武田徹のレビュー一覧
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近代史が始まる少し前の1907年、法律第11号「らい予防法」が制定され、1931年モダニズムの風が吹き荒れるなか国立ハンセン病療養所「長島愛生園」が竣工した。
この本はハンセン病(旧らい病)について書かれたレポートだ。そしてハンセン病という「病気」を通して僕らが暮らしの中にある「病い」を捕らえ、それを導き出す論理的証明だ。全体を貫く大きな論考を補うかのように多様な史実や考察が引用される。間延びしそうな感じだが、ポイントごとに全体へ引き戻してくれて思考が途切れることはない。隔離と差別の話では終わらない豊かさがこの本にはある。
前に永江郎が隔離施設をユートピアとして捕らえる考え方に危機感を示していたが、著者はそれを十分自覚しており、さらに思考を飛躍させる。全くいらぬ心配だったのだ。
とりあえず読むべし。そして思考するべし -
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本書は著者がまえがきでジャーナリズムの模範のように事実にこだわる平易で明晰な文章の単調さに辟易として同種のライターでありながら敬遠していたと告白する。
ただアカデミズムとジャーナリズムの懸け橋としての存在としての立花の存在を無視しえず、彼の自伝的作品を読む過程で自分と共通する多くの点を見出し、なぜ自らの言葉に対する考えと異なるような文章を書くようななってのか探っていく。
第1章~第2章生まれ育ちについて両親のキリスト教入信(父親の世俗的動機と母親の熱心な信仰)。読書の虫となり、科学的な興味と文学指向。
第3~4章反核運動と世界への視野の広がりと挫折。詩作と内向化。キリスト教とドストエフスキー、神秘哲学への興味
第5章文藝春秋入社、週間文春配属、ノンフィクションの目覚め。社会の観察と思惟のギャップ感から学士入学。ウィトゲンシュタインとの再会。
第6章哲学と神秘主義から認識可能な世界と認識を超えるものとの境界線をひく整理法を確立?認識を超えるものを否定するのではなく、言語化するためには論理的に認識できることが必要と判断。再びジャーナリズムの世界に戻る。田中角栄研究。
第7章ジャーナリズム+α、宇宙からの帰還
第8章調査報道、脳死
第9章相転移=同じ物質が環境に応じて態様が変わる現象の類推?臨死体験
第10章東大先端研客員教授、若い世代との交流
第11章知の巨人、エントロピーの法則の理解に対する批判、環境ホルモン入門への批判、進化のイメージ、インターネットとグローバルブレイン
第12章ニューサイエンス的思考、ガイア理論、サル学の現在、思考の技術エコロジー
第13章武満徹・音楽創造への旅
第14章大江健三郎との対話、右傾化への危機感、天皇と東大、野村秋介、兄弘道、キリスト教との邂逅、南原繁、護憲論、立原道造
あとがき立花隆版「論理哲学論考」まで405頁
巻末に大江と立花の対談、創作と現実の間
難解な点も多いが世俗的なエピソードもあり、立花隆の広い守備範囲を分析する1つのアプローチとして参考になる。 -
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武田徹(1958年~)氏は、国際基督教大学人文科学科卒の、評論家、ジャーナリスト、専修大学文学部教授。専門はメディア社会論、共同体論、産業社会論。『流行人間クロニクル』でサントリー学芸賞受賞(2000年)。
本書は、著者の『日本ノンフィクション史』(2017年/中公新書)の続篇として、「web中公新書」に2018年9月~2020年7月に30回に亘り連載された「日本ノンフィクション史 作品篇」を、加筆・修正のうえ再構成したものである。
私は、もともとノンフィクションというジャンルの本が大変好きで、『日本ノンフィクション史』も読んでおり、「ノンフィクションの名作・問題作」を取り上げているという本書を興味深く手に取った。(前著の続篇だということは、不覚にも読み始めるまで気付かず、続篇という性格上、一部に前著と類似の内容が出てくる)
著者は、“ノンフィクション”と新聞記事のような客観報道のジャーナリズムの違いを、「バラバラの事実を整理して配置し、それぞれの因果関係を読み込み、意味の通ったひとつの出来事や事件として描き出すノンフィクションには、著者という「語り手」が必要だ。そして著者によって語り出されるノンフィクションの作品世界は、始まりがあって終わりに至る「物語の構造」と持つ。」、「ノンフィクションとは「物語るジャーナリズム」だ」と言い、それが紛れもなくノンフィクションの最大の魅力であるとする。
しかし一方で、「物語の力を借りたことでノンフィクションは弱さも孕んだ」のであり、「ノンフィクションである以上、それは非(=ノン)フィクションでなければならず、フィクションとジャーナリズムの間の、どこに作品を着地させるべきか、ノンフィクションの書き手たちは試行錯誤を重ねてきたのだ。」と言う。
本書では、大宅壮一ノンフィクション賞の受賞作品を中心に、石牟礼道子『苦海浄土』、イダヤ・ペンダサン『日本人とユダヤ人』、沢木耕太郎『テロルの決算』、鈴木俊子『誰も書かなかったソ連』、平松剛『光の教会 安藤忠雄の現場』、北条裕子『美しい顔』、藤原新也『東京漂流』、須田桃子『捏造の科学者』、若泉敬『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』などの28作品(文中に出てくるものは更に多い)を取り上げているが、それらの内容を単に紹介するのではなく、各作品にまつわるエピソードを交えながら、ノンフィクション賞の辞退、作者不明の作品、フィクションとノンフィクション、ノンフィクションとジェンダー、アカデミズムとジャーナリズム、虚構と現実、写真とノンフィクション、科学ノンフィクション、日記とノンフィクション等、多面的な切り口で論じており、大変興味深く読めた。(『苦海浄土』、『日本人とユダヤ人』のような有名なエピソードも含まれているが)
E.H.カーは名著『歴史とは何か』の中で、「「歴史」とは、「史実」を後世の歴史家が自らの主観に基づく因果関係で結び付けた「物語」であり、「史実」そのものではない」と言ったが、それと同様に、「ノンフィクション」は、「事実」を書き手が自らの主観に基づく因果関係で結び付けた「物語」であり、「事実」そのものではない、という限界があるとは言えるが、それでも、というか、それゆえに、その特定の書き手がそのテーマをノンフィクション作品にする意義があるのであり(結び付ける個々の「事実」にウソがあるのは論外)、今後も優れたノンフィクション作品が生まれていって欲しいと思う。
(2021年1月了) -
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「語り手を持つということでノンフィクションは創作小説に通じる性格を備えることになるが、小説になってしまえば非(=ノン)フィクションという定義自体を裏切ることになる。物語的な文章の創作小説と、事実的な文章であるニュース報道の間に位置することで、ノンフィクションはどのような制約を自らの表現に課してきたのか」
期待以上に面白かった。
というか、自分自身がノンフィクションというジャンルをあまり考えて来なかったことがよく分かった。
大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した作品を中心に、その作品がノンフィクションとしてどんな立ち位置にあったのかを、幾つかのテーマに分けて述べていく。
たとえば後半、第5章のアカデミズム(としてのサントリー学芸賞)とジャーナリズムの乖離と接点を考えていく内容が面白い。
続く第6章では話題になった北条裕子『美しい顔』、第8章ではSTAP細胞の顛末を描いた須田桃子の『捏造の科学者』が紹介されている。
表現の柔軟性を求めるのか、専門家に通ずるような知見を求めるのか。
何かと重ねて切り取るやり方では本当の魅力が見えてこないのかもしれない。
今後、ノンフィクションに触れていく上での参考になった。 -
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ノンフィクションという概念を自明のものとせず、それが固まる過程を追うことで、事実を描く方法論、倫理に迫ろうとする意欲作。
大宅壮一が確立(?)し、沢木耕太郎でピークを迎えた後に停滞期に入ったという見立てっぽい。
だからその後に語られるのは田中康夫、ケータイ小説、アカデミックジャーナリズム(宮台、古市といった面々)になる。商業ジャーナリズムが明らかにできていない社会のリアルに迫っているのは彼らだ、という。
面白い論考ですが、それは著者の問題意識に基づく光の当て方だとも思う。参与観察的な手法を王道的に取り扱っているので、ミクロ的な潜入レポ的な題材に偏っている印象を受ける。例えば立花隆は、大宅文庫を活用して角栄研究を書いたとしか触れられていない。
題材と取材者の関係性をいかにすべきか、が裏の主題だとしたら自然な帰結ではあるが。
本書は別に正史を書こうとしているわけではない、と認識する読者にとっては問題にならないが、誤解されても不思議ではない書名である。 -
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本といえば小説が中心ですが、ノンフィクションも大好物。
一時期、沢木耕太郎にハマって「深夜特急」は全作持っていますし、「テロルの決算」は今でもたまに読み返すくらい好き。
鎌田慧の「自動車絶望工場 ある季節工の日記」、海外物ではカポーティの「冷血」、伝説のルポライター児玉隆也の評伝「無念は力」(坂上遼著)なんてのまで読みました。
あと、近年ですと、何と言っても増田俊也の「木村雅彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」でしょう。
これには腰を抜かしました。
ただ、じゃあ、そもそもノンフィクションって何? どうやって発展してきたの?
と訊かれると、答えられる方は少ないのではないでしょうか?
それもそのはず、ノンフィクションについてまとめた書物は大変に少ないのです。
少なくとも小説ほどには研究が進んでいません。
それならばと書かれたのが本書。
著者はメディアに精通した武田徹さんです。
私は、先日の読売新聞の書評欄で、評者の宮部みゆきが絶賛していたのを読んで買いました。
まず、ノンフィクションの定義ですが、これが意外と定まっていないのですね。
フィクション(作り物)ではない、つまり事実に即して書かれたものがノンフィクションかというと、そんな単純なものではないようなのです。
たとえば、ノンフィクションの一大ジャンルと呼べる「探検記」。
探検記を書くことを前提に探検をする場合、著者はその物語にふさわしい現実を求めます。
行為者となって行動することで、本来はなかったはずの事実が生じてしまう。
そうなると、ノンフィクションとは言い条、たちまちフィクション性を帯びてしまいます。
もっとも、だからと言って、そうした作品を「フィクション」と呼べるのかというと、それも違います。
このあたりが大変にややこしいですね。
実は、ノンフィクションの歴史は浅く、せいぜい1970年代までしか遡ることが出来ないそう。
この間、書き手の間でも試行錯誤が繰り返されてきました。
たとえば、所得倍増論をテーマにした「危機の宰相」では著者の一人称、冒頭でも触れた「テロルの決算」は当時、米国で勃興してきたニュージャーナリズムの手法に倣って三人称で書かれています。
しかし、ニュージャーナリズムの手法を採って三人称で記述すると、そのシーンを描くための取材がどのように行われたのかが判然とせず、第三者による検証を不可能にしてしまいます。
つまり、厳密に言うと、ノンフィクションの肝である事実が担保されないという事態に陥るわけですね。
一筋縄ではいかないようです。
いずれにしても、フィクション/ノンフィクションと明快に線を引いて区分するのは難しいということが分かりました。
少なくとも作品として完成するまでの過程では、相互に乗り入れている部分がかなりありそうです。
たとえば、実話に基づいた小説というのはよくありますが、作家は作品を書くために入念に取材します。
そこにノンフィクション性が宿ることはしばしばあります。
逆に先ほど例に引いたようにノンフィクションでもフィクション性を帯びてしまうこともままある。
そもそも「作品」である以上、事実の羅列であるわけはないのです。
マクベスの「きれいはきたない、きたないはきれい」ではありませんが、「フィクションはノンフィクション、ノンフィクションはフィクション」なんてことも言えるかもしれません。
うん、大変に面白い本でした。 -
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著者の武田徹は、『流行人間クロニクル』(2000年サントリー学芸賞)などの著書のある評論家、ジャーナリスト。
私は、“ノン・フィクション”(=フィクションではないもの)を好んで読むが、正直なところ、ノンフィクション、ルポルタージュ、ドキュメンタリーといった言葉、ジャンルに何らかの明示的な違いがあるのか、長く疑問に思ってきた。
著者は、「ノンフィクションの成立」とは、「ジャーナリズムが単独で成立するひとつの作品としての骨格を備えたこと」、「出来事の発生から帰結までを示す物語の文体を持ったこと」といい、その経緯を“ノンフィクション”という言葉が今のように使われるようになった1970年代以前に遡り、記録文学、ルポルタージュ、ジャーナリズムという変遷をたどりつつ、ノンフィクションという概念がどのように成立したかを明らかにしている。
また、私は、本書の「はじめに」で取り上げられている、2012年の第34回講談社ノンフィクション賞選考会で展開された「石井光太論争」(選考委員の野村進氏が、石井氏が「ノンフィクション」というジャンルに相応しい取材をしているのかという疑問を呈した)について大いに関心を持っていたし、同じく「はじめに」で取り上げられている、『空白の5マイル』で開高健ノンフィクション賞と大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した角幡唯介が『探検家、36歳の憂鬱』で語る、「ノンフィクションを成立させる場合の本当の難しさは、実は文章を書く時にノンフィクション性を成立させることにあるのではなく、むしろ行為をしている時にノンフィクション性を成立させることにあるのだ」という鋭い指摘に、かつて目から鱗が落ちたのであるが、本書では、ノンフィクションの成り立ちの過程の中で、そうした論点の捉え方についても触れていく。
更に、知命を過ぎた、旅+ノンフィクション好きにとってのヒーローである沢木耕太郎についても、1979年の大宅壮一ノンフィクション賞受賞作の『テロルの決算』を、「全く新しいノンフィクションの幕開けを実感させる内容」、「日本語で書かれたニュージャーナリズムの傑作」と評価し、沢木氏が開拓し、試みた手法、及び「ここにノンフィクションは自立し、ノンフィクション作家という物書きのジャンルが確立された」という、日本のノンフィクション史における位置付けを詳しく分析している。
かなり詳しい通史となっており、関心の薄れる部分もなくはないが、ノンフィクション好きには一読の意味のある一冊と思う。
(2017年4月了)