作品一覧

  • 特別試し読み版 日本霊異記/今昔物語/宇治拾遺物語/発心集 池澤夏樹=個人編集 日本文学全集
    無料あり

    特別試し読み版 日本霊異記/今昔物語/宇治拾遺物語/発心集 池澤夏樹=個人編集 日本文学全集

    小説・文芸

    3.5
    1巻0円 (税込)
    ※特別試し読み版では、町田康訳『宇治拾遺物語』より、「こぶとり爺さん」として知られる「奇怪な鬼に瘤を除去される」を丸ごとお楽しみいただけます。

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  • 塔
    値引きあり

    塔

    小説・文芸

    -
    1巻330円 (税込)
    春の蝶に誘われた少年の「僕」は、冒険を求めて、曠野の中に聳え立つ塔に行く。塔の中にある部屋々々を遍歴した僕は、権勢を掌握し、不可思議を探り、豪奢に酔い、人間の智慧を極める。次いで愛を得、最後の部屋に到達したとき、僕の前に開けた運命は? 鮮やかな幻想世界を構築した表題作の「塔」、ほか初期の名作6編を収録。
  • 随筆集 秋風日記

    随筆集 秋風日記

    小説・文芸

    -
    1巻385円 (税込)
    秋風は蕭々として稲の葉をそよがせ、沈みゆく夕日が村里にさしこむ時、憂愁の思いを筆に託す――信濃追分の初秋の爽やかさ、鏡花の「山海評判記」の読後感、中野重治氏の座談の面白さなど、起伏に富む小文を収める第六随筆集。
  • 随筆集 夢のように

    随筆集 夢のように

    小説・文芸

    -
    1巻440円 (税込)
    春は平安京の夢の跡を訪ね、夏は信濃追分でのほたる狩りに室生さんの面影をしのぶ。四季の景物、忘れえぬ人。ゴーギャン、ベートーヴェンなど芸術の感興。玩艸亭先生が近年たのしくつきあった心なぐさむものの記!
  • 随筆集 書物の心

    随筆集 書物の心

    小説・文芸

    -
    1巻440円 (税込)
    夏に因んだ詩を一篇えらべばマラルメの「夏の悲しみ」、卒業論文にランボーをやめて書いたロートレアモン、等身大の魅力もつ内田百間の文学、創作意欲をそそる源氏、文学者芸術家の手紙……読書随筆を蒐め、主要書評も収録!
  • 随筆集 枕頭の書

    随筆集 枕頭の書

    小説・文芸

    -
    1巻440円 (税込)
    辞書を枕代りに夢路に入る――読書の無上のたのしさを語り、蒐書の苦労・手沢本の味・青春時代の読書・書物をえにしの邂逅・文人雅人の印象・身辺一冊の本の感想など……机辺の小閑につづった文章をあつめる随筆集! 「読書漫筆」「文人雅人」「身辺一冊の本」「足跡」の4つのジャンルに分けられています。
  • 随筆集 遠くのこだま

    随筆集 遠くのこだま

    小説・文芸

    -
    1巻440円 (税込)
    旅のそら、日々折々に、美しいものに触れては心のなかに遠くから溶け合うように響いてきたことども――絵・音楽・映画の鑑賞や批評から日常茶飯にとらえたちょっとした生活の味わいを綴る、『別れの歌』につづく随筆集!
  • 随筆集 別れの歌

    随筆集 別れの歌

    小説・文芸

    -
    1巻495円 (税込)
    高原の風は美しく遠い想いをくしけずる。人生の往還に身をよせた樹陰の潤い、足をとめさせた事ども。信濃追分、堀辰雄、室生犀星の回想を中心にした、福永武彦初めての随筆集。
  • 夢みる少年の昼と夜

    夢みる少年の昼と夜

    小説・文芸

    3.4
    1巻550円 (税込)
    帰りの遅い父を待ちながら優しく甘い夢を紡ぐ孤独な少年の内面を、ロマネスクな筆致で綴る「夢みる少年の昼と夜」。不可思議な死をとげた兄の秘密が、やがて自己の運命にもつながっていると知った若い女性の哀れ深い生を描いた「秋の嘆き」。ほかに「沼」「風景」「幻影」「一時間の航海」「鏡の中の少女」「死後」「世界の終り」「死神の馭者」「鬼」など、意識の底の彷徨を恐ろしいほどに凝視し、虚構の世界にみごとに燃焼させた珠玉の短編全11編を収録する。
  • 忘却の河

    忘却の河

    小説・文芸

    4.5
    1巻649円 (税込)
    初老の小企業社長・藤代と、その妻で十年間寝たきりのゆき、二人の娘・美佐子と香代子の、それぞれに苦悩多い人生――。忘却の河に流し得ぬような各様の過去が四人に暗影を投げかけており、痛切な愛の挫折、愛の不在がある。主人公は、終章で北陸の海辺にある賽の河原に罪のあがないを見出すのだが、宗教なき日本人の、愛と孤独への救いを追究した、密度の高い連作長編小説である。
  • ポー詩集

    ポー詩集

    小説・文芸

    -
    1巻660円 (税込)
    詩人として、小説家として、19世紀アメリカ文学の中で特異な光を放つエドガー・アラン・ポー。その詩は悲哀と憂愁と陰鬱と幻想に彩られ、独特の光をたたえている。本訳詩集は、入沢康夫、福永武彦の2人による訳詩集で、巻末には佐伯彰一氏による「解説」を配した。訳出した詩は全部で44篇、うち、「ヘレンに」(2篇)「眠る女」「レノア」「不安の谷」「夢の国」「鴉」「ユーラリイ──唄」「ウラリューム──譚詩」「アナベル・リイ」の10篇は福永訳、他の34篇は入沢訳だ。これによってポーの詩世界の全貌が明らかになる。
  • 風のかたみ

    風のかたみ

    小説・文芸

    3.0
    1巻660円 (税込)
    叔母の面影を秘めた萩姫を慕い大伴次郎信親は、信濃の国をあとにして京へ上る。不動丸を頭とする盗賊集団が暴れ廻り荒廃の極みに達している都では、次郎が思い焦がれる萩姫は左大臣の子・安麻呂に惹かれている。一方、笛の名人でもある次郎は笛師の娘・楓に愛される。綾なす恋は、いずれも実ることなく、秋風吹きすさぶ野の果てに消えていく。今昔物語に取材した王朝ロマン小説。
  • 加田伶太郎全集

    加田伶太郎全集

    小説・文芸

    3.0
    1巻660円 (税込)
    福永武彦が加田伶太郎のペンネームで発表した「完全犯罪」「幽霊事件」「温室事件」「失踪事件」「電話事件」「眠りの誘惑」「湖畔事件」「赤い靴」の傑作探偵小説8編に、随筆「素人探偵誕生記」を併せ収めた異色の一巻。文化大学古典文学科の助教授で、自ら安楽椅子探偵を以て任ずる伊丹英典氏は、ワトソン役の研究室助手久木進君を伴い、お得意の分析力・想像力・論理力を駆使して、あわや迷宮入りかと思われた難事件・怪事件を颯爽と解決する。
  • 廃市・飛ぶ男

    廃市・飛ぶ男

    小説・文芸

    3.8
    1巻693円 (税込)
    誇り高い姉と、快活な妹。いま、この二人の女性の前に横たわっているのは、一人の青年の棺。美しい姉妹に愛されていながら、彼はなぜ死なねばならなかったのか……? 夏雲砕ける水郷に茜の蜻蛉の舞い立つとき、ひとの心をよぎる孤独と悔恨の影を、清冽な抒情に写した秀作「廃市」。ほかに「飛ぶ男」「樹」「風花」「退屈な少年」「影の部分」「未来都市」「夜の寂しい顔」の7編を併録。
  • 海市

    海市

    小説・文芸

    4.3
    1巻715円 (税込)
    妻のある画家・渋太吉は、旅先の伊豆南端の海村で蜃気楼のように現われた若い女性を愛しはじめる。渋はかつて一緒に死ぬ約束をした女性を裏切り、現在の妻とは離婚寸前の状況にある。やがて伊豆で逢った女性は親友の妻・安見子であることが判明するが、渋の安見子への思慕はやみがたく肉体関係を続ける。恋愛のいくつかの相を捉えて、頽廃と絶望の時代における愛の運命を追求する。
  • 風土

    風土

    小説・文芸

    3.0
    1巻715円 (税込)
    関東大震災と第二次大戦の勃発という二つの運命的な9月1日にはさまれた16年間を背景に、画家の桂と、彼が片時も忘れ得なかった昔の恋人・三枝夫人とのゆき違った愛の行方を追う。日本という特殊な風土に育った芸術家の愛と生の悲劇を主題に、世界史の動乱のさ中で芸術家が味わねばならなかった苦悩を描き、人生の深淵にせまる野心作。10年を費やし、著者の文学的出発をなす長編。
  • 草の花

    草の花

    小説・文芸

    4.2
    1巻737円 (税込)
    研ぎ澄まされた理知ゆえに、青春の途上でめぐりあった藤木忍との純粋な愛に破れ、藤木の妹千枝子との恋にも挫折した汐見茂思。彼は、そのはかなく崩れ易い青春の墓標を、二冊のノートに記したまま、純白の雪が地上をおおった冬の日に、自殺行為にも似た手術を受けて、帰らぬ人となった。まだ熟れきらぬ孤独な魂の愛と死を、透明な時間の中に昇華させた、青春の鎮魂歌である。
  • P+D BOOKS 廃市

    P+D BOOKS 廃市

    小説・文芸

    4.0
    1巻770円 (税込)
    退廃的な田舎町で過ごした“青年のひと夏”。 誇り高い姉と、快活な妹――いま、この2人の女性の前に横たわっているのは、一人の青年の棺だった。 美しい姉妹に愛されていながら、彼はなぜこの世を去らねばならなかったのか? 卒業論文を書くために「廃墟のような寂しさのある、ひっそりした田舎の町」にやってきた大学生の「僕」は、地所の夫婦、妻の妹の三角関係に巻き込まれる。 古き日本の風情を残しながらも、どこか享楽的な田舎町での青年のひと夏の経験から、人の心をよぎる孤独と悔恨の影を清冽な筆致で描いた表題作「廃市」は、後に大林宣彦監督によって映画化された。ほかに「飛ぶ男」「樹」「風花」「退屈な少年」「沼」の全6編を併録。
  • 死の島(上)

    死の島

    小説・文芸

    4.3
    1~2巻770円 (税込)
    冬の朝、薄気味の悪い夢からさめた相馬鼎は創作ノートを繰りながら机の上に掛けられた絵を眺める。彼は300日前に展覧会場でみたその「島」という作品にひきつけられ、作者の萌木素子を尋ねる。暗い蔭をたたえた被爆者の彼女は、あどけなく美しい年上の相見綾子と二人で住んでいる。相馬が勤務先の出版社について間もなく、広島の病院から二人が心中したという報せをうける……。
  • 矢の家

    矢の家

    小説・文芸

    4.0
    1巻774円 (税込)
    フランスのディジョンに住む資産家ハーロウ夫人の死は、養女ベティによる毒殺である――夫人の義弟ワベルスキーがそう警察に告発したとの報が、ロンドンにある夫人の法律事務所に届く。事務所の若き弁護士フロビッシャーは事態を収拾すべく、事件を担当するパリ警視庁の名探偵アノーと接触してから現地に赴き、ベティとその友人アン、ふたりの可憐な女性と出会うのだった。“矢の家”グルネル荘で繰り広げられた名探偵と真犯人との見えざる闘いに、読者は解決編において驚嘆するであろう。文豪・福永武彦による翻訳で贈る、メースンの代表長編。/解説=杉江松恋
  • 古事記物語

    古事記物語

    小説・文芸

    3.7
    1巻924円 (税込)
    スサノオノミコトの大蛇退治,イナバの白ウサギ,海幸と山幸,ヤマトタケルノミコトの冒険など,日本民族のいぶきをいきいきと伝える有名な神話が,楽しく大らかに語られます.

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  • 鴎外・漱石・龍之介 意中の文士たち(上) 現代日本のエッセイ

    意中の文士たち

    小説・文芸

    -
    1~2巻990~1,100円 (税込)
    作家としてのみならず学究・評者として非凡であった福永武彦が、深く心の裡に愛した文学者について自ら記した文章を蒐めて、「意中の文士たち」と名づけたエッセイ集上下巻のうち、上巻を収める。鴎外・漱石・芥川・荷風・谷崎・梶井基次郎・中島敦、そして川端康成への、いわば福永武彦の「感謝の現れ」をオマージュとして捧げた文章である。
  • P+D BOOKS 加田伶太郎 作品集

    P+D BOOKS 加田伶太郎 作品集

    小説・文芸

    3.0
    1巻990円 (税込)
    福永武彦が加田伶太郎名で描いた探偵小説集。 純文学作家である福永武彦が加田伶太郎のペンネームで発表した「完全犯罪」「失踪事件」「赤い靴」などの探偵小説10編に、随筆「素人探偵誕生記」を併せた異色の一巻。 大学助教授で自ら“安楽椅子探偵”を自認する伊丹英典は、助手・久木進を伴い、得意の分析力、想像力、論理力を駆使して、迷宮入りかと思われた難事件を次々と解決していく。 また、船田学名義で書かれた未完のSF作品「地球を遠く離れて」も併録した、福永武彦の意外な一面が垣間見える異色作品集。
  • P+D BOOKS 夢見る少年の昼と夜

    P+D BOOKS 夢見る少年の昼と夜

    小説・文芸

    -
    1巻990円 (税込)
    珠玉の“ロマネスクな短編”14作を収録! 帰りの遅い父を待ちながら優しく甘い夢を紡ぐ孤独な少年の内面を、ロマネスクな文体で描いた表題作「夢見る少年の昼と夜」。 不可思議な死を遂げた兄の秘密が自分の運命にも繋がっている事実を知った女性の生を見つめる「秋の嘆き」ほか、「死神の叡者」、「鏡の中の少女」、「夜の寂しい顔」「未来都市」、「鬼」など、意識の深い底に横たわる揺らぎを凝視した福永ワールドの短編14作。 初版単行本『心の中を流れる河』、『世界の終り』より編纂した一冊。
  • P+D BOOKS 夜の三部作

    P+D BOOKS 夜の三部作

    小説・文芸

    5.0
    1巻990円 (税込)
    人間の“暗黒意識”を主題にした三部作。 人間の奥深い内部で不気味に蠢き、内側からその人を突き動かそうとする“暗黒意識”を主題に書かれた『冥府』『深淵』『夜の時間』の三部作。 作家・福永武彦の死生観が滲み出た作品群だが、各ストーリーにつながりはない。 「僕は既に死んだ人間だ。これは比喩的にいうのでも、寓意的にいうのでもない。僕は既に死んだ」という書き出しで始まる『冥府』は、死後の世界を舞台にした幻想的な作品。 『深淵』は敬虔なクリスチャンの女性と、野獣のごとき本能むきだしの男との奇妙な愛を描いた物語。二人それぞれが一人称の告白体で、サスペンス的な要素も色濃い作品。 『夜の時間』は、男女の三角関係を、過去と現在の二重時間軸構造で描くロマンあふれる作品。
  • P+D BOOKS 風土

    P+D BOOKS 風土

    小説・文芸

    -
    1巻990円 (税込)
    芸術家の苦悩を描いた著者の処女長編小説。 関東大震災と第二次世界大戦という二つの歴史的大事件に挟まれた16年間――画家・桂が片時も忘れえなかった昔の恋人・三枝夫人との再会と、すれ違った愛の行方を追い求め描いた作品。 世界が激しく揺れ動いた時代、日本という風土に生まれ育った芸術家の思索、苦悩、そして愛の悲劇を通して人生の深淵に迫った力作である。完成までに十年の歳月を費やした福永武彦の文学的出発点ともいえる。 解説は芥川賞作家であり、福永武彦の長男でもある池澤夏樹氏。
  • P+D BOOKS 海市

    P+D BOOKS 海市

    小説・文芸

    3.8
    1巻1,045円 (税込)
    親友の妻に溺れる画家の退廃と絶望を描く。 妻子ある画家・渋太吉は、伊豆の海村で蜃気楼のように現れた若き女性・安見子との道ならぬ恋に溺れていく。 渋はかつて一緒に死ぬ約束をした女性を裏切り、妻とは離婚寸前の状況にあった。やがて、安見子は親友の妻であることが判明するが、彼女への思慕は変わらず、肉体関係を続けていく。 恋愛の幾つかの相を捉え、著者が得意とするカットバック手法で、それぞれの愛憎劇が複層的に展開されていく。 福永武彦が、退廃と絶望の中の愛の運命を描いた佳作の復刊に、著者の長男・池澤夏樹氏が解説を特別寄稿。
  • 現代語訳 古事記

    現代語訳 古事記

    小説・文芸

    3.8
    1巻1,045円 (税込)
    日本人なら誰もが知っている古典中の古典『古事記』を、実際に読んだ読者は少ない。名訳としても名高く、もっとも分かりやすい現代語訳として親しまれてきた名著をさらに読みやすい形にした決定版。
  • ボードレールの世界

    ボードレールの世界

    小説・文芸

    4.0
    1巻1,100円 (税込)
    敗戦まもない北の地・帯広で、深く結核に冒されながら、初めて上梓した魂の書『ボードレールの世界』。愛と孤独と死の意識を追求し、全精神、全人生の精髄としての風景をボードレールに見た、心の深みを凝視し続ける福永武彦の文学の原点。秀作「詩人としてのボードレール」「ボードレール的人生」「ボードレール年譜」を併録。青春の原点を示す代表的評論。
  • 現代語訳 日本書紀

    現代語訳 日本書紀

    小説・文芸

    3.8
    1巻1,100円 (税込)
    日本人なら誰もが知っている『古事記』と『日本書紀』。最も分かりやすい現代語訳として親しまれてきた福永武彦訳の名著。『古事記』と比較しながら読む楽しみ。
  • 告別

    告別

    小説・文芸

    3.6
    1巻1,254円 (税込)
    告別への予感はその時もう生まれていた筈だ。しかしそれはもっと以前に、もっともっと遠い昔に既に生まれていたのかもしれない――異国で識り合った女・マチルダとの深い愛を諦め妻と2人の娘のいる家庭へ戻った上條慎吾。娘・夏子の自殺、上條の死、二つの死は響き合い世界は暗く展かれてゆく。福永武彦の代表的中篇小説「告別」、「形見分け」を併録。
  • ゴーギャンの世界

    ゴーギャンの世界

    ビジネス・実用

    5.0
    1巻1,298円 (税込)
    なぜ、35歳の富裕な株式仲買人ポール・ゴーギャンが、突然、その職を投げ打って、画家をめざしたのか? 「野蛮人」たらんとした文明人、傲岸と繊細、多くの矛盾、多くの謎をはらんで、「悲劇」へと展開するゴーギャンの「世界」。著者の詩魂が、ゴーギャンの魂の孤独、純粋な情熱、内なる真実と交響する。文献を博渉し、若き日の「出遇」から深い愛情で育んだ、第一級の評伝文学。毎日出版文化賞受賞作。
  • 1946・文学的考察

    1946・文学的考察

    ビジネス・実用

    -
    1巻1,463円 (税込)
    ここにあるのは若気の過ちではなく、若気の夢、――軍国主義を呪い、詩を愛した日本の青年の知的な客気である。――<「あとがき三十年後」より>。1946年・敗戦翌年、<マチネ・ポエティク>のメンバー 加藤周一・中村真一郎・福永武彦の共同執筆により「世代」に連載された時評は、新しい時代の新しい文学を予告した。時代を超えた評論は日本近代文学史上必読の書となり、なお不動の地位にある。戦後日本文学はここに出発した。
  • 幼年 その他

    幼年 その他

    小説・文芸

    -
    1巻1,540円 (税込)
    「幼年」は、堀辰雄の『幼年時代』の影響の下に描かれ、福永武彦の「幼くして失った母」という原風景である。そして「母」は、はかなく淡い観念として、この作家に、美しくも深く悲しい旋律を奏でる。意識と無意識、現実と夢の境を行きつ戻りつ、ロマネスクな二重奏組曲。福永文学の輝ける魅力をたたえた、詩情豊かな10編の作品集。
  • 福永武彦 電子全集1 「草の花」体験、福永武彦の出発

    福永武彦 電子全集

    小説・文芸

    -
    1~20巻2,750円 (税込)
    福永の出世作『草の花』を中心に、初めて単行本化された短篇集『塔』、学生時代に書かれた書簡など、作家・福永武彦の出発点とも言える、貴重な初期作品を完全収録。 第一高等学校3年、18歳の福永が「校友會雑誌」第355号に発表した「かにかくに」、肺病治療のため入院していた清瀬の療養所で、1949~1950年にかけて書かれた「慰霊歌」の収録2篇は、戦後に書かれた最も美しい青春小説のひとつ『草の花』(初刊版と決定版2種を収録)の原型となった作品。 収録した関連作品の中で、詩篇「戸田の春」と冊子「平野和夫君を偲びて」収録の俳句2句は、単行本、全集等未収録の貴重なもので、随筆「病者の心」は、療入所中に自身の心の推理変転を具体的に描き、『草の花』冒頭の章「冬」に繋がっていく重要作品である。 また、『草の花』「冬」の章と同じ精神的風土を表出し、福永自ら「小品」と呼ぶ4作「晩春記」、「旅への誘い」、「鴉のいる風景」、「夕焼雲」も併録。 一方、1948年に福永初の単行本と初刊が発売された『塔』からは、詩の精神を小説に定着させようとした実験的小説「塔」、「雨」、「めたもるふぉおず」を、初刊版と決定版の2種を収録。 作家・福永武彦の“文学の嚆矢”を理解する上で絶対欠かせない、ファンはもちろん、研究者も必見の第1巻である。 この作品の容量は、32.7MB(校正データ時の数値)です。 ※この作品はカラー写真が含まれます。
  • 堀辰雄/福永武彦/中村真一郎

    堀辰雄/福永武彦/中村真一郎

    小説・文芸

    4.3
    1巻2,860円 (税込)
    西欧文学を学び、日本の古典に赴いた知の作家たち。豊かな言葉をもって、巧みな手法と仕掛けで物語を紡ぐ。堀辰雄「かげろうの日記」、福永武彦「深淵」、中村真一郎「雲のゆき来」他。 [ぼくが選んだ訳] フランス文学を学んだ者がその富を創作に応用する。しかし彼らはフランス文学を学んだのではなく文学の普遍を学んだのだ。だから日本の古典を自在に用い、現代の日本を舞台にした巧緻な中篇を作り、また江戸期と今の京都を行き来する国際的な雰囲気の名作を書くことができた。――池澤夏樹 解説=池澤夏樹 年譜=鈴木和子 月報=堀江敏幸、島本理生
  • 日本霊異記/今昔物語/宇治拾遺物語/発心集

    日本霊異記/今昔物語/宇治拾遺物語/発心集

    小説・文芸

    4.4
    1巻2,970円 (税込)
    人間のユーモアと機知とエロスに満ちた野蛮な魅力そのものが生き生きと語られる、「瘤取り爺」の原話等古来よりの説話100余篇を収録。「日本霊異記」「宇治拾遺物語」「発心集」は新訳で。 解説=池澤夏樹 解題=小峯和明 月報=高樹のぶ子・朝吹真理子

ユーザーレビュー

  • ゴーギャンの世界

    Posted by ブクログ

    1298円

    373p

    ★再読
    2026/08/19

    ゴーギャンは絵より『ノア・ノア』っていうタヒチ紀行文の方が好きだな。絵よりも魅力的だと思う。アーティストが描く事実・神話・自己演出を混ぜた「タヒチという作品」なんだよね。現実のタヒチを記録するより、自分が文明を捨てて原始の楽園に入っていく芸術家だという神話を文章で作っている感じ。


    福永武彦
    フクナガ・タケヒコ
    著者プロフィール
    (1918-1979)1918年、福岡県生まれ。一高在学中から詩作を始める。東大仏文科卒。1948年、詩集『ある青春』、短篇集『塔』、1952年、長篇小説『風土』を発表、注目を集める。1954年、長篇小説『草の花』により、作家としての地歩を確立。以後、学習院大学で教鞭をとる傍ら『冥府』『廃市』『忘却の河』『海市』など、叙情性豊かな詩的世界のなかに鋭い文学的主題を見据えた作品を発表。1961年『ゴーギャンの世界』で毎日出版文化賞、1972年『死の島』で日本文学大賞を受賞。1979年、死去。

    「ポール・ゴーギャン、この呪われた画家については、既に多くのことが語られている。彼の伝記は、研究が進むにつれ次第に微細な点まで明かになった。しかし現在でも尚、この画家の運命について、誤った、或いは誇張した伝説が伴っていないわけではない。彼の生涯は、単に一個の天才的画家の行動という以上のロマネスクな波瀾に富んでいるし、その絵画はエクゾチックかつ華麗な作風で、た易く素人をも惹きつけるだけの魅力を蔵している。そしてゴーギャンの場合、生涯とその作品というものが、他の芸術家以上に密接に結びついていて、僕等はしばしば彼の一枚のタブローを眺める時に、その絵の背後にある「ゴーギャン伝説」を無意識に思い浮べ、それによって一種のロマンチックな雰囲気を敢てつくり出している。このことは、芸術作品の鑑賞に当って、必ずしも最も好ましい態度ではない。我が国の私小説と呼ばれる身辺雑記的作品は、常に、背後にある小説家の私生活を思い起させるが、それは同一作者の手になる幾つもの作品を併せ読んで、漸く隠された(貧弱な)生活を瞥見させるにとどまり、一作品ごとにパノラミックな生活の展望があるわけではない。すぐれた作家に於ては、一般に、その私生活は作品の蔭に消えているものである。「印象派」の巨匠たちのうち、ピッサロにしてもドガにしてもマネにしても、僕等はその絵を知ればそれで足りる。詩人マラルメの生涯を知らなくても、その一篇の象徴詩はパノラミックに作者の精神生活を内蔵している。が、その反対に、生活が分ちがたく作品と結びついた芸術家もまた存在する。ヴァン・ゴッホやゴーギャンのような画家、ポオやボードレールのような詩人に於ては、彼等の人生に対する僕等の知識の量が増せば増すだけ、作品鑑賞の度合が深まり、感動の質が高まって行くと言えるだろう。作品を実人生以上に重く見ることは、十九世紀ロマン派の遺産であって古めかしいが、しかし作品のために一つの人生が犠牲にされたと考えることは、今でも一般にロマンチックな共感を喚ぶだろうし、人をして一種の陶酔に誘うものを持つに違いない。作品に対する理想というものがあり、その理想のために人生が犠牲にされたとすれば、たとえ作品が遂に理想に達しなかったとしても、その行為を英雄的であり、芸術至上主義的であると考えることも可能である。その意味で、生活に於ても信念に於ても、ポール・ゴーギャンは恐らく最後のロマン派だった。」

    —『ゴーギャンの世界 (講談社文芸文庫)』福永武彦著

    「ゴーギャンの魅力の中心をなすものは、多かれ少かれ、彼にある異常なもの、現実生活に於て見出されないもの、僕等の日常にとっての謎といった類である。それは彼の傑作の多くがタヒチ島やヒヴァ・オア島のような、未開の地方に題材を仰いでいることにも原因があるし、またそのような僻地に、自ら求めて移住したゴーギャンの生活からも生れ出ている。しかし一枚のタブローを作者の私生活から虚心に引き離して眺めたとしても、この明るくきらびやかな風景、夜でさえも華麗に彩られている南海の風景の中に、何かしら僕等を立ち止らせ、画面を注視せしめる一種の影が落ちていることに、僕等は気がつくだろう。一体なぜ画家はこういう題材を選んだのか、また如何にしてそれをこのようにえがいたのか。南の島々の風景はエクゾチックであるが、ゴーギャンがそれを選んだことは単なる旅行者の好奇心ではあるまい。その風景は彼の本質に密着し、謂わば彼の内部に存在しているようだ。彼がタヒチに行くまで、パリを中心として、ルーアンに、コペンハーゲンに、ポン゠タヴェンに、ラ・マルチニックに、ル・プールデュに放浪したのは、すべてこの内部の要求に基いている。彼がブルターニュ地方に滞在してそこに取材した作品には、既に傑れたものが多いが、しかしそれは摸索と研究との間に得られたもので、結果的に見れば、タヒチのための習作にすぎない。」

    —『ゴーギャンの世界 (講談社文芸文庫)』福永武彦著

    「そして彼は以後の六年間を海上で暮し、水夫や火夫や舵手を経験し、成年以後は水兵となって、その間に南米やインドやスカンジナヴィアへ行った。それは恰もボードレールが、二十歳の頃モーリス島へと旅行し、その航海の体験が、後年のボードレールの詩作を彩っているのと似てはいないだろうか。こうしてゴーギャンが二十三歳でフランスへ戻った時に、母親は既に死に、姉は嫁ぎ、彼には家庭もなく家もなかった。後見人のギュスタヴ・アローザが、彼をパリの、ラフィット街の株式仲買商ベルタンに紹介した。ここから平凡な一人の株屋の生活が始まる。」

    —『ゴーギャンの世界 (講談社文芸文庫)』福永武彦著

    「不意の決心というものはゴーギャンの性格の特徴だが、生活ということがどの場合にも第一に来ることを忘れてはならない。彼は芸術のために万事を放擲するような人間ではなく、何よりもまず生きることを望む人間だった。そこには夙く父親を喪った彼の独立心というものも作用している。既にこの時代までに、彼は父を、次いで母を、喪っている。嫁いだ姉も彼とは殆ど無縁になる。孤独は彼が自ら求めたのではなく、向うから彼にやって来る。そして彼が得たものは、その鞏固な独立心、生活慾、未来への楽天的な希望、そしてそこに潜在する原始生活への憧憬、こうしたものである。『海の微風』は常に彼の心の底に水夫の唄を響かせている。」

    —『ゴーギャンの世界 (講談社文芸文庫)』福永武彦著

    「この間の事情を明かにするために、日曜画家としてのゴーギャンの経歴をざっと振り返ってみよう。  六年間の船員生活と水兵生活との後で、母を喪ったポールがパリへ戻った時、彼をベルタン仲買店へ入れたのはギュスタヴ・アローザである。この裕福な銀行家は、嘗てフローラ・トリスタンの尊敬者だったが、美術に対してすぐれた鑑賞眼を持ち、現代絵画の蒐集家として知られていたし、そのサロンにはカミーユ・ピッサロなども招かれた。アローザのコレクションは、芸術家肌のポールの眼を開く第一のモチイフである。」

    —『ゴーギャンの世界 (講談社文芸文庫)』福永武彦著

    「このようにして、アローザにより絵を見る眼を、シュフネッケルにより初歩の技術を、ピッサロにより印象派の公式或いは芸術家の精神を、それぞれ訓練されたゴーギャンは、次第にその興味を本格的なものに移し変えて行く。ピッサロは素人として見どころのあるこの青年を愛して、ピガル広場のヌーヴェル・ザテーヌに連れて行った。そこは印象派同人のたまり場で、ゴーギャンはマネや、ドガや、ルノワールや、シスレイや、ギヨーマンなどを識るようになる。例えばエドワール・マネは一日、ゴーギャンの家を訪れて、壁に懸けたゴーギャン自作の絵を見た。「よく描けています。」とマネが言ったので、ゴーギャンは「僕はほんの素人ですから。」と謙遜した。マネは断乎として、「そんなことはない、素人というのはまずい絵を描く連中のことです。」と答えたと言われている。  ゴーギャンはまた印象派の絵が陳列されているデュラン゠リュエルやタンギイの画廊へも足を運び、そこでポール・セザンヌの作品を発見したりした。彼は絵を見ると共に端からすぐれた作品を買い集めたが、その蒐集はモネ、ピッサロ、マネ、ルノワール、セザンヌ、シスレイ、ギヨーマン、ドーミエなどに及び、数年経たぬうちに一万五〇〇〇フランの値打を持つようになった。それにはピッサロが、貧乏な印象派の画家たちを助ける意味合いもあって彼に蒐集をすすめたことも影響しているが、しかしゴーギャンに、鑑賞家としての眼識があったことも明かである。」

    —『ゴーギャンの世界 (講談社文芸文庫)』福永武彦著

    「一八七七年、結婚後四年目に、彼はアトリエの附いた前よりも大きな家に引越し、一層印象派風の絵を描き続けた。恐らくその年の第三次印象派展覧会に招待されることを予期していたのだろうが、この期待は裏切られた。彼はその代りに隣人の彫刻家ブイヨから、粘土をこねることを習い覚え、妻や子供たちをモデルにして彫刻をつくった。ゴーギャンの絵画に於ける形態の力強さ、マスの表現には、彼の彫刻技術が大きく作用して来る。  ゴーギャンが初めて招待されたのは、一八八〇年、結婚後七年目の、第五次展覧会である。これにはピッサロの尽力が与って力があったし、ドガもまた彼を支持した。モネとルノワールとはこの素人画家の出品を不満として参加しなかった。印象派同人の軋轢は漸く此処に始まっている。ゴーギャンは七点の絵画と一点の胸像とを出品したが、反響は乏しかった。批評家(同時に神秘的自然主義の作家でもある) J・ K・ユイスマンスは、この年の印象派展覧会の批評に、一行もゴーギャンに触れず、その翌年の一八八一年印象派展覧会の批評の中で、「昨年、ゴーギャン氏は初めて出品した。それは一聯の風景で、ピッサロの未だあやふやな作品を水増ししたようなものである。」(ユイスマンス『現代美術』 P. 237)と言ったにとどまる。」

    —『ゴーギャンの世界 (講談社文芸文庫)』福永武彦著

    「確にゴーギャンは素人の風景画家にすぎなかった。たとえピッサロが彼の出品を斡旋したからといって、ピッサロ自身も彼に画家としての将来を認めていたわけではない。ユイスマンスの評したように、彼には個性がない、上手な日曜画家というだけのことだ。モネやルノワールが彼と同席するのを潔しとしなかったのは、専門家として当然である。セザンヌも、その油絵に於ける水絵的効果、淡青色の輪廓を残したフォルムの纏めかたの秘密を、ゴーギャンが教えてほしいとピッサロを介して頼み込んだために、その厚かましさにひどく感情を害していた。芸術は自らの努力によって血涙を注いで得られるものだ。このような一般的な意見が、恐らくはメットの良人に対する評価にも現れて来ていたのだろう。風景画家としてピッサロの域を抜き得ないと感じたゴーギャンは、そこで子供たちの女中に傭われていたジュスチィヌをモデルに、新しく裸体画を描き始めた。」

    —『ゴーギャンの世界 (講談社文芸文庫)』福永武彦著

    「彼は収入の多い職業を自ら棄てた(但し前にも言ったように、一年間の猶予期間つきである)、がこの事務に明るい株屋が、全然無鉄砲に無一物の生活に飛び込んだとは考えられない。そこには、不幸にも誤算があった。即ちゴーギャンは、彼が絵に専心して印象派風の絵を描けば、その絵が売れる、絵を売ることで従前通りの生活が出来ると考えていたのだ。その年の夏、ピッサロがルーアンにあって好評だと聞かされた彼は、自分もそこへ行って暮したいとピッサロに頼み込んだ。ルーアンはパリよりも生活費が安いし、そこでは絵の売れる可能性が多いと見込んでいた。それ迄の貯えがあったとはいえ、長く生活を保つのに充分な筈はない。ゴーギャンは背水の陣を敷いたが、彼はまだ事を楽天的に見ていた。その年の十一月に彼はルーアンへ行き、師のピッサロとよく似た絵を描いていた。こういう方法を採る限り、師には及びもつかないことを充分に意識していなかった。翌一八八四年一月には妻子を彼の許へと呼び寄せた。」

    —『ゴーギャンの世界 (講談社文芸文庫)』福永武彦著

    「妻のメットが不満だったのは当然だろう。彼女は良人が芸術家だとは信じていなかった。家庭の幸福(それは経済的な基盤の上に立っている)を破壊してまで好きな道楽をしようとする良人を、自分勝手で残酷な人間だと考えた。ただもし絵が売れれば。良人は自信の強い人間だし、大丈夫だと明言している以上、ひょっとしたらその可能性はあるのかもしれない。彼女は半信半疑だったが、良人の商売人的な才能だけは認めていたのである。  ルーアンの生活は惨めな失敗だった。一枚の絵も売れなかった。ゴーギャン一家は危機に直面し、一八八四年の十一月、一家はあげてデンマークのコペンハーゲンへ移った。ベルタン仲買店の猶予期間は既に切れていた。  そこは妻メットの里であり、ヘーゴール家のような有力な後楯もある。そして何よりも、そこにはフランス印象派がまだ輸入されていないから、従って競争者もないわけだ。この処女地でなら彼の絵もきっと売れるだろう。ゴーギャンは単純にそう考えた。しかし魚が水を得たように、コペンハーゲンでは妻の権力が増大し、遂には彼が妻子を喪うに至る懼れがあることを、彼は少しも予想していなかった。」

    —『ゴーギャンの世界 (講談社文芸文庫)』福永武彦著

    「ポールがいつも同居を夢みていたのに反し(かの祖父アンドレ・シャザールの場合と何と似ていることだろう)、メットにしてみれば宗教的な見地から離婚しなかったというにとどまる。そこに一種の復讐の気持さえあったかもしれぬ。ヴィクトル・セガランが彼女に会った時の印象に拠れば、「ゴーギャン夫人は、一言で言えば、徳によって全く腐敗した、かつ厳格な基督教によって全く堕落した、北欧プロテスタントの完全な権化」なのである。恐らく彼女は自分を、暴君のために忍従の生活を送らせられた殉教者とでも考えていたのだろう。」

    —『ゴーギャンの世界 (講談社文芸文庫)』福永武彦著

    「ポール・ゴーギャンの芸術的完成は、彼の第一次及び第二次タヒチ時代に求めなければならないが、少くともその才能が独自の方向に決定づけられたのは、前にも述べたように一八八八年、彼の四十歳の時である。そこに至る自己形成の期間を、しばらく伝記的に追って行ってみよう。  一八八三年、ベルタン仲買店の職を辞した時の彼は、謂わば自由に絵を描きたいという無邪気な願望を行動に移したにすぎなかった。しかし十年間の、裕福な日曜画家としての経験よりも、覚悟をきめた短い年月の方が、遥かに芸術家としての眼を内部に見開かせるだろう。それまでに習い覚えた印象派的技術とは違った、もっと内部的な衝迫として誕生すべき技術が必要なことに、彼は既に気がついている。コペンハーゲンにあった時に、彼は早くも、勤めの上でも絵の上でも彼の長年の同僚だったエミル・シュフネッケルに宛てて、次のように書き送っている。「久しい以前から、哲学者たちは超自然的に見える現象を論じて来た。にも拘らず、我々は超自然なものについての感覚を持っている。この感覚なる語の中に一切がある。ラファエロとその一派は、物を考えるよりも以前に、感覚が明かに浮び上って来た連中だが、研究に研究を進めても決してこの感覚を破壊してしまうことがなかった。それで芸術家として大成したのだ。私にとって、偉大な芸術家とは偉大な理智の方式化されたものだ。それを通して感情が生れ、頭脳による最も繊細な、従って最も肉眼に見えぬものの翻訳が生れて来るのだ。」

    —『ゴーギャンの世界 (講談社文芸文庫)』福永武彦著

    「「自然のなす大いなる創造を見たまえ、そうすれば君は、外見は全く別個の、しかも効果に於ては同じに見える様々の姿かたちを以て、すべての人間感情を創りあげるために、何等特定の方則というもののないことが分るだろう。大きな蜘蛛を見る、森の中で大木の幹を見る、そのどっちもが君にはなぜだか分らないのに、強烈な感覚を惹き起す。なぜ君は鼠とか、それに似た多くのものに触るのが厭なんだろう。こうした感情の前に理窟は立たない。我々の五感は直接に頭脳から来る。それは数限りない物ごとに印象づけられたもので、如何なる教育も奪うことの出来ないものだ。」( 14/ 1/ 1885)」

    —『ゴーギャンの世界 (講談社文芸文庫)』福永武彦著

    「「親しいメット。私は木曜日にポン゠タヴェンに出発する筈だ。今、平静な気持でお前に返事を書きたいと思う。明かに冬の長い国は私の健康にとって面白くないのだし、私はどうしても七八ヵ月は、その国とその住民との性格の内部に没入して仕事をしなければならないのだ。それが良い絵を描くためには重要なことだ。この点に関して、お前の手紙はお前の中に常に壁があること、率直に言って、どの中産階級の婦人にも見られるような壁があることを私に教えた。社会には二つの階級がある。一つは生れながらにして財産を持ち、金利生活者とか、会社の高級職員とか、自分の店を持つ商人とかになることを許されている階級だ。しかし財産を持たぬもう一つの階級は、一体どうやって暮して行けばいいのか。それは自分の労働が実らせた果実によってだ。前者に於ては、仕事(会社でも商売でも)の上で長らく辛抱しさえすれば、多かれ少かれ人並の結果を得ることが出来る。後者では、独創的な創造精神(美術や文学や)は、確に長くはかかるだろうが、独立した、成果の多い地位を得るに至るのだ。(……)」

    —『ゴーギャンの世界 (講談社文芸文庫)』福永武彦著


    「「友よ、ここに同封した手紙を読んでみて下さい。そしてポールの住所へ廻して下さい、私は番地を忘れてしまったから。私はポールに稀にしか手紙を書きませんし、一層稀にしか彼のことを考えもしません。しかし彼がお金を握ったことを私が知った時に、あの人には五人の子供があり、私ひとりではとてもやって行けないことを、あの人に思い出させるのは私の義務だと思うのです。ああもしも私に、親切にして下さるお友達の方々がなかったなら、私はどうなっていたでしょう!  本当ですわ!  でもポールが悪人じみたエゴイストであると考えるたびに、私の心は苦悩でいっぱいになってしまうのです。私はこんなことは今迄に一度も見たことも聞いたこともありません。けれどもこんな愚痴をこぼすのは宜しくありません。私はパリにいずに此処にいるということで幸福なのですから。ただ私の子供たちが、いつの日にか彼等の父親を恥ずかしく思うでしょうし、それがあの子たちにとって辛いことになるでしょう。……」」

    —『ゴーギャンの世界 (講談社文芸文庫)』福永武彦著

    「三年後の一八九四年、タヒチからパリへ戻ったゴーギャンは、個展のために自分の作品を買い戻そうと思い、特に嘗ての所有だったセザンヌを惜しんでメットにその旨を書き送ったが、ブランデスによって手厳しく拒絶された。ブランデスは次のように書いた。「私はこの二年ばかりの間に、メットから一万フランばかりの絵を買いました。従って今やささやかなコレクションを形ちづくっています。私はそれが好きですし、どんな値段ででも手放すつもりは毛頭ありません。あなたの芸術家的気紛れは私にもよく分りますが、あなたの頼みが全く度が過ぎたものであることは、あなたにもお分りでしょう。」ゴーギャンは相手が単にメットを助けるために、謂わば担保代りに絵を買っていたものと信じていたのだが、この手紙であっさり諦めた。「芸術家としての挨拶を送る」というような返事を書いている。しかしブランデス以外にも、メットは多くの人に絵を売っただろう。ゴーギャンの作品に限っても、コペンハーゲンで売り払われた作品は意外に多く、現在、コペンハーゲンやストックホルムの美術館は、フランス、イギリス、アメリカ、ソヴィエトなどに劣らない程のゴーギャンの作品を収めている。」

    —『ゴーギャンの世界 (講談社文芸文庫)』福永武彦著

    「ゴーギャンは猛然とその仕事を始めた。彼は自分の小舎を、マネ、シャヴァンヌ、ドガ、レンブラント、ミケランジェロ、ホルバインなどの複製、子供等の写真、またルドンから貰った油絵などで飾った。これは彼のヨーロッパである。小舎の近くでは原住民たちが、或いは斧で樹を切り倒し、或いは網で魚を捕えて生活している。手始めの仕事は、まず彼の周囲の一切をノオトやクロッキに取ることだった。「今日まで、私はまだ目立った仕事を何もしていない。私は、自分自身の内部を探ることで満足している、自然をではない、そして少しばかりデッサンが出来るようになったことで満足している。ただデッサンばかりだ。それから、いずれパリで描くための資料を寄せ集めている。」(モンフレー宛て、 11/ 1891)従って到着後半年経っても、彼はまだ、本格的な仕事に取掛っていなかったのだし、彼の中に「いずれパリで」仕事をする気持、つまり材料を漁りに来た旅人の気持があったことを忘れてはならない。彼の夢想がタヒチに於て実現したとはいえ、それはやはり一種のエクゾチスム、嘗てのブルターニュやラ・マルチニックと格別変ったことはなかった。問題は如何にして彼がタヒチに捉えられ、次第に深みにはまり込み、遂にそこから逃げられなくなったかという点にある。ゴーギャンがタヒチを摑んだのではなく、タヒチの方が彼を摑んで離さなくなった点にある。その重要な因子の一つは女である。」

    —『ゴーギャンの世界 (講談社文芸文庫)』福永武彦著

    「これらの絵画作品の説明は次章に於て試みるからここには触れない。要するにテフラが彼の霊感を著しく刺戟したことを強調すれば足りよう。早くも翌一八九二年五月のメット宛ての手紙には、「私はこの十一ヵ月間に効果的な仕事をし、かなり大事な作品を四十四点仕上げた。一年間に少くとも一万五〇〇〇フランを稼いだわけだ、買手がつけばの話だが。」と書いている。しかし実際には買手なんかつかなかったし、楽観的な予想を裏切って彼の貯えは日に日に尽きて来た。加えるに病気になった。一八九二年三月にはモンフレーに宛てて、「私は全くかなり重い病気だった、──考えてもみてくれ給え、日に四分の一リットルも血を吐くのだ、──どうしても止らない、両脚に芥子泥を塗布したし、胸には吸い玉をかけたが、どうにもならないのだ。病院の医者はひどく心配して、私がもう駄目だと思ったらしい。」と書いている。その二週間後にはポール・セリュジエに宛てた次の手紙がある。」

    —『ゴーギャンの世界 (講談社文芸文庫)』福永武彦著

    「そのマラルメの詩風から見れば、ゴーギャンは全く異質的で、そこに相容れるものは何もない。ゴーギャンは色彩を愛し、それも華かな、混りけのない赤や緑や黄の原色を愛した。彼に於ては、すべての色彩が交響曲的に鳴り響き、白と黒とのトーンなどというものはどこにもない。彼の場合、モノクロームの版画でさえも、それは背後の色彩を感じさせる。(現に『ノアノア』の版画を見ると、彼はしばしばその上に薄い彩色を施している。)従ってマラルメがタヒチ作品を評して、「これほどの輝きの中にこれほどの神秘を置く」と言ったのは、お世辞抜きの実感であったに違いない。マラルメにとって、神秘とかニュアンスとかいうものは、白と黒との微妙な色調の中にあるべきで、極彩色の絵模様の中にあるべきではなかった。しかしゴーギャンの絵の中には紛れもない神秘が息づいているのだ。それはマラルメの内部のエクゾチスムを、烈しく揺すぶったであろうと思われる。」

    —『ゴーギャンの世界 (講談社文芸文庫)』福永武彦著

    「この、映像を喚起し、主題を暗示するという方法は、もとよりボードレールに始まっている。そしてボードレールの思想も、特に美術批評家としてのボードレールの思想も、ゴーギャンの上に影を落していないわけではない。しかしこの一八九一年に直接にマラルメの話を聞き、マラルメ的美学の洗礼を受けたゴーギャンが、詩に於ける象徴主義の方法を、絵画の上に試みようとしたことは必然の成り行きだったと僕は思う。タヒチ時代の彼の作品を、それ以前のブルターニュ時代のそれと区別する特徴の一つは、明かにこの方法である。しかしこの変化は、マラルメによって突然変異として起ったのではなく、ゴーギャンの中にひそかに育まれていたものが、タヒチの自然に於て、マラルメの記憶と共に、明瞭化されたと言う方が正しい。詩と絵画とは同じではないし、ゴーギャンは文学的象徴主義から一つの教訓を得たにとどまる。それを絵画的象徴主義に転化するには、彼自身の当然の努力を必要とした。」

    —『ゴーギャンの世界 (講談社文芸文庫)』福永武彦著

    「『ノアノア、或いはタヒチ紀行』は、一八九一年六月八日、ゴーギャンがタヒチに到着するところから、一八九三年五月、タヒチを出帆する迄を描いた、二年間にわたる滞在の記録である。しかし既に前章に於て述べたように、それは必ずしも事実に忠実な記録ではない。書かれたことは事実に近いかもしれないが、書かれなかったことも亦多い。主人公である「私」は、実際のゴーギャンに較べて遥かに省略され、美化されているし、彼の新しい内的体験は詳しく説明されているとはいえ、例えば彼の病気とか、貧困とか、妻との葛藤とか、画商たちとの交渉とか、そういった現実面の苦しみはことごとく抹殺されている。ここに描かれたのは、「すべてが美しい時に、すべてはよい、」という牧歌的な記録である。楽園としてのタヒチとその風習、一人のヨーロッパ人と原住民の少女との夢のような生活、絵画的主題、文明人の眼に映った未開の、野蛮な美とその解釈、などである。要するにここにあるのは詩であって真実ではない。というよりも、これは一つの詩的な真実、理想化された、エクゾチックな真実なのである。「私」は旅人としての眼で風景や人物を見ている。彼は結局に於て、タヒチの真の生活の中に身を委ねることが出来ない。真実のタヒチはもっと醜悪であり、楽園の一種の代用品、つまりは植民地というにすぎない。彼はそのことを、第二次のタヒチ滞在に於て理解するだろう。しかしこの時は、彼にとって(今迄の夢想の実現として)タヒチは美しく、かつ詩的であらねばならなかった。つまり彼はタヒチに賭けたのだから、この賭に勝たなければならなかった。必然的に『ノアノア』は、未開の美という主題を持ち、それを暗示的に喚起するという方法を持つ。この場合に、作者であるゴーギャンが完全に対象を知悉して、その幾分かを示すことによって主題を提示したというより、彼が対象を不完全にしか知らなかったために、主題は暗示的にしか示されなかった、その他には方法がなかった、と言うことが出来る。つまりは怪我の功名である。しかし一人のヨーロッパ人にとって、このような方法による以外に未開人を捉え得ないことは、シャトーブリアンや、ロチや、メルヴィルや、スチヴンスンや、モームなどの作品が証明している。『ノアノア』の場合にも、作者が対象を熟知できなかったことから生じるもどかしさが、一種の神秘となって、この作品の魅力をつくっていると言うことが出来よう。」

    —『ゴーギャンの世界 (講談社文芸文庫)』福永武彦著

    「再びタヒチに渡ってから、ゴーギャンとモリスとの仲は次第にまた悪化した。約束通りに『ノアノア』が出ないことも、ゴーギャンを憤慨させたに違いない。それが漸く日の目を見たのは、一八九七年十月十五日号の「ルヴュ・ブランシュ」誌で、それもごく一部にすぎなかった。(リストの )「私はモリスからほんのひと言ふた言の便りを貰ったが、それによれば私の本は「ルヴュ・ブランシュ」に発表され、それから一巻に纏められるそうだ。そこで済まないが編輯長に会いに行って、雑誌と単行本との印税はどうなるのか調べてもらいたい。特に印税はモリスに払わずに、出来る限り早く私に送るよう編輯長に頼んでくれ給え。」(モンフレー宛て、 11/ 1897)これは雑誌発表と入れ違いになった手紙だが、ゴーギャンが「私の本」と言っているところに注意したい。実際にはこの雑誌所載のものも、またその単行本出版である一九〇一年のラ・プリューム版(リストの )も、その内容は寧ろモリス版とも称すべき位で、モリスが勝手に文章を按配し粉飾している。ゴーギャンがその出来栄えに不満を持ったことは想像に難くない。しかも単行本の方は遅延に遅延を重ねた。漸くそれが出版された時に、モリスはゴーギャンに宛てて、「私の『ノアノア』を自費で出版したところです。簡素な小さな本です。(……)この本をどう思うか意見を聞かせて下さい。物質的には全く大したことはありませんでした、それは承知です。これが私には精いっぱいでした。ただ文学的見地に立って、あなたの意見を知りたいのです。……」( 22/ 5/ 1901)というような手紙を書いた。それに対してゴーギャンは、「全くの季節外れとなった『ノアノア』の出版は、今日の私にとって何の関心をも喚び起さなかったことを告白する。一体何で私に百部も送ってよこしたのだ。此処では焚きつけに使う位のものだ。」( 7/ 1901)と手厳しい返事を書いている。」

    —『ゴーギャンの世界 (講談社文芸文庫)』福永武彦著

    「  A「私は仕事を始めた、あらゆる種類のノオト、クロッキ。風景の中の一切のものが、私を盲にし、私を眩惑した。ヨーロッパから来て、私は色彩に関して常に不確かだったので、正午から十四時まで探し求めた。けれどもそれは実に簡単で、当然のことだがカンヴァスの上に赤と青とを置けばよかった。せせらぎでは黄金色の形態が私を魅了した。私のカンヴァスの上に、あらゆるこうした黄金を、あらゆる太陽の歓喜を迸らせることに、どうして私は躊躇したのだろう。恐らくはヨーロッパの古びた風習だ、堕落した我々民族の持つ、表現へのあの臆病さだ。」(ゴーギャン自筆ノオト、 f. 8)   B「私は仕事を始めた、あらゆる種類のノオトとクロッキ。しかし風景は、その明確な、燃えるような色彩によって、私を眩惑し、私を盲にした。その頃私は常に不確かだったので、正午から十四時まで探し求めた。しかしそれは実に簡単で、私は見たままをえがき、私のカンヴァスの上に、何の計算も無しに、赤や青を置けばよかった。せせらぎでは黄金色の形態が私を魅了した。私のカンヴァスの上に、あらゆるこうした黄金を、あらゆる太陽の悦びを迸らせることに、どうして私は躊躇したのだろう。──ヨーロッパの古い因襲だ、頽廃した民族の表現への臆病さだ!」(ゴーギャン自筆清書版二章、 P. 43、定本では P. 46)」

    —『ゴーギャンの世界 (講談社文芸文庫)』福永武彦著

    「 キリスト教的な意味での宗教画は、既にブルターニュ時代、一八八八年代に於て、ブルターニュ風俗と結びついて描かれていた。そのような題材の選びかたに、マドレーヌ・ベルナールへのプラトニックな愛情があったのではないかと推察したが、ゴーギャン自身のうちに宗教的傾向があったことは否むことが出来ない。ここに言う宗教的とは生得のもので、無神論者であったり、宗教に反逆したりしても尚人間は宗教的であり得る。ドストイェフスキイやボードレールの場合はその例だと言い得よう。ゴーギャンはキリスト教に対して格別の関心を持たなかったし、妻のメットの北欧的プロテスタンチスムに、一種の反感を持っていたことは明かである。しかも彼はブルターニュ時代に、『ヤコブの天使との闘い』や、『黄色いキリスト』や、『キリスト磔刑像』のような作品を作った。従ってこれらの作品は、宗教的というよりも神話的であり、信仰的というよりも民俗的であるように見える。それはブルターニュ地方の古い習俗と切り離しては考えられないような、一種の宗教的作品と呼ぶ他はない。」

    —『ゴーギャンの世界 (講談社文芸文庫)』福永武彦著

    「 タヒチへ送金〔帰国のための借金〕  四〇〇フラン「お前にこうした勘定書を送らなければならないとは不思議な話だ。(……)「その時が来たら、ごく必要なものを購うための一〇〇〇フランをお前に送ろう。私の個展が済んで幾らかでも稼げるようになったら(せっつかれなかった場合に)、額に応じてお前を助けよう、しかしお互いの予算がどういうものかはきちんとする必要がある。従ってお前の売った絵に関して、正確に報告してもらわなければならぬ。二月ごとにきちんと勘定がつくなら、私は私のなすべきことをしよう。この義務のためには、いいか悪いかをきめるのは私ひとりだ。「誰にだって分ることなのだから、お前にも分ってもらう必要がある、私がごまかされずにちゃんとした報告を受けなければならないことを。」

    —『ゴーギャンの世界 (講談社文芸文庫)』福永武彦著

    「この決心は単なる一時的な失望に基いたものではない。彼はフランスに帰って、真にタヒチを、タヒチの良さを理解した。彼は文明国にあって、かえって自分が異邦人にすぎないことを知ったとも言える。此処には生活がなかった。職業としての絵画を取り巻いて、画商や画家や素人や弥次馬がいた。流派もあれば展覧会もあり、巨匠もいれば画学生もいた。しかしゴーギャンの欲していたものは、彼個人の自由な生活であり、その生活から溢れ出して来る芸術、つまり何物にも拘束されない純粋芸術だった。彼はもう前のように若くはなかったし、夢想の限界もよく知っていた。しかし彼が自分自身に忠実であるためには、どうしてももう一度タヒチへ行って、彼の芸術を試みないわけにはいかなかった。以前の経験によって、タヒチは今や植民地にすぎず、文明人がそこで生きて行くためには、原住民のように裸のままで暮し、斧とカヌーとを持って樹を切ったり漁をしたりすれば足りるものではないことを、彼は百も承知していた。貧乏になれば食うものもなく、病気になれば病院にはいる費用が要ることも、もとより承知だった。しかし彼はやはり決心したのだ。ここにあるものは最早エクゾチスムではない。もっと内心の欲求、自己の生活をいまだ摑んでいないことへの不満、そしてヨーロッパ的な倦怠であろう。野心もあったし、芸術的な主張もあった。しかし一番強かったのは、母国へ帰っての異邦人としての感情だったように思われる。」

    —『ゴーギャンの世界 (講談社文芸文庫)』福永武彦著

    「「ヨーロッパに於ては、男女間の結合は愛の結果である。オセアニアに於ては、愛とは交合の結果にすぎない。どちらが正しいか。「己れの肉体を与える男もしくは女は、小さな罪を犯したものだ。しかしそこには尚論議の余地がある。どんな場合にも、罪は、この世に於ける最も美しい行為である創造によって、充分に贖われる。それが創造主の作品の延長であるという意味で、創造は神の行為である。」

    —『ゴーギャンの世界 (講談社文芸文庫)』福永武彦著

    「これは文明に対するゴーギャンの呪詛の一つの表現であろう。『アリーヌのための手帳』はこうした感想で埋っているから、必ずしもアリーヌを(彼は子供の時の彼女しか知らないのだから)念頭に置いて書かれたものではない。それはまさに彼自身のために書かれている。しかしゴーギャンが絶えずその娘を身近に感じることで、タヒチの孤独な生活の慰めとしていたことは明かである。彼は子供たちからの手紙を常にどれほど待ち受けていただろう。パリに帰った一八九三年の冬、メットからの手紙に同封されていた子供等の便りを、どんなに彼は貪り読んだことだろう。彼はアリーヌに宛てて返事を書いているが、その中に、「お嬢さんは舞踏会に行く。お前はダンスが上手かしらん。」という一行がある。また、「私の可哀想な子供たちよ、お家にお金がたくさん無いからといって、どうかお前たちの父親をあまり怨まないようにしておくれ。いつか恐らく、お父さんはこの世で一番いい人だとお前たちの知る日が来るだろう。」とも書いている。」

    —『ゴーギャンの世界 (講談社文芸文庫)』福永武彦著


    「純粋さという点で、ゴーギャンが彼の理想とした芸術に寄せた熱情には、まやかしのところは少しもない。彼は十九世紀の最後のロマン派らしく、ひたむきに行動し芸術に殉じた。しかしヴァン・ゴッホのように純粋だったか、セザンヌのように純粋だったかと言われると、やや躊躇を覚えざるを得ない。師のピッサロから山師あつかいされただけのものが、ゴーギャンになかったわけではない。そもそもの初め、彼が日曜画家をやめて一人立ちの画家たろうとした時に、彼はそれを生活の手段としての職業と考えていた。絵を描くことで妻子を養いたいという希望がそこにある限り、絵を描くことの他に何も考えなかった、印象派の他の純粋な画家たちよりも、多少とも俗っぽく見えたことはいたしかたがない。しかしそれだから彼の動機が不純であり、彼の芸術家としての心構えが不足していたと言い切ることは出来ないだろう。」

    —『ゴーギャンの世界 (講談社文芸文庫)』福永武彦著




    「我々は美術に於て、物理学や、実験化学や、自然探求によって惹き起された、長い錯乱の時代を堪え忍んで来た。美術家たちは彼等の野蛮性をすべて喪い、最早本能を持たず、(想像力を持たず、とも言い得る)生産的要素を見出そうとしてあらゆる迷路をさ迷い、肝心の創造力を所有していなかった。従って、恐怖を感じながら無秩序な団体として行動するばかりで、個人として行動する際には茫然自失する有様だった。その故に、誰に対してでも孤独をすすめるということをしてはならない。というのは、孤独に堪え単独で行動するためには、力が必要であるからだ。従って私は、誰も私に何一つ教えてくれなかったと言うことが出来る。確に、私はほんの僅かのことを知るばかりだ!  しかしこのほんの僅かは私自身が生み出したものだし、私はそれが好きだ。しかもこの僅かのものが、他の人たちの手で更に開拓され、いずれは偉大な成果を収めないと、誰が言えるだろう。進歩のうわべだけを創り出すために、何と幾世紀も過ぎ去ったことだろう。」( 4/ 1903)」

    —『ゴーギャンの世界 (講談社文芸文庫)』福永武彦著


    「原始美術、或いは未開美術は、二十世紀になってから急速に注目を浴びつつある。特にアフリカとオセアニアの未開人の制作は、あらゆる文明人が嘆賞を惜しまないものだ。世界の隅々から蒐集されて来た作品は、博物館に陳列され、或いは複製写真による書物の形態で、瞬時に文明人を異質の時間の中に連れ込んでしまう。それは呪術と死と欲望との芸術である。本能によってつくられたものだが、しかも技術がそこに伴わないわけではない。アマチュアの芸術という言葉があっても、これら未開人の作品はアマチュア的ではない。それらは伝統的であり、形式的であり、かつ純粋に精神的である。彼等の作品は、彼等の魂を抜きにしては考えられないから、しばしば文明人のつくった、小手先だけ技術だけの腑抜けの作品と較べると、遥かに芸術的なのだ。しかし未開人は芸術的であろうとして、作品をつくるわけではあるまい。だいたい作品というような呼びかたがおかしいので、仮面にしても、トーテムにしても、神像にしても、織物にしても、或いは食器や釣の道具などにしても、すべて実用品なのである。ただこれらの実用品には、彼等が祖先から継承した魂が封じ込められていて、謂わば野蛮な魂の形象化されたところに、僕等の測り得ない神秘と謎とを見ることが出来る。それらが芸術であるのは、感嘆する僕等の側、つまり鑑賞者である文明人の側にある。作品そのものは、制作者の側から言えば、単なる実用品にすぎない。」

    —『ゴーギャンの世界 (講談社文芸文庫)』福永武彦著

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    2026年08月23日
  • 草の花

    Posted by ブクログ

    解説だと汐見はむしろ覚めた人なのだということだったが、私には夢見てる人のように思われた。と思ったけど、覚めてるのも合ってるか、?覚めてるけど夢見ることを選んでもいるというか……
    基督教と戦争が思ったより話にガッツリ関わってた

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    2026年05月17日
  • 忘却の河

    Posted by ブクログ

    輪廻から脱線したおっさん

    一言で言えば、暗い作品。まず何より主人公が暗い。この作品は家族4人の独白談を集めた構成になっており、最初と最後の章を語る男、つまりお父さんが主人公だと読めるのだが、お父さんの性格があまりに暗いために、作品全体がどうしようもなく暗い。
     お父さんは、子供が間引きされていた東北の田舎の家で生き残り、東京の家に養子に出されて成人した。若い頃には、恋仲になって妊娠させた看護婦を自殺に追いやってしまい、妻との間に最初にできた子は生後間も死んでしまい、五十半ばの現在になって、堕胎したばかりの女を行きがかりで世話するようになってしまう。いつも意識を過去と交差させているから、自分でも生きているのだか死んでいるのだか分からない。輪廻から脱線して状況をつかめていないような、おっさんなのである。
     こういうお父さんの独白から始まる小説を、読み続けるのはちょっと難儀だった。妻や二人の娘の話はまずまずテンポ良く読めるので、こちらを物語を進める芯にした方がきりりと締まっただろうに。おっさんの話はこってり凝縮させて、暗闇の中にちらりと見えるぐらいである方が、深みが出たのではないかと思う。
     現実の世界でも、おっさんの話は鬱陶しいのだよ。自分がおっさんだから余計にそう思う。

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    2026年03月27日
  • 草の花

    Posted by ブクログ

    「私」が療養所で出会った青年、汐見茂思の死、死後「私」に遺された2冊のノートに記された手記を中心に展開される小説である。
    読者はまず最初の数ページのうちに、濃縮され練り上げられた死生観に触れることになる。文字がぎっしりと並び、読み飛ばすことも容易ではない。特にハードルが高いと言うほどでもないが、一般的に読みやすいとは言い難いだろう。しかしその文字の薮の中をかき分けることにさえ慣れてしまえば、これほど貴重な小説もない。中盤になって一度穏やかになると見えた流れは終盤で再び勢いを盛り返してくる。作中それほどショッキングと言うべき事柄を扱うわけではないにも関わらず、読後感は凄絶の一言に尽きる。
    一貫して反戦的立場が貫かれていることも特筆すべき点であるだろう。主人公はその中に基督教の立場を見ており、そういった意味でも興味深い作品であるといえる。
    高い描写力も然ることながら、やはり主軸に据えたテーマが素晴らしい。一定以上の年齢の人々には必読と言って良いくらいにおすすめできる1冊である。

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    2026年02月28日
  • 草の花

    Posted by ブクログ

    サナトリウム。
    私が生まれた時にはもうなかった施設だから、何かの作品を通して知ったのだろうけれど、それが何だったかは思い出せない。
    結核、消毒の匂い、死、孤独、別れ、見送る者と見送られる者。
    避けたいものばかりのはずなのに、心の奥底に憧れの気持ちがあるのは何故だろう。

    孤独と愛。
    孤独への愛。

    人は結局孤独なのだから、愛は全て独りよがりのもので。
    それなのに人は人と繋がりたいと思ってしまうし、愛について深く考え込み、何がしかの他者への行動の理由に愛を据えてしまう。
    人のもつ矛盾は全てここから来ているのではないかと思う。

    この小説を読みながら、ずっとBUCK-TICKの櫻井さんのことを思っていた。
    この小説を読まれたことはあったのかな、あったのではないかな、なくても、きっと読まれたらお好きだったのではないかな、と。
    BUCK-TICK「堕天使」の中で櫻井さんは
    「愛なんてそう幻想 ちょっと甘い香り」
    と歌っていた。
    結局、そういうものなのだと思う。

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    2025年12月11日

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