【感想・ネタバレ】古今和歌集 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典のレビュー

あらすじ

春夏秋冬の四季や恋といった自然や人事を詠んだ歌を中心とした、日本の風土に根ざす約一一〇〇首の中から、これだけは読んでほしい、味わってほしい和歌を選び、巻順に配列。歌はすべて振り仮名付きで朗読にも最適。
※本作品は紙版の書籍から口絵または挿絵の一部が未収録となっています。あらかじめご了承ください。

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199P

小野小町

レズビアンってめちゃくちゃ美人たまにいるから、世界三大美女の小野小町がレズビアンでも驚かない。

日本古典文学読みながら、レズじゃね?って女探すの楽しい。今の所、紫式部と小野小町がレズだと思ってる。

吉野山は今は桜のイメージだけど昔は雪の名所だったらしい。

「【訳文】  和歌は、人の心を種として、それが生長して様々な言葉になったものである。この世の中に生きている人は、関わり合いになる出来事や行動が多いので、それらについて心に思ったことを、見るものや聞くものに託して、言葉で表現しているのである。花の枝で鳴く鶯や、川に住む河鹿蛙の声を聞くと、いったいどんな生き物が歌を詠まないだろうか。いやすべての生き物が感動して歌を詠むのだ。力を入れないで、天と地を動かし、目に見えない恐ろしい神や霊を感動させ、男女の仲を親しくし、勇猛な武士の心を慰めるものは、やはり歌なのである。」

—『古今和歌集 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』中島 輝賢著

「【コラム】  勅撰集  天皇の命令を勅という。つまり勅撰集というのは天皇(あるいは上皇)の命令で編纂された詩歌集である。文芸を通じて、天皇と臣下が理解し合い支え合うべき存在となるという君臣和楽の思想によって生まれた。  勅撰和歌集は『古今和歌集』を最初として、『拾遺和歌集』までを三代集、『新古今和歌集』までを八代集といい、最後の『新続古今和歌集』までを総じて二十一代集という。  編集を担当する撰者は当時最高とされる歌人が務めるが、人選に異論が出されることもあった。また天皇や上皇が自ら編集する場合は親撰という。  勅撰集に歌を選ばれることは、歌人にとって最高の栄誉であった。」

—『古今和歌集 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』中島 輝賢著

「【訳文】  春日野の飛ぶ火野の番人よ、外に出て野原の様子を見てみろ。もう何日かたったらきっと若菜を摘もう。【寸評】  春日野は奈良市郊外の地名で、『万葉集』の時代から若菜摘みの名所であった。飛ぶ火野という呼び方は、飛ぶ火(烽火)が設置されたところからいう。  若菜摘みは、春の初めに芽を出した若菜を摘んで食べる行事。冬を乗り越えた植物の生命力を、食べることで自分の体内に取り入れる日本古来の民間行事が宮中に入ったもので、正月最初の子の日に行なった。現在の七草粥を思い浮かべるが、それは中国の行事を導入したものである。延喜十一(九一一)年正月七日が最初の記録で、『古今和歌集』成立後なのでこの歌の若菜とは違う。  しかし、人々が若菜摘みに寄せたのは、単なる行事や食欲・健康などへの興味だけではないようだ。若菜を食べる人への愛情や、若菜摘みをみやびな行事ととらえる感覚を背景として踏まえないと、この歌の若菜摘みに対する期待感、ワクワクした気持ちは分かるまい。」

—『古今和歌集 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』中島 輝賢著

「【コラム】  梅の香と桜  皆さんは春の花というと何を思い浮かべるだろうか。  現在では断然サクラが人気だろうが、奈良時代はそうではなかった。『万葉集』では、ウメが最も多く歌われており、九州の大伴旅人の屋敷における梅花の歌はとても有名である。けれどもこれは、中国において梅が文学の題材としてもてはやされており、その影響と考えることができる。一方、サクラは『万葉集』には数えるほどしかない。  ところが平安時代になると一変する。『古今和歌集』においては、春だけでなく、あらゆる花の代表がサクラとなる。またウメも、それまでの花の咲き散る様子よりも、薫香が中心として読まれるようになる。視覚から嗅覚へ、歌人たちの感覚の鋭さは増していくのであるが、これも『白氏文集』など、漢詩文摂取の賜物であった。  これは単なる中国の模倣ではなく、文化の受容性の高さと評価すべきであろう。」

—『古今和歌集 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』中島 輝賢著

「【寸評】「桜の花のちるをよめる」という詞書から、桜の花だということが分かるのだが、『百人一首』(三三)にも採られており、和歌の歴史を代表する桜の名歌といってよい。  桜の花を擬人化しているのだが、それが自然であるために、散る理由を求める態度が理屈っぽくは感じられない。風もない春の穏やかな日差しの中でチラチラと散る桜がイメージされ、静謐な耽美をもって表現された一幅の絵画のような印象を与える歌である。  同じような発想に、次の二首がある。三首の中で、成立は業平の歌が最も古い。友則と貫之はそれを知ってそれぞれの歌を作ったのだろうが、こちらの二首はどちらが古いか分からない。    世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし  (五三  在原業平)      (世の中にもし全く桜の花がなかったら、〈散る心配もなく〉春の気持ちはのどかであろうに。)    ことならば咲かずやはあらぬ桜花見る我さへにしづ心なし  (八二  紀貫之)      (同じことなら咲かないでいろ。桜花よ。見る私にまで落ち着いた心がないのだ。)  どれがあなたの好みだろうか。色々と比較してみるのも楽しいものだ。」

—『古今和歌集 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』中島 輝賢著

「【訳文】  秋が来たと目にははっきり見えないが、風の音によってハッと気づいたことだよ。【寸評】  詞書に立秋に詠んだとある。暦の上での秋の到来であるが、視覚ではなく聴覚によって確認したところに特徴がある。  視覚的な秋の景物はもちろん紅葉であろう。また聴覚的には、蟋蟀・松虫などの秋の虫や雁・鹿があげられる。それにくらべると秋風は地味だ。しかし季節というのはこのような非生物的現象がまず変化し、それに生物が反応してその季節らしさが深まるものである。したがって秋風に気づいた感覚の鋭さ・細かさはやはり評価にあたいするものなのだ。  京都の夏は暑い。実感としても秋風は待ち遠しいものである。」

—『古今和歌集 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』中島 輝賢著

「【寸評】『百人一首』(二九)にもはいっている名歌である。  菊は中国から輸入されたもので、奈良時代の『万葉集』では詠まれていない。これも本来は中国のものであった重陽宴(旧暦九月九日に菊花を浮かべた酒を飲み長寿を寿ぐ宴)が年中行事として日本に定着するとともに、菊合(一種の菊の品評会で、左右に分かれて菊花の美しさを競う行事)なども行なわれるようになり、この時代にはよく和歌の題材となった。現在でも「菊」が名前に入った日本酒が多いのは重陽宴の影響である。また当時は色が移ろった菊も好まれたが、この歌では純白である。  秋も深まった早朝の光の中で、初霜の白さと菊花の白さが渾然一体となっている。その白さは純粋で、他を寄せつけないような、触れてはいけないような崇高な雰囲気がある。だからこそ、多少乱暴でも当てずっぽうに折らない限り、この手に入れようと思えないのではないだろうか。」

—『古今和歌集 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』中島 輝賢

「【コラム】  菊  菊は秋を代表する花だが、日本に初めからあったのではなく、中国から輸入されたものである。奈良時代以前に既に渡来したが、なぜか『万葉集』には菊の歌が一首もない。『懐風藻』などの日本漢詩にあらわれるのは中国文学の影響として、和歌では『古今和歌集』から盛んに詠まれるようになる。これは『古今和歌集』成立直前の宇多朝において、菊が流行したことによるのだろう。  また菊といえば、重陽宴には欠かせないものである。重陽宴は九月九日に、長寿を願って行なわれ、菊の花弁を浮かべた菊酒を飲んだり、女性は菊花においた露を綿に含ませて肌をぬぐったりした。菊には不老長寿をもたらす力があると信じられていたのである。  ちなみに現在日本酒の銘柄に「菊」がつくことが多いのは、こんなところに由来するのであろう。」

—『古今和歌集 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』中島 輝賢著

「(三二七)壬生忠岑【原文】  み吉野の山の白雪踏み分けて入りにし人のおとづ〈ズ〉れもせぬ【訳文】  吉野の山の白雪を踏み分けて、山に入っていった人が、手紙もよこさないなあ。【寸評】  奈良県にある吉野山は現在は桜の名所として有名だが、当時は雪深いイメージの方が強く、山岳信仰の対象で、神秘さと厳しさを合わせ持った土地であった。そのような雪深い吉野山へわざわざ分け入っていく、知り合いの修行者への思いを詠んだ歌である。  したがって「おとづれもせぬ」というのは、修行者の自分に対するつれなさを嘆いているというよりも、世を遁れて仏道修行に専念する相手への尊敬や吉野山の厳しい自然環境を気遣っている表現と理解するのがよい。  それでも相手への思いの強さから、後世には遠距離恋愛や別れた恋人への思い遣りを詠んだものと読み替えられるようになり、例えば『義経記』では、兄の源頼朝に追われる義経を思い遣る恋人の静が、自らの思いを表現する歌として使用されている。  吉野山に入っていく相手の姿は、様々なイメージを膨らます浪漫的な要素を内包していたのであろう。」

—『古今和歌集 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』中島 輝賢著


「【コラム】   風歌  平安時代の日本建築には、後の時代のように障子や襖がなかった。そこで広い部屋を様々な道具で仕切って使っていた。その道具の代表的なものが屛風である。つまり屛風は、当時の生活には欠かせない道具だったのである。  屛風の形には様々あるが、折り曲げられる六つの面(一つ一つを扇という)を持つ六曲屛風が基本的なものである。そしてその画面には、早くは唐絵と漢詩が書かれたが、和風化するに従い大和絵と和歌が書かれるようになった。  このように屛風に描かれた絵を屛風絵といい、屛風絵とともに書き付けられたり、屛風絵を題材に詠まれた歌を屛風歌という。『古今和歌集』成立前後は、この屛風歌が盛んに製作されていく時代であり、紀貫之はたくさんの屛風歌を残している。」

—『古今和歌集 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』中島 輝賢著


【コラム】 夢 〈夢〉と〈うつつ〉(現実)。〈うつつ〉がままならないからこそ、〈うつつ〉への認識が〈夢〉の対し方へとあらわれる。恋における〈夢〉は、〈うつつ〉では逢えない相手と逢うというテーマがほとんどである。そして古代の考えでは、霊魂が身体を抜け出して相手に逢いにいくとされている。したがって、〈夢〉で相手に会うことは、相手が自分を思っているからであると理解された。  嫌いな人を夢に見たといって喜ぶ人はいない。そこで、相手が自分の夢に現れれば、ほとんどの場合、両思いということになる。そして好きな人を夢に見る、あるいは好きな人の夢に出るために、色々なおまじないがされた。それには、「夜衣を裏返しに着る」・「袖を折り返す」などがあった。  しかし一方で現代の我々の理解と同様、自分が相手を思うからこそ相手が〈夢〉に現れるという新しい考え方も出てくる。どちらにしても〈夢〉を題材にした恋歌には、ままならない〈うつつ〉ゆえに、はかない〈夢〉へ寄せるしかすべのない思いのせつなさが込められている。次の歌などは、大仰ではあるが、ひとつの極限的な精神状態を表現しているといえよう。   命にもまさりて惜しくあるものは見果てぬ夢の覚むるなりけり (六〇九 壬生忠岑)    (自分の命よりも惜しいと思われるものは、いつまで見ても見果てることのない、あなたとの逢瀬の夢が覚めてしまうことだなあ。)

「(五八八)紀貫之【原文】  越えぬ間は吉野の山の桜花人づてにのみ聞きわたるかな【訳文】  越えないうちは、吉野の山の桜の花は人づてに噂を聞き続けるばかりだなあ。【寸評】  詞書から、大和国(今の奈良県)に住んでいた女性に贈った歌だということが分かる。もともと紀氏は紀伊国(今の和歌山県)と関係が深いから、平安京からも行き来があったであろうし、貫之が官人として畿内を旅行していることは他の歌からも明らかであるから、大和を通りかかった時に、噂を耳にした女性なのだろう。また、彼の実際の人生における恋愛の詳細は分からないことが多く、この歌はその点でも資料として貴重である。  女性を桜に喩えるのは、この歌が作られたのが春だからだろう。そして桜は美しさばかりでない。「聞きわたる」とあるから時間の経過が表現されているが、その一方で桜のはかなさが連想され、散る前に女性と逢いたいというはやる気持ちをも表しているのである。  吉野山は今でこそ桜が有名だが、この当時は雪深い土地としての性格の方が強かった。そんな中で、仮名序とこの歌に吉野山の桜が出て来るのは、もっとも古い例であり、それがともに貫之の表現であるということにも注意しておく必要があるだろう。」

—『古今和歌集 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』中島 輝賢著

「【寸評】「みるめ」が海藻の「海松布」と男女が逢う機会の「見る目」との、「うら」が「浦」と「憂(し)」との掛詞になっている。そして「海人」は自分の所に通ってくる男を比喩したものである。  このような歌は、作者である小町自身の経験と思ってしまうが、題知らずなので詠まれた状況はわからない。従って、「海人」が男の比喩というのも、作者の小町が女性だからではなく、当時の習慣では通ってくるのが男だから分かることなのである。  それでも恋愛の歌には珍しく、愛情を受け入れる気の無い相手を冷静な目で観察している特異なキャラクターなどから、男に冷淡な小町像が作り上げられる一つの要因となった歌である。  恋歌にはこのように海人の行為を表現として利用するものが多い。「海人」は「海女」ではなく、漁師全般を指す。平安京には海がないので、当時の貴族には興味深いものであったろう。」

—『古今和歌集 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』中島 輝賢著

(七四七)在原業平 * 【原文】  月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身ひとつはもとの身にして 【訳文】  月は、あの人がいた昔のままの月ではないのか。梅の花が咲く春も、昔のままの春ではないのか。私一人だけがもとのままであって。 【寸評】  詞書によれば、一年前に連絡もなしに他所へ移ってしまった恋人を思い、彼女が住んでいた五条后の西の対へ行って、詠んだ歌である。  古来、「や」が疑問なのか反語なのか意見が分かれている。初唐の詩人である劉希夷の「代白頭吟」の一節「年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず」(毎年花は同じように咲くが、人は同じではない)に代表される、「自然は不変だが人事は無常」という観念の影響を受けているという指摘もされている。そうすると疑問よりは反語の方が適当だろう。  一方でこの歌は、仮名序の六歌仙評に「心あまりて詞足らず」とされる業平の典型的な歌として考えられてきた。そうすると言いさしの感のある疑問の味わい深さも捨てきれない。  学問的には色々あるが、印象批評的に疑問と反語のどちらがいいかを考える楽しみがあるのも、この歌のいいところと思ってみるのはどうだろう。そんな鑑賞の仕方もあるのではないか。いずれにしても「我が身ひとつ」は強い表現で、月や春だけでなく、昔の恋人やこの世界全体とも対照されている。  相手の女性は『伊勢物語』第四段などによって、清和天皇后で陽成天皇母となった二条后藤原高子であるとされる。業平と二条后の恋愛物語自体が、現実と虚構のギリギリで成立している。春の朧月の下で梅の香りに包まれて、未だ彼の中では昔日のものとはなっていない恋にもだえる姿は悩ましいものであり、その愛情の激しさとせつなさは恋愛物語の主人公にふさわしいといえよう。

「【コラム】  在原業平  天長二年(八二五)生まれ、元慶四年(八八〇)五月二十八日没。父は平城天皇の第一皇子である阿保親王、母は桓武天皇の皇女である伊都内親王だが、天長三年(八二六)に臣籍降下(皇族から離脱し臣下になること)した。  国史である『三代実録』では姿形が美しく、気ままな行動をとる人で、官人としての知識は無いけれども、和歌を作るのがうまかったとされている。また仮名序では「その心あまりて詞足らず。しぼめる花の色なくて匂ひ残れるがごとし」とされる。情熱の歌人である。  また業平は『伊勢物語』の主人公と目されている。業平の実人生と物語は全く同じではないものの、色好みなどイメージとして重なる部分はやはり大きい。」

—『古今和歌集 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』中島 輝賢著

「【寸評】  ずっと付き合ってきながらも、相手の心変わりは止められない。「物思ふ頃」というのはそのような気配のある、恋愛後期である。  上句は心情というより恋愛状況の説明であり、下句は眼にした自然の描写である。もちろん単なる描写ではなく、「涙」の語を使わずに自分が泣いていることを表現し、月が「宿る」よりもあの人が「宿る」ことを願っていると思わせる言葉遣いはさすが伊勢といえよう。  その中でも、月が「濡るる顔」というのは珍奇な表現といえようが、それは袖においた涙に映っているからだけではない。自分の気持ちを知って同情して泣いてくれる存在としての月は、擬人法というに留まらない。それがさらに自らの泣き顔と重ね合わさることによって、月光の下で待つ女の構図が、渾然一体となった不思議なイメージとして感じられる。」

—『古今和歌集 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』中島 輝賢著

「【コラム】  小野小町  六歌仙で唯一の女性である小野小町については、名前から小野氏出身であることや、僧正遍昭・文屋康秀など男性との贈答歌が残っていて、六歌仙時代の人物であったことは確認できるが、それ以外の詳しいことは分からない。  彼女の実作として残っている和歌の内容が、男性を冷たくあしらったり、容色の衰えを嘆くものであったことから、美女・色好み・男嫌い・衰老などの色々な伝説が生まれたのである。  世界三大美女の一人に数えられるが、残念なことに実際の容貌は分からない。しかし現在でも人気が高く、非常に魅力的な人物である。」

—『古今和歌集 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』中島 輝賢著

小野小町を日本のレズビアン詩人の代表みたいに言っちゃった百年前のフランス象徴派詩人の影響なのか、最近はもう何を見ても百合に見えますね……

ちなみにわたしが勝手に思ってることの一つが「小野小町=レズビアン説」。深草少将に対する拒絶がハンパじゃないし、他の貴公子との浮いた噂もあまりなかったみたいだし。

「【コラム】  歌枕  和歌の中で伝統的に題材とされる地名を歌枕(または名所歌枕)という。地名だけではなく、その場所の属性や景物などが観念的に固定され、絵の題材にもなっていたので、実際に行ったことのない人でもどんな場所か知ることができた。例えば、平安京から東国へ出る時に通過する逢坂の関は、人々の出会いと別れの場所であり、木綿つけ鳥や岩清水・篠薄が景物であった。  全国的な分布では、都のあった大和(奈良県)・山城(京都府)を中心とした畿内に多く存在するが、これは行く機会もある身近なものであった。逆に東北地方の歌枕は、決して行く機会のない場所として、都の貴族の憧れの的であった。『古今和歌集』に限らず、歌枕を詠んだ歌を歌碑にしているところは多くある。あなたの身近な歌枕を調べて、歌碑を見に行き、いにしえに思いを馳せてみてはどうだろう。」

—『古今和歌集 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)』中島 輝賢著

【寸評】  飛鳥川(明日香川とも)は、奈良県高市郡明日香村から大和川に流入する。『万葉集』から歌に詠まれ、『古今和歌集』の中でも多く取り上げられている歌枕である。山川特有の、流れが速くそのせいで流路も変わりやすかったという属性が有名で、名称の「あす」も「明日」との掛詞的連想により「昨日・今日」と縁語的に表現されることが多かった。この歌はその典型である。  上句で世の無常を観念的に端的に述べながら、下句でそれを飛鳥川の流れにたとえ、具体的なイメージで結ぶ手法は評価が高い。「淵」は水深が深い部分で「瀬」は浅い部分だが、流れの変化のイメージだけでなく、人の心の深浅という意味も感じられそうだ。  おそらく次の春道列樹の歌や読み人知らずの歌なども、同じ『古今和歌集』中のものではあるが、この歌を本歌取りしたものであろう。ただし当時は本歌取りという用語はなく、技巧として強く意識されてはいなかったと思われる。   昨日といひ今日と暮らしてあすか川流れてはやき月日なりけり (三四一 春道列樹)    (過ぎた昨日といい、今日を暮らして、来たる明日はもう新年を迎えるが、あすか川のように流れてはやい月日なのだなあ。)   あすか川淵は瀬になる世なりとも思ひそめてむ人は忘れじ (六八七 読み人知らず)    (あすか川の流れが深い淵が浅い瀬になるように、男女の仲も変わりやすいが、好きになり始めた人のことは決して忘れないようにしよう。)

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2026年05月12日

Posted by ブクログ

端的に言うと、非常に読みやすかった!
有名な歌を厳選して選んでいるようで読書が苦手な人も読みやすいと思いました!
紀貫之の春の歌めっちゃ良い。全部好き。和歌の技の巧みさに驚いのはもちろん、発想力がすごいなと思いました。

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2024年12月18日

Posted by ブクログ

原文の和歌、訳文、寸評の順に、丁寧に解説される。四季や心情を織り込んだ和歌を音読しながら味わうので1カ月以上かかってしまった。ビギナーズとあるがなかなか読み応えのある内容。コラム欄も勉強になる。
藤は春の終わりを飾る花とのこと。菊は中国から輸入、古今和歌集から盛んに詠まれるようになったとのこと。和歌のレトリックとして古今和歌集を代表するのは掛詞、縁語とのこと。掛詞は、文脈の複雑さとイメージの重層化をねらった、限られた音数内でより多くの意味を持つことを可能とした。例)はる(張る・春)ふる(降る・経る)まつ(待つ・松)。縁語は、中心となる語からイメージされる言葉で一首を構成、連想ゲームのよう。
糸・よりかくる・乱る・ほころぶ
古今和歌集の成立と歴史的背景、構造や配列、歌風、その後の影響などがまとめられている。
詠み人知らずの歌で特に気になる歌が多かった。韻律が美しい。付録の初句索引がまた良い。日本語ひらがなの素晴らしさにうっとりした。
花の香を風のたよりにたぐへてぞ鶯誘ふしるべにはやる(紀友則)
春ごとに花の盛りはありなめどあひ見むことは命なりけり(読み人知らず)
夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを雲のいづこに月やどるらむ(清原深養父)
白露の色は一つをいかにして秋の木の葉を千々に染むらむ(藤原敏行)
山里は冬ぞ寂しさまさりける人目も草もかれぬと思へば(源宗于)
あさぼらけ有明の月と見るまでに吉野の里に降れる白雪(坂上是則)
むすぶ手の雫に濁る山の井の飽かでも人に別れぬるかな(紀貫之)
人知れず思へば苦し紅の末摘花の色に出でなむ(詠み人知らず)
思ひつつなれば人の見えつらむ夢と知りせば覚めざらましを(小野小町)
月夜よし夜よしと人に告げやらば来てふに似たりまたずしもあらず(詠み人知らず)
世の中は何か常なるあすか川昨日の淵ぞ今日は瀬になる(読み人知らず)
世の憂き目見えぬ山路へいらむには思ふ人こそほだしなりけれ(物部良名)
すべての仮名を一回ずつ使って作られた歌。
天地星空山川峰谷雲霧室苔人犬上末硫黄猿生ふせよ榎の枝を馴れ居て
(あめつちほしそらやまみねたにくもきりむろこけひといぬうへすゑゆわさるねふせよえのえをなれゐて)

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2023年03月06日

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好きな歌が新古今和歌集だったのでそちらを先に読んでしまったが、新古今和歌集と比べるとこちらの古今和歌集の方がやわらかい印象。

今回この本に取り上げられていた歌の中で一際心に残った歌が、

しののめの ほがらほがらに 明けゆけば おのがきぬぎぬ なるぞかなしき

なのだけど、夜が明ける様子を「ほがらほがら」と表現しているのが面白い。
「ほのぼの」だと悲壮感がなくむしろ夜明けが楽しみな感じがするのに、「ほがらほがら」だとなんだか自分の意思とは関係なく、無慈悲に時が過ぎていくような感じすらする。
またその情景を描写したあとに、別れるための身支度をしている様子が現実的で、ちょっと現代的にも感じた。
読み人知らずの歌だが、本書では身支度という日常を切り取っているところから、女性の目線なのかと書かれていて、なるほどなと思わされた。

そういうわけで、音の面白さ、情景の選び方、体験したわけではないのに作者の心が身近に感じられることなどから、私の本書No.1の歌である。

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2022年11月11日

Posted by ブクログ

ビギナーズと謳いながらも、なかなかの内容だと思う。和歌の意味も技法についての解説も適切。はたと膝を打つことも多かった。頭の整理にもいい。非常に読みやすい本だ。古今和歌集がその後の和歌のお手本とされたことがよく分かる解説だ。理知的というか理屈ぽいが、和歌の技法の基本的なことはここで出尽くしているのだろう。「本歌取り」という用語は生まれていないが、既にその手法も使われている。

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2022年10月28日

Posted by ブクログ

1100首の中から70首を取り上げたビギナーのための本です。
春夏秋冬、賀歌、離別歌、物名、恋歌、哀傷歌、雑歌、
大歌所御歌、東歌とあります。
やはり恋歌がいいですね。想像を掻き立てられます。
他の歌もわかりやすく解説してくれているので
ビギナーにはうってつけの本ですね。表紙もきれいです。

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2016年05月13日

Posted by ブクログ

ビギナー用とのことでとても分かりやすい本でした。
解説は歌についてのみではなく、歌人の背景や当時の事情などにも及んでいて、最後まで歌の世界に入り込めました。
次はすべての歌が収録されている本を読みたいです。

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2013年02月01日

Posted by ブクログ

本シリーズの万葉集読んだので次は古今和歌集かなと。
万葉集好きなのですが、古今和歌集もめちゃくちゃ好き〜〜!!!となりました。技巧を凝らした歌が多く、何言ってるのか分からないものも多いのですが、それがまた31文字でいくらでも表現できる自由さも感じました。

そして国歌は古今和歌集から採られていると初めて知りました。
これはまた全首読みたいですね。
いつものことですが本書の解説も古今和歌集や和歌に対する愛情を感じました。寸評のおかげで理解が難しい和歌も背景まで理解することができ、おもしろさがよくわかりました。

ちなみに、中でも好きな歌は下記です。
秋口に詠みたい。

秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる

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2020年09月09日

Posted by ブクログ

かな文字の練習教材として常に携帯中。

読んでいて切に思うのが、

・・・・暗い。


7、8割の和歌が、惚れた腫れたの千々に乱れる心と嫉妬。いつの世も恋とは身を焦がすものなのですね。歌を認めた当時、この歌人はおいくつだったのかしら、などと微笑ましく思を馳せつつ筆を走らせ書に勤しみ。残り2、3割の心温まる句を、お手紙にさらっと書き綴り、そこはかとなくあたたかい心が伝えられる様になれたら素敵だな、と思ふ毎日です。

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2015年05月30日

Posted by ブクログ

季節毎に読み返したい一冊。ビギナーズ・クラシックスはコラムや解説があり予備知識にも触れられるので、歴史や古典をそんなに勉強してこなかったひとでも楽しめます。

毎年繰り返される自然の営みを、不思議に思い、喜び、悲しむ。昔のひとの繊細な感性や想像力に触れると、当たり前だと思っていた風景がすこし違って見えそうです。

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2015年08月17日

Posted by ブクログ

ビギナーズ・クラッシックスシリーズということで、ルビつきの原文・訳文に加え丁寧な解説があり、とても読みやすいです。

古今和歌集といえば、なんといっても「仮名序」。秀逸です。思わず暗誦してしまいました。

また、「桜花散りぬる風のなごりには水なき空に波ぞ立ちける」(八九 紀貫之)は、その様子が鮮やかに映し出されるようで、好きな作品です。

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2012年01月17日

Posted by ブクログ

古今和歌集から厳選して70首を取り上げている。183ページと薄いが、解説と併せて味わいながら読むには適量である。

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2009年10月07日

Posted by ブクログ

2025.2.6
いつぞや、ふらりと入った近所の書店にて
購入。

昔の言葉、良いなぁ。
万葉集のやつ読んだ時もそうだったけど。
(何首か、万葉集、百人一首にもある)

それにしても
現代語訳は、若者向けなのか。
「〜だろうなぁ」みたいな書き方してて
笑える。
特に恋歌。
もうちょっと切なさとか欲しい。

わかりやすいけどね。

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2025年02月06日

Posted by ブクログ

時代が近づいたためか「万葉集」と比べて歌そのものの意味が捉えやすいように感じました。

ただ、洒落とか比喩とか、つまり技巧のようなものが何かと鼻につく気がします。
万葉人の時代から、生活のあり方も制度化されたり形式化されたりといったことが進んだのか、自由な感じがしない、なんとなく窮屈な印象を受け、感情を真っ直ぐに表現したような歌が少なかったように感じました。
うまく言えませんが、特定の誰かに伝えるとか、思ったことを素直に述べる、というよりも、不特定多数に読まれることを前提にしているような、そんな雰囲気があります。
そのためか、読みやすさの割にあまり共感できませんでした。

そして解説が授業的に感じる節がありました。せっかく古典を楽しみにきたのに、こう読みなさい、ここはテストに出ますよ、と言われている気がして、その点も窮屈に思いました。また、同じ歌の解説とその直後のコラムでまったく同じ記述があったりして、その点はいかがなものかと思いました。

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2019年01月28日

Posted by ブクログ

高校時代に持ち歩いていた本を読み返しました。万葉集よりは遙かに技巧的になりました。新古今は言葉を飾り過ぎて、歌が思いを伝えるものじゃなくて、芸術品になっちゃったので、古今はちょうどいいかもしれない。
ただ、この本には現代訳は付いているものの文法説明がついていないので、文法知識がない人には良さがいまいち味わえないかも。歌とは、口に出すものですから、現代語訳を読んでなんとなく理解しないで、声にだして、自分で意味を考えて、味わってほしい

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2010年04月18日

Posted by ブクログ

和歌の解釈と解説がとてもわかりやすく書かれている。
ところどころに、ちょっとしたコラムも設けられていて、
ライトタッチに楽しめる一冊。

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2009年10月04日

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