして自分自身の死のことを聞いている。
伊藤自身も両親を介護しながらだから、いずれかならず訪れるであろう身近な人や自分自身の「死」について考えている、うちに、話は「梁塵秘抄」に行き着く。後白河法皇の編纂した歌謡集で、平安時代の当時からどのようにして死んでいくか(そして、仏になるか)はずっと人々が思い悩んでいたということらしい。
仏は常に在せども 現ならぬぞあはれなる
人の音せぬ暁に ほのかに夢に見え給ふ
なにかこう、人々が朝早くぱっちりと目が覚めてしまって、ふと音のしない明け方、ぢっと仏のようなものが見えた気がする。
石牟礼がパーキンソン病で動かなくなっていく体をどうにかこうにか動かしてとつとつと生活する中で、朝、目覚めると「ああ、まだ生きていた」と思うことがあるらしい。このなんともいえない寂寞感は、80代になっても、20代でも、あるもので。
「読書感想文」といわれると難しいけれども、人々が自分の死を想起したときにおこる「あの、感じ」をすでに後白河法皇は汲み取っていたし、後白河法皇の「歌の上手を召して多くの歌謡を知ったが、死後それらが伝わらなくなることを惜しみ、書き留めて本にした」という意思も、こういったかたちで21世紀の日本にもひっそりと伝わっているんだよ、という、そういう話、であります。
この本が誰かの救いになるかどうかはわからないけれども、ただ、石牟礼と伊藤とがひそいそと梁塵秘抄を朗読している様は、非常に、確実に、心温まる、救いに通じるものがある。 -
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日本デモクラシー論集で抜粋されていた文章が衝撃的で原典を読んだ。著者は当事者というわけではなかったのか。
三部作の最終巻ということは知らずに読んだので前作はこれから読もうと思う。
総会屋や右翼と繋がっていたチッソの時にのらりくらりと時に強硬な態度は本当に読んでいてしんどくなった。
当事者との対話は避け補償も延ばし延ばしな一方、水俣市のイメージアップには率先して金を出す。すごい企業倫理である。
今チッソで働く人はどう捉えているのか気になってしまう。転職サイトの口コミには「水俣病のことがあるから倒産することはない」と書いてあったがこれは共通認識なのだろうか。