ウンベルト・エーコのレビュー一覧
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複雑な構造の書院をもつ修道院にて、謎の連続殺人がおこる。それを追いながら、様々な宗教談義を行う主人公達。日本で言うと京極夏彦の百鬼夜行シリーズみたいな感じかな、知識が弱くて詳しいことは分からないけど異端にまつわることが謎の根幹にあるのかも。と、思ってたら終盤の書院に居た謎の女とやっちゃって、その後それについての超文学的なレビューで全部吹っ飛んだ。たった一回の行為だったみたいだけど、相当素晴らしかったんだね。
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やさしい動きで、彼女の片手が、汗に濡れた私の身体に触れつづけていた。もはや安らぎではなく、炎の絶えたあとに、灰の下に残った火が、最後の輝きを放つかのように、私の奥深くで喜びが走った。いまでも私は、ためらわずに言うであろう。あれに似た喜びを味わうことが(私は夢のなかにいるかのようにつぶやいていた)、たとえ稀にでも(じじつ私にとっては、あのときが、唯一の経験であったが)、たとえ束の間であっても、また一瞬のうちに過ぎ去ってしまっても、この世で許された人間がいるとすれば、それは仕合わせな者であると。あのときには、あたかもおのれが存在しないかのように、少しもおのれ自身を感じることなく、存在そのものが稀薄になって、ほとんど無に帰してしまっていた。もしも死すべき身でありながら(私は自分に言いきかせていた)、東の間なりとも、私がいま味わったようなものを味わうことのできる者がいれば、この不正にみちた世界をただちに険しい目で見つめるであろう。
このおぞましい日常の生活に心を乱されて、死の肉体の重みを、感じてしまうであろう…・・・・そのように、私も教えられてきたのでは、なかったか?あの至福のなかで、私の全精神を忘却へと誘ったものは、たしかに(いまにして思い当たるのだが)永遠の太陽の発する輝きであった。そして、あれによって生み出された喜びが、人間の心を開き、押し広げ、人間を大きな存在へと変える。人間がおのれのうちに抱えた帳を、大きく開ければ、もはや容易には閉ざせない。それは、愛の剣によって切りつけられ、開かれた、傷だから。それ以上に甘く、かつ恐ろしいものは、この地上にはないであろう。
それにしても、太陽のもつ力はかくも強いものであるから、太陽はその光線によって傷を貫き、傷口を押し広げて、人間の心は開かれて眠れあがり、人間の脈という脈は切り開かれ、人間の力ではもはや思うままにおのれを動かすこともできなくなり、ただ欲望によってのみ動かされ、いま触れつつあるものによって精神は奈落の底へ燃えつきながら沈みこみ、いままでに生きてきた、そしていまも生きつつある、この現実によって、おのれの欲望もおのれの真実も覆いつくされてゆくのを見るであろう。そしてついに、おのれの喪失のうちで、呆然としているおのれ自身に、立ち会うのだ。
このような、筆舌には尽くしがたい、内奥の喜びに浸りながら、私はまどろんでいた。 -
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ネタバレp.14 "「推論などしない。三段論法の規則によれば、<二ツノ個々ノモノカラハ何モ出テコナイ>。二つの個々の事象からは、いかなる法則も引き出せないのだ。まずは、法則を知る必要がある。たとえば、触れた者の指をくすませる物質が存在するとか……」"
p.100 "「書物というのは、信じるためにではなく、検討されるべき対象として、つねに書かれるのだ。一巻の書物を前にして、それが何を言っているのかではなく、何を言わんとしているのかを、わたしたちは問題にしなければならない」"
p.301 ”「これが紫水晶だ」彼は言った、「謙譲の鏡であり、聖マタイの純真と温和とを思い起こさせる。これが玉髄だ。愛徳(カリタ)の証であり、ヨセフと聖大ヤコブの慈愛(ピエタ)の象徴である。これが碧玉だ。信仰を讃え、聖パウロと結びつく。そして紅縞瑪瑙だ。殉教の徴で、聖バルトロメオを思い出させる。これが青玉だ。希望と観想を意味して、聖アンドレイアと聖パウロの宝石である。そして緑柱石だ。聖なる教義や学識や忍耐の証であり、聖トマスの徳性そのものである……これらの宝石の一つ一つが語りかける言語の、何とすばらしいことか」”
p.370 "「でも、どうして存在し得ましょうか、可能性を全面的に織りこんだ必然的存在などが? どのような差異が、それならば、あるのでしょうか、神と原初の混沌とのあいだに? 神の絶対的全能とその選択の絶対的自由とを肯定するのは、神が存在しないことを証明するのに等しいのではありませんか?」"
p.394 一人の修道僧を毒殺したくなった
p.439 "SF小説はおおむね純粋なロマンスである。ロマンスとはどこかよその場所の物語だ。"
p.497 "エーコは何度となく、『薔薇の名前』を書いた直接の動機は、モーロ事件にあった、と述べている。"
驚くべきことに、著者自身の手になる登場人物の素描がある。まさしくイラストである。また建造物の地図や外観図がある。学生時代にTRPGを準備していた時のことを思いだす。NPCを描き、地図を描き、シナリオを書いたものだった。
旧版と完全版との差異はなんであろうか。上巻の序文で著者が述べるところによれば、本筋ではなく、ラテン語からの引用などにとどまるようだが、訳者による「旧版解説」によれば改版のたびに改訂があったようだ。「『薔薇の名前[完全版]』刊行にあたって」では、原著2020年版には大小さまざまな修正が施されたと記されている。
内容を覚えていないにしても、せっかくの再読なのだから、それと分かるようなら差異を楽しみたい。そう考えて下巻の補足資料的な部分から読み始めたが、正解だったかもしれない。
アークナイツへの影響。ウンベルト、アドソ。ミケーレ。ブルネッロ。登場人物の名や地名を借用。「聖山降臨1101」の物語の構造は、神の実在を疑うというモチーフにおいて類似している。現実の国家を記号化した架空の国家を配置する方法も、アフリカノ果テに謎が残されている点も、ひょっとしたら。
エンドフィールドへの影響。エンドフィールドはデータの遅延ロードを実装してマップ間の移動を高速化した。そのうちのひとつがNPC。ロード完了していない間、NPCは灰色のマネキンとして表現される。どこかで見たような表現ではあるがロードに適用された例は初見のような気がして新しいと感じた。下巻p.128にその発想の元ネタと見えなくもない表現がある。"人間の姿も、初めは灰色の亡霊のように、霧のなかから現れて、見分けがついてくるのだった。"
奈須きのこへの影響。キアラという名と存在は『薔薇の名前』から引用したのかもしれない。迷宮は小川マンションの構想に影響を与えたかもしれない。
京極夏彦は影響を受けただろうか。謎の核心という小さなプロットに、本編とは無関係、関係はあっても迂遠な知識を厚くコーティングしていくやり方に影響を受けただろうか。
ドラゴンランスへの影響。知への渇望。レイストリンとアスティヌス。
推理小説の中には、構造的な弱点を持つ作品がある。核心となる箇所がそうである場合、かなり致命的で、呆れること必至。
迷宮のルール。北方に「ANGLIA」「GERMANIA」などともっともらしい説明をつけているが、そう読むためには、部屋に割り当てられた記号を二度使用せねばならぬこともあり、好きに読めてしまう。「アフリカの果て」を示せれば良いので、雑に仕上げたのかもしれない。
謎解きを中途で切り上げることがしばしばあり、時間稼ぎを感じる。
五日目の口論。宮崎駿か押井守かという有様。こんなんあったら覚えてそうなものだが、ハイティーンだった読者はそういうことに気付けなかった。まったく覚えがない。
探偵が事件の進行を止められない状況はミステリのお約束だが、探偵役に本業をもたせて、探偵業どころではないとするのは悪くない言い訳だと思える。
ノリツッコミふうに笑わせようとする試みがある。
『ムーンチャイルド』を思いだす。クライマックスにおいて、これまで語られてきたことは些事であり、未だ語られぬ重大事のために、主人公は些事を捨てて去る。ぶん投げも極まれリエンド。キリスト教の重大事の前には(読者にとって重大事である)僧院の惨劇は些事でしかないという構造。
信仰とは推し活で、推す対照は神ではなく、自らの信仰に対する考え方である。推し活者の一部がそうであるように、信仰の持ち主の一部も狭量である。公式に語られていない説を作り出すこともある。解釈にこだわる。自信の信仰の強固な裏付けとして、神と神に関わる権威を引用する。発言が正しいかどうかではなく、権威の発言であることが重要なのだ。権威の引用には記憶力が有用である。ザ・人文。
クライマックス。アドソの悪夢。本筋で醸し出せなかった猟奇成分を補おうという意図か。くどいほどに長く続く。
探偵には命の危機は訪れない。訪れるのは謎に対する敗北の危機。この物語はそれを慎重にコントロールしている。
彼には企みなどなかった、間違ってそれを発見してしまった。ウィリアムは事件をそのように総括する。では、殺人が発生するたびにホルヘが黙示録の一節を呟いていたことを、読者はどう受け止めればよいのだろう。
未だに分からないことだらけだが、神秘のベールはもはや感じない。分からないことは装飾に過ぎないと理解したから。寂しいことだが、これも再読が持つ価値であろう。 -
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ネタバレp.113 "地獄というものは裏側から見た天国にすぎないような気がしてくる。"
p.203 "「頭脳に当たる部分は文書館の奥の書架だ、虫食いだらけではあるが」"
TVで映画を見て、小説を読んだ。この物語との出会いはそんなふうであった。
読み返して、記憶にあるほとんどが映画版であることに気づく。映画版の印象もあいまいになっていて、変態的な修道士が登場するなど、今思い返すと『ヘルレイザー』とかぶる。
当時十代だったかどうか覚えていないが学生だったことは確かで、タイトルの意味がわからなくて原作小説を読むことにした。読んでも分からなかった。明確な説明はなかったのである。
タイトルについて、本書下巻の「『薔薇の名前』覚書」に次のように記されている。
p.385 "『薔薇の名前』を書いたとき以来、読者から問い合わせの手紙が相次いで寄せられた。巻末のラテン語の詩句<ヘクサメトロス>は何を意味するのか、またなぜこの詩句が書名の元になったのか。私は答えてきた。これは十二世紀のベネディクト会修道僧ベルナール・ド・モルレー作『この世の儚さについて』から取った詩句であり、イマハイズコニ(ここから後に「それにしても去年<こぞ>の雪はいまどこにあるのか」というヴィヨンの詩句も取られた)という主題をさまざまに謳ったものである。ただし、ベルナールはよく使われる定型表現<トポス>(かつての英雄たち、栄えた都市、美しかった王女たち、そのすべてが無に帰する)に、失われてしまったこれらすべてのうちただ名前だけがいまに残されている、という考えをつけ加えた。ここで思いだすのは、アベラールが「薔薇ハ存在シナイ」という例文を用いて、失われてしまったものばかりでなく存在しないものまで言葉は語れるのだと示してみせたことだ。"
著者はこうも言っている。
p.387 "私の作品は、執筆途中には、別のタイトルがついていた。すなわち『僧院の犯罪』であった。"
謎めいたタイトルで読者を惑わす効果を狙ったものと見える。意味はあるようでない。ないようである。そういう受け止め方で良さそうだ。
p.40 八面体の建物、とある。遠目には四面体と見紛うとある。ちょっと想像できない。上空から見て八角形の建物が、遠目には立方体に見える、なら理解できる。僧院の外壁を上空から見た形は正八角形ではないが、八角形に近い形をしている。
正四角錐、すなわちピラミッド型は五面で、四つの三角形の面+一つの四角形の面で構成される。八面体は二つの正四角錐を底面でくっつけた形。外から見える面は全て三角形となる。四面体はどの面も三角形。八面体が四面体に見えるとすれば、八面体を構成する正四角錐のうちいずれかが埋没している状態になる。その状態なら正四角錐か四面体か、一瞥して区別はできない。だが、特に表記するようなことだろうか。
これは原文由来か翻訳由来か。八面体と八角形を示すイタリア語は似ているが、四面体と立方体あるいは六面体を示すイタリア語は似ていない。翻訳に際して八角形ではなく八面体と誤解したとしても、次に続くのが立方体に準ずる語であれば気付ける。となれば、原文由来か。
原文由来だとすれば。奈須きのこもそうだが、ひょっとして推理小説家は幾何に弱いのだろうか。建物のトリックを使うのに、幾何に弱くていいのだろうか。読み手も幾何に弱いから問題ないとかか。
初読のときには気づかなかったが、推理小説のフォーマットで書かれている。序盤のウィリアムはまるっきりホームズのようだ。
かつてはオカルトめいた神秘と背徳を、TRPGの目線で読んだように思う。今はホームズとルパンの混成物として読んでいる。
神にまつわることに無知であるがゆえに、それらは今も装飾としてしか認識できない。 -
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面白かった…。最近読んだ「百冊で耕す」に読書の醍醐味は空気に浸ることというような記述があったけど、まさにその醍醐味を存分に味わうことができる極上の空気を持つ作品でした。「過ギニシ薔薇ハタダ名前ノミ」……痺れる。
「生真面目な行為の胡散臭さを嗤う」ことが人々が共通して持つ真理を失くしてしまうことになるという考えは、「これが正解だ」と決して言うことができなくなった近年の流れの出発点のように思える。
アリストテレスの詩学第2部やミケーレ、オッカムのウィリアム、「マルゲリータ」など実際の出来事や人物との繋がりも面白い。(解説読まんとわからんかったが)
「覚書」で作者が告白している「一人の修道僧を毒殺したいという気持ちになった」という、この小説を書くことになったきっかけが面白い。そこからこの作品が出来上がる過程を思うだけで、知性を持つ人間として生まれたことの喜びを感じる。
読んでいると、修道僧という、一つの真理を共通して持つ者たちの生真面目な清貧論争を、「嗤い」ながら読みそうになっていることに気付く。それを私は会社など日常生活でもやってしまっていると、自分の生き方を振り返ってゾッとした。最近私は一つの狭い世界の真理を生真面目に信じて論じている人たちを嗤ってしまっている。「だってその真理はこの狭い集団内だけのものだし、そんなに真剣に執着してどうするの?」と思ってしまうから… -
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ネタバレ笑いと真理、異端運動、間テキスト、作者の死
理性による絶対的な真理(神)の探究が、真理の存在の否定につながってしまうとしたら、中世のキリスト者はどのように振る舞うのか。ウィリアムは合理的思考と明晰な頭脳を持つがゆえに、信仰の限界に立たされている。ウィリアムは信仰者であり探偵という矛盾する役割を課せられているのである。
これを踏まえると文書館の中心が中庭になっている(なにもない、空)ことにも意味があるように思える。人間は中枢にある真理に近づこうと書物を書き、知識を積み上げてきたが、実は中心には何もないのではないか。この構造は小説の軸である一貫した意志のない連続殺人事件とも一致する。
探偵小説において探偵は徴、記号を読み取り推論を立て、背後にあった一貫した意志を明らかにするのであるが、それは探偵小説のお約束が通用する世界に限られた話なのだ。ウィリアムのように真実らしい推論を打ち立てていたとしても、実際は記号を恣意的に再構成していたに過ぎないということは起こりえる。むしろ、ミステリ好きには馴染み深い典型的な「アンチミステリー」の手法だ。面白いのは中井英夫による日本を代表するアンチミステリーである『虚無への供物』(1964年刊、『薔薇の名前』は1980年)においても薔薇が象徴的なアイテム(しかも空虚さを表すものとして)として登場していることである。
エーコはこの小説において神学的議論と殺人事件を用いて、二重に、世界を律する神の貫徹した意志、首尾一貫した理論、誰にでも適用される大きな物語を否定している。そしてそれはホルヘが殺人を犯してまで隠したアリストテレスの詩学2部(喜劇を扱う、ホルヘの言によれば、笑いによって人は世界の真の姿に迫れる、笑いは人々を悪魔の恐怖から解放し自由にする)や、時代が人間中心主義(依然としてキリスト教の影響下にあったとはいえ)をうたったルネサンス前夜に設定されていることにもつながってくる。
この神の意志の否定によって、人々は自分の目に映る世界の記号を自分の好きなように読み取ることができるようになる。人間が世界の中心になるのである。ホルヘはこれを防ぐために、殺人を犯してまで、書物を隠そうとした。これに対してウィリアムはつぎのように宣言する。
「わたしは戦うだろう、断固として相手の知恵と切り結んで。ベルナール・ギーの灼熱の炎と剣がドルチーノの灼熱の炎と剣を屈服させるこの世界よりは、いくらかでもましな世界になるだろう」
ウィリアムはルネサンス的な人文主義者の先駆けとしての一面もある。
またこれは小説における神である作者の絶対的な地位の否定でもある。本書の末尾にある「覚書」においてエーコはこうまで言っている。
「作者は小説を書いたあとには死んでしまったほうがよいのだ。テキストの足取りを乱さないようにするために。」 -
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薔薇の名前で名高い作者が書いた中世騎士の冒険の物語。農家の子どもバウドリーノが皇帝フリードリヒの養子となり、都の学校で青春を謳歌し、養父の遠征に付き従い、やがて聖杯返還の旅に出て、数々の魔物や種族に会いながら冒険を続け、囚われの身となった後、数少なくなった仲間とようやく帰還したと思ったら、もういっぺん行ってきます!と不帰の旅に出てしまう話です。
読み終わってからなかなか感想が書けなかったのは、私がこの物語を消化しきれなかったからでしょう。そのくらい内容が盛りだくさんでした。
歴史、教養、恋愛、冒険、博物誌、復讐譚…
私は物語をプロットなどで読むと言うよりは、主人公や著者に自分を重ねて書いてあることを追体験する感じに近いので(今回これを読んで、そのことに気付いた気がする)、それでしばらくぼんやりしてしまったのだと思います。
そのくらい壮大な話でした。面白かったけど、もう一度読むには体力作り(読書の)からかな(笑)
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ネタバレうう〜面白かった〜〜!!!エーコと聞いて難しい?と身構えていたけど、読みだしたら面白くて、あっという間に読んでしまった!感覚としては高丘親王航海記…!
「人生とは、逃げゆく夢の影でないとしたら何?」(p.155)
「神は、存在しない空間であり、そのなかでは、あなたも私も同じなのです、ちょうど今日、この止まっている時間のなかにいるように」(p.274)
…
彼はそのとき初めて理解した。本当に愛し合う者どうしが最初に愛の言葉を交わすとき、顔が青ざめて体は震え、口をつむぐものだとなぜ言われてきたかが。なぜなら、愛は、自然と魂の力すべてを自らに引きつけるからである。こうして、本当に愛し合う者どうしがささやき合うとき、愛は、身体の全機能を、それが肉体的なものであれ精神的なものであれ、掻き乱し、ほぼ停止させる。それゆえ、舌は話すことを、目は見ることを、耳は聴くことをそれぞれ拒み、体の各部位がおのれの義務を回避するのである…(p.294)
そして最後に
「あなたがこの世で唯一の歴史家だと思わないほうがよい。遅かれ早かれ、バウドリーノ以上に嘘つきの誰かが、それを語ることになるでしょうから」
という終わり方がとても素敵で大好きな一冊になった。 -
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ネタバレ装丁とタイトルだけで買って長らく積読していたが、やっと読み終わった!!対談、ということなので話があっちこっちいったりと読みにくさもあり、少しずつ読んだけどめちゃくちゃ面白かった。
タイトル的に絶滅するかもの話をするのかと思いきや、残るって前提で話が進んでいく感じで、そうだよねぇって嬉しくなる。絶対この本棚の本たちは死ぬまで持ってるだろうなっていう根拠のない確信がある。
本って無条件に崇拝されていて確からしさが保証されているような気がする(そう教育されてきた?)し、必読の名著!みたいに言われたりするけど、偉大な残されなかった本も、馬鹿阿呆間抜けが書いていていてもの残されてきた本もある。様々な解釈や脈絡が付与されてきた本もある。そう思うと、好きに読めばいいんだよなとあとがきにあったような強迫観念から救われる気持ちになる。インターネットやSNSのよくわからん情報に疲れがちなこの頃なので、うわぁ超好きってなりました。
だいぶ知識不足が否めないのでまだチャレンジしたい1冊。エーコさんの本も読みたい!
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Posted by ブクログ
『もちろんわたしたちは、理解できないものに名前をつけるだけではなく、視覚的に表現することだってできる。しかしこうしたイメージは、不可解なものを「表象する」わけではない。ただたんに、わたしたちに不可解ななにかを想像するよう促し、そのあとでわたしたちの期待を裏切るだけだ』―『絶対と相対』
ウンベルト・エーコの講義録を読んでいたら、もう三十年以上前の飲み会での話を思い出した。それは学校を卒業していきなり英語を使って仕事をすることに苦労していた頃の話。正確には仕事以外の場面でする会話って苦労するよね、という話の流れだったのだが、ある(業界他社だが同窓の)先輩が、自分も英語が得意ではないけれどある時オーストラリアの技術者と呑んだ際に、一つひとつの言葉が何を意味するのかをじっくり話してから会話したらお互いに話が通じて一晩中話がはずんで楽しかったことがある、というのだ。その時はそんなものかと思っただけだったけれど、今更ながら、それってまさに記号論の話だったのだな、と再認識する。
仕事の話なら、差し出された一つの英文が言葉として何を意味しているのかを掴み損ねたとしても、言葉の中に散らばる記号(用語)のシニフィエ(用語に要約された概念)を取り違えなければ、それらを組み合わせて意味は立ち上がるのだが、普通の会話ではそのような共通のシニフィエを含有する共通の記号の在庫を(育った文化的な背景の違いもあり)持ち合わせていない、ということなのだ。だからいくら英単語のシニフィアンをイメージできたとしても話が噛み合わないことになる。――例えば、Can we retrieve the probe? と検層エンジニアに聞かれて、ある計測器の仕組みを理解している者には、probe という記号さえ正しく解釈できれば、現在の状況(という文脈)の中で何を問われているのかを正しく理解出来るが、そうでない者には英語の意味は判ったとしても retrieve も probe もシニフィアンとして受容されるのみで、エンジニアが何をしたいのか不明なままだろう。
常に皆が同じ記号から同じシニフィアンを想起する、あるいは同じシニフィエに辿り着くとは限らない。ウンベルト・エーコの小説を読んでいると常にそういう気持ちにさせられるものだが、その仕組みを一つひとつ解きほぐすようにエーコが解説するというのが本書の内容。だからと言って自著に対する解説という訳ではない。開かれたテクストという文脈でそういう本も書いてはいるけれど、これは「何故エーコの小説を読むとある種の不安に駆られるのか」ということを説くような本なのだ。
この厚手の上質紙に印刷された一冊は頁数の割には大部だ。それはふんだんに挿まれる絵画などのイメージの為の選択と思われるが、そのイメージから喚起されるシニフィアンと文章から読み取るシニフィアンを組み合わせて、立ち上がるもの(シニフィエ)を読者(実際には講義の聴衆)が取り違えないようにとエーコが意図した為でもあるのだろう。実際、この博覧強記の知の巨人が参照する先人の示した概念、文章、芸術とその解釈などは余りに広範囲に及ぶ為、「何々のように」とエーコが言う時に何を正確に意味しているのかを予備知識なしに理解するのは不可能なようにも思えるのだが、提示されるシニフィアンが理解の助けになることは読んでいくとよく解る。もちろん、それが正しい理解なのかどうか、冒頭の引用が示唆するように本当のことを言えば判らないのではあるけれど。ただ、エーコがそういう疑念を読者が抱くだろうことをも計算していたのだとも思えてくるから不思議だ。
それを短く要約してしまうとエーコが意図したものに対する理解がこぼれ落ちてしまうとは思うけれども、至極単純に言えば「見ているものが必ずしも見えているものとは限らず、更に見えているものが正しく見えているとも限らない」ということだ(「見えないもの」というテーマだけが二度本書で語られる)。もしそんな風に全てを一つひとつ疑って、事実と思われるものを確認しなければならないのだとすると、この世を生きることはとてつもなく大変なことになる。そしてそれは事実上不可能だ。しかし、人がどのようにしてシニフィアンを誤って解釈しがちなのか、それをエーコは「百科事典的」知識の中から例を取り上げて示してくれる。すると少しずつ「意味」「事実」「理解」というようなものの本質が見えてくるような気になる。例えば、こんな警告をエーコは発している。
『想像したことが語られているのであって、現実世界でそれらのことが確認されることはないために小説の言説とはつねに虚偽だといえる。にもかかわらずわたしたちは小説の言説を嘘だとは思わないし、ホメロスのこともセルバンテスのことも嘘つきだと咎めたりはしない。わたしたちのよく心得ているように、物語テクストを読むときわたしたちは作者と暗黙の協定を結ぶ。作者は真実を語っているふりをし、わたしたちもそれを真面目に受け取るふりをしなければいけないという協定だ。(中略)したがって、アンナ・カレーニナが自殺したのは真実だと主張するとき、あるいはホームズはベーカー街に住んでいたと主張するとき、わたしたちはあるひとつの楽譜(あるひとりの作家が書いたもの)にもとづいて断言しているのではなく、ひとりの揺れ動く者について断言している。その人物の存在論的規定はいささか奇妙だ。というのもその人物は存在するはずがないのに、それにもかかわらずなにがしかの方法でわたしたちのあいだを動き回るうえに、わたしたちの思考を占領してしまうことすらできるのだ』―『見えないもの』
人は、その「ふり」がある文脈の中でのみ成立しているという前提条件を往々にして忘れてしまい、ふりのつもりがいつの間にかその言説を本当に信じてしまう。その恐ろしさはエーコの没後の世界に生きる我々は身に染みて感じてはいないだろうか。どうしてそんな風になってしまうのか。そこには「善」と「悪」という子供でも理解可能と思われる概念が、実はそう単純な二項対立ではないという実情と、「悪」にさえ惹かれてしまう人間の性[さが]があるのだともエーコは教える。そしてこんなことをつぶやく。
『というわけで、芸術は悪魔の醜さをじつに巧みに表現してきた。しかし、醜さを巧みに表現しようという競争は、わたしたちにある疑いを抱かせる。つまり、表面下でとはいえ、そこには恐怖(Torrendo)に対する真の悦びがあったのではないか、という疑いである。ある種の地獄が、キリスト教信者を脅かすためだけに考えられたものだ、などとは言わないでいただきたい。いくつかの地獄は、かれらを狂喜させることをも目的にして、考えられてきた』―『醜さ』
露悪的な悪人というのが物語ではしばしば登場し、それを読んでそんな人は現実には存在しないというような批判を人はよく口にするが、実際にはごく普通の人の心の中にもそういう一面が潜んでいる。そしてある状況下においてその一面が急に露わになるだけなのだ、とエーコは教えるのだ。そしてそれは時に「正義の仮面」を被ってさえいるのだ、と。
『ロルドンはスピノザの『神学・政治論』(一七世紀のものである)の一節を引用している。「庶民が真理も判断も知らなくても無理はない。国家の政務はかれらの預かり知らぬところで執り行われているのだから」。しかし、国家機密と隠蔽と陰謀とでは、それぞれ、それなりの違いがある。リチャード・ホフスタッターは、「アメリカの政治における偏執狂的スタイル」(一九六四)で、陰謀論への嗜好は、社会思想に精神分析の分類を適用することで理解されるべきだと説いている。その分類とは、二種類の偏執狂現象のことである。精神医学的な偏執狂は、世界全体がかれに対して陰謀を企んでいると考えるが、社会的な偏執狂は、隠れた権力者たちが、かれのグループや、祖国や、宗教を迫害していると思い込む。社会的な偏執狂は、みずからの妄想がほかの何百万という人びとからも共有されていると考え、みずからが私心なしに陰謀に立ちむかっていると信じている点で、精神医学的な偏執狂より危険だといえるだろう。このことが、これまでに起こった多くの出来事に加え、今日起こっているたくさんの事柄を説明してくれるはずである』―『陰謀』
この文章の元となった講義がなされた時(2015年。そしてあの大統領選挙は2016年)エーコが危惧していたことは、今まさに現在進行形で起こっている。なべて世に新しきことはなし、ということか。 -
歴史が後ずさりするとき 熱い戦争とメディア
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