中沢新一のレビュー一覧
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カイエ・ソバージュの第2巻。第1巻からだいぶ時間を空けてしまった。講義録なので読みやすく、説明や引用も丁寧で難なく読み進められた。やはりテーマは自然と人間の「対称性」。現代は人間が力を持ちすぎた「非対称性」の時代。しかし古代、まだ人間がクニをもつ前は自然と人間は対等であり、力は自然より与えられる者だった。人間と自然の中間として象徴されていた存在が「熊」だという。神話の中では、クマは人間になり、人間はクマになる。熊は人を襲うこともあるが、自身を捧げ毛皮になり肉になる。
今の時代の危機を対称性の喪失として語る。かなり神秘的な思想だが、先祖が尊んできた一つの宗教的感覚を無価値なものと断じる気持ちにもなれない。ゆっくりとした良い学びになった。
18.1.23 -
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1巻で定常社会、2巻で定常社会から王、すなわち国家の誕生と進んできたカイエ・ソバージュ、3巻目は、資本主義の誕生ということになる。
2巻から、話が進みすぎじゃないの、という気もするが、とりあえず読んでみる。
モースの「贈与論」を起点に、ケネー、マルクスと進んでいく流れは、人類学側から経済にアプローチする場合、「まあ、そうだろうな」という展開だろうか。と、偉そうなことを言うほど、その辺の本を読んだ訳ではないが、栗本慎一郎や今村 仁司を昔読んだときと同じような感じの議論である。
中沢氏は、さらにそこにラカンを援用しながら、資本主義の精神とキリスト教の三味一体説との類似性を指摘する。このへんが、この本のハイライトかな?
前の2冊が、さまざまな神話や風習の分析が沢山入っていて楽しかったのに対して、3巻目は、やや理論的な印象であった。冒頭の志賀直哉の「小僧の神様」の分析は、なかなか面白かったが。
順序的には、第4巻の「神の発明」のほうが、先にきて、そこから資本主義が誕生する言う流れでも良かったのではないか、とも思うが、そこは、「起承転結」の「転」というところで、すこしムードを変えてみようということなのかな。
あるいは、全体の真ん中なので、ここいらで理論を整理して、次なる飛躍に備えようということだろうか。
第4巻の「神の発明」に期待して、満足度は、3つとしておく。 -
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カイエ・ソバージュの最終巻。
結構、評判らしい本シリーズであるが、この最終巻まで、たどり着けた読者は、何%くらいだろうか。
第4巻までで、論じられてきた神話、国家、経済、宗教の起源をこの5巻では、統合し、理論化し、その今後の展開を展望していく。
のだが。。。。
書いてあること自体、それほど違和感があるわけでないし、大筋において賛成というか、自分もおおむね同様のことを考えていた。
が、なんだか読後感はよくない。
なんでだろう。
言葉の使い方とか、定義の仕方とか、議論の進め方のファジーさ、とそれを覆い隠すようなレトリックかな。
例えば、キーコンセプトとなる「対称性」という言葉の定義が、今ひとつはっきりしないまま、進んでいく。しっかり定義してあるというかもしれないが、いわゆる物理学とかでの定義とは違うので、読んでいて混乱してしまう。
また、現人類となったときの脳の構造変化が、しばしば言及されるにもかかわらず、その辺の生物学的、進化論的な説明はほとんどない。(意識と無意識の進化の説明についても、違うのではないかと思う)
で、中沢氏は、レヴィ=ストロースの構造人類学をベースとした「対象性人類学」を宣言するわけなんだけど、それって、新たに名前をつけるほど、新しいのか?と思ってしまう。
レヴィ=ストロースに、経済人類学の議論やポスト構造主義の議論を足したものという以上のものがあるのだろうか。
一神教と資本主義と国家の構造が同様であるみたいな議論とか、20年くらい前に、ニューアカがはやっていたときには常識に属することだったのではないかな?
ニューアカとか知らない若者向けの温故知新か?
それをさも新しいものかのように提示するあざとさとか、主語がいつのまにか「私」から「私たち」になってしまう不気味さとか、つまらないことが気になった。
このシリーズも4冊までにして、4冊目に全体のまとめを最後につければ、良かったんじゃないかな。。。
まあ、そこまで悪い本ではないけど。4冊めまでが結構面白かったので、残念。 -
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中沢新一といえば中学校くらいで虹の理論を読んで
こういうモノを書いて見たいと思わせつつも、
あまりにも胡散臭すぎて直視するのが恥ずかしいそんな作家であった。
今回もポケモンの神話学ということで
胡散臭さは満載ではありますが、
率直に言って氏がポケモンを満喫しているのがよく分かってわりとなごむ。
おおむねフロイトの話で目新しさはないものの、
ゲームとデータで構築された世界に文化としての意味を与えたのは
ひとつの道しるべとして評価できるかもしれない。
消費される対象というだけではなく、
生産される場としてインベーダーゲームから辿っていくのは、
いかにもアカデミズムの手つきだが、
この人は根が山師だからまぁ、いいんではないか。 -
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福島の原発事故以降の日本がとるべき道筋について、宗教哲学者の著者が語った本です。
著者は、一神教と多神教の違いを文明論的な原理に拡張し、また、これからの日本に必要なエネルギー政策を生態圏の原理から導こうとしています。中沢新一といえば、浅田彰と並ぶニューアカデミズムの旗手であり、フランス現代思想を自在に駆使しつつチベット仏教について論じる思想家として知られていますが、本書での著者の語り口はまるで梅原猛です。もっとも、アカデミズムの枠を飛び出す存在であるという意味では、はじめから両者は近かったといえるのでしょうけれども。
梅原に関していえば、アカデミズムではとうてい許容されないであろう、文明論的な大風呂敷の議論に対する多くの批判を浴びながらも、現実に中曽根内閣の政策決定にかかわろうとし、国際日本文化研究センターの設立に漕ぎつけるだけの「胆力」がありました。一方著者は今のところ、批判的知識人という、ある意味で気楽なポーズを崩してはいないようですが、もし今後著者が本書の示すような方向へと進んでいくのであれば、梅原のように生臭い現実の政治に積極的にかかわっていくことをいとわないでほしいと思います。 -
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学びには師を求めて教えを請う急ぎ足で旅をする方法や
出合いを拾いながら自分流に真理を求めて歩む
緩やかな道もある
いずれにしても
無限の学びだからどちらが近道ということもなさそうだ
中沢新一は悟りの境地を求め僧侶に憧れて師を求めたが
ラマに諭されたように結局研究者の道を選ぶことになる
それは瞑想によってヒラメキを求めるニンマ派に惹かれながらも
学識を重んじるカギュ派の道を選んだことになるのだろうか
それとも学識派に感覚派であるニンマ派による悟りの世界を
持ち込もうとしているのだろうか・・・
中沢新一による多作な本からかなり読み込んできたけれども
そろそろ行き詰まりを感じてきたように思えてきた
何かが中途半端に感じてしまう
悩みを綴る誌のようでもあり発見の喜びに欠けるのかもしれない -
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爆笑問題の太田氏と文化人類学者の中沢氏が憲法九条について語り合った内容の議事録。2006年という今とはやや状況の異なる時代に書かれたものだが、刺激的。宮沢賢治や落語、武士道を引き合いに出して九条にアプローチしているのは面白い。我々含む「戦後の日本人」は、戦前の思想を危険思想としてタブーにしてきたきらいがある。見たらそこに戻ってしまうんじゃないかという恐怖で蓋をし、未だに見ないようにしている部分。その蓋を恐怖に負けずに開ける作業が、九条を語る上で必要ではないか。
本編とはずれるが、感受性は失われたものとの対話から生まれるっていう文言も、読んでハッとした。同時代に生きてるということは、似た様な思想を持っていることに違いないからね。もっと本を読まねばと思った一冊。短いので軽く読めます。 -
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「妹の力」のように沢山の採取したフォークロアの披露で脱線気味ということはなく、読み易い。
それでも、え、あの話まだ続いていたんですか、ってまるで落語の崇徳院のような感想を持った処もあったけれど。
地道に証拠を積み上げ、結論を急いで出すことがない。最後に仮説を提示するする姿勢は、プロの論考というべきもの。
ミミラク、ミ―ラクというあの世に繋がる海の彼方のイメージがあったのではとしている。美々良久の島、肥前の三井楽の崎、紀州の補陀落渡海、鹿島踊りのみろく船についての論考。刺激的な話だけれど、証拠が少ないのでは。
死後の魂が向かう「根の国」は地下の世界ではない、黄泉の国のイメージは中国から伝えられた思想の影響だとする。成程、海の彼方や山の向こうに往くと我々の先祖はイメージしただろうな。
色々気付かされたことがあったが、新嘗の論考など何を問題しているのか、よく判らなかった。知識不足と自分の頭の悪さを実感した。 -
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大阪という土地がどのようにして出来上がり、そこにどんな人が住み着いて大阪という場所を作り上げたかと言う非常に興味深い試みなのだが、中沢氏の妄想やこじつけが不協和音のように感じられてしまい話には入り込めなかったのが残念。それと時代ごとの地図があればもっと親切なのだが文章に現れる地形と実際の地形の感覚が少しずれて感じた。
古代の大阪は河内湾という内海で、大和川の沖積平野が次第に出来上がって弥生人が稲作を始めた。河内湖は南から大和川、北からは淀川に運ばれる土砂で徐々に埋められていき、今の御堂筋界隈は淀川河口に堆積したいくつもの洲が生まれてきたところで、ナニワの街ができるのはだいぶ後になる。渡来人や海民は住吉のあたりから大阪平野に入り住み着いた。大阪のルーツの一つは古くから西の海からやってきていたことになる。朝鮮半島の伽耶国の文化圏の東の端が大阪だったらしい。
天皇家が八尾に本拠地を持つ弥生人の末裔物部氏を下して権力の座につき当時は岬の突端であった上町台地の北端、今の大阪城の当たりに難波宮を築き上げた。その後に石山本願寺、大阪城と変わっていっても大阪の権力の象徴は常にここにあり続ける。一方の大阪の古代からの象徴は四天王寺で排仏派の物部氏を破る誓願を守って聖徳太子が建立した。上町台地の上に立つ仏塔は当時であればかなり遠くから見える仏教文化の象徴でもあり、悲田院は日本で最初にできた福祉施設でもある。ついでながら世界最古の企業である金剛組は渡来人の技術者集団が元なのだが今では日本企業のシンボルのように扱われているあたりやはり海外文化を取り込むのはこのころからの伝統なのか。
権力の象徴である大阪城に対し、商人の街ナニワは淀川下流の堆積により生まれた八十島を中心に発達していく。中之島、福島、堂島など全て砂州が島になった土地で、梅田は埋田で江戸時代は湿地帯だった。大江山の酒呑童子退治の渡辺綱の出身も天神橋のあたりで平安期には渡辺氏の系統を遡ると新羅からの渡来人で後に水軍を持つ武士団としてナニワの地に渡辺津という最大の港を拠点としたが秀吉に追い出されて歴史の部隊から消えていく。ナニワの商人が隆盛するのは江戸時代になってからのことである。共同体を作ったムラ社会と違い、自治による商人の街は堺とナニワは自由都市に近い成り立ちで日本の歴史上ほぼこの二つしか目立つ物がない。中沢氏は「無縁」が商品や商人の本質と捉えているが、結論ではなぜか新自由主義的グローバリズムが大阪の空洞化を加速すると嘆いている。海民や渡来人をルーツに持つ商人の街ならば、昔から日本のグローバリズムの中心だったという方が素直なのだが。大阪は中沢氏が似ているというパリではなく、商業港湾都市ジェノバじゃないのか?アジアの街で一番違和感がないのは大阪のオバチャンだと常々思っている。
「無縁」が生み出したもう一つの大阪の特徴がお笑いだ。道頓堀から法善寺ができたころ千日前は墓場だった。刑場があり法善寺(千日寺)に向かう通りが千日前になったのだ。ここも無縁の庶民の街で芸能が生まれていく。芸能のルーツは神事であり、また河原者の無縁の人達でもある。墓場の跡地には人は住まず、見世物小屋や遊郭などが出来、今の繁華街へと生まれ変わる。中沢氏は生と死とエロの話が好きらしく、ラブホテル街の成り立ちにまで1章を裂いている。新世界も元はと言えば上町台地の下の荒陵という荒地でこちらの墓地の跡地も後に飛田遊郭に生まれ変わった。
個人的に一番興味を覚えたのがこの本で何度も出てくる俊徳丸の物語で高安から四天王寺へいく道が俊徳街道として今も姿を留めている。難波宮から飛鳥へ向かう十三街道は一部をこの俊徳道と共有し、暗峠を超える奈良街道と並んで古代の主要街道だったのだがこの奈良街道と俊徳道の合流点が実家のすぐ近くだというのが俊徳丸の話を調べているとわかったのだ。アースダイバーの影響を受けたらしい人が俊徳街道を歩き、地図までつけてくれている。小学校の通学路の細い道なのだが。ほんまかいな?
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河合隼雄さん、あるいは茂木健一郎さん、からのつながりで、本書を知ることになり、読んでみた。
中沢新一さんに対しては、正直言ってあまりいい印象をもっていなかった。
なんだか、節操なくいろんなことをしている人、という気がして。といっても、それってずいぶん昔、90年代か?、のことだけど。
対称性とか非対称性って、時々耳にするけど、ものごとって、抽象化していくと、対象が少なくなっていって、ひとつまで抽象化するといろんなものを無視しなくてはいけないけど、2つなら、対立関係とか、類似性とか、相互依存関係とか、表現できるので、そのへんにしておくと、いろんな考え方ができるという意味で。
本の中では、さまざまな例示をもとに、対称性について述べています。
抽象化作業の使命は、いったん抽象化したものは、今度は、それを目の前の個別具体的な事象に当てはめて、何かしら物事を変化させることにあるんじゃないか、と僕は思うのだけど、本の最後で中沢新一さんも、「対称性人類学を想像する仕事は、まだ端緒についたばかりです」とおっしゃっています。
期待したいところです。 -
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爆笑問題の太田光と宗教学者の中沢新一が、憲法九条をテーマに語りあった本です。
とにかくタイトルの秀逸さがすべてではないでしょうか。この「憲法九条を世界遺産に」というアイディアは、太田がジョン・ダワーの『敗北を抱きしめて』を読んで、日本国憲法がたいへんな偶然のなかから生まれてきたものだという思いに打たれたことにもとづいているとのことです。中沢も、こうした太田の発想のユニークさに深い理解を示しつつ、平和憲法を守れという護憲派の人たちも、ドン・キホーテのような理想を掲げる日本がそれでも戦後を着実にあゆんでこれたのは、なかなかに賢いサンチョ・パンサがつきしたがっていたからだということを忘れてはならないと言います。
そして二人の議論は、理想と現実のかぎりなく広い振幅のあいだに引き裂かれながら立ちつづけることの意義へと移っていきます。
非現実的だという批判をあらかじめ封殺したうえで成り立っている議論だという気もしますが、価値あるものに賭けようとする荷人の倫理性に感銘を受けたこともたしかです。 -
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久しぶりに中沢新一読みました。中沢新一のテーマは一貫して従来の知性が見つけられないもの、体系的でない知識です。読んでいるととても心地よいです。テーマは繰り返されることが多く、結果としてこの知識を体系的に学びたくなったりします。なんか繰り返さないでもっとうまく伝えてくれないかな、みたいな。この本も、比喩やフィールドワークの美しい文体を使って同様なテーマを何度も掘り下げることによって体系的でない知識を伝えるという構成にやっぱりなっています。この本は様々な公演をまとめたりしている本であるということも関係しているように思います。でも、一方で、体系的に体系的でない知識を語られてもうさんくさいだけのようにも思ったり、つまらないだろうなあと思ったり。唯一無二の書き手さんです。
中心の体系は神話の公式。理性、MBA、合理といったものでないもの。無意識。合理ではないけれども一貫的して作られる論理。縄文のころから弥生のころに起きたこの神話ロジックの衰退。ビッグデータ解析と統計学の大きな違いは因果関係の設定だとのビックデータの本を読んだのですが、西欧的な知識もついに因果関係から相関関係へという流れの中で中沢新一は最先端に来ているように思います。