【感想・ネタバレ】ゴーギャンの世界のレビュー

あらすじ

なぜ、35歳の富裕な株式仲買人ポール・ゴーギャンが、突然、その職を投げ打って、画家をめざしたのか? 「野蛮人」たらんとした文明人、傲岸と繊細、多くの矛盾、多くの謎をはらんで、「悲劇」へと展開するゴーギャンの「世界」。著者の詩魂が、ゴーギャンの魂の孤独、純粋な情熱、内なる真実と交響する。文献を博渉し、若き日の「出遇」から深い愛情で育んだ、第一級の評伝文学。毎日出版文化賞受賞作。

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Posted by ブクログ

1298円

373p

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2026/08/19

ゴーギャンは絵より『ノア・ノア』っていうタヒチ紀行文の方が好きだな。絵よりも魅力的だと思う。アーティストが描く事実・神話・自己演出を混ぜた「タヒチという作品」なんだよね。現実のタヒチを記録するより、自分が文明を捨てて原始の楽園に入っていく芸術家だという神話を文章で作っている感じ。


福永武彦
フクナガ・タケヒコ
著者プロフィール
(1918-1979)1918年、福岡県生まれ。一高在学中から詩作を始める。東大仏文科卒。1948年、詩集『ある青春』、短篇集『塔』、1952年、長篇小説『風土』を発表、注目を集める。1954年、長篇小説『草の花』により、作家としての地歩を確立。以後、学習院大学で教鞭をとる傍ら『冥府』『廃市』『忘却の河』『海市』など、叙情性豊かな詩的世界のなかに鋭い文学的主題を見据えた作品を発表。1961年『ゴーギャンの世界』で毎日出版文化賞、1972年『死の島』で日本文学大賞を受賞。1979年、死去。

「ポール・ゴーギャン、この呪われた画家については、既に多くのことが語られている。彼の伝記は、研究が進むにつれ次第に微細な点まで明かになった。しかし現在でも尚、この画家の運命について、誤った、或いは誇張した伝説が伴っていないわけではない。彼の生涯は、単に一個の天才的画家の行動という以上のロマネスクな波瀾に富んでいるし、その絵画はエクゾチックかつ華麗な作風で、た易く素人をも惹きつけるだけの魅力を蔵している。そしてゴーギャンの場合、生涯とその作品というものが、他の芸術家以上に密接に結びついていて、僕等はしばしば彼の一枚のタブローを眺める時に、その絵の背後にある「ゴーギャン伝説」を無意識に思い浮べ、それによって一種のロマンチックな雰囲気を敢てつくり出している。このことは、芸術作品の鑑賞に当って、必ずしも最も好ましい態度ではない。我が国の私小説と呼ばれる身辺雑記的作品は、常に、背後にある小説家の私生活を思い起させるが、それは同一作者の手になる幾つもの作品を併せ読んで、漸く隠された(貧弱な)生活を瞥見させるにとどまり、一作品ごとにパノラミックな生活の展望があるわけではない。すぐれた作家に於ては、一般に、その私生活は作品の蔭に消えているものである。「印象派」の巨匠たちのうち、ピッサロにしてもドガにしてもマネにしても、僕等はその絵を知ればそれで足りる。詩人マラルメの生涯を知らなくても、その一篇の象徴詩はパノラミックに作者の精神生活を内蔵している。が、その反対に、生活が分ちがたく作品と結びついた芸術家もまた存在する。ヴァン・ゴッホやゴーギャンのような画家、ポオやボードレールのような詩人に於ては、彼等の人生に対する僕等の知識の量が増せば増すだけ、作品鑑賞の度合が深まり、感動の質が高まって行くと言えるだろう。作品を実人生以上に重く見ることは、十九世紀ロマン派の遺産であって古めかしいが、しかし作品のために一つの人生が犠牲にされたと考えることは、今でも一般にロマンチックな共感を喚ぶだろうし、人をして一種の陶酔に誘うものを持つに違いない。作品に対する理想というものがあり、その理想のために人生が犠牲にされたとすれば、たとえ作品が遂に理想に達しなかったとしても、その行為を英雄的であり、芸術至上主義的であると考えることも可能である。その意味で、生活に於ても信念に於ても、ポール・ゴーギャンは恐らく最後のロマン派だった。」

—『ゴーギャンの世界 (講談社文芸文庫)』福永武彦著

「ゴーギャンの魅力の中心をなすものは、多かれ少かれ、彼にある異常なもの、現実生活に於て見出されないもの、僕等の日常にとっての謎といった類である。それは彼の傑作の多くがタヒチ島やヒヴァ・オア島のような、未開の地方に題材を仰いでいることにも原因があるし、またそのような僻地に、自ら求めて移住したゴーギャンの生活からも生れ出ている。しかし一枚のタブローを作者の私生活から虚心に引き離して眺めたとしても、この明るくきらびやかな風景、夜でさえも華麗に彩られている南海の風景の中に、何かしら僕等を立ち止らせ、画面を注視せしめる一種の影が落ちていることに、僕等は気がつくだろう。一体なぜ画家はこういう題材を選んだのか、また如何にしてそれをこのようにえがいたのか。南の島々の風景はエクゾチックであるが、ゴーギャンがそれを選んだことは単なる旅行者の好奇心ではあるまい。その風景は彼の本質に密着し、謂わば彼の内部に存在しているようだ。彼がタヒチに行くまで、パリを中心として、ルーアンに、コペンハーゲンに、ポン゠タヴェンに、ラ・マルチニックに、ル・プールデュに放浪したのは、すべてこの内部の要求に基いている。彼がブルターニュ地方に滞在してそこに取材した作品には、既に傑れたものが多いが、しかしそれは摸索と研究との間に得られたもので、結果的に見れば、タヒチのための習作にすぎない。」

—『ゴーギャンの世界 (講談社文芸文庫)』福永武彦著

「そして彼は以後の六年間を海上で暮し、水夫や火夫や舵手を経験し、成年以後は水兵となって、その間に南米やインドやスカンジナヴィアへ行った。それは恰もボードレールが、二十歳の頃モーリス島へと旅行し、その航海の体験が、後年のボードレールの詩作を彩っているのと似てはいないだろうか。こうしてゴーギャンが二十三歳でフランスへ戻った時に、母親は既に死に、姉は嫁ぎ、彼には家庭もなく家もなかった。後見人のギュスタヴ・アローザが、彼をパリの、ラフィット街の株式仲買商ベルタンに紹介した。ここから平凡な一人の株屋の生活が始まる。」

—『ゴーギャンの世界 (講談社文芸文庫)』福永武彦著

「不意の決心というものはゴーギャンの性格の特徴だが、生活ということがどの場合にも第一に来ることを忘れてはならない。彼は芸術のために万事を放擲するような人間ではなく、何よりもまず生きることを望む人間だった。そこには夙く父親を喪った彼の独立心というものも作用している。既にこの時代までに、彼は父を、次いで母を、喪っている。嫁いだ姉も彼とは殆ど無縁になる。孤独は彼が自ら求めたのではなく、向うから彼にやって来る。そして彼が得たものは、その鞏固な独立心、生活慾、未来への楽天的な希望、そしてそこに潜在する原始生活への憧憬、こうしたものである。『海の微風』は常に彼の心の底に水夫の唄を響かせている。」

—『ゴーギャンの世界 (講談社文芸文庫)』福永武彦著

「この間の事情を明かにするために、日曜画家としてのゴーギャンの経歴をざっと振り返ってみよう。  六年間の船員生活と水兵生活との後で、母を喪ったポールがパリへ戻った時、彼をベルタン仲買店へ入れたのはギュスタヴ・アローザである。この裕福な銀行家は、嘗てフローラ・トリスタンの尊敬者だったが、美術に対してすぐれた鑑賞眼を持ち、現代絵画の蒐集家として知られていたし、そのサロンにはカミーユ・ピッサロなども招かれた。アローザのコレクションは、芸術家肌のポールの眼を開く第一のモチイフである。」

—『ゴーギャンの世界 (講談社文芸文庫)』福永武彦著

「このようにして、アローザにより絵を見る眼を、シュフネッケルにより初歩の技術を、ピッサロにより印象派の公式或いは芸術家の精神を、それぞれ訓練されたゴーギャンは、次第にその興味を本格的なものに移し変えて行く。ピッサロは素人として見どころのあるこの青年を愛して、ピガル広場のヌーヴェル・ザテーヌに連れて行った。そこは印象派同人のたまり場で、ゴーギャンはマネや、ドガや、ルノワールや、シスレイや、ギヨーマンなどを識るようになる。例えばエドワール・マネは一日、ゴーギャンの家を訪れて、壁に懸けたゴーギャン自作の絵を見た。「よく描けています。」とマネが言ったので、ゴーギャンは「僕はほんの素人ですから。」と謙遜した。マネは断乎として、「そんなことはない、素人というのはまずい絵を描く連中のことです。」と答えたと言われている。  ゴーギャンはまた印象派の絵が陳列されているデュラン゠リュエルやタンギイの画廊へも足を運び、そこでポール・セザンヌの作品を発見したりした。彼は絵を見ると共に端からすぐれた作品を買い集めたが、その蒐集はモネ、ピッサロ、マネ、ルノワール、セザンヌ、シスレイ、ギヨーマン、ドーミエなどに及び、数年経たぬうちに一万五〇〇〇フランの値打を持つようになった。それにはピッサロが、貧乏な印象派の画家たちを助ける意味合いもあって彼に蒐集をすすめたことも影響しているが、しかしゴーギャンに、鑑賞家としての眼識があったことも明かである。」

—『ゴーギャンの世界 (講談社文芸文庫)』福永武彦著

「一八七七年、結婚後四年目に、彼はアトリエの附いた前よりも大きな家に引越し、一層印象派風の絵を描き続けた。恐らくその年の第三次印象派展覧会に招待されることを予期していたのだろうが、この期待は裏切られた。彼はその代りに隣人の彫刻家ブイヨから、粘土をこねることを習い覚え、妻や子供たちをモデルにして彫刻をつくった。ゴーギャンの絵画に於ける形態の力強さ、マスの表現には、彼の彫刻技術が大きく作用して来る。  ゴーギャンが初めて招待されたのは、一八八〇年、結婚後七年目の、第五次展覧会である。これにはピッサロの尽力が与って力があったし、ドガもまた彼を支持した。モネとルノワールとはこの素人画家の出品を不満として参加しなかった。印象派同人の軋轢は漸く此処に始まっている。ゴーギャンは七点の絵画と一点の胸像とを出品したが、反響は乏しかった。批評家(同時に神秘的自然主義の作家でもある) J・ K・ユイスマンスは、この年の印象派展覧会の批評に、一行もゴーギャンに触れず、その翌年の一八八一年印象派展覧会の批評の中で、「昨年、ゴーギャン氏は初めて出品した。それは一聯の風景で、ピッサロの未だあやふやな作品を水増ししたようなものである。」(ユイスマンス『現代美術』 P. 237)と言ったにとどまる。」

—『ゴーギャンの世界 (講談社文芸文庫)』福永武彦著

「確にゴーギャンは素人の風景画家にすぎなかった。たとえピッサロが彼の出品を斡旋したからといって、ピッサロ自身も彼に画家としての将来を認めていたわけではない。ユイスマンスの評したように、彼には個性がない、上手な日曜画家というだけのことだ。モネやルノワールが彼と同席するのを潔しとしなかったのは、専門家として当然である。セザンヌも、その油絵に於ける水絵的効果、淡青色の輪廓を残したフォルムの纏めかたの秘密を、ゴーギャンが教えてほしいとピッサロを介して頼み込んだために、その厚かましさにひどく感情を害していた。芸術は自らの努力によって血涙を注いで得られるものだ。このような一般的な意見が、恐らくはメットの良人に対する評価にも現れて来ていたのだろう。風景画家としてピッサロの域を抜き得ないと感じたゴーギャンは、そこで子供たちの女中に傭われていたジュスチィヌをモデルに、新しく裸体画を描き始めた。」

—『ゴーギャンの世界 (講談社文芸文庫)』福永武彦著

「彼は収入の多い職業を自ら棄てた(但し前にも言ったように、一年間の猶予期間つきである)、がこの事務に明るい株屋が、全然無鉄砲に無一物の生活に飛び込んだとは考えられない。そこには、不幸にも誤算があった。即ちゴーギャンは、彼が絵に専心して印象派風の絵を描けば、その絵が売れる、絵を売ることで従前通りの生活が出来ると考えていたのだ。その年の夏、ピッサロがルーアンにあって好評だと聞かされた彼は、自分もそこへ行って暮したいとピッサロに頼み込んだ。ルーアンはパリよりも生活費が安いし、そこでは絵の売れる可能性が多いと見込んでいた。それ迄の貯えがあったとはいえ、長く生活を保つのに充分な筈はない。ゴーギャンは背水の陣を敷いたが、彼はまだ事を楽天的に見ていた。その年の十一月に彼はルーアンへ行き、師のピッサロとよく似た絵を描いていた。こういう方法を採る限り、師には及びもつかないことを充分に意識していなかった。翌一八八四年一月には妻子を彼の許へと呼び寄せた。」

—『ゴーギャンの世界 (講談社文芸文庫)』福永武彦著

「妻のメットが不満だったのは当然だろう。彼女は良人が芸術家だとは信じていなかった。家庭の幸福(それは経済的な基盤の上に立っている)を破壊してまで好きな道楽をしようとする良人を、自分勝手で残酷な人間だと考えた。ただもし絵が売れれば。良人は自信の強い人間だし、大丈夫だと明言している以上、ひょっとしたらその可能性はあるのかもしれない。彼女は半信半疑だったが、良人の商売人的な才能だけは認めていたのである。  ルーアンの生活は惨めな失敗だった。一枚の絵も売れなかった。ゴーギャン一家は危機に直面し、一八八四年の十一月、一家はあげてデンマークのコペンハーゲンへ移った。ベルタン仲買店の猶予期間は既に切れていた。  そこは妻メットの里であり、ヘーゴール家のような有力な後楯もある。そして何よりも、そこにはフランス印象派がまだ輸入されていないから、従って競争者もないわけだ。この処女地でなら彼の絵もきっと売れるだろう。ゴーギャンは単純にそう考えた。しかし魚が水を得たように、コペンハーゲンでは妻の権力が増大し、遂には彼が妻子を喪うに至る懼れがあることを、彼は少しも予想していなかった。」

—『ゴーギャンの世界 (講談社文芸文庫)』福永武彦著

「ポールがいつも同居を夢みていたのに反し(かの祖父アンドレ・シャザールの場合と何と似ていることだろう)、メットにしてみれば宗教的な見地から離婚しなかったというにとどまる。そこに一種の復讐の気持さえあったかもしれぬ。ヴィクトル・セガランが彼女に会った時の印象に拠れば、「ゴーギャン夫人は、一言で言えば、徳によって全く腐敗した、かつ厳格な基督教によって全く堕落した、北欧プロテスタントの完全な権化」なのである。恐らく彼女は自分を、暴君のために忍従の生活を送らせられた殉教者とでも考えていたのだろう。」

—『ゴーギャンの世界 (講談社文芸文庫)』福永武彦著

「ポール・ゴーギャンの芸術的完成は、彼の第一次及び第二次タヒチ時代に求めなければならないが、少くともその才能が独自の方向に決定づけられたのは、前にも述べたように一八八八年、彼の四十歳の時である。そこに至る自己形成の期間を、しばらく伝記的に追って行ってみよう。  一八八三年、ベルタン仲買店の職を辞した時の彼は、謂わば自由に絵を描きたいという無邪気な願望を行動に移したにすぎなかった。しかし十年間の、裕福な日曜画家としての経験よりも、覚悟をきめた短い年月の方が、遥かに芸術家としての眼を内部に見開かせるだろう。それまでに習い覚えた印象派的技術とは違った、もっと内部的な衝迫として誕生すべき技術が必要なことに、彼は既に気がついている。コペンハーゲンにあった時に、彼は早くも、勤めの上でも絵の上でも彼の長年の同僚だったエミル・シュフネッケルに宛てて、次のように書き送っている。「久しい以前から、哲学者たちは超自然的に見える現象を論じて来た。にも拘らず、我々は超自然なものについての感覚を持っている。この感覚なる語の中に一切がある。ラファエロとその一派は、物を考えるよりも以前に、感覚が明かに浮び上って来た連中だが、研究に研究を進めても決してこの感覚を破壊してしまうことがなかった。それで芸術家として大成したのだ。私にとって、偉大な芸術家とは偉大な理智の方式化されたものだ。それを通して感情が生れ、頭脳による最も繊細な、従って最も肉眼に見えぬものの翻訳が生れて来るのだ。」

—『ゴーギャンの世界 (講談社文芸文庫)』福永武彦著

「「自然のなす大いなる創造を見たまえ、そうすれば君は、外見は全く別個の、しかも効果に於ては同じに見える様々の姿かたちを以て、すべての人間感情を創りあげるために、何等特定の方則というもののないことが分るだろう。大きな蜘蛛を見る、森の中で大木の幹を見る、そのどっちもが君にはなぜだか分らないのに、強烈な感覚を惹き起す。なぜ君は鼠とか、それに似た多くのものに触るのが厭なんだろう。こうした感情の前に理窟は立たない。我々の五感は直接に頭脳から来る。それは数限りない物ごとに印象づけられたもので、如何なる教育も奪うことの出来ないものだ。」( 14/ 1/ 1885)」

—『ゴーギャンの世界 (講談社文芸文庫)』福永武彦著

「「親しいメット。私は木曜日にポン゠タヴェンに出発する筈だ。今、平静な気持でお前に返事を書きたいと思う。明かに冬の長い国は私の健康にとって面白くないのだし、私はどうしても七八ヵ月は、その国とその住民との性格の内部に没入して仕事をしなければならないのだ。それが良い絵を描くためには重要なことだ。この点に関して、お前の手紙はお前の中に常に壁があること、率直に言って、どの中産階級の婦人にも見られるような壁があることを私に教えた。社会には二つの階級がある。一つは生れながらにして財産を持ち、金利生活者とか、会社の高級職員とか、自分の店を持つ商人とかになることを許されている階級だ。しかし財産を持たぬもう一つの階級は、一体どうやって暮して行けばいいのか。それは自分の労働が実らせた果実によってだ。前者に於ては、仕事(会社でも商売でも)の上で長らく辛抱しさえすれば、多かれ少かれ人並の結果を得ることが出来る。後者では、独創的な創造精神(美術や文学や)は、確に長くはかかるだろうが、独立した、成果の多い地位を得るに至るのだ。(……)」

—『ゴーギャンの世界 (講談社文芸文庫)』福永武彦著


「「友よ、ここに同封した手紙を読んでみて下さい。そしてポールの住所へ廻して下さい、私は番地を忘れてしまったから。私はポールに稀にしか手紙を書きませんし、一層稀にしか彼のことを考えもしません。しかし彼がお金を握ったことを私が知った時に、あの人には五人の子供があり、私ひとりではとてもやって行けないことを、あの人に思い出させるのは私の義務だと思うのです。ああもしも私に、親切にして下さるお友達の方々がなかったなら、私はどうなっていたでしょう!  本当ですわ!  でもポールが悪人じみたエゴイストであると考えるたびに、私の心は苦悩でいっぱいになってしまうのです。私はこんなことは今迄に一度も見たことも聞いたこともありません。けれどもこんな愚痴をこぼすのは宜しくありません。私はパリにいずに此処にいるということで幸福なのですから。ただ私の子供たちが、いつの日にか彼等の父親を恥ずかしく思うでしょうし、それがあの子たちにとって辛いことになるでしょう。……」」

—『ゴーギャンの世界 (講談社文芸文庫)』福永武彦著

「三年後の一八九四年、タヒチからパリへ戻ったゴーギャンは、個展のために自分の作品を買い戻そうと思い、特に嘗ての所有だったセザンヌを惜しんでメットにその旨を書き送ったが、ブランデスによって手厳しく拒絶された。ブランデスは次のように書いた。「私はこの二年ばかりの間に、メットから一万フランばかりの絵を買いました。従って今やささやかなコレクションを形ちづくっています。私はそれが好きですし、どんな値段ででも手放すつもりは毛頭ありません。あなたの芸術家的気紛れは私にもよく分りますが、あなたの頼みが全く度が過ぎたものであることは、あなたにもお分りでしょう。」ゴーギャンは相手が単にメットを助けるために、謂わば担保代りに絵を買っていたものと信じていたのだが、この手紙であっさり諦めた。「芸術家としての挨拶を送る」というような返事を書いている。しかしブランデス以外にも、メットは多くの人に絵を売っただろう。ゴーギャンの作品に限っても、コペンハーゲンで売り払われた作品は意外に多く、現在、コペンハーゲンやストックホルムの美術館は、フランス、イギリス、アメリカ、ソヴィエトなどに劣らない程のゴーギャンの作品を収めている。」

—『ゴーギャンの世界 (講談社文芸文庫)』福永武彦著

「ゴーギャンは猛然とその仕事を始めた。彼は自分の小舎を、マネ、シャヴァンヌ、ドガ、レンブラント、ミケランジェロ、ホルバインなどの複製、子供等の写真、またルドンから貰った油絵などで飾った。これは彼のヨーロッパである。小舎の近くでは原住民たちが、或いは斧で樹を切り倒し、或いは網で魚を捕えて生活している。手始めの仕事は、まず彼の周囲の一切をノオトやクロッキに取ることだった。「今日まで、私はまだ目立った仕事を何もしていない。私は、自分自身の内部を探ることで満足している、自然をではない、そして少しばかりデッサンが出来るようになったことで満足している。ただデッサンばかりだ。それから、いずれパリで描くための資料を寄せ集めている。」(モンフレー宛て、 11/ 1891)従って到着後半年経っても、彼はまだ、本格的な仕事に取掛っていなかったのだし、彼の中に「いずれパリで」仕事をする気持、つまり材料を漁りに来た旅人の気持があったことを忘れてはならない。彼の夢想がタヒチに於て実現したとはいえ、それはやはり一種のエクゾチスム、嘗てのブルターニュやラ・マルチニックと格別変ったことはなかった。問題は如何にして彼がタヒチに捉えられ、次第に深みにはまり込み、遂にそこから逃げられなくなったかという点にある。ゴーギャンがタヒチを摑んだのではなく、タヒチの方が彼を摑んで離さなくなった点にある。その重要な因子の一つは女である。」

—『ゴーギャンの世界 (講談社文芸文庫)』福永武彦著

「これらの絵画作品の説明は次章に於て試みるからここには触れない。要するにテフラが彼の霊感を著しく刺戟したことを強調すれば足りよう。早くも翌一八九二年五月のメット宛ての手紙には、「私はこの十一ヵ月間に効果的な仕事をし、かなり大事な作品を四十四点仕上げた。一年間に少くとも一万五〇〇〇フランを稼いだわけだ、買手がつけばの話だが。」と書いている。しかし実際には買手なんかつかなかったし、楽観的な予想を裏切って彼の貯えは日に日に尽きて来た。加えるに病気になった。一八九二年三月にはモンフレーに宛てて、「私は全くかなり重い病気だった、──考えてもみてくれ給え、日に四分の一リットルも血を吐くのだ、──どうしても止らない、両脚に芥子泥を塗布したし、胸には吸い玉をかけたが、どうにもならないのだ。病院の医者はひどく心配して、私がもう駄目だと思ったらしい。」と書いている。その二週間後にはポール・セリュジエに宛てた次の手紙がある。」

—『ゴーギャンの世界 (講談社文芸文庫)』福永武彦著

「そのマラルメの詩風から見れば、ゴーギャンは全く異質的で、そこに相容れるものは何もない。ゴーギャンは色彩を愛し、それも華かな、混りけのない赤や緑や黄の原色を愛した。彼に於ては、すべての色彩が交響曲的に鳴り響き、白と黒とのトーンなどというものはどこにもない。彼の場合、モノクロームの版画でさえも、それは背後の色彩を感じさせる。(現に『ノアノア』の版画を見ると、彼はしばしばその上に薄い彩色を施している。)従ってマラルメがタヒチ作品を評して、「これほどの輝きの中にこれほどの神秘を置く」と言ったのは、お世辞抜きの実感であったに違いない。マラルメにとって、神秘とかニュアンスとかいうものは、白と黒との微妙な色調の中にあるべきで、極彩色の絵模様の中にあるべきではなかった。しかしゴーギャンの絵の中には紛れもない神秘が息づいているのだ。それはマラルメの内部のエクゾチスムを、烈しく揺すぶったであろうと思われる。」

—『ゴーギャンの世界 (講談社文芸文庫)』福永武彦著

「この、映像を喚起し、主題を暗示するという方法は、もとよりボードレールに始まっている。そしてボードレールの思想も、特に美術批評家としてのボードレールの思想も、ゴーギャンの上に影を落していないわけではない。しかしこの一八九一年に直接にマラルメの話を聞き、マラルメ的美学の洗礼を受けたゴーギャンが、詩に於ける象徴主義の方法を、絵画の上に試みようとしたことは必然の成り行きだったと僕は思う。タヒチ時代の彼の作品を、それ以前のブルターニュ時代のそれと区別する特徴の一つは、明かにこの方法である。しかしこの変化は、マラルメによって突然変異として起ったのではなく、ゴーギャンの中にひそかに育まれていたものが、タヒチの自然に於て、マラルメの記憶と共に、明瞭化されたと言う方が正しい。詩と絵画とは同じではないし、ゴーギャンは文学的象徴主義から一つの教訓を得たにとどまる。それを絵画的象徴主義に転化するには、彼自身の当然の努力を必要とした。」

—『ゴーギャンの世界 (講談社文芸文庫)』福永武彦著

「『ノアノア、或いはタヒチ紀行』は、一八九一年六月八日、ゴーギャンがタヒチに到着するところから、一八九三年五月、タヒチを出帆する迄を描いた、二年間にわたる滞在の記録である。しかし既に前章に於て述べたように、それは必ずしも事実に忠実な記録ではない。書かれたことは事実に近いかもしれないが、書かれなかったことも亦多い。主人公である「私」は、実際のゴーギャンに較べて遥かに省略され、美化されているし、彼の新しい内的体験は詳しく説明されているとはいえ、例えば彼の病気とか、貧困とか、妻との葛藤とか、画商たちとの交渉とか、そういった現実面の苦しみはことごとく抹殺されている。ここに描かれたのは、「すべてが美しい時に、すべてはよい、」という牧歌的な記録である。楽園としてのタヒチとその風習、一人のヨーロッパ人と原住民の少女との夢のような生活、絵画的主題、文明人の眼に映った未開の、野蛮な美とその解釈、などである。要するにここにあるのは詩であって真実ではない。というよりも、これは一つの詩的な真実、理想化された、エクゾチックな真実なのである。「私」は旅人としての眼で風景や人物を見ている。彼は結局に於て、タヒチの真の生活の中に身を委ねることが出来ない。真実のタヒチはもっと醜悪であり、楽園の一種の代用品、つまりは植民地というにすぎない。彼はそのことを、第二次のタヒチ滞在に於て理解するだろう。しかしこの時は、彼にとって(今迄の夢想の実現として)タヒチは美しく、かつ詩的であらねばならなかった。つまり彼はタヒチに賭けたのだから、この賭に勝たなければならなかった。必然的に『ノアノア』は、未開の美という主題を持ち、それを暗示的に喚起するという方法を持つ。この場合に、作者であるゴーギャンが完全に対象を知悉して、その幾分かを示すことによって主題を提示したというより、彼が対象を不完全にしか知らなかったために、主題は暗示的にしか示されなかった、その他には方法がなかった、と言うことが出来る。つまりは怪我の功名である。しかし一人のヨーロッパ人にとって、このような方法による以外に未開人を捉え得ないことは、シャトーブリアンや、ロチや、メルヴィルや、スチヴンスンや、モームなどの作品が証明している。『ノアノア』の場合にも、作者が対象を熟知できなかったことから生じるもどかしさが、一種の神秘となって、この作品の魅力をつくっていると言うことが出来よう。」

—『ゴーギャンの世界 (講談社文芸文庫)』福永武彦著

「再びタヒチに渡ってから、ゴーギャンとモリスとの仲は次第にまた悪化した。約束通りに『ノアノア』が出ないことも、ゴーギャンを憤慨させたに違いない。それが漸く日の目を見たのは、一八九七年十月十五日号の「ルヴュ・ブランシュ」誌で、それもごく一部にすぎなかった。(リストの )「私はモリスからほんのひと言ふた言の便りを貰ったが、それによれば私の本は「ルヴュ・ブランシュ」に発表され、それから一巻に纏められるそうだ。そこで済まないが編輯長に会いに行って、雑誌と単行本との印税はどうなるのか調べてもらいたい。特に印税はモリスに払わずに、出来る限り早く私に送るよう編輯長に頼んでくれ給え。」(モンフレー宛て、 11/ 1897)これは雑誌発表と入れ違いになった手紙だが、ゴーギャンが「私の本」と言っているところに注意したい。実際にはこの雑誌所載のものも、またその単行本出版である一九〇一年のラ・プリューム版(リストの )も、その内容は寧ろモリス版とも称すべき位で、モリスが勝手に文章を按配し粉飾している。ゴーギャンがその出来栄えに不満を持ったことは想像に難くない。しかも単行本の方は遅延に遅延を重ねた。漸くそれが出版された時に、モリスはゴーギャンに宛てて、「私の『ノアノア』を自費で出版したところです。簡素な小さな本です。(……)この本をどう思うか意見を聞かせて下さい。物質的には全く大したことはありませんでした、それは承知です。これが私には精いっぱいでした。ただ文学的見地に立って、あなたの意見を知りたいのです。……」( 22/ 5/ 1901)というような手紙を書いた。それに対してゴーギャンは、「全くの季節外れとなった『ノアノア』の出版は、今日の私にとって何の関心をも喚び起さなかったことを告白する。一体何で私に百部も送ってよこしたのだ。此処では焚きつけに使う位のものだ。」( 7/ 1901)と手厳しい返事を書いている。」

—『ゴーギャンの世界 (講談社文芸文庫)』福永武彦著

「  A「私は仕事を始めた、あらゆる種類のノオト、クロッキ。風景の中の一切のものが、私を盲にし、私を眩惑した。ヨーロッパから来て、私は色彩に関して常に不確かだったので、正午から十四時まで探し求めた。けれどもそれは実に簡単で、当然のことだがカンヴァスの上に赤と青とを置けばよかった。せせらぎでは黄金色の形態が私を魅了した。私のカンヴァスの上に、あらゆるこうした黄金を、あらゆる太陽の歓喜を迸らせることに、どうして私は躊躇したのだろう。恐らくはヨーロッパの古びた風習だ、堕落した我々民族の持つ、表現へのあの臆病さだ。」(ゴーギャン自筆ノオト、 f. 8)   B「私は仕事を始めた、あらゆる種類のノオトとクロッキ。しかし風景は、その明確な、燃えるような色彩によって、私を眩惑し、私を盲にした。その頃私は常に不確かだったので、正午から十四時まで探し求めた。しかしそれは実に簡単で、私は見たままをえがき、私のカンヴァスの上に、何の計算も無しに、赤や青を置けばよかった。せせらぎでは黄金色の形態が私を魅了した。私のカンヴァスの上に、あらゆるこうした黄金を、あらゆる太陽の悦びを迸らせることに、どうして私は躊躇したのだろう。──ヨーロッパの古い因襲だ、頽廃した民族の表現への臆病さだ!」(ゴーギャン自筆清書版二章、 P. 43、定本では P. 46)」

—『ゴーギャンの世界 (講談社文芸文庫)』福永武彦著

「 キリスト教的な意味での宗教画は、既にブルターニュ時代、一八八八年代に於て、ブルターニュ風俗と結びついて描かれていた。そのような題材の選びかたに、マドレーヌ・ベルナールへのプラトニックな愛情があったのではないかと推察したが、ゴーギャン自身のうちに宗教的傾向があったことは否むことが出来ない。ここに言う宗教的とは生得のもので、無神論者であったり、宗教に反逆したりしても尚人間は宗教的であり得る。ドストイェフスキイやボードレールの場合はその例だと言い得よう。ゴーギャンはキリスト教に対して格別の関心を持たなかったし、妻のメットの北欧的プロテスタンチスムに、一種の反感を持っていたことは明かである。しかも彼はブルターニュ時代に、『ヤコブの天使との闘い』や、『黄色いキリスト』や、『キリスト磔刑像』のような作品を作った。従ってこれらの作品は、宗教的というよりも神話的であり、信仰的というよりも民俗的であるように見える。それはブルターニュ地方の古い習俗と切り離しては考えられないような、一種の宗教的作品と呼ぶ他はない。」

—『ゴーギャンの世界 (講談社文芸文庫)』福永武彦著

「 タヒチへ送金〔帰国のための借金〕  四〇〇フラン「お前にこうした勘定書を送らなければならないとは不思議な話だ。(……)「その時が来たら、ごく必要なものを購うための一〇〇〇フランをお前に送ろう。私の個展が済んで幾らかでも稼げるようになったら(せっつかれなかった場合に)、額に応じてお前を助けよう、しかしお互いの予算がどういうものかはきちんとする必要がある。従ってお前の売った絵に関して、正確に報告してもらわなければならぬ。二月ごとにきちんと勘定がつくなら、私は私のなすべきことをしよう。この義務のためには、いいか悪いかをきめるのは私ひとりだ。「誰にだって分ることなのだから、お前にも分ってもらう必要がある、私がごまかされずにちゃんとした報告を受けなければならないことを。」

—『ゴーギャンの世界 (講談社文芸文庫)』福永武彦著

「この決心は単なる一時的な失望に基いたものではない。彼はフランスに帰って、真にタヒチを、タヒチの良さを理解した。彼は文明国にあって、かえって自分が異邦人にすぎないことを知ったとも言える。此処には生活がなかった。職業としての絵画を取り巻いて、画商や画家や素人や弥次馬がいた。流派もあれば展覧会もあり、巨匠もいれば画学生もいた。しかしゴーギャンの欲していたものは、彼個人の自由な生活であり、その生活から溢れ出して来る芸術、つまり何物にも拘束されない純粋芸術だった。彼はもう前のように若くはなかったし、夢想の限界もよく知っていた。しかし彼が自分自身に忠実であるためには、どうしてももう一度タヒチへ行って、彼の芸術を試みないわけにはいかなかった。以前の経験によって、タヒチは今や植民地にすぎず、文明人がそこで生きて行くためには、原住民のように裸のままで暮し、斧とカヌーとを持って樹を切ったり漁をしたりすれば足りるものではないことを、彼は百も承知していた。貧乏になれば食うものもなく、病気になれば病院にはいる費用が要ることも、もとより承知だった。しかし彼はやはり決心したのだ。ここにあるものは最早エクゾチスムではない。もっと内心の欲求、自己の生活をいまだ摑んでいないことへの不満、そしてヨーロッパ的な倦怠であろう。野心もあったし、芸術的な主張もあった。しかし一番強かったのは、母国へ帰っての異邦人としての感情だったように思われる。」

—『ゴーギャンの世界 (講談社文芸文庫)』福永武彦著

「「ヨーロッパに於ては、男女間の結合は愛の結果である。オセアニアに於ては、愛とは交合の結果にすぎない。どちらが正しいか。「己れの肉体を与える男もしくは女は、小さな罪を犯したものだ。しかしそこには尚論議の余地がある。どんな場合にも、罪は、この世に於ける最も美しい行為である創造によって、充分に贖われる。それが創造主の作品の延長であるという意味で、創造は神の行為である。」

—『ゴーギャンの世界 (講談社文芸文庫)』福永武彦著

「これは文明に対するゴーギャンの呪詛の一つの表現であろう。『アリーヌのための手帳』はこうした感想で埋っているから、必ずしもアリーヌを(彼は子供の時の彼女しか知らないのだから)念頭に置いて書かれたものではない。それはまさに彼自身のために書かれている。しかしゴーギャンが絶えずその娘を身近に感じることで、タヒチの孤独な生活の慰めとしていたことは明かである。彼は子供たちからの手紙を常にどれほど待ち受けていただろう。パリに帰った一八九三年の冬、メットからの手紙に同封されていた子供等の便りを、どんなに彼は貪り読んだことだろう。彼はアリーヌに宛てて返事を書いているが、その中に、「お嬢さんは舞踏会に行く。お前はダンスが上手かしらん。」という一行がある。また、「私の可哀想な子供たちよ、お家にお金がたくさん無いからといって、どうかお前たちの父親をあまり怨まないようにしておくれ。いつか恐らく、お父さんはこの世で一番いい人だとお前たちの知る日が来るだろう。」とも書いている。」

—『ゴーギャンの世界 (講談社文芸文庫)』福永武彦著


「純粋さという点で、ゴーギャンが彼の理想とした芸術に寄せた熱情には、まやかしのところは少しもない。彼は十九世紀の最後のロマン派らしく、ひたむきに行動し芸術に殉じた。しかしヴァン・ゴッホのように純粋だったか、セザンヌのように純粋だったかと言われると、やや躊躇を覚えざるを得ない。師のピッサロから山師あつかいされただけのものが、ゴーギャンになかったわけではない。そもそもの初め、彼が日曜画家をやめて一人立ちの画家たろうとした時に、彼はそれを生活の手段としての職業と考えていた。絵を描くことで妻子を養いたいという希望がそこにある限り、絵を描くことの他に何も考えなかった、印象派の他の純粋な画家たちよりも、多少とも俗っぽく見えたことはいたしかたがない。しかしそれだから彼の動機が不純であり、彼の芸術家としての心構えが不足していたと言い切ることは出来ないだろう。」

—『ゴーギャンの世界 (講談社文芸文庫)』福永武彦著




「我々は美術に於て、物理学や、実験化学や、自然探求によって惹き起された、長い錯乱の時代を堪え忍んで来た。美術家たちは彼等の野蛮性をすべて喪い、最早本能を持たず、(想像力を持たず、とも言い得る)生産的要素を見出そうとしてあらゆる迷路をさ迷い、肝心の創造力を所有していなかった。従って、恐怖を感じながら無秩序な団体として行動するばかりで、個人として行動する際には茫然自失する有様だった。その故に、誰に対してでも孤独をすすめるということをしてはならない。というのは、孤独に堪え単独で行動するためには、力が必要であるからだ。従って私は、誰も私に何一つ教えてくれなかったと言うことが出来る。確に、私はほんの僅かのことを知るばかりだ!  しかしこのほんの僅かは私自身が生み出したものだし、私はそれが好きだ。しかもこの僅かのものが、他の人たちの手で更に開拓され、いずれは偉大な成果を収めないと、誰が言えるだろう。進歩のうわべだけを創り出すために、何と幾世紀も過ぎ去ったことだろう。」( 4/ 1903)」

—『ゴーギャンの世界 (講談社文芸文庫)』福永武彦著


「原始美術、或いは未開美術は、二十世紀になってから急速に注目を浴びつつある。特にアフリカとオセアニアの未開人の制作は、あらゆる文明人が嘆賞を惜しまないものだ。世界の隅々から蒐集されて来た作品は、博物館に陳列され、或いは複製写真による書物の形態で、瞬時に文明人を異質の時間の中に連れ込んでしまう。それは呪術と死と欲望との芸術である。本能によってつくられたものだが、しかも技術がそこに伴わないわけではない。アマチュアの芸術という言葉があっても、これら未開人の作品はアマチュア的ではない。それらは伝統的であり、形式的であり、かつ純粋に精神的である。彼等の作品は、彼等の魂を抜きにしては考えられないから、しばしば文明人のつくった、小手先だけ技術だけの腑抜けの作品と較べると、遥かに芸術的なのだ。しかし未開人は芸術的であろうとして、作品をつくるわけではあるまい。だいたい作品というような呼びかたがおかしいので、仮面にしても、トーテムにしても、神像にしても、織物にしても、或いは食器や釣の道具などにしても、すべて実用品なのである。ただこれらの実用品には、彼等が祖先から継承した魂が封じ込められていて、謂わば野蛮な魂の形象化されたところに、僕等の測り得ない神秘と謎とを見ることが出来る。それらが芸術であるのは、感嘆する僕等の側、つまり鑑賞者である文明人の側にある。作品そのものは、制作者の側から言えば、単なる実用品にすぎない。」

—『ゴーギャンの世界 (講談社文芸文庫)』福永武彦著

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2026年08月23日

Posted by ブクログ

ゴーギャン関連の本をいくつか読んだが、この本がもっともすぐれた内容だった。ゴーギャンの心理にわけいり、深い考察を繰り広げる。福永武彦らしい、リリカルな表現のつみかさねで、ゴーギャンの謎に迫っていく。また読み返した一冊だ。

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2012年06月11日

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