関裕二のレビュー一覧
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呪われた平城京と言うと何だか恐ろしいタイトルだが、よく言われている38代天智天皇(中大兄皇子)系と40代天武天皇(大海人皇子)系の骨肉の争いが背景にある。
49代の光仁天皇になってようやく天智系に戻るが、この背後には天武系の血筋を絶やそうと、血で血を染める歴史がある。そして裏に表に天皇と結び付くのが藤原氏。
藤原氏の祖、中臣鎌足は百済王家の出身。平安京に遷都した桓武天皇の母も百済系だ。
そもそも桓武天皇が平城京から離れたのも、天武系抹殺の祟りを恐れてと思われると言う。
藤原氏は不比等の四人の子から、南家、北家、式家、京家に分かれるが、北家が勢力を失う鎌倉時代まで天皇家に娘を嫁がせる等して権力を -
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以前は日本の古代史にはあまり興味がありませんでしたが、最近では遺跡の分析技術も向上したり、様々な新しい文献が発見されたりして、以前習っていた内容と異なる部分が、特に古代には多いようですね。
海に囲まれた日本は古代から海と上手に付き合ってきたのだと思います。小学生の高学年から大学に入るまで、海の見える町(神戸)に住んだ私にとって、海を見ていると心が安まります。この本をはじめ、類書を読むことで海と上手に付き合っていた古代の日本人に想いを馳せることができました。
以下は気になったポイントです。
・中国は「南船北馬」が有名であが、日本列島の場合「西の水運・東の陸運」「西の水軍・東の騎馬軍団」であ -
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弥生時代中期以降、農業が発展し地域ごとにクニを形成し小競り合い、3c初頭にヤマトの纏向に集まり政治と宗教に特化された都市が出現、3c後半から4cにかけてヤマト政権が誕生し東北北部を除く広域流通ネットワークが構築される。前方後円墳という埋葬文化を各地の首長が受け入れ先進の文物をヤマトの王が分配、ゆるやかなつながり「ヤマト政権」
著者の主張は、王家の母型の祖は縄文の海人の末裔、神武天皇は疫神を退治する役割で九州から連れてこられた、との2点。
纏向遺跡の外来土器の割合:東海49%、山陰・北陸17%、河内10%、吉備7%、関東5%、近江5%、西武瀬戸内3%、播磨3%、紀伊1%。
3つの謎、1:弥生時代 -
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ネタバレいわゆる通説を覆す系の本。日本書紀は実質的に編纂した藤原不比等の意向により藤原氏の正当化がなされているというのが全体的な主張。史学と考古学さらには万葉集といった文学を統合させて自説の根拠としてく手法は壮大だが、こうした本の例に漏れず主張が断定的で眉に唾つけて読むことは必須。
ヤマト政権は瀬戸内、日本海、東海などの各地勢力が奈良盆地に実権を持たない祭祀王を推戴することで成立した。
院政が権力を摂関家から天皇家へ奪い返すことができたのは、人事権によるもの。生前退位による後継者指名によって藤原家の息のかかっていない皇子を天皇にすることができたため、外戚としての摂関家の重要性を低下することができた。乾 -
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ネタバレなぜ、ほぼ同じ時期に『古事記』(712)と『日本書紀』(720)というふたつの歴史書を必要としたのか。しかも『古事記』は新羅に好意的で、『日本書紀』は百済に好意的(反新羅)である。中国の歴史書は多くの場合、新王朝が前王朝を倒した正統性を明らかにするために記されていることを考えれば、当時の日本では、2つの王朝が争っていたと推測できる。
当時(7世紀中頃)の朝鮮半島情勢を見てみると、新羅、高句麗、百済が鼎立した三国時代。もともと、新羅、百済などから日本への移住者はおり、政権争いもあった(乙巳の変)。さらに、唐が新羅を支援して百済を攻撃し、百済が滅亡する(660年)あたりから、百済の遺民が大量に日