青木理のレビュー一覧
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”死刑”の当事者たちにこれだけ迫ったルポはない。
”死刑”を取り上げた書籍は、その制度の特質性ゆえに、制度へのゼヒを問うものが多い。
しかしこの本は現実だけを描いている。
特に、被告人への迫り方と被害者家族へのインタビューはこれまでの書籍にないほどのものだ。
特に、
元少年たちの罪と罰
は考えさせられた。
僕は死刑廃止派。
人を殺すことではなにも解決しないと思っている。
しかし、著者も書いているが
崖から転落した人を崖の上から「かわいそうに」とつぶやき、崖から人を落とそうとしている
今の社会のあり方の最終地点的なところが一番嫌い。
”死刑”は今、恣意的な力でブラックボックスの中にある。
それも世界の流れ、時代の流れにそっぽを向いて。
そこに真正面から針をはけたすばらしい作品です。 -
Posted by ブクログ
冒頭の処刑シーンが強い印象を残すが、実は死刑囚の人間性をあぶり出し、読者に「死刑」について考えることを求めることがおそらくは著者が期待するこの本の目的だ(たぶん)。
本書には多くの死刑囚が登場する。同じ死刑囚でいずれ首をくくられる(もしくは、すでにくくられた)といっても彼らは当然ながらそれぞれだ。
覚醒剤の影響が強く殺人を犯し、獄中で悔恨の中クリスチャンとなり、そしてなぜかクリスマスに処刑された今市四人殺傷事件の藤波死刑囚。
面会を通して被害者遺族との関係を築いた半田保険金殺人事件の長谷川死刑囚。
日本の司法に絶望し、だから謝罪も反省もしないといって死刑となる熊谷四人拉致殺傷事件の尾形死刑囚。
自らの無罪を主張し続けおそらくは足利事件と同じく誤ったDNA鑑定による誤審であった可能性が高かったが、そのまま処刑された飯塚事件の久間死刑囚。
そして少年時代に犯した罪を悔いる木曾川・長良川連続リンチ殺人事件の三人の元少年死刑囚。
この中で木曾川・長良川事件は、それぞれの死刑囚のエピソードの間に、二章に一回の割合で登場する。途中まで、筆者がなぜそこまでこの本でこの事件に特別にこだわるのかわからないので、あれっまただ、という感じで違和感があった。後になり、同死刑囚と筆者の特別なつながりが分かってくる。特にその中の死刑囚の一人とは、頻繁に面会を繰り返している。彼は遺族へ謝罪の手紙を書き、刑務所内の作業で貯めたお金を送る。遺族の中には、死刑にならないよう嘆願書を出すものもいた。当時未成年であった。更生の余地がないとは思えない。それでも死刑は確定した。
死刑 -「先進国では米国と日本のみ」という枕詞が残る死刑制度。
死刑の意義とは何だろうか。遺族の存在ではない。それは遺族がいなければ死刑にしなくていいのかという仮想の問いから論理的に明らかだ。犯罪抑制のための統治の手段なのか。凶悪犯罪が減っているのは事実だが、それが死刑の有無と関係あるとは思えない。おそらくは死刑は凶悪犯罪発生の抑止力にもなってはいない。またそもそも司法による刑罰の目的が犯罪者の更生であるのであれば、死刑はその目的に反する。更生の可能性がないことが死刑の条件になっているわけではないからだ。もちろん、かつて欧州そうであったように死刑は娯楽ではない。逆にその執行は隠される。
本書は、人が人の命を奪ってよいものか、というような単純な主張ではなく、そのような矛盾をはらむ死刑制度に対する疑問を、実際の死刑囚の描写を通してぶつけたものだ。
死刑囚の中には、心から悔い改めているものがいるかもしれない(今市事件)、遺族が決して望んでいないものがいるかもしれない(半田事件)、司法への不信からいっそのこと殺してくれた方が楽だとのみ思っているものがいるかもしれない(熊谷事件)、本当は無実のものがいるかもしれない(飯塚事件)、そして更生の余地が十分にあるものがいるかもしれない(長良川事件)。
そして、法律の定めがあるわけでもないのに、その公開を頑なに拒む刑務制度にも強い疑問を呈する。
死刑が他の刑罰と違うのは決定的にその執行が不可逆的であることだ。
遺族は苦しみ、生き残った者は苦しみ、そして加害者も苦しむ。そこで第三者が苦しみもせず葛藤もなくある事件の犯人に対して死刑を当然と求めるのは、相当に違和感がある。また死刑制度自体も考えもなく賛成することにも。死刑がなくならないどころか廃止さえ議論の俎上に上らないのは、第三者である私たちがそれに対して何も意見を持たないからだということではないだろうかと思うようになった。
そして、現状の検察と裁判にゆがみがあるとして、死刑の可能性もある裁判を、裁判員制度は、果たして今のままで正しき制度なのだろうか。 -
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近年、死刑制度を存続させる国は少なくなっている。日本はその少なくなっている国の一つだ。死刑の是非は別にして、死刑制度のある国の国民として、死刑は誰のため、何のため、どうやって行われているのかは知っておくべきだろう。
1994年、連続リンチ殺人事件。未成年の少年3人が旅をするように移動しながら、次々と殺人を続けた凄惨な事件だ。判決は3人全員に死刑。著者は死刑を待つ彼らの取材を通して、死刑の意義、根幹を探る。
本書を読んで、この国の死刑について、最大の問題点はブラックボックスが多すぎることだと思う。死刑確定者への面会基準は不明確だし、死刑判決から執行までの手順が法務大臣の個人的な主義に左右される。法治国家による人命を取り扱う制度にしてはお粗末すぎるのでは。 -
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ネタバレ古くからの希少な趣を残す農村の景観を持つ「日本で最も美しい村」のひとつに名を連ねていた福島県飯舘村。
2011年3月に発生した東日本大震災に伴う原発事故は、この美しい村の光景や、この地に生きてきた人々の運命を根底から変えてしまった。
放射性物質に汚染され、計画的避難指示が出された4月11日深夜、飯舘村で百年余を生きてきた大久保文雄が自ら命を絶った。
何が彼をそこまで追い詰めたのかを著者が渾身の取材で、曝いていく。
見えてきたのは、「国策」という名の巨大な影と、時代に翻弄される人々の姿、そして戦争の記憶。
阪神淡路大震災後、設置された政府の地震調査研究推進本部の長期評価に基づき、東京電力の子会社は2008年、福島第一原発に最大15.7mの津波が到来する可能性を試算していたが、東京電力は、それに合わせた津波対策をしていなかった。
また、タービン建屋の地下室に漫然と設置され、津波の濁流で水没した非常用発電装置や配電盤も、もっと別の堅牢な場所に設置すべきであった。
文雄の弟・久は、海軍に徴兵され、本土防衛のための捨て石として硫黄島に送られ、21歳の若さで命を散らした。
102歳の文雄を自死に追いやった背景には、原発事故で、手塩にかけて育ててきた田畑や長閑な里山から強制的に離別させられる深刻な悲嘆や絶望に加え、弟を戦地で死なせてしまった兄としての責任を痛感していたこともあったのではないか。
著者は、文雄の取った行動が、兄弟の運命を翻弄した重大な国策の過ちに対する怒りを満身に込めた抗議だったのではないかと推測する。
このルポルタージュでは、文雄の息子・一男の妻である美江子の取った行動にも焦点が当てられている。
一男は末期ガンのため、入院していたが、震災による緊急事態のため、新潟県の病院に転送されるが、美江子は、一男を励まし文雄に不安を与えないように、二人に対し病気の真相を封印、気丈に“女優”を演じ続ける。
美江子は、後に、温厚で優しく接してくれた文雄を愛おしみ、文雄の無念や悔しさを晴らすべく、東京電力などを相手に損害賠償を求める民事訴訟を起こし、勝訴する。
異常事態の中で、優しい義父や最愛の夫を亡くした寂しさや悔しさを乗り越え、勇気と粘り強さを貫いた美江子の生き様も、この本の価値を高める要素となっている。
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一九七〇年代生まれの私にとって、安倍晋太郎は思春期にテレビ画面で連日目にしていた存在である。あの親しみやすさを晋三には全く感じないなあ、と思っていたら、襲撃事件が起き、彼は殺された。この本は襲撃事件の前に書かれた本。晋三には、晋太郎が「弟がおんねん、ボクには弟がおんねん」(p180)と嬉々として言ったような孤独感や人恋しさや切なさは全く感じられなかった。成蹊学園という一貫校でぬくぬく育ち、空っぽの器のまま大人になった人間が、世襲で政界入りして右寄りの考えに染まっていく。そんな彼は「美しい日本人」(p287)では、どう考えてもなかっただろう。周囲の人たちの冷静な観察眼に驚く。その豊かな人脈を悪い意味でしか活かせなかったんだなあ。
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1974年に文化人と宗教家を中心に「日本を守る会」が、1981年には政界・財界・学術界による「日本を守る国民会議」が発足する。この2つが合流して1997年に設立されたのが、本書テーマの「日本会議」である。
日本会議には2つの宗教団体が関わっている。1つは「生長の家」であり、もう1つは「神社本庁」である。
生長の家は1930年に谷口雅春によって創始された宗教団体で、その教義は「万教帰一」。大宅壮一によって「カクテル宗教」と揶揄された宗教団体だが、それは「天皇への帰一」を目指す、天皇崇拝の信仰であった。政治への関りは第二代総裁の谷口清超(娘婿)、第三代の谷口雅宣によって断たれたが、それに反発した椛島雄三らが日本会議の運営を担った。
また、全国に8万の神社を傘下におさめる神社本庁は、戦前の国家神道の時代への復古を目指して、資金面でも活動面でも日本会議の活動を支えてきた。8万の神社全てではないが、1割程度が積極的に関わっていると言う。
現在の憲法を否定し、憲法の改正を掲げ、天皇を中心とした国づくりを目指す日本会議の思想は、安倍晋三の思想と共鳴した。
日本会議国会議員懇談会に所属する国会議員は多い。特に自民党に多数いる。そもそも自民党は憲法改正を党是としている。安倍晋三も憲法改正を目指すことを声高に主張してきた。その安倍を神輿にかついで、自分たちの悲願を達成しようとしたのが日本会議であったが、憲法改正はならなかった。 -
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民主主義の体をなさぬ日本における公権力の愚劣な言動は、弱者の命の尊厳を完膚無きまで蹂躙する。だから私も声をあげ続ける。それが私たちの生活を守る選択肢であり、健全な社会への貢献へと向かう。国民の権利や自由を国家権力から守る “憲法” 改正に躍起になる為政者の本心は、権力の横暴の正当化であり、人権の保障など念頭に置いていない。国防という名の軍事力の強化、防衛費増額の風潮を煽る現状は、私たちを戦場に向かわせる証左であろう。国を守るのは決して戦争の肯定ではない。各人によって “国” の定義が異なるからややこしくなる。私たちの生活が国を支えている、”生活を守る”=”国を守る” ことではないだろうか。青木理は為政者の頓珍漢な言動に物申している。これも私たちの生活を守る、国を守る姿勢であろう。