関裕二のレビュー一覧
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呪われた平城京と言うと何だか恐ろしいタイトルだが、よく言われている38代天智天皇(中大兄皇子)系と40代天武天皇(大海人皇子)系の骨肉の争いが背景にある。
49代の光仁天皇になってようやく天智系に戻るが、この背後には天武系の血筋を絶やそうと、血で血を染める歴史がある。そして裏に表に天皇と結び付くのが藤原氏。
藤原氏の祖、中臣鎌足は百済王家の出身。平安京に遷都した桓武天皇の母も百済系だ。
そもそも桓武天皇が平城京から離れたのも、天武系抹殺の祟りを恐れてと思われると言う。
藤原氏は不比等の四人の子から、南家、北家、式家、京家に分かれるが、北家が勢力を失う鎌倉時代まで天皇家に娘を嫁がせる等して権力を維持した。
昔は通い婚が普通で、女系の家庭が優先され、生まれた子どもは妃の実家で祖父母と暮らし、すっかり母方の言いなりになる環境が出来上がる。これが外戚と言われ、藤原氏が実権を握ったシステムとなる。つまり、天皇にはもともと権力など殆どなかったのだと。
平安期は藤原氏が独裁権力を握り、その後北家だけが栄え、中でも摂関家だけが絶大な力を発揮して行く。その後太上天皇(譲位により皇位を後継者に譲った天皇)と藤原摂関家の主導権争いが加熱し、武士がその争いに引き入れられ、やがて武士が実力で貴族社会を打ち倒していったというのが大きな流れ。
古代から平安末期までの、天皇と豪族及び藤原氏の関係、また源氏と平家が現れ、天皇とどう結び付いていったのかが描かれ興味を引いたが、時代が前後して書かれていたり多くの人物が登場するため、文字だけではすんなりと頭に入らなかった。図とか絵で説明してくれた方が理解しやすい。
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以前は日本の古代史にはあまり興味がありませんでしたが、最近では遺跡の分析技術も向上したり、様々な新しい文献が発見されたりして、以前習っていた内容と異なる部分が、特に古代には多いようですね。
海に囲まれた日本は古代から海と上手に付き合ってきたのだと思います。小学生の高学年から大学に入るまで、海の見える町(神戸)に住んだ私にとって、海を見ていると心が安まります。この本をはじめ、類書を読むことで海と上手に付き合っていた古代の日本人に想いを馳せることができました。
以下は気になったポイントです。
・中国は「南船北馬」が有名であが、日本列島の場合「西の水運・東の陸運」「西の水軍・東の騎馬軍団」である、しかしこれは比較の問題であり、東の水運は近世に至っても重宝されていた(p19)
・日本の従来種の馬が皆小ぶりなのは、馬を船に乗せて運んだから、陸に上がれば川を遡上するために馬に船を曳かせた、古代の流通は海人の活躍に負うところが大きかった(p21)
・考古学が導き出した答えは意外で、富も権力も欲しない人々、が暮らしていた近畿南部のヤマトに、3世紀初頭、突然宗教と政治に特化されたとした出現して国の中心になってしまった(p87)
・雄略天皇は改革を急ぎすぎたようで五世紀末には政局が混乱し、王統が途絶えてしまった。そこで越(北陸)から男大との王(おおとのおおきみ)を連れてきた、これが継体天皇である(p117)
・遣唐使の航路でなぜ7世紀は安全な北路を使っていたのに八世紀になると危険な南路を横断したのか、これは7世紀後半に新羅が西海岸の百済の地域を手に入れたから。当時の日本と百済は仇敵であったので朝鮮半島の沿岸部を通ることができなくなった(p132)
・中国文明が滅びなかったのは、南に森林が残っていたから、しかし復活した漢民族が「南方的」になることはなかった(p167)
・三国志(魏呉蜀)の覇権争いは物語としては面白いが、状況は悲惨であった、天候不順と飢餓と戦乱で人口が最盛期の10分の1に激減した。実態は戸籍上の人口激減だが、それでも多くの人がなくなり逃亡した(p178)
・文明は人を幸せにするのだろうか、この根源的な問いかけを縄文人は繰り返していたのではないだろうか、だから素戔嗚(スサノオ)は日本列島には樹木がなければならないと訴えて植樹していたに違いない、森を失えば生活の場がなくなる、人々が争う、なぜそれば人間の進歩なのか。縄文人はすでに海人から多くの情報を聞きつけ気づいていたのではないだろうか。(p184)
・ヨーロッパと日本はどちらも、金銀銅(貨幣素材)を輸出し、アジアの文物を購入した、そして貨幣素材の流出が深刻化した。この問題に立ち向かうために、ヨーロッパは産業革命を、日本は「資本節約・労働集約型の生産革命」を起こし、アジア文明圏から自立し新しい文明を築いた(p193)
2022年5月8日作成 -
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弥生時代中期以降、農業が発展し地域ごとにクニを形成し小競り合い、3c初頭にヤマトの纏向に集まり政治と宗教に特化された都市が出現、3c後半から4cにかけてヤマト政権が誕生し東北北部を除く広域流通ネットワークが構築される。前方後円墳という埋葬文化を各地の首長が受け入れ先進の文物をヤマトの王が分配、ゆるやかなつながり「ヤマト政権」
著者の主張は、王家の母型の祖は縄文の海人の末裔、神武天皇は疫神を退治する役割で九州から連れてこられた、との2点。
纏向遺跡の外来土器の割合:東海49%、山陰・北陸17%、河内10%、吉備7%、関東5%、近江5%、西武瀬戸内3%、播磨3%、紀伊1%。
3つの謎、1:弥生時代後期の動乱がヤマト建国によって一気に収まり奈良盆地周辺に戦いの痕跡がない、2:弥生時代後期にもっとも鉄器を保有していたのは北部九州で奈良盆地は過疎地帯、にもかかわらず3c初頭に人が集まり北部九州は出遅れた、3:ヤマトの王は強い権力ではなく各地の首長によるゆるやかな連合体がうまれた。
=>戦乱の時代に富も力もない奈良盆地に一気に人々が集まりそれまでの混乱を平和的に解決してしまった。
後漢の衰退により朝鮮半島も混乱、楽浪郡、帯方郡ができ、それらの影響で倭国大乱。
魏志倭人伝では2c後半に女王卑弥呼、3c半ばに男王が立つも服さず千余人が亡くなり、台与が立つ。一方で3c後半から4cに纒向遺跡には箸墓に代表される前方後円墳の原型が完成、各地の首長が受け入れ平和な時代が到来した。
最新の考古学では、縄文時代と弥生時代の断絶はなく、北部九州沿岸では縄文の伝統を引く先住民が稲作を自主的に選択し渡来人と縄文人との共存。
食料が計画的に生産されるようになり、人口増加、新たな農地と水利をめぐって争いに。環濠が作られ、外敵から身を守るため高台に高地性集落を形成。北部九州は鉄器を大量に保有。それより東の地域は警戒し対策を立てる。
高地性集落は瀬戸内海沿岸部から淀川を遡り石川県にまで到達、3cに近畿と周辺で3度めのピークを迎えたあと消えて行く。
北部九州は東に鉄を流さないため関門海峡を封鎖、出雲と瀬戸内海側の吉備も北部九州と同盟?
出雲では青銅器を使った祭祀をやめ四隅突出型墳丘墓が出現、吉備には楯築弥生墳丘墓が(双方中円式墳丘墓)。2c末から3c初頭に三輪山山麓の扇状地に人が集まり政治と宗教に特化した都市が出現。人々は前方後円墳を作る行為を祭りとして喜んで引き受けた。
弥生時代のある時期まで、瀬戸内海から東側には比較的平等な階級差のない社会、銅鐸文化圏?
北部九州に強い王が生まれていく中、異なる統治システムの構築を。
畝傍山と橿原宮の周囲に九州の海人、大友氏と久米氏。隼人。阿曇氏
海の神、綿津見神、住吉大神、宗像三女神、北部九州と関わり深い。
阿曇氏は奴国の王族出身?
阿曇氏発祥の地は筑前国糟屋郡阿曇郷(福岡市東部)、志賀島の志賀海神社を祀ってきた。小童命は阿曇連の祀る筑紫の斯香の神。阿曇氏は海人の長、海部郡や海部郷は日本各地に点在。
対馬の和多都美神社の宮司も阿曇氏。奴国と対馬の関係。魏志倭人伝の対馬、壱岐、奴国、不弥国の副官はヒナモリで共通してる。奴国と伊都国はライバル関係。
倭の海人は卓越した航海術をもつ。中国の白水郎。呉越。
対馬、壱岐は縄文時代から日本。倭の海人の重要な貿易拠点。
遣唐使船のような構造船は難破で沈むが、丸木舟や丸木舟ベースの準構造船は絶対に沈まないので助かる確率が高い。
鹿児島県霧島市の上野原遺跡。縄文早期に南部九州で安定した定住生活。貝殻文様の土器。
鬼界カルデラの噴火により南部九州の住民は日本各地へ。燻製技術や丸木舟をつくる道具。南部九州はもとはスンダランドの海人で、スンダランドの水没により移動してきた。
南西諸島から九州の西側を通って日本海につながる海の道。 -
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ネタバレいわゆる通説を覆す系の本。日本書紀は実質的に編纂した藤原不比等の意向により藤原氏の正当化がなされているというのが全体的な主張。史学と考古学さらには万葉集といった文学を統合させて自説の根拠としてく手法は壮大だが、こうした本の例に漏れず主張が断定的で眉に唾つけて読むことは必須。
ヤマト政権は瀬戸内、日本海、東海などの各地勢力が奈良盆地に実権を持たない祭祀王を推戴することで成立した。
院政が権力を摂関家から天皇家へ奪い返すことができたのは、人事権によるもの。生前退位による後継者指名によって藤原家の息のかかっていない皇子を天皇にすることができたため、外戚としての摂関家の重要性を低下することができた。乾隆帝の生前退位と同じ理屈か。 -
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ネタバレなぜ、ほぼ同じ時期に『古事記』(712)と『日本書紀』(720)というふたつの歴史書を必要としたのか。しかも『古事記』は新羅に好意的で、『日本書紀』は百済に好意的(反新羅)である。中国の歴史書は多くの場合、新王朝が前王朝を倒した正統性を明らかにするために記されていることを考えれば、当時の日本では、2つの王朝が争っていたと推測できる。
当時(7世紀中頃)の朝鮮半島情勢を見てみると、新羅、高句麗、百済が鼎立した三国時代。もともと、新羅、百済などから日本への移住者はおり、政権争いもあった(乙巳の変)。さらに、唐が新羅を支援して百済を攻撃し、百済が滅亡する(660年)あたりから、百済の遺民が大量に日本に入ってくる。
百済滅亡を機に663年、朝鮮半島の白村江で、日本・百済遺民の連合軍と唐・新羅連合軍との戦争が起き、日本は大敗し、唐・新羅に対する防衛強化が必要となる。このような外交政策の中で672年に生じたのが、壬申の乱である。天智天皇亡き後の天智天皇の弟(大海人皇子)と息子(大友皇子)の争いとされているが、663年の白村江の戦の延長線上で考えるべきであろう。つまり、天智天皇は舒明天皇と皇極女帝の間の子(百済系)であり、その息子である大友皇子(弘文天皇)は百済系である。しかし弟である大海人皇子(天武天皇)は蘇我系の高向王(壬申の乱の立役者)と皇極天皇の間の子(異父兄弟)であり、新羅系ということだ(p.144)。つまり壬申の乱は、新羅と百済の戦いが背景にある。勝って即位したのが新羅系の天武天皇である。
ふたつの歴史書がある理由について、『日本書紀』は、百済の王子である中臣鎌足を始祖とする藤原氏が、改革派である蘇我氏を排斥する一方、蘇我氏の功績を聖徳太子という架空の人物の功績にすり替えることで、一方的に蘇我氏(新羅系渡来人)を悪者にする立場で記されたものであるとする。一方『古事記』は、親新羅の天武天皇の勅命によるものであるが、その妻であり次の天皇である持統天皇以降が実は、百済寄りの政権であったため、『日本書紀』が正史として編集されることとなった。その一方、『古事記』は、新羅系の秦氏によって、その奉祭する神統譜を『古事記』に加条することによって、新羅系渡来人の正統性を訴えるために執筆された、とする。
この「2つの歴史書」の問題を当時の朝鮮半島情勢や渡来人と密接に絡めて検討をしている点には面白味を感じる。著者の推理により結論付けている点が多いのは確かであるが、資料万能主義に囚われた歴史観は、歴史上の勝者による一方的で独善的なものになりかねない。従って、隣国の動きや人間の情も入れつつ、批判的に見て、推理することも必要だと思うし、面白く分かり易い歴史観が提示されていると捉えてよい思う。 -
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ネタバレ積読消化。
古代史の謎=語られない(隠された)歴史のありかと、それらを解き明かすことの面白さを伝える本。
筆者・関氏の持論や思想が強く著されている部分も多分にあるけれど、それらを含めて素直に、とても面白かった。古代史関連の知識がほとんどない私のような人間からすれば、古代日本史のイメージを一変させられる内容だった。
古代を舞台にしたドラマや映画がもっと流行ればいいのに…と思うほど、展開がドラマティックで、人間味があって、裏表が複雑で、面白い。隣国中国の古装劇(古代ドラマ)のような感じで、もっと作ってみればいいのに。うちの国でやると、史実がハッキリしないことには炎上しちゃうんだろうか…。
下記のフレーズが、関氏のメソッドや立場をよく表していると思う(断って、関氏は史学的、物質的な成果を否定したり無視しているわけではない)。
『歴史を作るのは人間であり、人間の愛憎が、社会を動かしている。また、人間が集まれば、かならず、派閥を作り出す。だから、人間の愛と憎しみ、徒党を組む様子を眺めていけば、史学者が見逃した、意外なヒントが浮彫になってくることがある。』 -
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ネタバレ著者は、中大兄皇子とともに乙巳の変をなした中臣鎌足を百済王子の豊璋であったと考え、平安京は鎌足を始祖とする百済系の藤原氏が自分たちのため、自分たちの都合の良い天皇(桓武天皇のお母さんは新羅からの渡来人。)のために造った都だとしていました。
聖徳太子や山背大兄王は始めからいなくって、改革派だった新羅系の蘇我氏を滅亡させた自分たちの行為を正当化するために藤原氏が日本書紀などの歴史書を捏造したって考えているみたい。
その角度で桓武天皇があわただしく藤原京から長岡京、平安京と遷都した意味を考えた1冊でした。
確かに歴史は勝者のものだものね。
天武天皇の後を継いだ持統天皇が、天武系とは別系統の王朝を立てたと考える理由がこの本には詳しく出ていなかったので(確かに持統さんは天智天皇の娘だけどお母さんは蘇我氏だし…)その辺りもいずれは確認したいと思います。
あと、東国に藤原の敵がいたと考えるならば、やはり継体天皇についてもっと言及して欲しかったかも。これも他の本に書いてあるのかな?
歴史本はいろんな角度からいろんな考え方があるから、面白いなぁ♪