辻邦生のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
私はこの本は、本知人が「思春期の青少年にぜひ読んでもらいたい」と言っていたので(思春期ではないけど)読みました。
確かにその推奨の言葉の通り、古代ローマ帝国時代の話ではあるけれど、困難な人生に投げ出された若きユリアヌスが迷ったり苦しみながらも自分で進んでゆく姿は、現代の読者も彼の気持ちに沿いながら読んでいけます。
だからこそこの4巻は、ユリアヌスの危機、もどかしさ、空回り感が息苦しかった…(T_T)
青少年の皆様、ぜひユリアヌスと共に人生の道のりを体験してください。
私のような青少年をとっくに過ぎている皆様(笑)にもおすすめです!
※※※以下ネタバレしています※※※
皇帝コンスタンティウス二世の軍隊の前に苦戦を強いられるユリアヌス。だが、、なんと「皇帝コンスタンティウス二世が熱病で急死した。遺言では唯一の肉親であるユリアヌスを皇帝に指名した」との知らせが入る。ユリアヌスは首都コンスタンティノポリスの宮廷にり、反ユリアヌス派を退け正式に皇帝指名受けた。
だが彼の皇帝就任の演説は宮廷の人々を戸惑わせた。ユリアヌスは、正義を持ってローマ帝国の広大な土地のあらゆる人々の秩序を解き、そのためには一人ひとりの力が必要なこと、そして寛容を持って帝国を治めることを宣言したのだ。
現代感覚では、寛容とか、一人ひとりが当事者として国を作るとか、施政者として素晴らしいではないか!と思うんだけど、この頃のローマ皇帝には全く求められていなかったんですね…。宮廷の人々は「正義?秩序?寛容?それは学校で哲学者が言うことだよな?皇帝が言うことか??」という反応だった。
この後も皇帝としての勅令を出してもあらゆることがうまく伝わらない。
ユリアヌスは国政のために哲学者を呼び寄せたが、哲学者はあくまでも議論や学問として哲学を用い、責任や困難が伴う政治に関わりたがらなかった。
ローマ帝国の精神は古代ギリシャ・ローマの神々への信仰により培われたと考えるユリアヌスは、古代の神殿を再興し儀式を命じるが、神官たちはすでに形式だけの儀式しか行う気がなく、いまさら本気で信仰を戻すことはできない。ユリアヌスの古代宗教回帰は、人々の笑いものになるばかりだ。
さらにユリアヌスはキリスト教も認めてはいたのだが(宗教の自由を認めた)、キリスト教徒たちは「皇帝は絶対に禁止令を出す!」と決めつけて暗殺計画や暴動を起こしまくる。それに対して寛容で対応しても、キリスト教徒たちはさらに暴動を起こすばかり。
ユリアヌスが現実的に一般市民の経済や食糧安定を図るが、上級役人が名ばかりの役職で膨大な給与を得たり、飢饉のときには役人や商人が食料を買い占めて市民が飢え死にするのを見ながら料金を釣り上げて膨大な資金を得る。
人々は、哲学や宗教(古代神へもキリスト教でも)で「平等、秩序」を口にするが、実際には飢え死にする人が増えれば「買い込んだ食料の値が上がる!」と大喜びする、これが人間の現実だ。
歴史的に、ユリアヌスの死後彼の古代の神々回帰は全て反故にされ彼はキリスト教にとって「背教者」の名前をつけられる。
ユリアヌスは「民衆一人ひとりがローマ帝国」といいながら、「古代ギリシャの神殿に一日100頭の牛を生贄にすることを命令する!」などと、現実が見えていないこともしてしまっている。
しかしユリアヌスはあくまでも「融和」を唱えた。ユリアヌスにもっと余裕と味方があったなら、宗教による迫害や戦争は少なくなっていたかもしれない、というあり得なかった未来も考えちゃうんだよなあ。
そして物語の終盤。ユリアヌスは大群を率いてペルシアに進軍する。
はじめこそユリアヌスの戦略があたり、そして軍人にとってユリアヌスは熱狂的に指示されていたので、この本では久しぶりの明るい展開。…いや、大いなる犠牲が出た戦争で「明るくなった」ってのはおかしいんですが、あくまでも本の印象ってことで…。
そんな戦争の折にもユリアヌスは哲学書を読みふけっていた。戦争、政治、経済、宗教に悩まされているからこそ、それら全てよりももっと大きい真理が哲学なのだ。
物語の最後はユリアヌスの死。(その後の歴史のことは一切触れない。物語として潔いいなあ)まだやることはたくさんあっての死だ。しかしユリアヌスは、人間の生を越えた真理を感じて目を閉じるのだった。 -
Posted by ブクログ
副帝としてガリア地方(現在のフランスとかベルギーとかのあたり)統治を任されたユリアヌスは、現地の兵士たちからの圧倒的な指示を得ていた。
だが皇帝コンスタンティウス二世の宮廷の高官たちはユリアヌスの失脚を謀る者たちばかり。唯一の味方は、皇帝コンスタンティウス二世の皇后で、ユリアヌスと愛し合うエウセビアだ。本来は明るく、唯一皇帝コンスタンティウス二世を説得することができ、政治的目線も優れているエウセビアだが、ユリアヌスへの愛に苦しみ衰え、ついには密かな大罪を犯し、病に伏せていた。
ユリアヌスはルテティア(パリ)を本拠地として、ガリア地方では圧倒的な指示を得た。だがそれはローマ帝国の正当性を訴え、皇帝コンスタンティウス二世の元での統治と心得ていた。だが唯一の味方エウセビアがいなくなった宮廷には、ユリアヌスを失脚(そして処刑)しようとする者たちばかりになった。彼らからの讒言に、皇帝コンスタンティウス二世はユリアヌスとその軍隊に向かって無茶な命令を次々に送る。ガリア地方の住人、軍人たちは我慢の限界に達し「我らがユリアヌスを皇帝に!」との叛乱を起こす。
彼らに担ぎ上げられる形で、ユリアヌスは「皇帝」を名乗ることになった。
…このあたり史実ではどうなんでしょうね。小説ではあくまでも「ローマ帝国の正当性を訴え続けたが、皇帝コンスタンティウス二世の宮廷からあまりにも軽んじられ命を粗末にさせられるので、民衆から担ぎ上げられた」という形です。
幼い頃は幽閉され、青年時代(今も若いけど)は哲学や古代文学に親しむユリアヌスは、軍略や政治に優れ、演説もうまかったことは書かれます。
財政
「財源不足対策として一般農民に追加税は反対する。まずは無駄な支出を抑える。支払いも延滞(リボ払い)を制限して一括払いにさせよう。なんといっても、一般人民のための国家財政なんだから、その財源を確保するために一般人民を苦しめるなんてもってのほか」
…現在にも通じるんだけど!!!
戦争略奪
「婦女暴行禁止」というのは、兵士たちも「まあ自分の母・姉妹・娘がそんな目にあったら嫌だから、敵の女性にそうしてはいけないというのは納得しましょう」だったけど、「略奪禁止」には「だって給料もらえないんだからしかたないじゃん!略奪できるからこそ徴兵に応じてるんだけど!!」という声を抑えるのには苦労している。
キリスト教司祭「神の前にはみな平等。ローマ帝国は支配者と被支配者を作っている。人間の力を神の前に委ねるのだ。」
ユリアヌス「人の世には統制が必要。人々それぞれの幸福はただ平等だけでは実現できない。秩序を持って統治者が全体への配慮を行うという意味での階級は不可欠。」(P107あたり)
ユリアヌスは、哲学も政治も軍事も同じ根底は精神が流れていると考えている。そして広大なローマ帝国には、多くの民族、多くの市民、多くの宗教、多くの風習があることも分かっている。そこで秩序のための根底として、哲学による統治を望んでいる。ユリアヌスははっきりと「このローマ帝国の基盤となった古代の神々の復活」を命じるのだった。
3巻の終わりは、ただ守っているだけでは皇帝コンスタンティウス二世には声は届かないとして、首都コンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)へ進軍する。
ガリヤ軍の熱狂的な支持とユリアヌスの戦略により戦況は順当だった。しかしローマ帝国宮廷には敵だけのユリアヌスは他の将軍たちの協力を得ることは難しいうえ、宮廷からの密偵にも裏をかかれて…。 -
Posted by ブクログ
前巻で、粗野ながら皇帝の親族としての誇りを見せ、性格の違うユリアヌスとは妙に気の合った異母兄ガルスは、副帝となってアンティオキア(現在のシリアとトルコの国境あたり)に向かう。巨大なローマ帝国の反乱を抑えるのだ。
しかし冒頭は、ガルスと、その妻コンスタンティア(コンスタンティヌス大帝の娘で、皇帝コンスタンティウス二世の妹)の残虐行為が並べられてげんなりする…_| ̄|○
現在のローマはキリスト教を国教としているが、ガルスとユリアヌスの父はローマの多神教を信仰していたために殺された。ガルスもユリアヌスも、キリスト教に開教しているが、ローマ帝国での立場はかなり悪い。ちょっとしたことで反乱を疑われるし、もともとのキリスト教派閥からは失脚を狙われている。
もともとプライドが高く粗野なガルスは猜疑心を高めて、役人にも任地の人々へもあまりにも過酷で残虐な行為を行う。
妻のコンスタンティアは、本来兄と夫の取り持ちの役割なのだが、彼女がまた恐ろしく高慢で冷酷で自分こそが女帝になるべきだと思っている。
…もう、この夫婦、手がつけられません、目が合っただけで酷い殺され方しそう…(-_-;)
一連の残虐行為は、ガルス(と、ユリアヌス)の失脚を狙う大司祭エウセビウスたちには格好の口実となり、ついにガルスは皇帝コンスタンティウス二世に呼び出される。そんな折に、コンスタンティアが熱病で死んでしまう。もう誰もガルスを助ける者はいない。ガルスは罪人として処刑される。
ユリアヌスは、ローマ帝国の大都市ニコメディアにいた。哲学を学び、密かにギリシャ古典や宗教に親しみを感じている。身分を超えた友達もできた。金髪で明るい目のゾナス、高名な軽業師一味の花形ディア。ディアはユリアヌスを愛しているのだ。
ゾナスたち学友とはいい関係だし、ユリアヌスが知らないことをたくさん教えてくれる。しかし立場により見えているものの違いがある。ゾナスは政治論議をするが、ユリアヌスは実際に政治的理由で命も危うい。ゾナスは葡萄の収穫量から葡萄酒の相場を予測するが、ユリアヌスは葡萄相場を仕切る商人や役人たちが収穫量を減らすために葡萄畑を焼き払うことを知っている。市井の人々は一杯の葡萄酒を唯一の楽しみとし、それを巡っての争いもある。しかし取り仕切る人たちは自分たちが儲けるために手荒い真似をする。
そんな学びを行っていたユリアヌスだが、ガルスを排除したキリスト教派の次の標的はまさしく彼だった。処刑の危険に晒されるユリアヌスに運命のような出会いが訪れる。皇帝コンスタンティウス二世の皇后エウセビアだ。
この物語に出てくる女性はそれぞれが個性的です。
ユリアヌスの母のバシリナの明るさ。
コンスタンティウス大帝の娘コンスタンティアは冷酷で高慢で鋼鉄のよう。
軽業師の花形ディアが身分違いのユリアヌスに向けるまっすぐな想い。
そして皇帝コンスタンティウス二世の皇后エウセビアは、酷薄なコンスタンティウス帝を唯一動かせる妻で、性格も前向き、政治手腕もある人物。
そしてユリアヌスと皇后エウセビアはお互いを愛し合うようになる。もちろん秘密中の秘密。皇后エウセビアは、ユリアヌスを助けるために政治手腕を働かせたりコンスタンティウス帝を動かしたり尽力する。
ちょうどその頃、ガリア地方(現在のフランスとかベルギーとか辺り)ではゲルマン人との戦闘が起こっていた。皇帝コンスタンティウス二世はユリアヌスと自分の妹ヘレナを結婚させ、副帝としてガリア地方反乱の抑えとして赴任させることにする。
恋する皇后エウセビアは苦しさのあまりに政治どころでなくなる。その隙をつき、大司祭エウセビウスとその一派はユリアヌスを失敗させるために、自分の派閥の人間をユリアヌスの周りに配置する。
恋の苦しみのさなかに合った皇后エウセビアは、自分が完全に遅れを取ったことに気が付き、信頼できるサルスティウスをユリアヌスの側近として送り込むことで精一杯だった。
戦闘経験のまったくないユリアヌスが、兵訓練で経験を積む場面で彼の本質がよく見えるんですよ。
指示の失敗で軍隊が混乱したときに、自分の失策を認めて反省と更なる向上を使ったうえで「しかし兵の一人ひとりが自分と一心同体になり、自分の意志を読み取ってくれ!そうすれば等しく正しい動きができるはずだ!」と真摯に語りかける。
兵士たちは、経験もなく年も若く力も弱そうで、大帝の親族とは言え政治的には傍流であるユリアヌスの直接の言葉に、それまでの指揮官とは違ったものを感じ取った。
そしてユリアヌスは、ガリア地方を任されたからには「ガリア人の幸福」のための政治を行わなければならないと思っていた。これもいままでの指揮官とは違う考えだ。
<この若い副帝は、そうしたことを辛い境遇のなかで知らされながらも、なお人間本来の夢のような理想に憧れている。(中略)
人間が地上に生まれて、ただ一回きりの性をしか生きられないのなら、人間が果たせぬ夢と思い描いたこの美しい夢をどうして描かずに済ますことができるのだろう。あるいは、こうして夢を見続けた人間があるからこそ、ローマ帝国はこのように普遍の正義を保ち得たのかもしれぬ。(P385)>
ユリアヌスは政治的には傍流だったために、むしろローマ帝国のあちらこちらに行ったり、勉学に励むことができた。そこで自分なりの宗教や政治の考えを持ち、自分で友人を選ぶこともできた。
このころのユリアヌスの宗教に対する考えは、キリスト教は人間に向いていて、ギリシャ・ローマなど他の神々は儀式や祈りだけ。しかしそんなキリスト教を信仰する人々は、政治的利用であり人々のことを考えておらず、自分の栄誉のために人を貶め蔑ろにする。
ギリシャ・ローマの神々は、昔からこの地にいた。それが急で強引なキリスト教布教により神々が消え去ることなどないだろう。(キリスト教はそれまでには激しい弾圧に合っていたんですけど)
ガリア地方に向かったユリアヌスは、ローマ帝国の「疲労」を感じる。
ギリシアの神々を信仰しながらキリスト教の神にも祈るある女性が言った。「キリスト教徒は、自分を捨て、何もかも神の前に投げ出して、すべてを神の思し召しのままに委託する。そこに安らぎがある。ギリシャには美しい文章や高雅な彫刻があるが、人生の不安に怯えるときにそのようなものが何の役に立ちましょうか。キリスト教はただ真実だけで飾ることをしないのです。」
そしてアルプスを通り、ガリアとの辺境レーヌス河(ライン川)を越えてゆく旅路でユリアヌスはその地方の光景に天啓を受けた心地になる。
ついにゲルマン人との戦闘が始まる。激しい戦闘。だがユリアヌスと兵士たちは一体となり乗り越えたのだった。 -
Posted by ブクログ
読書知人に大変とても熱心にお勧めされた本。といってもその方がお勧めする相手は「青少年」なのですが、周りにこれを読む青少年がいないので私が読んだ笑 皆さんの周りに青少年がいましたらおすすめしてくださいませ。
まずは歴史背景。
主人公ユリアヌスの父は、ローマ皇帝コンスタンティヌスの弟のユリウス。
コンスタンティヌス大帝(在位306年〜337年)は、それまで迫害されていたキリスト教を容認して自分も帰依した。ローマ帝国の首都もローマからコンスタンティノポリス(現イスタンブール)に遷都されている。
しかしその弟ユリウスはキリスト教よりもローマの多神教を信仰していた。
なお題名の「背教者」はキリスト教を中心としての蔑称ですね。
小説は、ユリウスの後妻となった若いバシリナが、権謀蠢く宮廷におそれもせずに加わったこと、妊娠した子がいつか皇帝になる予言を夢に見るところから始まる。
バシリナの出番は少ないのですが生き生きとして清々しい人だった。
ユリアヌスはユリウスの末子として別邸に暮らしていた。だが337年コンスタンティヌス大帝が崩御すると、遺言により三人の息子にローマ帝国を三つに分けて統治させた。
ガリア地方はコンスタンティヌス皇子(コンスタンティヌス二世)。東方全域はコンスタンティウス皇子。イタリア、イリリアはコンスタンス皇子。
これに焦りを感じたのがキリスト教の老司祭エビセウス。キリスト教は過去酷い迫害を受けてきた。コンスタンティヌス大帝により庇護されていたが、いつまた迫害されるかわからない。
そこで東方を統治する皇帝コンスタンティウス二世に近づき信頼を得ると、キリスト教に反対する一派、皇帝の兄弟とその子供たちを殺害させたのだった。ユリアヌスの父や異母兄たちも殺されたが、一番歳の近い兄ガルスとユリアヌスは幼いために助けられた。だが兄弟は幽閉生活を送ることになる。
ユリアヌスは温厚で思慮深い性質で、なぜ自分が皇帝コンスタンティウス二世の命令により住居を移したり祖母と会えなくなったのかわからないまま勉学に励んでいる。父たちを殺した司祭エビセウスからも教えを受けるが、どうにも苦手な、合わなさを感じていた。
キリスト教も学ぶが(実はキリスト教を拒絶すると亡父のように危険視された可能性があるので乗り切って良かった良かった)、学術としてはギリシャ・ローマの古典、神話、哲学に惹かれた。
その頃ユリアヌスは読書に出会った。
<彼はそのとき、ほんの瞬間であったが、不死に似た感覚を、ふと味わい、思わずそのなかにのめりこんでいった。彼はそのなかに懐かしい母や、不慮の死を遂げた父がいまなおいるような気がしたのである。(P181)>
異母兄ガルスは活発で、子供の頃はユリアヌスを虐め、成長してからは見えない未来に粗雑な性質になっていく。最初はどうにも気が合わない兄弟だったが、幽閉屋敷の見張り役宦者オディウスがユリアヌスに力仕事までさせるのを見て怒りを爆発させる。オディウスから皇帝に讒言されれば死罪を申しつかるかもしれないが、それよりも大帝コンスタンティヌスの甥である自分たちが軽んじられることは誇りが許さない。
このガルスは最初は粗野でユリアヌスにも冷たいかと思ったら案外いいやつでした。こうして兄弟はお互いを信頼し、「いつか俺が皇帝になるようなことになったら、お前を副帝にして共に国を治めたいものだ」と言う仲になる。
ガルス、いい奴!やっぱりローマ皇帝の親族って、プライドも腹の座り方も、粗野にみえてもディベートもうまいんだろうなあ。
ユリアヌスは皇帝コンスタンティウス二世たっての願いでキリスト教の洗礼を受ける。このころキリスト教が国教となっていたので、貴族や上流階級たちは商売や昇格に必要なために洗礼を受けるのは当たり前となっていた。ガルスもそうだった。
だがユリアヌスは自分なりに考え、街の学校に通いながら自分で見て、洗礼を受けることにした。
街で見かけた貧しい人々、病気の人々に喜捨を施すのはキリスト教の修道僧たちだけだったからだ。
他の宗教は、ギリシャ・ローマの太陽崇拝も、バビロニアの神々も、ミトラ教も、ただ呪術にふけったり踊ったりするだけで、誰かのために何かをするものはない。キリスト教だけが街角での奉仕を行っていたのだ。
この間にもローマ帝国の勢力は大きく動いていた。
コンスタンティヌス帝(コンスタンティウス二世の兄)のガリア地方(現在のフランス、ベルギーあたり)、コンスタンス帝(コンスタンティウス二世の弟)のイタリアやイリリアでは反乱や外圧が起きる。結局二人は殺される。
兄と弟の死に、皇帝コンスタンティウス二世は、いまこそローマ帝国を父の時代のように一つに治めたいとするが、あまりに広大なローマ帝国は思うように統一することは困難だった。
ここで出てくる鋼鉄のような女性が出てくる。コンスタンティウス大帝の娘、コンスタンティアだ。彼女は夫の死後地方領地で暮らしていた。そのためにローマ皇帝の直接の支配が行き届かない地方都市の状況を実感としてわかっていた。
コンスタンティアは、その地方に副帝を立てて独立させる。しかしそれは兄の皇帝コンスタンティウス二世に対する反乱などではなく、あくまでも協力だった。独立し、すぐに皇帝コンスタンティウス二世と同盟を結ぶことで、地方住民に自分たちはローマ帝国に関わりがあり、外圧に対して自分たちこそが戦わなけければいけないという自覚をもたせるのだ。
皇帝コンスタンティウス二世は、妹コンスタンティヌスと手を組み、そして唯一となった親族のガルスとユリアヌスの幽閉を解いた。ガルスは皇帝コンスタンティウス二世の従弟として軍を率いることになる。
まだ若いユリアヌスは自由に学ぶことを許された。友人もできた。地方から出てきてギリシャ古典を学ぶ金髪のゾナスとは、自分たち若いものが何を学ぶか語り合う親友とも言うべき仲になった。だがユリアヌスは自分の身元は決して明かせない。
ある時、ゾナスの言葉からユリアヌスは父ユリウスの死の真相を知る。キリスト教派が、異教を信仰する者たちを謀殺したのだ。そして司祭エビセウスが、自分が殺した相手の息子である自分と素知らぬ顔で接していたことに怖れと嫌悪を感じる。キリスト教の教えとはなんだ?地上の栄光を捨てるなどと言いながら、権力のために反対派を殺し左遷する。これが実態なのか?
実務的な兄ガルスは「皇帝コンスタンティウス二世がキリスト教に帰依したのは信仰心ではなく、広大なローマ帝国に中心となる楔としたかったという政治的理念のためだ。統治するためには、真理や正義を考える必要はない。実際の生活のために、法律を制定し、インフラ(現代の言葉で言えば)を整える。統治のためならどんな手段をとってもそれが正義だ」と言う。
だがユリアヌスは、正義を実現する政治があってもいいだろう、そうでなければ人間の思考は何のためにあるのだ、と考える。
二人は根本の意見は異なるが、まあお互いの言うことも分かるんだけどね…というところが今のところいいバランスです。
1巻最後でガルスは政略結婚としてコンスタンティアを迎えました。
そろそろ成人に近づくユリアヌスも皇帝一族としての立場も出てきそうです。 -
Posted by ブクログ
西欧人が語る大殿(シニョーレ)織田信長は、きっとこのような人物だったのだろうと思わせる。
好奇心高く芸術家を敬い西洋の技術に深く関心を持ち、道理を求め「事が成る」ことをもって自身の道を貫くために非情となり、それは周囲の理解を得られず孤立していく。
宣教師らには人なつこく冗談に笑うほど心を許したと言うのも安土城下にその城郭と同じ青瓦のセミナリオを建立させた事からも本当だったのだろう。
宣教師ヴァリニャーノがヨーロッパに帰国する事になった際、見送る為に催した夜の祭典で、安土城が一斉の篝火で浮かび上がった情景は素晴らしく、黒装束で信長自らがたいまつを掲げ宣教師に言葉を送ったと言うのも、西洋の宣教師らに対する深い思いが伝わってくる。
信長の時代がもっと続いたらどうだったかななど思いを巡らせながら歴史が現在につながっている事を痛感するから史実は面白い。
豪華絢爛な安土城が現存していないのが本当に残念です。 -
Posted by ブクログ
これはぼくだけしか見られない、ぼくだけが見ている、ぼくの世界で、ぼくが死んでしまうと、だれもそのなかに入って知ることはできない。だから、この世界をだれかほかの人に伝えるためには、その感じ方、色彩、雰囲気を正確に書かないと、ぼくが死んでしまったら、もうこの地上から消えてしまう。 作者の、切実な、印象的なフレーズ。
……ついでながら、私が、辻邦生氏の作品の中で、一番好きなのは、短編、 献身 です。アルチュール.ランボオの生涯と彼の妹の、ランボオへの献身 をえがいた、ランボオの独白がすごい迫力で読んでいると、ゾクゾクして、くらくら感動します。…シャルトル幻想 という本の中に入っていて、 この作品だけノートに書きうつして、生きるのにつらい時、読み返しています。生きろ!という気持ちになる。
-
Posted by ブクログ
フィオレンツァの、壮大な叙事詩を読み終えた。
サンドロ(ボッティチェルリ)で始まり。
ロレンツォ(メディチ家)に継がれ。
ジロラモ(サヴォナローラ)で終わる。
芸術家(サンドロ)が生まれ。
パテント(ロレンツォ)が育み。
宗教家(ジロラモ)で影を落とす。
そんな4部作であった気がします。
今の世の中、ここまでの長編を読むに耐えれる読者が少なくなっている事もあるとは思うし、同じ言い回しを感じることも遠ざける理由かとは思いますが、やはりここまで長時間読むことに付き合うと、心に残る残像も、全然違ったものになるなーと思いした。
ただ、求められるからかと思いますが、長編やこんな叙事詩を書ける(挑戦)する文筆家も、なかなか見なくなって寂しい気分も同時に味わいました。
サンドロの、
「目をそらすな」
というセリフがずっと胸のどこかに引っかかったまま。
それを感じつつの読書でした。
p.s.
小説家の飯嶋和一さんの作品も好きなんですが、ここまでの辻さんのような長編はまだ記憶にないので、もし書いてくれたら読んでみたいな、と感じる作家さんの一人。 -
Posted by ブクログ
京に上り、政にも拘わり歌を詠みつつも、この世を浮世とみる心が芽生える。己の心に従い過ぎる時のままに生きることにした。西行の歩いた道のりは、辻邦生という作家の筆でより深く語られている
花の季節に、西行墳のある弘川寺を訪ねようと思っていた。今年になって、桜の季節までに評伝を読んでおこうと思いたって、辻邦生著のこの本を選んだ。
藤原鎌足を祖とする裕福な領主の家に生まれたが、母の願いで官職を得るために京都に出た。
馬術、弓道、蹴鞠、貴族社会の中で身につけなくてはならないものは寝食を惜しんでその道を極めた。
流鏑馬では一矢も外さない腕を見せ、蹴鞠は高く蹴り上げた鞠を足でぴたりと止めて見せた。
当時の社会で歌の会に連なることも立身出世の道だった。武芸が認められて鳥羽院の北面の武士になり、歌の道でも知られてきた。
鳥羽上皇の寵愛を失った待賢門院を慕ったことや、突然従兄の憲康を亡くし、その失意から出家したといわれてはいるが、辻邦生著の「西行花伝」は著者の想像力と、残る史実を基にした壮大な芸術論で、西行が歌の中で見出した世界が、著されている。
そんな中で出家の動機がなんであろうと、その後、この世を浮世と見て、自然の移り変わりを過ぎ行くものとして受け止める心境を抱く切っ掛けが、出家ということだった。
「惜しむとて 惜しまれぬべき此の世かな 身を捨ててこそ 身をも助けめ」
人間の性には、どこか可愛いところがある。そうした性の自然らしさを大切に生きることが歌の心を生きることでもある。肩肘張って生きることなど、歌とは関係がない
「はかなくて過ぎにしかたを思ふにも今もさこそは朝顔の露」
時代は院政から武家に政がうつっていき、保元・平治の乱が起き、地方領主は領地境で争っていた。
西行は、待賢門院の子、崇徳帝の乱を鎮めるために力を尽くし、高野山に寺院を建立し、東大寺再建の勧進行のために遠く陸奥の藤原秀衡を訪ねたのは70歳の時だった。
「年たけてまた越ゆべしと思ひきやいのちなりけり小夜の中山」
こうして出家したとはいえ時代の流れに関わり続けながら、それを現世の姿に捕らえ、歌は広く宇宙の心にあるとして、四季の移り変わり、人の世の儚さを越えた者になっていった。森羅万象のなかで、花や月を愛で、草庵を吹く風の音を聴いて歌を読み人の世も定まったものではないと思い定めた。
そうした西行の人生を、辻邦生という作家の筆を通して感じ取ることが出来た。
「仏には桜の花をたてまつれわが後の世を人とぶらはば」
「なげけとて 月やはものを 思はする かこち顔なる わが涙かな 」(百人一首86番)
「願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ」
と詠んだ春、私は桜が満開の900年の後、西行墳を訪れ、遠い平安・鎌倉の時代に生きた人の心を実感した。 -
Posted by ブクログ
読書って、出会った時の体力と精神力の充実度で、読める・読めないということに繋がる時がある。
辻さんの本は、気力充実、且つ、心に遊びがある時に手に取れると、スゴく良い時間になってくれる。
その意味で、いいタイミングで読めて大変楽しめました。
【たとえば鳥が空を飛んでゆく。それは日々気にもとめずに見る平凡な風景である。だが、なぜ〔その〕鳥が〔その〕とき〔そこ〕を飛んだのか、と考えはじめると、平凡な風景が突然平凡ではなくなり、何か神秘な因縁に結びついた「現象(あらわれ)」に見えてくる】
西行法師、として生き切ったのではなく、佐藤義清として自身の生涯と格闘していたのだな~と、とても身近に感じれた一冊でした。 -
Posted by ブクログ
今年の夏の長編読書は辻邦生の嵯峨野明月記.しばらく前に買ってあったのだが,まったく,改行のない文章の密度に,なかなか読み始める機会が来なかった.
さて,実際に読み始めてみると,小説世界にすっかり入り込み,電車の中で,あるいは夜の時間に,本を開くのが楽しみでならなかった.
一の声が本阿弥光悦,二の声が俵屋宗達,三の声が角倉素庵.この三つの声が,交互に語り合うことで話が進む.信長の時代から,秀吉を経て,江戸初期に至る時代を背景に,自分の芸術,学問の獲得に格闘する三つの声.はじめは全く違うテーマを奏でているのだが,それに少しずつ響き合う様子が生まれてきて,三人の力で嵯峨本とよばれる豪華な装丁の活字本を作るクライマックスに至る.この構成を考えた作者はきっと,バッハを意識していたと思う.
緻密で理知的な文章,難しい漢字(私には読めない,意味がわからない漢字がたくさんあった.何度,漢和辞典を引いたことか!)と,本書を読むにはいろいろ高いハードルがあるが,最近の小説に物足りなさを感じている人や,辻邦生の初期の「夏の砦」「回廊にて」を好きだった人には,大きな読書の楽しみを約束する本である. -
Posted by ブクログ
辻邦生の安土三部作のうちで最も有名であろう。鬱屈する事情を抱えたジェノバ出身のある船員の書簡の形で、信長の周囲の人物たちの思考と行動とが、一種突き放した観察の乾いた描写で書かれ、そのことによって、孤高のシニョーレ信長が鮮烈に浮かび上がる。そういうしかけの物語。
数十年にわたって再読三読している本(焦げ茶の単行本)だが、若いときには、その物語性、圧倒的に美しく知的な文章、ライトアップされた安土城に松明持つ馬を駆けさせる、といった耽美的ともいえる情景創造に驚き、正に耽溺しつつ読んでいたように思う。
今、再読して特に思うのは、「理に適うことを持って事を成す」という西欧的思考を1960年代後半に既に突き詰めていたことの特異性である。
一貫して執拗といえるほどに描かれるのは、信長における「「理に適うこと、事が成ること」が全てに優先される」という思考と姿勢と行動である。だからこそ日本社会において孤独であり、(イエズス会という政治的思惑があるのだが)宣教師達の思考と行動に触れ共鳴した。そして、そのことに深いところで気づいたのは、おそらく巡察司ヴァリニアーノとこの船員だけであったろう、ということが語られる。
実際には、周囲の人物の思考と行動が信長との緊迫した関係性とともに書き込まれており、その一つ一つが信長の像を浮かび上がらせていく。
・生の喜びに溢れる好人物なのに、信長の思考を理解できない故に滅ぼされた荒木
・信長の論理を理解できる故に、限界まで自己を追い込み耐えられず滅びた明智
・日本的村社会に溶け込むことで宣教活動を成功させたオルガンティノ
・透徹した戦略的視点を持ち信長が理の人だと理解して近づく「美貌の」ヴァリニアーノ
・武器特需の波に乗ろうとする境商人・・・
今でこそ、ロジカル・シンキング云々と取りざたされているが、1960年代の後半に、理に適うことを至上とする西欧の思考と、時々の現場感覚を優先する日本的感性とを、ここまで明確に書き分けていたことは稀有なことだったと思う。数十年「西欧の光」を追い続け、テクニック的には西欧的論理思考の方法を手に入れた我々は、もともと持っている感性の論理との間にどういう折り合いをつけているのだろうか・・・などと思う。 -
Posted by ブクログ
序盤から破滅を予感させる物語でしたが、むしろその破滅の予感があったからこそ、美しさを感じ続けることができたように思います。
引用の、無駄と思える美しさをかみしめたのなら、無駄を排すという考え方は賛成できるが、ただ頭ごなし、非寛容に排斥するというのはよくない、というのには共感しました。
最終巻、栄華を極めたフィオレンツァが破滅していく様、その時の人々の様子は、どこか今の日本を彷彿とさせます。
なんとなく心に立ち込め、世の中全体を覆っているひっ迫感、不安感。それを感じているとどうしても極端な、わかりやすいことを言って人々を導いてくれる「英雄」を求めて熱狂してしまう。どこかに敵を求めて、潔癖な感覚で、それを排斥することにやっきになってしまう。
栄華を極めた人も、町もやがては破滅を迎えてしまうのでしょうか。