■きっかけ
西南戦争を起こしたきっかけをそういえば知らないなと思って読みました
■島津家家臣編
- 島津斉彬(なりあきら):薩摩藩主。お互いかなり信頼関係があったが、息子の島津忠義(ただよし)の祖父島津斉興(なりおき)は勤王派の西郷とは合わず、西郷の友人・月照(げっしょう)を日向送り(斬り捨て)せ
...続きを読むよと命令を受け、月照と抱き合い海に身投げ。西郷だけは助かり大久保に奄美大島に隠れるように言われ、菊池源吾という名で隠れた。忠(テニス選手の菊池玄吾はここから名付けられた?)
- 1858年に忠義が藩主になったがその1年後、斉興が死に、斉彬の弟の島津久光(ひさみつ)が実験を。
- 西郷と久光は最後まで相性が悪かった。
- 斉彬の娘(養子)は13代将軍の御台所・篤姫
■明治維新
- 1864年禁門の編(蛤御門の変)で長州軍と薩摩会津連合文。長州軍を半日で撃破。後に長州軍の責任を戦わずして調停。
- 1866年 桂小五郎(後の木戸孝允)に頭を下げた薩長同盟
- 1867年 坂本龍馬暗殺(京都の近江屋)
- 1867年 形だけの大政奉還。続いて王政復古の大号令。徳川慶喜の扱いを決める会議でや山内容堂(ようどう)が徳川おかばっていたとき、会議に出ている岩倉具視に「いざとなれば短刀一本で片がつく」と西郷が伝え、それが山内の耳に入り会議は徳川排除で落ち着いた。西郷どんかっけー
- 1868年 戊辰戦争開戦(鳥羽伏見の戦いで始まった幕府軍との戦い)
- 1868年 江戸城無血開城
■西南戦争へ
- 一度は薩摩に帰ってゆっくりしていたが、大久保利通によばれ再び江戸に。
- 御親兵(天皇を守る直属軍隊)を作った。
- 廃藩置県は藩主の反発があると予想されたが、「何がおきても後はわしが御親兵とともに引き受ける」という西郷のことばで決定した
- 征韓論をめぐって、岩倉使節団として欧米に渡った盟友・大久保利通ともめた。留守政府だった西郷とは考え方が違っていた。大久保は欧米列強に追いつくには外交ではなく、まずは国内制度の充実を訴えた。西郷は話しあいに行くと決めていたが、大久保はそれで殺されれば戦争になると伝えた。西郷は一度決まった韓国行きを白紙に戻され、政府をやめ鹿児島に返った(明治6年1873年の政変)
- 鹿児島で私塾を開いていたが政府から視察(刺殺)にきたという者がいたのと、もともと士族の不満が溜まっていたことから、西南戦争へ(1877年)。熊本城を兵糧攻めするが、熊本城は物資があり、政府軍も素早くやってきたため、敗北
- ごめんなったもんし!と言った別府晋介に介抱してもらい切腹。
- 1878年 大久保利通暗殺