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Posted by ブクログ
ゲド戦記シリーズの6巻。
4巻の『帰還』と5巻の1作『ドラゴンフライ』と接続する物語。
7巻の『火明かり』がアーシュラ・K・ル・グィンが没後に出版されたが、実質この『アースシーの風』がゲド戦記シリーズの最終巻を飾る作品であると言える。
ゴント島で暮らすゲドの元に一人の魔法使いが訪ねてくる。
彼はハンノキと名乗り、ローク島の様式の長からゲドの元を訪ねることを勧められて来たのだと言う。
ハンノキはある夢に悩まされていた。それは死者の世界の夢で、寝る度に死者の世界の夢を見て、そこで亡くした妻が何かを訴えてきているのだと言う。
ゲドはかつて死者の世界に行き、戻ってきた。ハンノキの夢がアースシー世界全土に関わるものかもしれない、と感じたゲドは共に死者の世界に行き戻ってきたレバンネン王の元に行くようにとハンノキをハブナーへと送り出す。
時を同じくしてハブナーでは、カルガド帝国との緊張が高まっていた。戦争にも発展するかもしれないという状況で、カルガド帝国からレバンネン王の王妃にとセセラクが送り込まれる。カルガド帝国の思惑がわからないレバンネンは、話も通じないセセラクとの通訳にとテナーを呼び寄せる。
更に、アースシー全土で竜が暴れ、人間たちへの攻撃が始まろうとしていた。レバンネン王は竜の子であるテハヌーとドラゴンフライの力を借りようとする。
図らずもハブナーに集まった人々は、アースシー世界の異変を救うために世界の中心であるまぼろしの森へと向かう。
5巻の『ドラゴンフライ』で感じた世界の複雑さが、やはりこの巻でも現れてるなあ、と感じた。
ゲド戦記シリーズは1巻から3巻までは1968年、1971年、1972年と短いスパンで出版されている。だが4巻は1990年、5巻と6巻は2001年と10年以上の時間が空いている。
6巻が発売されたのは同時多発テロの2日後らしく、同時多発テロが作品に反映されてるとは思わない。だが冷戦の終結から湾岸戦争なんかは、ゲド戦記世界への影響も僅かながらにもあるのかもしれない、と読んでいて感じる。
そういったものも反映されてか、いろんな地域から、言語が違い肌の色も違い、何なら人間と竜のハーフだったりする人々が、世界を救うために同じ船で旅立つという展開が良い。
中にはコミュニケーションが取れないことが原因して諍いや衝突が発生するキャラクターもいるのだが、ちゃんと向き合い歩み寄れば理解が出来るということが描かれている。
わからない、怖いのは頭のなかで仮想敵を作って、それと戦っているからで、その人とちゃんと向き合って接してみたら、相手がどんな人間なのか理解できる。レバンネンとセセラクのやり取りなんかはまさにそうだった。
レバンネンも久々に会ったらこんなダメな奴に……なんて思っていたが、内省して行動に移してるんだからやっぱ信じられる王なんだよな、なんて思ったりした。
ちゃんと反省出来る人間がトップなのは羨ましいね笑
2025年に読んでも古臭さは一切感じないどころか、今の時代にこそという部分もあった。
4巻以降は20年以上経っているのに、未だここに描かれている世界と現実は大して変わらなかったりして、うんざりすることもあるのだが……。
また、この巻は訳者である清水真砂子さんの解説も素晴らしかった。
アーシュラ・K・ル・グィン夫妻を訪れてのやり取りは読んでいるこちらが涙ぐんでしまうようだった。
Posted by ブクログ
“長く、白い帆を白鳥の翼のように膨らませて、その船、天翔丸はよろい岩を抜け、静かな夏の湾を滑るように、ゴンド港目指してやってきた。”
清水真砂子さんによる美しい翻訳にいざなわれて、冒頭から懐かしいアースシーの世界に浸ることができる。
しかし、帰還 -ゲド戦記最後の書-」から10年経って著された「ドラゴンフライ」と「アースシーの風」では、これまでの正義や秩序、そして世界のありように疑念の目が向けられていく。
真の魔法使いは世俗を断って学問を修め、世界の均衡を壊さないように必要なときにだけ魔法の力を用いる。では“魔法の力”とはなんなのか?
人は死ぬと黄泉の国に赴くのに、何故、鳥は山羊はそこにはいないのか?
この問いを巡る思考がスリリングだ。
“死んだのに、あのヤギは向こうにいない。あれはあれのいるべきところに、土の中にいるのだ。土の中に。光の中に。風の中に。岩をかけくだる滝水の中に。太陽のオレンジ色の目の中に。ならば、なぜ?ならば、なぜ?”
そして死生観についてと共に、自由と善悪の意味も問い直される。
“動物は善もなさなければ悪もなさない。なさなければならないようになす。それだけのこと。私たちは動物のすることを見て、有害だとか有益だとか言うが、良い悪いは、何をするか選ぶことを選んだ我々人間の側の問題なんじゃないだろうか。”
“動物たちには命こそ見えていても死は見えていないのだから”
ル=グウィンの思考は、自然や自由を礼賛して、欲に縛られて自由に生きれない人間を断罪したりするのではなく、その先へと向かう。
“竜は自由に生き、残された私たちは自らの選択を引き受けていく、それしかないのではないでしょうか。”
「ものをつくり形にしていく喜びも、所有していく欲の深さも」抱えて人は生きていく。自由に憧れながらも「善と悪に線を引くことを選び」自らをくびきにつなぐ決意も秘めて生きていく。
そして「死んだら、生かしてきてくれたすべてを、したかったのにしなかったこと、なりえたかもしれないのに実際にはなれなかったもの、選べるのに選ばなかったもの、なくしたり、使ってしまったり、無駄にしたものを、まだ生きている途中の生命にお返しする。それが、せめてものこの世界へのお礼なのではないか」と、まだ年端もいかない少女に語らせる。
生と死を分つ扉を閉めることで世界の均衡を守ったゲドをして、“わたしたちは世界を全きものにしようとして、こわしてしまったんだ”と言わしめる作者の覚悟と至った境地には感嘆しかない。
ゲド戦記(原題: Earthsea Cycle)は本巻で終わりではなく、未邦訳の“Firelight”がある。いつの日か訳されるのだろうか。読みたいなぁ。
Posted by ブクログ
ゲド戦記シリーズの最終巻。
第一巻が30年以上前に書かれたもののに対し、本作は原作が書かれてから10年程度しか経過していないため、随分と読みやすい。
これまで、作者が無意識にはっていた伏線のいくつかが、一本になり、気持ちよい形で終わる。世を反映してだろうか、自分の生き方や心の琴線に触れるフレーズがいくつか見られた。
レビューでは、ゲド戦記とハリーポッターシリーズを比較して書くことが多かったが、全館を読み終えたいま、訳者によるあとがきもヒントにして両者の作品の最大の違いにやっと気がついた。
ハリーポッターシリーズのJ.K.ローリングが、第一巻から意図的に多数の伏線を用意して最終巻まで物語を綴っているのに対して、アシュラ・K.ル=グウィンは、本能の赴くままに物語を綴り、その物語をたどっていくうちにまた新たな物語と自身が出会い、執筆していくスタンスである、ということだ。
もちろん、二人は世代も、作家がすべて同じスタイルで執筆するとも限らない。国民性が違えば、たとえ同じ言語を操る人間でも考え方も異なってくるだろう。
この2ヶ月間、私は全く間違った方法でゲド戦記をとらえようとしていたようだ。
世の中にはまだまだ、たくさんの良書と呼ばれる児童書が存在する。今後様々な作品に触れる際、今回の反省が生かされるとよい。
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