武田徹のレビュー一覧
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[ 内容 ]
ジャーナリズムは、戦場の悲惨を世に訴える一方で、ときに率先して好戦論を喚起し、戦火に油を注ぐような役割も担ってきた。
このような奇妙に歪んだ構図が生まれるのはなぜか?
本書は、第二次世界大戦からベトナム戦争、そして9・11にいたる戦争報道のあゆみを、文学・映画からインターネットにまで射程を広げて丹念にたどることで、ジャーナリズムと戦争との危うい関係を浮き彫りにし、根底より問いなおす。
[ 目次 ]
第1章 第二次世界大戦中の戦争報道(同盟通信社―ナショナル・ニュース・エージェンシーを目指して;BBC時代のジョージ・オーウェル―『紅茶を受け皿で』の背景)
第2章 ベトナム戦争の報道(ジャーナリズムと文学―ハルバースタム・岡村昭彦・開高健;ジャーナリズムと映画―『地獄の黙示録』という戦争報道)
第3章 湾岸危機以後の戦争報道(「報道と宣伝」再論―PR会社の台頭;戦争報道とインターネット―信頼の失墜;ビデオ・ジャーナリストの挑戦―今ある戦争報道の先へ)
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ] -
Posted by ブクログ
わたしたちはしばしば同じ風景を目にしながら違うものを見ている。それは、風景が同じ構成物の集合である以上に、それぞれの主観において統一的な全体性・意味を提示するものであるからだ。
著者は、ジンメルや柄谷行人の風景論を引きながら、それぞれの「気分」や「世界観」を反映する虚構としての風景を唯一絶対の現実として取り違えることは暴力につながりかねないと指摘し、戦後史における暴力事件の「風景」をジャーナリズム的手法でたどろうとする。
日本を世界にただひとつのユニークかつ優れた「風土」をもつ空間として描いた和辻哲郎『風土論』はその問題性も含めてよく知られているが、冒頭で紹介されているのは、それよりもずっと早い1894年に刊行された志賀重昂(しげたか)の『日本風景論』だ。日清戦争に勝利し欧米諸国と肩を並べる国民国家となろうとしていた当時日本でベストセラーとなったこの本で、志賀は、それまで詩歌で称賛されてきた日本の名勝地ではなく、近代国家日本にとってよりふさわしいと考えられる日本の優れた風景を再発見し定義したという。その中心におかれたのが富士山であり、さらには富士山よりも標高が高い国後島や台湾の高山にまで「〇〇富士」という名前をあたえることで、心理的風景においては富士山を頂上とする「日本の風景」の中に階層的に配置していく操作を行っていたという。
さて本書第一部では、「戦後日本」というナショナルな「風景」の形成過程が、米軍基地とアメリカンカルチャーが満たす沖縄、連合赤軍事件が起きた長野の避暑地、田中角栄の日本列島改造論を通して論じられる。ややつまみ食い的になってしまうが、開発の遅れた「裏日本」という概念が早くも1900年代に登場していたこと、角栄の「日本列島改造論」が、同じ新潟出身の北一輝による「日本改造法案大綱」に影響を受けたものであったということも、本書で初めて知った。
さらに第二部においてはこのナショナルな戦後風景の暴力的解体を示唆する宮崎勉事件、オウム真理教事件、酒鬼薔薇聖斗事件、秋葉原殺傷事件の現場や、村上春樹の小説世界などがルポルタージュ的手法で論じられていくことになる。このあたりが評論家としては本領発揮ということになるのだろうが、こちらはあまりついていけず…暴力と風景の議論も正直あまり納得できる気はしなかったのですが、しかし歴史的事実に関してはいろいろ学ぶところ多い本ではありました。 -
Posted by ブクログ
ボクは原発問題を核兵器の問題と絡めて論じることには懐疑的である。例えば「唯一の被爆国」であることが、日本の原子力政策に影響を与えるべきことなのか?しかし、もし多くの人がそこに通底するものを見ているならば、その考え方を知るのもムダではないだろう。
増補版として、2011年論が新たに加わった。ハンタイ派v.s.スイシン派の不毛な対立が、かえってリスクを増大させていることには全くもって同感。ただ、本書の内容から離れるが、、、この手の収拾不能な二項対立はよく見られる現象。そこで仮説
⇒ヒトの認知的基盤、または社会構造の中には、論点を単純化して二項対立する傾向がビルトインされている。従来、だらだら考えていないで不確実な状況下で行動を起こせるという観点で、こうした議論の単純化が適応的だった。マスメディアの発達、民主制の発展、科学技術の進歩に伴う(?)不確実性の増大が、従来は適応的だった反応を危ういものにしている。
原子力のような先端技術は不確実性が高く、事故時のインパクトの大きさもあいまって、情報不足を無視して推論するほかない。イデオロギーがぶつかり合うことになる。
電源三法についての指摘は重要。原発がある限り過疎でなければならないし、労働力を原発に吸い取られて他の産業は育たない。原発による地域振興は、痛々しい幻だ。
高木仁三郎。チェルノブイリを受けて、事故確率の計算に潜む落とし穴を分析している。重畳型、共倒れ型、将棋倒し型。福島第1は共倒れ型か。しかし高木は「運動」に傾斜して、科学に立脚した安全策の検討から離れてしまう。
著者は、JCO臨界事故の背後にも原子力への逆風を見て取る(少しこじつけ気味ではあるが)。
核兵器開発につながるから原発に反対するというのは多少無理がある議論と思う。製鉄もやめれば銃も刃物も含めて根絶できるが。。。ただし核拡散との絡みは無視できないので、一筋縄ではいかない。 -
Posted by ブクログ
●→本文引用
●ノンフィクションがフィクションの否定形として定義されつつも、物語化を通じてフィクションを生み出していく宿命にあることは序章で指摘した。しかしそうした生み出されたノンフィクション由来のフィクションや、あるいは生まれながらのノンフィクションを含めて、ノンフィクションはそれらを再び自らの内部に取り込んでゆく旺盛な吸収力を備える。フィクションについてもそれが「書かれたという事実」があり、フィクションを書く人間の現実があるし、フィクションに描かれた虚構も文字や映像という形で現実化している。それらはノンフィクションであり、ノンフィクションがフィクションを生み出す一方で、フィクションもまたノンフィクションに織り込まれていく宿命を持っている。(略)こうしてノンフィクションはフィクションを生み出し、生み出されたフィクションがノンフィクションの内側に取り込まれる。ノンフィクションとフィクションは、内部がいつの間にか外部になり、外部がいつのまにか内部になっている「クラインの壺」のようなねじれを伴いつつ繋がり、揺らぎ続ける。ルポルタージュという「物語る報道レポート」の形式を生み出したこと、事実を取り上げた表現の壮大なる総体であったはずのノン・フィクションの語を、そうした物語的ルポルタージュと重ね。その指示内容の幅を狭めて使うようにさせたのはいずれも物語を求める人々の欲望の産物であった。物語が想像力で作られた虚構だという意味ではノンフィクションはフィクションを孕んでいる。しかし事実は物語を超え、物語は事実に取り込まれ、フィクションもノンフィクションに還ってゆく。この作品はノンフィクションなのか、フィクションなのではないかという論争も事実の大海原を微かに騒がせた小さな波であり、時が経てば鎮まってゆく。(略)こうして「ノンフィクションとは何か」を突き詰めて考えてこなかった歴史がさらに延長されてゆくが、その背景に、巨視的にみればノンフィクションとフィクションが相互嵌入状態にある構造が控えていることも一方で意識すべきだろう。そして事実と物語のゆらぎの間で優れたノンフィクションが/ノン・フィクション作品が今後も書かれてゆくだろう。 -
Posted by ブクログ
【風景の強要】
ここでいう風景とは、風光明媚な、なんていう風景、ということではない。あなたとわたしが同じところを眺めていても、それは同じようにはそれぞれの心に届くわけではない。何かの風景にイメージの統一を促すものは「気分」であり、「世界観」でもある。環世界といってもいいのかもしれない。そんな、それぞれにとって違う「風景」が、ときに暴力行為の源になる。だって、争いは自他の違いから生まれるものだから、見えている世界が違えば、そりゃあ争いになるだろう。問題は、その風景づくりに、ジャーナリズムも変な荷担をしていることだ。
8つの風景によって生まれた暴力的行為を描いている。たとえば沖縄という風景は立場によってまるで見え方が違う、アメリカによって書き換えられた国家のOSが描く日本最先端の風景ではないか。他にも日本列島改造論やら、ノルウェイの森やらと、風景の話はさまざまに展開する。
僕は環世界という言葉が好きである。本来生物の種ごとにことなる知覚世界を表現した言葉だけれど、ここでいう「風景」は、人間ごとに異なる環世界の話である。その言葉で、なんでも物分りよく理解したつもりになるのもまずいけど、とにかく誰にだって同じ風景は見えていないんだ。でも、これで本書の内容が説明できているわけでもない。自分に焦れるのである。 -
Posted by ブクログ
タイトル通り思うことがあったので
手に取ってみました。
これを読んで賛否両論あるかもしれませんが
1つの物事を是か非かと議論する時に大事にしなくちゃいけない事
「好き嫌い」にだけ囚われてはいけない
相手の論をひたすらつぶすことだけに終始してはいけない
という事を肝に銘じる一冊だと思いました。
そう、国の未来をといっても
ようは「好き嫌い」で、感情的になっていって
最後は、相手の醜聞暴露合戦になっていくので
ところで、本題は?というのはよくある話です。
原発についての議論は、そのままうやむやに出来ない
自分たちの次世代、そのまた次の未来に向かうものなので
議論は大事なんだけれど、このままじゃあ・・・
自治会とかPTAとは規模が違うのだから、
冷静に考えなくちゃなと戒めるために読む一冊でしょう