三砂ちづるのレビュー一覧
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Posted by ブクログ
最近数人にこの本の内容について聞かれたり紹介する機会があったので再読。奥付を見ると2004年の本であるが、未だに女性たちは身体性を取り戻していない。布ナプキンが流行るなど、身体に向き合い始めた女性たちも微増しているといったところか。
内容としては、
・現代の女性が自分の身体や性に向き合っていない
・親世代も女としての生き方を強要しなくなっている
・自身の女性性ときちんと向き合い、うまく女性としての力を使わないと「オニババ」になってしまう
・力の使い方としてはやはりセックスや出産がオススメ
・「負け犬」と自称するのは仕事に恵まれ恋人を見つけられるような、結局は勝ちの人で、そうでない大半の女性が心配
・一世代上の女性たちは生理用品がなくても経血をコントロールできた
などなど。
某女優さんが、更年期になった時「女性ホルモンが少なくなっているからなわけだから」と、AVを観まくって乗り切ったという話があったが、やはりきちんと自分の身体や性欲、パートナーと向き合わないと不定愁訴などが起きるのだなあと納得した。
日本の神社は女性性の象徴という説があるらしい、鳥居が入り口、参道が産道、お宮は子宮、鳥居をくぐって入ってくる神輿が精子。深い性の象徴を建造物として祀っていた国民性はどこに行ったのか。
夜這いなどの文化もなくなり、日本人は性に対して非常にクローズになった。その反面、風俗や袋とじの中途半端な欲望は垂れ流しで、まったく憤慨ものである。
「卵子には個性があり、子宮口には心がある」という下りには非常に得心が行くところがあった。
具体性と抽象性がバランスよくちりばめられており、身体というものはすごいものだと改めて思った。この本を読んで、感じ入るところや思い当たるところがあればそれでよいと思うし、これからでも自分の身体に向き合っていけばいいのではないだろうか。
この本を読んでキーキー言う人は、自分を否定されたような気がするのだろうか。向き合う勇気がないだけではないだろう? それこそオニババ化の始まりではないだろうか、と思ってしまうのだが・・・ -
Posted by ブクログ
そんなふうにして、さかのぼってみるとすると、十代前には千二十四人の人がいる、ということになる。十代前って、だいたい千七00年ころでしょうかねえ。ちょっとややこしいけど、その人たちを全部足してみます。そうすると、自分の親から、十代前の千二十四人まで、二千四十六人の人たちが関わっているんですよ。二千四十六人。そして当然のことですけど、その半分が母親です。千二十三人が母親。みんな、女、です。その女たちのひとりでも、気を変えてこの子を産むのをやめよう、とおもったら、あなたにはつながっていなかった。そしてね、ひとりひとりが、若いころがあり、親との葛藤があり、恋があり、悩みがあったんだ。あなたのお母さんは、それをみんな、受け取って、今のお母さんになっているんですよ。母親になる、ということは、それまでの女の歴史を、自分で全部受け止める、ということです。
「しょうがなかったから、今の仕事を選んだんだよ。就職氷河期だったしさ」夫は言うが、わたしは知っている。それは夫がやむをえず選択したように聞こえるけれど、その時点の「決断」によっている。彼がそう決めたから、そうなっているんだ。この世界で起こっていることって、みんな結局、やむをえない選択みたいに見えても、実は自分がそんなふうに決断している果てに起こっているに違いない。
流されているように見えて、本当のところは、みんな自分でそうやって流される決断をしているんだわ、わたしは思う。本当に選ぼうと思えば違う道だってあったはずだ。みんな、それぞれ、正しかったり間違ったりしているけれど、決断しながら生きているんだわ。思うようにならない、ってそれってどこかの決断が間違っているんだ。意志の力さえあれば、なんとかなる。
チベットの曼荼羅
「夢も見ないっていうことは現実に夢を持てない、ということと同じだわ」
忙しいと、何でもめんどうくさい。いいかげんにやるようになる。だから、そこで処理されたことは、後々になって問題が出てくる。いつもそうだ。わかっているのに、忙しくて、めんどうくさかった。なんてこと。
でも、そういうものって本当はたくさんあるんだと思う。やりかけて、見届けることができないもの。ほとんどのことってそうなんじゃないだろうか。なんでもやり始めることは楽しい。でも最後までやりとおすことは難しい。やり始めたのとを終えられなかったことはなんとなくうしろめたいから、わたしたちは、言い訳したり、病気になったり、むやみに忙しくなったりしながら、適当にごまかしながら生きている。そういうものだ。だから、ラザニアが見届けられなくても、それは、もうひとつ、私の人生に重ねられた「未完のこと」に過ぎない。
「人知らずして恨みず」孔子
他の人になんと思われても、それはその人が知らないだけなのだから、怒ってはいけない。人が自分のことを全く理解してくれなくても、怒ってはいけない。自分がよりよい状態であれば、相手のほうが変わっていく。長い間かかってもかならずそうなる。
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三砂先生のお話が短編になった感じ。言ってることはいつもと同じなのだけど、物語になっている。
どれも好きなのだけど、ベビーバギーだけはちょっと考えちゃった。
もし、生まれるところを自分で選べるとしたら。紛争地では、こどもが少なくなるはずじゃない?日本で少子化がおこらないはずじゃない?(これはそうとは言えないか…) -
Posted by ブクログ
読んでて、これは違うな、とか、これは腹立つな、とかもありましたが、総じて興味深い内容でした。
身体知を大事にするところなどは、よくよく共感。
あと、社会内での役割についても、これまでずっと考えていたことが、おかげで少し言葉になりそうな気がした。今の日本の社会は、ドロップアウトすることを極端に嫌うから、余計に一度どこかでラインを降りてしまうと行き場がなくなるのかも知れない。
親子関係のところは特に面白い。
自分の家庭が機能不全だった時期があるからか、色々と考えされられた。
父母の役割は、いわゆるジェンダーに依るものではなく、機能によるなど。
私なりの解釈では、この本は、要するに「定量化して測るべきものと、定量化せずに曖昧糢糊として測った方が良いものとがある」ということを言いたいのではないかなと思った。
「こうあるべき」「こうするべき」と思い迷い振り回されるのではなく、「こうしてみたらこうなった」「ああしてみたらああなった」のように試行錯誤で、計画性と偶発性をうまくバランスを取りながら生きてけということなのだろうか。
時間が経ってから再読すると面白そうな本である。
完全なる余談だけど、一つの本を取っても、皆、作者の言いたいことを知るよりも、”自分が考えていたけれど言葉になっていなかったこと”を本を通じて汲み取るものなのかもしれない。 -
Posted by ブクログ
ネタバレこんなタイトルだけど、全然夫婦の話ではありません。サブタイトルの「なぜ女たちは「本能」を忘れたのか」にあらわされるように、女性の「本能」にもう一度着目し、大切にしようではないか…的な内容です。「母性主義」とかいうらしい。
もちろん、女性の社会進出を否定するものでも、男女同権を否定するものでもない。が、母乳育児を推奨したりするとそれを「母性を強制するのか!」などと批判する声が上がり、これまで女性が担ってきた仕事の価値を、逆に貶めたりする風潮に疑問を呈している。おむつなし育児が推奨されれば、「おむつなし育児を推奨することで女性の負担を増やしている!」とか。いやいや、夫婦でおむつなし育児をすればいいだけやし?紙おむつが当たり前の時代ってどうなん?みたいな。
個人的には、最近フェミニズム系の文学や新書ばかり読んでしまっていたので、真逆な方向で良かった。
私の人生のモットーは「中庸」なので、極端なフェミニズムに偏らないようにしなければ。
以下引用↓
女性解放の様々な運動のなかで、女性ももっとのびのびと自分の性欲をあらわしてよいのだ、という話題もずいぶんあったと思うのですが、それはどうも、生命継続への希求というせつなさや、男という異性を楽しむおおらかさにつながっていかず、どうしてもこの近代的文脈のなかでは、「産まないことも女性の権利」「一人で生きることが自立」「多様な性をみとめ、セクシャルマイノリティを排除しないこと」などの議論が先に立つことになっていきました。それは時代の文脈で必要なことではあったのですが、人間が生物として生きる礎であろう「次の世代を産むこと」「ひとりでは生きられないこと」「マジョリティーとしての世代継承を前提としたヘテロの性のありよう」の価値を、保守的である、おくれたことである、と、切り捨てる雰囲気を作ってしまったことは逆に女性のもつ本来の力を埋もれさせることにもなり、また、女性たち自身を苦しくさせることにもなった、と感じてもいます。
↑この部分、すごく納得するな。
私は男性と対等な職場で20年以上働いてきて、とても苦労してきたけれど、仕事での自己実現とは別に、やはり子どもを産み育てたことは(まだ育て途中だけど)かけがえがなく、どうあがいても男性にはできないことを私はしたのだ、という誇りもある。これは価値あることに違いない。しかし、結婚しない・子どもをもたないという女性も多い職場だから、「子どもを産み育てるって素晴らしい経験よ」なんて、言ってはいけない…という雰囲気はある。
幸い、今の職場は小さい子を育てている職員が男女とわず非常に多く、子どもを産み育てることをみんなで支えている雰囲気があって良い。
最後の方は懐古主義みたいな、「昔はどの家にも井戸があったから、災害で水道が止まっても困らなかった」「汲み取り式の便所は水を大量に使わないから良い」みたいな話になってきてちょっと極端だとは思ったが。オムツがなくても大丈夫、ナプキンがなくても大丈夫(今のような便利なナプキンが出回り始めたのはほんの数十年前からだ…その前は、女性はナプキンなんてものはなくても、経血を自分で止めていたのだ)、というような話も出てきて。ちなみに私、↑これできるわ笑。ふふふ。 -
Posted by ブクログ
三砂先生の着物姿に憧れて少し着物を着てみたりしていたけれど、最近はなかなか着ることができていなかった。改めてまた着物を着る生活にチャレンジしてみたいなと思わされる。
細かい着物の着方などは書かれていないが、一方で着物の着付けの本には書かれていなさそうなことが書かれている。
それにしても贅沢な気持ちになる。三砂先生自身が、着物を愛して探求する姿を見せていたから、おそらく周りの人たちも嬉しくなって三砂先生に着物にまつわるあれこれを物としても考え方としても還してきたのだろうとも思う。それが豊かで贅沢なありようとしてもうかがえる。
対象を愛して突き詰めることが起こすミラクルのようなものを考えさせられる。 -
Posted by ブクログ
頭にモノを載せて運ぶ、頭上運搬。
かつてな日本各地でも行われていたこの身体技法について、
フィールドワークで得た情報を綴り、生活や文化を探る。
・はじめに
I 失われゆく身体技法 II 頭上運搬の記憶をたずねて
III 生活と労働を支えた身体性
・あとがきにかえて
石垣島や沖縄県糸満、沖永良部島、神津島、江島、
中川の北山杉集落でのフィールドワークと様々な先人たちの
研究などから、かつて日本各地で行われた頭上運搬が
解き明かされてゆく。
頭に載せるのは、芋、薪、魚、水、タライに洗濯物、
燃料用のソテツの葉、花、丸太さえも。しかも重い!
載せる工夫のクッションは様々。額に紐を掛けての運搬も。
ササグやイタダキは神への供物、神饌を運ぶ意味が内包。
できると思ったから。周りの人がみんなやっていたから。
やらなくなったらできなくなった。
やっている人がいないのでできない。そう、
水道整備、車や自転車での運搬、石油燃料等の出現での、
生活の変化により、頭上運搬はほぼ消えてしまった。
でも、掲載されている頭上運搬の姿が美しい。
日々を支える運動で身体を意識し、センターの通った
真っ直ぐな筋の通った身体には、リズムとゆるみ。
まるでファッションモデルの如し。
このような失われつつある生活や文化を調べ、
教えてくれるのは有難いし、興味を深めてくれました。