清水真砂子のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
1巻でゲド中心の物語を読んでいると、中盤まで「ゲドは?」と思いながら読んでしまう。それはこの本がどういう話なのかを最初に書いていないからこそ起こるのだが、主人公や舞台は毎度変わるのだと思った方がいいのかもしれない。
中盤、ゲドが姿を現れてから物語は一気に加速。1巻で<影>に打ち勝ったゲドが、闇を切り裂く光となって、暗黒の地下迷宮を守る大巫女アルハの奢りと傲慢、そこからくる孤独と不安を打ち払っていく。
それでもいつまでも迷う彼女に読者はやきもきともするが、丁寧に言葉にされているので、自分の身にもあるその<影>にアルハを重ねているだろうという解説にも頷ける。
考えないで奴隷のように暮らすこと、自由を求めて戦うこと、どちらを選ぶか。軽くもなく、重すぎもせず爽やかに描き切るので舌を巻く。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ墓所の大巫女アルハが、ゲドをきっかけにテナーとしての人生を取り戻す物語。闇の中で安逸に暮らす事よりも、未知である外の世界で生きることを選んだ。
ファンタジー世界の物語なんだけれど、闇からの心の解放など、現実の世界にも通じることがテーマになっていて、奪われた時間を思って泣くテナーのシーンでは、私も足を踏み出すことをおそれて、無駄な時間を過ごしていないだろうか、いつかこんな風に泣く日が来るのではないか・・と思えて、人生をの一歩を踏み出す勇気をもらえた気がする。
そして一作目と比べて、立派な魔法使いとして心の落ち着いたゲドを見れるのもうれしい。 -
Posted by ブクログ
968
清水真砂子
1941年、朝鮮半島に生まれる。児童文学者・翻訳家。青山学院女子短期大学名誉教授。主な著作に、『子どもの本のまなざし』(日本児童文学者協会賞受賞)、訳書にU・K・ル=グウィン『ゲド戦記』全6巻
ただ、私が気がかりなのは、黙っていたいのに、無理をしてでも、しゃべらなくてはいけないと考える人が一〇代の人々の中にますます増えているように見えること、 内容はどうであれ、しゃべるという行為そのものを価値と考える人々が多くなっているように思われることで、こういう状況のもとでは他者の声に耳を傾けたり(小さな声はなおさら)、自分自身の内なる声に耳を澄ますことはむつかしくなってきているのではないかということです。
そうです。生きてごらん、と言ってくれているのです。宇宙は、世界は。人々が遠い昔から生み出してきたたくさんの絵も、音楽も、物語も。そこに自信なんていりません。そんなのは、あったって吹けば飛ぶようなものです。世界を信頼して自らをゆだねればいい。自分で自分を評価する必要もないし、外からの評価に一喜一憂する必要もない。繰り返しになりますが、自分をまるごと受け容れ、丁寧に、省エネしない で、つまりは手を抜かずに、生きてやる、それしかないように思います。そのとき 「自信」は何の意味もなくなるに違いありません。
子どもの育ちのこと、さらには人間の「能力」について、岡本夏木氏が語っていたことばを思い出したのです。岡本氏は『幼児期』(岩波新書)という本の中で「能力主義」にふれ、「ヒトリデデキル」こと、さらには「ヒトリデハヤクデキルコト」という能力主義の一大スロー ガンが持つ危険を指摘し、「「できないこと」こそが人間を結びつける原動力」なのに、と言っているのです。その「原動力」の一角に、質問するということは、もしかすると、位置づけられるかもしれません。 全くのところ、道を尋ねることから始まって、私は質問することで、これまでどれ だけ他人とつながり、新しい世界への扉を開けてもらったか、しれません。中学・ 高校・大学時代、私は超がつくほど無口でしたが、授業のときは質問しました。NHKの朝ドラ「花子とアン」(二〇一四年四月〜九月放映)の中で生徒だった村岡花子が先生に質問するのを見ていて、ああ、私もこうだった、とよく思いました。四〇年ほど前の小さな出来事も、どうしてか、繰り返し思い出します。
私の友人に、いたるところですばらしい人間の物語を聞き取る人がいます。彼は自分分からしゃべる人ではなく、どちらかというと静かな人ですが、他人の話を聴く耳を 持っている。その聴く耳が、質問しなくても相手の話をうながしているように思われ ます。そうです。あのシンガーの『お話を運んだ馬』(マーゴット・ツェマック絵/ 工藤幸雄訳/岩波少年文庫)に登場するレブ・ツェブルンのように。では、その聴く耳はどうしたら持てるのか。一言でいえば、他者への愛と尊敬かなと思います。相手を大切に思い、こちらには踏み込めない厖大な世界があると知ること。そのとき始めて私たちはそっとその人のドアをたたき、かすかな音にも必死に耳を傾けるのではないでしょうか。
今日はこの手紙を結ぶにあたって、関連してもう一つ言っておきたいことがあります。それは、あえて「こわい」人に会いにいってほしいとい うことです。あなたに畏怖を抱かせる人と会う機会を可能なかぎり持つように努めてほしいということです。社会的地位は関係ありません。金持ちか否か、有名か無名かも関係ありません。親切な人、優しい人に私たちは容易になびくものですが、そこで足を止めたきりにしないで、こわい人、きびしい人、とっつきにくい人、わかりにくい人に思い切って近付いていってごらんなさい。これがあなたに言っておきたいことです。身の丈にあったものにばかり安住しないで、たとえ不安でも、どうしても惹かれるならば、あるいは惹かれなくても必要とあらば、飛び込んでいってほしい。だっ て、これも憶えているでしょう? そうあなたには――そして誰にもー傷つく権利 があるのですもの。大丈夫です。 居心地のいいところにだけ身をおくのは、およしなさいって言いたいのです。固いもの、自分をはね返してくれるごつごつしたものに思い切ってぶつかっていってごらんなさい。あなたをして途方に暮れさせるもの、立ち往生させるものに立ち向かって いってごらんなさい。必要なら日本を飛び出してみるのもいい。でも、国内にいたって、いえ、たとえば中学校の同じクラスの中にだって、そういう人はいてくれるかもしれません。そうなのです。私の夫は中学二年の教室でのある日の出来事を六〇年近 くたった今も、あざやかに思い出すといいます。彼のクラスにはきわめてめずらしい、読み方によっては、からかうのに恰好の苗字の生徒がいて、何かというといわゆる悪ガキから大声ではやしたてられていたといいます。しばらくはその生徒も相手にせず、聞き流していました。けれどついにその日、少年は反撃に出て、言ったそうです。
ごく最近になって、私は精神科医の中井久夫氏が一〇代の人たちに向かって、「一目をおく同級生を宝とせよ」と語りかけていることを知りました。ああ、これは本当だと夫と話しています。
自らの精神の自立なくして、他者と本当の意味でつながることはできないし、他者の内面を侵さずにいることもできないと考えるからです。それにしても今や退屈を埋めるもの、退屈を奪うものは、巷に溢れています。幼い子どもにおもちゃを与えすぎると創造性が育たなくなるとよく言われますが、大人たちもまた次々と生産される"おもちゃ"の洪水の中で、自ら考えることを放棄し始めているようにも見受けられます。
前にもちょっと書きましたが、私たちの多くは小さいときから、一人で何でもできることこそ大事な、疑いようのない価値だという思い込みの中で育ってきました。学校の確たるものさしは、その時代時代の大人たちがつくる社会が要求してくることが、そこにいる子どもにできるか、できないか、でした。できる子はいい子とされ、 できない子はだめな子とされました。それ以外にたくさんのものさしがあるなんて、 子どもの私は知りませんでした。後になって思い返せば、本当はそのときそのときの支配的な価値観からはずれたところをだって子どもはちゃんと生きているし、一〇代のときだって二〇歳を過ぎたって、あたりまえのように、そうした瞬間瞬間を生きてきたのに。ただ、そうはさせまいとする圧力は強く、気が付けば、私たちはいつのまにか、自らその圧力の一部になってしまっていたりするのですね。そして、動かない 人、何かをしない人だけでなく、動こうにも動けない人まで追い詰めてしまってい る。人としてゆたかに賢く生きることのなんとむつかしいことかと思いますが、でも 一方で、よく見れば、人はとうに思いのほかゆたかに賢く生きていることに気付かさ れ、楽しくなってもきます。
では、その大変な子ども時代をどうやって生き延びたのか。先日も近しい友人とそれぞれの子ども時代を語らっていて、ふたりの口から同時に出たのが「本があってくれてよかった」でした。もちろん本のかわりに音楽がくる人もあれば、美術がくる人もあり、昆虫採集がくる人もあれば、何かスポーツがくる人もありましょう。本を読むなどということは、もはやごく少数の人々の行為になっているかもしれません。 今のインターネットの時代に、本などいちいち開かなくても手に入れたい情報はすぐに出てくるというのに。でも、本って情報を得るためだけのもの?本をこう詠った(たぶん)若い娘さんがいます。 -
Posted by ブクログ
“長く、白い帆を白鳥の翼のように膨らませて、その船、天翔丸はよろい岩を抜け、静かな夏の湾を滑るように、ゴンド港目指してやってきた。”
清水真砂子さんによる美しい翻訳にいざなわれて、冒頭から懐かしいアースシーの世界に浸ることができる。
しかし、帰還 -ゲド戦記最後の書-」から10年経って著された「ドラゴンフライ」と「アースシーの風」では、これまでの正義や秩序、そして世界のありように疑念の目が向けられていく。
真の魔法使いは世俗を断って学問を修め、世界の均衡を壊さないように必要なときにだけ魔法の力を用いる。では“魔法の力”とはなんなのか?
人は死ぬと黄泉の国に赴くのに、何故、鳥は山羊はそこにはいないのか?
この問いを巡る思考がスリリングだ。
“死んだのに、あのヤギは向こうにいない。あれはあれのいるべきところに、土の中にいるのだ。土の中に。光の中に。風の中に。岩をかけくだる滝水の中に。太陽のオレンジ色の目の中に。ならば、なぜ?ならば、なぜ?”
そして死生観についてと共に、自由と善悪の意味も問い直される。
“動物は善もなさなければ悪もなさない。なさなければならないようになす。それだけのこと。私たちは動物のすることを見て、有害だとか有益だとか言うが、良い悪いは、何をするか選ぶことを選んだ我々人間の側の問題なんじゃないだろうか。”
“動物たちには命こそ見えていても死は見えていないのだから”
ル=グウィンの思考は、自然や自由を礼賛して、欲に縛られて自由に生きれない人間を断罪したりするのではなく、その先へと向かう。
“竜は自由に生き、残された私たちは自らの選択を引き受けていく、それしかないのではないでしょうか。”
「ものをつくり形にしていく喜びも、所有していく欲の深さも」抱えて人は生きていく。自由に憧れながらも「善と悪に線を引くことを選び」自らをくびきにつなぐ決意も秘めて生きていく。
そして「死んだら、生かしてきてくれたすべてを、したかったのにしなかったこと、なりえたかもしれないのに実際にはなれなかったもの、選べるのに選ばなかったもの、なくしたり、使ってしまったり、無駄にしたものを、まだ生きている途中の生命にお返しする。それが、せめてものこの世界へのお礼なのではないか」と、まだ年端もいかない少女に語らせる。
生と死を分つ扉を閉めることで世界の均衡を守ったゲドをして、“わたしたちは世界を全きものにしようとして、こわしてしまったんだ”と言わしめる作者の覚悟と至った境地には感嘆しかない。
ゲド戦記(原題: Earthsea Cycle)は本巻で終わりではなく、未邦訳の“Firelight”がある。いつの日か訳されるのだろうか。読みたいなぁ。 -
Posted by ブクログ
「私たちは揺るがない確かなもの、遠い昔からある真実、変わることのない単純さを、ファンタジーの領域に求める。ー
するとそこに多額の金が注ぎ込まれる。模倣と矮小化された“商品化されたファンタジー”は、かわいく安全なものとなり、ステレオタイプ化されてガッポガッポと金を儲けていく。ー
私たちは長い間、現実と空想の両方の世界で暮らしてきた。しかし、その暮らし方は、どちらの場合も、私たちの両親やもっと前の先祖たちのそれとはちがう。
人が楽しめるものは年齢とともに、かつまた時代とともに変化していくものなのだ。-
物事は変化する。
作家や魔法使いは必ずしも信用できる人たちではない。
竜がなにものであるかなど、誰にも説明できない。」
再びアースシー世界に足を踏み入れるにあたってアーシュラ・K. ル=グウィンが記した警句である。
それは自らが創りあげた美しい世界に目を凝らし、そこに潜むひび割れを鋭く批判する作業である。
賢人の島ロークの権威が孕む矛盾と欺瞞が語られるとき、ファンタジーの魔法は解けるのか?
いや、『カワウソ』そして『ドラゴンフライ』はアースシーとリアルな世界を共鳴させることで、物語をより重層的にそして切実に感じさせてくれる。ファンタジーのテーマは剣と魔法だけじゃない。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ読み終えて、テナーとゲドがこれから歩いていく森のことを思った。テハヌー、レバンネン、セセラク、アイリアン、ハンノキ、皆のことを思い、ほっと溜め息と涙がこぼれた。『ゲド戦記』この物語には、この世で最悪の悪(レイプなど)との闘い、この世でこの自分で成せる最善を成そうとする人々、強く"fierce" に生きる人々、その交流が描かれる。この6巻の物語に人生で出会えて良かった。生に限りはあれど、物語は逃げていかない。ゆっくり読みたい物語だ。巻末、訳者清水真砂子さんとアーシュラ・ル・グヴィンの交流も、この物語の一部だった。作者と訳者に感謝。
-
Posted by ブクログ
1は自分の内なる影との戦いだったけど、2は影や死の世界と繋がる真っ暗な地下の迷宮で、他者を闇から救う物語。今回の舞台である、名を持たぬ者(?)の墓がとにかく暗い!描写で暗闇がありありと表現されている!恐ろしい姿のモンスターは全く現れないのだけれど、こわい。
人間の慣れとは恐ろしいもので、ひどい環境や扱いを受けていたとしても、それが当たり前になってしまうことがある。気付かなくなってしまうのだ。違和感って実はすごく大事なのかもしれない。主人公の彼女も自分の小さな違和感を見逃さなかった。それが彼女の運命を大きく変えていく。テナー、よかったね。自由は辛く厳しいこともあるけれど、自分で選択する、ということが生きることだと私は思う。アルハのままでは、どうしたって幸せにはなれなかっただろう。しかし、生まれてきてすぐに過酷な運命を背負う、というのは、ひどい話のように思うが、誰も自分の親も国も選べない。容姿も能力も選べない。不平等な世界で、それでも、どう生きるか、の選択ひとつひとつが自分を人生を決めていくんだ。きっと。彼女が墓の番人から解放された夜の星空の輝きに胸を弾ませたその感覚を、ずっと持って生きたいものです。
2021.05.10