【感想・ネタバレ】チベットのモーツァルトのレビュー

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Posted by ブクログ

以下の文章はぼくが大学でゼミの卒論として記した「心身二元論の未来~その多様的現実の可能性」からの抜粋だ。そこでぼくは「チベットのモーツァルト」の中でも特にお気に入りの箇所を引用しているので紹介したい。ちなみにこれはただ引用したいがために記された論評だったと述懐する。

以下、抜粋

ところで、心身二元論においては精神と身体は区別されるのだが、では精神はどこにあるのだろうか。身体を構成する器官のなかに精神の器官は現出しない。では、非物質的に精神は身体とシンクロしていることになる。ここで、精神の具現化を図るときぼくたちは宗教にその方法を求めるかもしれない。デカルトもキリスト教的神の存在によって精神の存在を具現化したように、ぼくたちは東洋思想における神によって具現化を試みる。そのとき、ぼくたちはキリスト教的神が指摘できなかった事実に遭遇するのである。

ところで、心身二元論においては精神と身体は区別されるのだが、では精神はどこにあるのだろうか。身体を構成する器官のなかに精神の器官は現出しない。では、非物質的に精神は身体とシンクロしていることになる。ここで、精神の具現化を図るときぼくたちは宗教にその方法を求めるかもしれない。デカルトもキリスト教的神の存在によって精神の存在を具現化したように、ぼくたちは東洋思想における神によって具現化を試みる。そのとき、ぼくたちはキリスト教的神が指摘できなかった事実に遭遇するのである。

ここでいう東洋思想における神は仏教神である。ブッダの教えに耳を傾けるのだ。そのとき、精神は身体の中に拠りどころを持っていることがわかる。それはチャクラだ。胸の下のみずおちの付近にチャクラはあると言われる。その中に光の結晶のような精神(魂)が内包されている。チャクラがが開かれると奇跡的な覚醒がもたらされる、とチベット密教などでは教えられている。そして、チャクラのある付近から頭頂までは管が通っており、チベット密教にはそのチャクラに観想した「心滴」と呼ばれる赤い光の滴を管を通して頭頂から外へ押し出す「ポワ」の瞑想テクニックがある。これを続けていくと頭頂には肉の盛り上がりができ、そこに小さな穴が開くのだ、と宗教学者としてラマ僧についてニンマ派の瞑想修行を行なった中沢新一は飄々と述べる。

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だが、七日目の晩、その日最後のセッションも終りに近づいた頃だ。いつものように「ヘック」という掛け声といっしょに「心滴」を頭頂から抜き去ったその瞬間、私は自分が奇妙な体験をしていることに気がついた。つまり私は自分が身体の外にいて、自分の身体を上の方から見おろしていることに気づいたのである。それは奇妙な感覚だった。上の方から見おろす身体は髪の毛や着物のひだにいたるまでくっきりと見えるのに、その周囲の空間は身体から遠くなるにしたがって、しだいに暗闇に溶け込んでいくようだった。しかし、不思議なことに、私は自分の後方の離れたところにある寝台にすわって心配そうにこちらを見ている同室の若い僧の姿だけは、はっきりと見ているのである。私はもっと上方の空間を見てみたいと思い、意識をそちらの方にむけた。すると、そこはまっ赤な光におおわれていた。

この時、急いでもとの身体にもどらなくてはという気がおこったのを憶えている。身体が少し傾きはじめ不快感を感じたためでもあるし、後方の若い僧が何か大きな音をたてているのに気がついたからだ。私は懸命に、赤い光のかたまりになった自分をもとの身体に落下させる「ポワ」の究竟次第のテクニックをつかった。
(せりか書房『チベットのモーツァルト』中沢新一著)

ここで描かれている世界はかなり非現実的だ。いわゆる幽体離脱という現象であるが、チベット密教ではこのような現象が修行の最中にたびたび起こるのである。ここでは心身二元論は肯定されている。中沢は光のかたまりとなった自分が自分の身体を見おろしていることを確認している。つまり、精神が身体から分離されて別の空間に存在していたことを意味している。この現象の現実性を科学的に理解することは難しいが、稀に夢の中でも起こるこの現象は現実なのだ。夢の中の出来事さえ現実である。逆にふだん現実だと意識しているものこそ虚構で、現実はもっと別のところに存在するのだ。こうチベット密教のラマ僧はいう。これはかなりのレトリックではあるが、現実というものはひとつに限定できない多様性に拠っていることは確からしい。でなければ、心身二元論の精神とはどこにあるのか。つまり、精神という非物質的な存在の確認はこの現実の多様性の中にしかありえないのである。

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2016年04月10日

Posted by ブクログ

意識の深部を 著者と一緒に探検しているような本。映画「マトリックス」のように 現実の多層性を感じながら、ミクロの世界で 意識の深部には何があるのか探検している。宇宙のような無限性も感じる

「極楽論」の章は、生存と非生存の間(あわい)にある 無限の 天国、浄土を 横断している。点としての 天使、極楽浄土の音楽を感じながら

「病のゼロロジック」以後は 本のテーマから少し外れるが、聴きなれない哲学用語も少なく 読みやすいし、面白い

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2018年07月07日

Posted by ブクログ

私たちが考える「意識」よりずっと高次元にある、深遠で微妙な「意識」。その状態に自分を持って行くことができれば、日常の「現実」とは全く異なる高次の「現実」を体験することになるという(いわゆるトランス状態)。

イスラーム神秘主義やヒンドゥー教の本、あるいは心理学の本などを読んでいると、しばしばこのような境地について語られるのに出くわす。そういう神秘的な心の状態について、とても興味はあるものの、やはり自分とは遠い世界の話のように思ってきた。

しかし、自らチベットで修行をした経験のある中沢氏の描くそれは、圧倒的な臨場感と迫力に満ちていて、説得力がある。とはいえ、私の想像力をはるかに超えたもので、そういう意識の状態にある時どんな感じがするのか、見当もつかないけれど。

本書で中沢氏は、神秘的な高次の意識や、それを通して見る現実のありようを、哲学の言葉で語ることを試みている。本書を読んで、私にとって想像することがむずかしい境地について、考えてみるための指針のようなものが与えられたような気がする。

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2017年10月05日

Posted by ブクログ

ネタバレ

二項対立というものが持つ胡散臭さがどうにも気に食わんくて、
「この世」と「あの世」の間に「その世」とかを導入したらどうか、
なぞと考えていたんだけれど、
この本を読んでなんとなく見えてきたような気がする。
(気がするだけのような気もひしひしと感じはする)

境界が発生する前の渾沌を保つ。
天使が男女の両方であり同時に両方でないように。
けれども、言葉はなにもかもを分節してしまう。
だからたぶん言葉が概念を創る手前で留まる、
あるいは意味が生成される手前で横すべりし続けることが必要になる。
それは本書でいうところの「意味の微分=差異化」ってこと。
「点」という存在しない空間(0次元)に居座るってこと。

う~ん、
自分で書いててよく分からん。

つうかこのテクストは誰向けなのだろう。
なんだか難し過ぎて、かなり踏み込まないと意味すら分からなかったのだが。
そのため読む時間は普段の3倍くらい掛かったと思う。
とはいえ、理解できたとは到底言い難く、甚だ悔しいのである。

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2011年11月17日

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本書のキーワードを一つあげるなら「間(あわい)」ということになろうか。存在と非存在の間。男と女の間。発話と沈黙の間。意味形成性の間。──その微妙なあわい、空性をすり抜けて、意識の自然、大いなる歓び、大楽に辿り着かん。……こうして無理矢理要約するとまるで妖しげなカルト宗教書のようだが、本書はジュリア・クリステヴァを軸にポスト構造主義思想とタントラ密教の教えを互いが互いの添え木となるようパラレルに展開しながら、現代社会が繰り出す足枷をすり抜けて真に自由に今を生きる知恵を提示しようと試みる。浅田彰が『構造と力』や『逃走論』で「クラインの壺型社会」からの「スキゾフレニックな」「逃走」という極めて抽象的な表現に留めているこの手の現代思想の結論部分を、本書はより具体的に、時に過剰なほど微に入り細を穿って描写する。その描写があまりに細密かつ極彩色に彩られているが為にかえって置いてきぼり感を感じなくもないが、もともと「あわいをすり抜け」るなどということが幻覚すれすれの微妙なバランスの上にしか成り立たないであろう事を考慮すれば致し方あるまい。むしろそのスリリングな思考の過程やパースペクティブを楽しむべきだろう。改めてじっくり曼陀羅を眺めてみたくなった。

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2010年06月03日

Posted by ブクログ

すごーくおもしろい
でもすごーくむつかしい
社会学(?)の用語が満載で呪文のよう。
日本語で書いてあるはずなのに
ああもっと勉強しておけば良かった、、、

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2009年10月07日

Posted by ブクログ

仏教におけるチベット・タントリズムと、ポスト構造主義におけるドゥルーズ的な生成の思想をつなぐ、著者の知的冒険が展開されている本です。

著者は、みずからの思索の軌跡を説明するにあたって、ヤキ・インディオの呪術師のもとで修行した体験を記述したC・カスタネダの議論を参照しています。カスタネダは学生時代、シュッツの現象学的社会学をラディカルに推し進めたガーフィンケルのエスノメソドロジーを学んでいました。エスノメソドロジーでは、この現実は相互主観的に構成されたとみなされることになります。彼らにとって社会学調査は、人びとが当然視していることを疑問に付し、そこに亀裂を入りこまる「現象学的苦行」の場だと考えられます。しかしカスタネダは、あらゆる常識に対して疑問の目を向けるエスノメソドロジーとは逆に、呪術師との対話のなかでみずからのよって立つ足場が疑問の淵に投げ入れられるという体験を記述しています。

とはいえ、意識変容の体験を通して「現実」の根底にある無意識の領域にめざめたとカスタネダが語っていると理解するならば、それは誤りといわなければなりません。むしろ、そうした二元論を宙吊りにし「世界を止める」ことの会得がめざされていたというべきでしょう。幻覚体験は根源的な世界経験などではなく、そうした二元論を抜け出すための「戦術」だと理解される必要があります。

そして、チベット・タントリズムにおいてもこれとおなじことがめざされていると著者は考えています。チベット・タントリズムの修行を通して著者自身が獲得した経験は、クリステヴァのことばを用いて説明するならば、フェノ=テクストとジェノ=テクストのたえざる往還運動が起こっている意味生成の「場所」(khora)へと身を開き、さらにはみずからの身体をそうした「場所」とすることだということができるでしょう。

著者は、本書のなかで仏教の中観を論じつつ、「誰でもできる脱構築」ということばを使っています。そのことばの安易さには正直なところ同意できないのですが、仏教の「戦術」的な性格をそれなりにうまくいいあてているように思えることもじじつであるように思います。

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2018年07月15日

Posted by ブクログ

薬物、瞑想、精神分析その他いろいろ
純粋理性へ直接アプローチするための方法論を並列させることで
そこにむしろ多神教的な世界観を生じさせているような気も
するような気もしないような気もしないではない

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2013年06月15日

Posted by ブクログ

チベット密教とか記号論とか色々、それはもう色々あるんでしょうが、『野ウサギの走り』とか、中沢新一のこのあたりの、雑誌掲載をまとめて一冊にしたものは、あまり考えずにぼーっと読んでいるとひとつひとつの境目がゆるくなって、一篇の小説を読んでいる気分になっておもしろかった。それ以来意識的にピカレスクロマンでも読むように読んでいる。なにがおもしろいのか、未だにわからないけど。

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2009年10月04日

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