武田徹のレビュー一覧
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戦争報道を入り口として、ジャーナリズム全般にわたる、あり方を問うている。戦争を取り上げているのは、題材として分かりやすいからだろうと思われる。現場で発生した事件取材者の編集を行う。マスメディアを通じて報道は多くの意図(政治・広告主)により、都合よい様に編集されて、私たちに届く。それは、私たちが、その情報により、コントロールされているかのような結果を生む。情報伝達機器は発達してきたが、作為者による囲い込みは変わらないだろう。インターネットにより、未来の姿に立ち返る可能性は見えてきたのだろうか?
同盟通信社、敗戦後には解散になる。米国の情報統制
BBCのジョージ・オーウェル、戦争中には検閲が行われていた。ベーシックイングリッシュ⇒ニュースピーク。言語の制限はそのまま、究極の検閲になる。
ベトナム戦争とは何であったのか?映画、地獄の黙示録で描かれたものは、リアリズムであるのか?
湾岸戦争以後、報道と宣伝の関連性が示される。報道管制、戦争広告代理店、ブティックプロパガンダ、テロ報道と報復。しかし、予定された侵略であったことが、発見される。その後には、ジャーナリズム批判、どれを信じるか?ビデオジャーナリスト、デジタル、インターネット、信頼。
米国は戦争が好きである。自国産業、国益のために兵器や爆弾を売らなければならない。大統領自ら指揮し戦争を起こす。何のために?
キーワード
イエロージャーナリズム
世界三大通信社
宣伝 プロパガンダ 情報の送り手が自分の利益を最大化するために様々なコミュニケーションスキルを駆使すること。受けての利益を一切考慮しない。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ前回読んだ、内田樹さんの『街場のメディア論』に続いて、
今度は武田徹さんのメディア論を読んでみました。
本当は、原発のことが書かれた本だろうと思い購入したのです。
それが、読んでみると、しっかりとしたメディア論でした。
内田さんの本から連続したメディア論になりましたが、
それはそれ、「奇しくも」といった体であります。
僕はのめりこんで読むタイプなので、読んでいくうちに
内田さんのメディア論のことは忘れていきます。
きっと、武田さんと意見を異にするところはあったとは思いましたが、
全然気付きません。
よって、いい加減な、メディア論考になっているとすごく思うのですが、
まぁ、それはしょうがないと、自分で言ってしまいます。
印象的だったのは、知ることのリスクについてでした。
チェーンメールで拡散された、Rh-の血液型を求む、というものがあり、
それは本当のことだったのですが、そのメールの真偽を確かめる電話が
そのメールで指定された病院に殺到し、病院の事務が仕事にならなくなった。
「診療に支障が出ている。善意だとしても、これ以上の転送はやめてほしい」
と病院側はコメントを出したそうです。
なんでもかんでも、誰にでも知らせて良いわけでもない。
それはジャーナリズムも一緒かもしれない。
その一例として挙げられていましたし、
それがお門違いの例ではないだろうと、僕も理解しました。
しかしながら、本書は感想を書くにはちょっと難しいところがあります。
端的に、少ない言葉で表現すると、不足する事柄ばかりを扱っているからです。
そんな本書を紹介するには、帯にも書いてありましたが、
この文句が良いでしょう。
「3.11の後、どう語るのか?」
僕らはいろいろな悲劇やショックをプラスに変えて、進歩していくべきなんだと思います。
また、悲しいかな、そういう悲劇がないと、
ぐんと進歩できない集団的生き物なんだとも思っています。
うわべだけを見ず、福島第一原発事故であれば、福島に住む人たちを想うこと。
彼らが見まわれた風評被害などにも目を向けること。
そういうことが、ジャーナリストでなくても、
個々人のジャーナリズム性であって、そういう目を養うことが大事になるんだ、
というように読めました。
一般読者に向けられたというよりも、ジャーナリズムの道を目指す人に向けられた
本のように読ましたしたが、それでも十分に面白く勉強できる、視野の広がる本でした。 -
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武田さんの著作はジャーナリズムを勉強するものとしては、個人的には、いつもわくわくさせられながら読んでいる。人文系の理論的なバックボーンを背景にしつつ、ジャーナリズム的実践を行うその記述スタイルは、僕自身が最も理想的であると思う、ジャーナリズム・スタイルだから。
今回のこの本も、もちろんそのような形式にはなっていて記述スタイルなどで大変勉強にはなったのだが、あとがきで武田さん自身が「この本は失敗だった」と宣言しているのが「えっ」と思ってしまった・・・。内容的には「あたりまえ」の事実ばかりということだろうか。
それでも、僕のような原発や原子力政策に対して全く何も知らない人間には学ぶものが多かった。本書は、戦後から現在までをディケイドで分別し、それぞれの時代の「核」論を記述していくというスタイルになっている。「1954年 水爆映画としてのゴジラ」と「1965年 鉄腕アトムとオッペンハイマー」の章が大変面白かった。 -
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事故が起こってからじゃなきゃわからないような愚か者として、
それまではけっこうな距離感をたもちながら、かといって離れすぎずの立場で、
たまーにちらちら気にするくらいの意識で捉えてきた「原発」および「核」に対して、
正面から向き合うように読んでみたのがこの本です。
まぁ、元はと言えば、糸井重里さんが紹介されていたので気になったのです。
核という難しい問題を、木を見て森を見るように書ければいいのでしょうが、
どうやら、木にあたる部分は、量子論など難しすぎてモヤがかかって見えにくいようで。
じゃぁ、森を見ようとすると、あまりに果てしなく入り組んでいるようで、
それらを単純化してしまうのも、本質からかけ離れてしまうから、
著者はそうはしていません。
では、この本はどうやって核の問題を論じているのでしょう。
1954年論というところからはじまっていきます。
つまりは時系列で、そのときそのときの社会の方向性、空気を捉えながら、
原爆以後に始まる核というものに対する日本人の意識の変遷をたどったところもあり、
権力を持つ個人の志向や打算などが政治的に働いていった様を見つめたところもある。
過去の重要な点々をおさえることで、疑問を持つことなく眺めてきた現実の色が変わって見えてきます。
ちょっとしたパラダイムシフトを、過去を忘れた多くの人々や、若い人たちは受けるでしょう。
それだけ、みんなの現実認識ってかなり操作されたものだということのようです。
書かれている内容は、けっこう放縦に見えもし、いろいろな方面、分野に飛んでいくので、
読んでいて核と離れているようだぞと読めるところもありますが、
そこはそこ、大きな気持ちで、著者を信頼して読んでみてください。
ちゃんと核の問題に帰ってきます。
また、思想などのところはちょっと難しかったりもします。
それでも、そういうのって、難しい文章に出くわして何度も読んでいるうちに
読解力が上がったりもしますから、無駄じゃないと思って読んでみてもいいでしょう。
中曽根康弘、正力松太郎などの名前が原発に深く関係するのだなということは
本書を読んで初めて知りました。
地震列島に原発なんて、あまり深く考えられていなくて、
50年代の鼻息荒い時代の気運にのっかっただけの産物だったのかもと思ったりもします。
とはいえ、原発があってこそ、これまで電力に不自由せずに生活してこられたのであって、
一概に否定できないんですよね。
難しいこの原発の問題、エネルギーの問題、みんなで冷静に、長けたディベート術で
いいくるめようっていうんじゃなしに、お互いの心や頭の内を差し出しあって
建設的に案を構築していけたらいいんだけどなーなんて思うところです。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ「私たちはこうして『原発大国』を選んだ 増補版『核』論」の作者によるメディア論。一言でまとめれば、ジャーナリストとは、「オメラスから歩み去る人々」でなくてはならない、という内容でした。
マスを扱うメディアは、桁違いのスケールメリットによって、グーグルを筆頭にするインターネットシステムが独占することになることが確実である今日、個人としての仕事が生き残る道が個別性にしかないこともまたかなり確からしいように僕にも思えます。小さいコミュニティ、顔の見える情報共有が新たなメディアになるのでしょう。ただ、2回読んだけど、なんというか、まだ熟成されきっていない香りがします。もう少し先があると思う。 -
Posted by ブクログ
日本でどのように原発が受け入れられてきたのか、関連のある世界の出来事も含めながら政治や社会の流れと一緒に解説する。
自分が生まれた後の時代について書かれたのはたったの三分の一。
それ以前から原子力は使われてきたし、広まってきた。
その時の社会の雰囲気はこういう本でしか知ることが出来ない。
その時代を知ることで多少は何かがわかるのか。
大阪万博の時代、原子力とは未来を示すシンボルだったという。
「この電気は原子力発電所によって作られています」
現在の日本だと、嫌悪感があるのだろうか。
3月11日以前だと「当たり前でしょ」という感じだろうか。
当時はそれが「未来」そのものだったようだ。
時代によって価値観は変わる、ということをまじまじと見せつけられる。
導入当初はきちんとした知識も無いままどさくさ紛れのように導入された、という印象を持った。
現代でもそれは何も変わらない。
事故が起こった今でも原子力、原発の知識がある人は大して増えていないし、その知識を国民全体で学ぼうという話も聞かない。
今後も本書にある1970年代と何も変わらないのだろう。