この数年感じることは、学校で習ってきた歴史上の有名な人達の別の姿が紹介されることが多くなってきた、ということです。有名な武将の二代目(豊臣秀頼、武田勝頼、今川氏真等)についても認識を新たにしました。
この本を読みえた今、、創造的破壊者・比叡山焼き討ちをした冷徹な人・長年仕えた部下も平気でリストラする合理主義者、と私がとらえたいた「信長像」を、かなり見直すことになりました。と同時に信長は、他の武将と同じく、戦国時代を悩みながら生きていた、人間らしさを感じることができました。
著者の倉山氏も、たしかに信長が本能寺の変で、明智光秀に殺される前の数年間は、ひどい振る舞いが目立つ、と述べています。現在では、信長が家督を引き継いでからそこまでに地道に苦労していた部分があまり触れられていないような気がします。この本では、若き時代に、強い武将に囲まれて苦労した部分にスポットがあてられていて、新たな信長の時代を知ることができて良かったです。
以下は気になったポイントです。
・戦国時代の下剋上とは、上の権威をひたすら担ぎ続け、殿様が聞き分けのない無能者だったら、一族から別の人を立てて、言いなりになる人を据える(p19)
・戦国時代では抜擢人事をやった家は全て滅びている、豊臣家や織田家、明智光秀は信長と長男を殺しただけだが、織田家を滅ぼしたのは豊臣秀吉(p23)
・信長の魅力は、弱卒を率いて勝つこと、この差をどう埋めるかは、努力と根性(p26)
・農村余剰人口を軍隊に入れているのが当時の社会、傭兵と違って農民出身の兵隊は逃げたら帰るところがない、だから必死に戦うので強い軍隊になる(p28)
・秀吉の天才ぶりとして、有名な刀狩りと同時にやった「海賊停止令」である、海賊は存在そのものを認めないという立場を打ち出し実現させた、これに欧州が追いついたのは、1856年のパリ条約(クリミア戦争の講和条約)である(p30)
・今でこそ侵略は悪いと思われているが、当時は褒め言葉であった。どんなに速くても1919年のベルサイユ会議まではそんなことは言っていない。1928年の不戦条約で初めて公式に侵略戦争は良くない、と言われた(p39)
・戦国大名のうち、江戸時代まで残った大名の実に半数が愛知県出身、徳川300年の礎となった、なので世界でもまれに見る平和な時代になった(p54)
・組織を育てようとする場合、号令・命令・訓令の順番を飛ばしてはいけない。部下にどれだけ裁量を渡していくのか、という話である(p55)
・信長が功績のあった人にどれだけの恩賞を与えるかというと、今川義元に一番やりをつけた人と首をとった人の場合は、一生遊んで暮らせる程度(p75)
・総大将が習うべき鍛錬は、馬術と泳術である。逃げるのに必要なので。次いで、鷹・鉄砲・弓術・兵法(剣術)・相撲である(p95)
・下剋上が激しいのは、畿内周辺(四国含む)だけ、広がっても東海、北陸あたり。中国地方は毛利氏が乗っ取ったのみ、東北地方は信長の死後までなし、九州はない(p109)
・実際の戦いは、今でいえば選挙の投票日、確かに逆転のどんでん返しもあるが、大抵はその前に決着がついている。現代の選挙も戦国合戦も同じ(p113)
・籠城は、援軍が来てくれる時以外は、やった瞬間に負けなので(p116)
・信長の「天下布武」でいう「天下」は、畿内のこと。全国統一の意味で上杉謙信や武田信玄に送り付けたら、宣戦布告となる(p134)
・延暦寺にいた女子供を虐殺した理由は、退避勧告を無視して非戦闘員をそこにおいていたから、延暦寺の責任である(p160)
・信長が絶体絶命な危機を乗り越えた理由は、1)寝ないで働く、2)予想外に好転したときのことを考える、3)弱い奴からつぶす、4)進撃速度である(p183)
・長篠の戦で死傷者が多いのは鉄砲戦だからではなく追撃戦によるもの、追撃戦では武田方の殿軍にかなりの数を返り討ちにされている(p196)
・信長は仏教勢力の大半とは戦ったが、神社を攻撃したことはない(p214)
・1576年(天正3)11月には信長も、右近衛大将となる、武家の平時の最高職である。有事の際は、征夷大将軍である(p213)
・小姓と男関係を結ぶのは、当時の戦国大名の義務である、例外は、秀吉と家康(井伊直政を例外)である(p244)
・最大の脅威である上杉謙信の死を境に、本能寺までの3年3か月の信長は、ガラリと変わる。よく言われる「万人恐怖の信長」が始まる(p256)
2017年10月7日作成