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Posted by ブクログ
日本が韓国を一方的に支配したのは歴史上の事実であり、そのやり方があまりに非道であり誤りだったことは認めざるを得ないけれども、戦後何十年も「あの時は…」という恨みに凝り固まって、反日感情をむき出しにするのはどうなの?と思っていました。
中国にもそれは言えるし。
この本を読んで、いろいろ判りました。
中国も韓国も、日本のことをずっと野蛮国と思って嫌っていたのですね。
その証拠が「倭」であり「卑弥呼」という文字。
小さいという意味を持つ「倭」を当てたのは、日本人の背が低いからなのか国土が小さいからなのかはわかりませんが、少なくとも対等とは考えていなかった。
何しろ儒教精神が行きわたっている漢民族も韓民族も、人前で上半身裸に褌一丁であぐらをかくなんてのは言語道断。
年長者を敬えない、礼儀を知らない倭人は、東アジアにおけるがん細胞のように忌み嫌われ、人として見下されていたそうです。
そんな国が、やっぱり長幼の序を無視して上から目線で支配者として君臨していたわけですから、これは屈辱以外の何物でもない。
それと、「倭」には『従いやすい』という意味もあるそうですが、もともとの倭人はものすごく弱肉強食の社会で、「勝てば官軍」「勝利こそ正義」とばかり、勝ち組になだれ込んでいく性質があるのですって。(思い当たること多々あり)
だから日本としては、イギリスに負けた清国(中国)に従ういわれはなく、(あるていど)対等に外交を行っている自分たちの方が上、と思うわけですが、儒教的精神で言えば、何がどうあろうと上下関係は固定なわけで、ここがずっとすれ違っているのですね。
それから儒教では、「天は公のもの」という考え方があって、「だから当然地も公のもの」という考えなので、日本のように自分の土地だからせっせと土地改良をする、という考え方はなく、ただその地で農業をするだけだったので、里山を育てるとか灌漑とかはされなかったらしい。
だからもしかすると、中国や北朝鮮などが共産主義と結びつきやすかったのかもしれないと思った。
ちなみに朝鮮半島の三国時代、新羅と百済は韓民族で、高句麗は北方の騎馬民族の国だったんだって。
言語は同じツングース語族。もちろん日本語も。
この本とは直接関係ないけど、韓国は英語でKOREAというけど、どこから来た言葉なのだろうと思っていたが、多分、韓(から)からだね。
中国のCHINAは巡り巡って秦が由来らしい。
日本のJAPANは日本を中国語読みで(ジツポン)と読んでいたのを、マルコ・ポーロがジパングと言い、そこからジャパン。
本に戻って、論理的思考ではなく、観念的な部分で頭に血が上って逆上しがちなのはツングース語族の特徴らしいです。
司馬遼太郎の肌感覚なのではないかと思うけど、だから日本と韓国の問題は難しいんだなあと思いました。
勉強になった一冊です。
Posted by ブクログ
司馬遼太郎さんが、1971年から1972年にかけて連載した、旅行エッセイ。「街道をゆく」第2巻。
ちょうど「韓国現代史」という本を読み終えた後だったので。1971年と言えば、まだまだ軍事政権の圧に揺れながら、経済成長を胎動している韓国だったんだなあ、と思いながら読みました。
司馬さんは、当然リアルタイム目線で1971年当時の韓国を見ながら、韓国と日本の遥か遠い歴史の風景を見つめています。
ところが読むほうは、2015年の感覚で、1971年当時という歴史の風景の中で、更に茫然たる歴史を眺めている司馬さんを眺めることになります。
この入れ子構造がなかなか楽しめました。
司馬さんのお話は、いつも通り自由に。旅の現実と歴史的過去の風景を往来します。
「韓国の農村が見たい。そこから、日本と韓国の遥か古代な繋がりかなにかが見えるのでは」
というのが旅のテーマだったようです。
「日本と朝鮮半島」という関係は、日露戦争後の韓国併合以来(いや、それをさかのぼって、閔妃殺害以来かも知れませんが)、デリケートで有り続けています。
大まかに言うと、朝鮮側の一部の人は、「日本は悪逆横暴であって、かつその責任を取っていない卑劣漢だ」ということになる。
日本側の一部の人は、「野蛮悪逆たる朝鮮を文明化してやったのであって、あるいはそうでないにしても、彼らが言うほど悪いことはしていない」ということになる。
そして双方に「あいつらは基本的に民族的に歴史的に悪であり劣等である」という感情論がよこたわっています。
司馬さん。
まずは「対馬」という日本と朝鮮半島の間で生き抜いてきた島の歴史からひもときます。
これが実に面白い。
つまり、対馬が生きていくためには、どっちにもいい顔をするしかなかったんですね。
というわけで、必死で二股をかけて生きてきた。
そんな対馬という、一生懸命に生きた小大名のような人格とともに、倭寇や、中国とのかかわりが見えてくる。
倭人というイメージが見えてくる。
そして、イッキに天智天皇の時代まで急降下。
「百済」「任那」という国はどういう国だったのか。そして日本との関わりはどうだったのか。
白村江の戦いはいったい何だったのか。
大化の改新とは、古代日本が短期的に試験した封建制の解体、律令制への挑戦だった。の、だけど、あっという間に失敗に終わった…などなど。
司馬さんの古代史も実に語り口は迷いなく面白い。
そして考古学的?な正誤は判りませんが、司馬さんが、日本の歴史と同じように興味と感心、愛情と観察の眼差しで、朝鮮を見ていることがとても好感が持てます。
そして、漢民族的中国という大国と、チンギス・ハーン的好戦的な蒙古的中国とに翻弄される中で、支配の秩序として儒教をまとった朝鮮の歩みが、すごく判りやすく語られます。
これほどまでに読み易い、「朝鮮半島の歴史」という本は他にちょっと無いのでは。
司馬さんは、政治体としての韓国政府なり、李氏朝鮮王朝なり、というのは弁護も擁護も批判もしません。
ただ、興味と関心を持って考えているだけです。
そんな司馬さんの筆で、漢民族と蒙古民族に翻弄され、20世紀は中国・ソ連・アメリカに揉まれて、北から南まで、文化遺産含めて焦土と化した、悲しいというにはあまりにも惨すぎる歴史がつづられます。
一方で。
明治以降の日本と朝鮮の関わりから、1971年当時に、日本と韓国の間に横たわっている感情的な溝。
これもまた、平易に受けれいている感じがします。無理に「ともだちになろーよ」なんて思ってない。
そんな空気感が、旅の道案内の韓国人女性との淡々としたやりとりにそこはかとなくにじみ出ます。そんなことだけでも、実に面白い旅行記です。
そして、2015年現在の日本の、「安倍政権的レッツゴー右翼愛国、嫌韓憎中」の風潮で言いますと、感嘆するくらいこの本は、サヨク的である、と石を投げられるのでは。
個人的には別段、サヨク的とは思わないのですけれど。。。
何しろ、朝鮮併合から十五年戦争に至る、1971年当時で言うとかなり「近過去」の出来事で言うと。
「何の言い訳も無く、日本は朝鮮半島の人々に悪いことをした。酷いことをした」とスラっと書いちゃってます。その一言を政治が言うために、ひょっとしたら100年かかるかも知れません。
そして、確実に古代の時間では、文化的にも制度的にも中国及び朝鮮に追随して、おこぼれを貰ってきた日本史も冷静に見つめています。
ただ、そこに一点の卑下もなくて。
おこぼれを貰いつつ、地理的に孤立しているが故に、非常に独自の咀嚼の仕方をした日本のひとびとを、面白がっておられる。
何が善とか、何が悪とかではなくて。
そういうつながりがある。そういう事実がある。きっとこういう気持ちだったのかな。
事実と考察と妄想の風合瀬に、一点の原理主義も交えない。そういう歴史の風景を感じることの面白みが、炙り出されてきます。
大勢が生きたことも死んだことも、鳥瞰の目線で考えて語る。一方で、その最果てを目前の村落や、対面するひとりひとりの人々に感じる。
「冷たい」と嫌う人も居るかもしれませんが、僕は十分に、抑制しきれない司馬さんなりの感情があるなあ、と。
薄味の上方のお吸い物の味わい。深い。
司馬さんは、戦車下士官としての従軍時、中国大陸も踏んでいます。
その道中に、朝鮮も通過しているんですね。
そんな体験も踏まえて、外語大でモンゴル語を専攻していて、戦後は京都の寺院で仏教を咀嚼して過ごした。
司馬さんのような作家を持ち得ただけでも、昭和という時代は豊穣だったのでは、と思えてしまう筆致。読書の快楽でした。
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テレビ番組などで、ずっと疑問だったことがあります。
どうして、韓国や中国の人、スポーツ選手などを、日本では「漢字の日本語読み」で放送するんだろうか。
誰も、その人を知っている人は、そんな音でその人のことを呼ばないのに。
大変に失礼だし、傲慢なんじゃないかと思います。
この本では、大量の朝鮮半島の人物と地名が出てきます。
司馬さんは物凄くデリケートに、そして当たり前のように、「現地で呼ばれいてるであろう音」で表記しています。漢字と並列だったりします。
僕はそれだけでもすごく気持ちよかったです。
逆の立場で考えたときに。
あなたの名前をアルファベット表記したときに、日本で誰もあなたのことをそんな音で呼ばない音で呼ばれたら、愉快では無いと思います。
親が、その親が、その音で呼ばれるイメージでつけた名前ですからね。
そういうところでは、当たり前に気を付ける文化であって欲しいなあ、と思います。
本人がどう呼ばれたいか、が、呼び名を決めるべき。
そんな当たり前のことを踏みにじって、「改姓」を強要した大日本帝国の記憶を、忘れずに他山の石としたいですね。
それがたまたま自分の国の政治体だったのかどうか、というのは、僕たちの今とこれからの、集団としてのプライドには何も関わらないと思います。
Posted by ブクログ
司馬遼太郎 「 街道をゆく 韓のくに紀行 」 日本人ルーツの旅。加羅→新羅→百済 の地に倭の痕を探している感じ
面白い。韓国紀行が これだけ面白いと、同じく日本人ルーツがテーマとなりそうな モンゴル紀行、北海道、壱岐対馬、沖縄も面白そうな気がする
ホテルのフロントに ぼったくられたときの言葉がうける「朝鮮民族は権力の座につくと、居丈高になる癖がある〜日本人とやや似ている〜これは決して悪徳ではない。癖である」
著者は 「政治的論理の鋭い 韓国の人との対話は困難」としながらも、毅然と日本人としての正論を論じている
「別に好きこのんで日本人に生まれることを選択したわけではない。たまたま日本国籍を持っているだけであり〜過去の日本国の罪悪をすべて背負いこんで、一個の観念像として立っていなければならないのは、どうにも困るのである」
「日帝は三十余年にすぎない〜李朝五百年が朝鮮人の心を停滞させた影響力の方がはるかに大きい〜すべての不幸は日帝がもたらしたとする自分自身の抜け落ちた議論は〜物を生み出すものではない」
「朝鮮にとって、加藤清正と伊藤博文が 盗賊の象徴であることは賛成するが、この2つの象徴だけが日本と朝鮮の関係のすべてではない」
「日本人は議論が下手〜だれかが決めるがままに従って日本史を作り上げてきた〜韓国人は議論が好きで、結局 何も作り出すことができなかった」
本貫の地とは、姓の故郷
金姓の中でも 金海の金、慶州の金などがあり、同地の同姓は娶らず
倭とは 国家概念が生じる前に 朝鮮半島に存在した 古代日本人または古代朝鮮人の集団のこと
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