原卓也のレビュー一覧
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ネタバレいよいよ中巻。
この巻で特に印象的だったのは、泥棒と卑劣漢の対比に表されているように、高潔たろうとすること、名誉、恥辱なのではないかと思う。あるべき姿、ありたい姿が自分の中で明確になっていないとこういった考えや感情は湧いて来ないと思うので、やはりこの本の登場人物たち、特にミーチャは自分をしっかり持っている人なのだと思う。
私自身は、高潔、名誉、恥辱という言葉は普段は使わないものの、誠実でありたいとは思うし、自分の信念に反することをしたら落ち込むし、人からの評価を気にするし、、ともっと身近な言葉で置き換えて行くと、登場人物たちの考えや気持ちが少し身近に感じられた。
加えて、赦しという言葉も印象的だった。他人に対してどれだけ寛容になり、愛することが出来るか。『カラマーゾフの兄弟』全体を通して、さまざまな対象に対しての愛が語られていると思うが、赦しも愛の一つの形だと思う。
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クロイツェルソナタとは、ベートーベン作曲のバイオリンソナタ第9番イ長調作品47のこと。私は聞いたことがなかったが、動画を検索して聞いてみると、バイオリン1台とピアノ1台が互いに調和しながら進行していく優雅な曲だった。そう、まるで仲睦まじい男女が目配せながら言葉を交わし合うかのように。
ところで収録2作品のうち「クロイツェル~」のほうは文庫本で173ページ。だが、ある男が列車に乗り合わせた初対面の男性に対し、性欲はすべてに勝るという主張を自分の半生を織り交ぜて語る文体は、サスペンスの要素濃い内容とあいまって、長さを感じさせない。
内容を見ると、ある男の妻の前に若くて気障なバイオリニストが現れ、妻もピアノでその男と合奏するのが楽しみになっていく。一方で性欲の絶対的存在感を信じる夫は、妻と男との間に音楽の結びつき以上の“何か”を感じるようになり、2人に対する嫉妬が徐々に高まっていく…という話。
ある日、夫は長期出張しなければならなくなったので、妻と男とに自分が不在の間は絶対に会うなと念押ししたものの、不穏なものを感じて予定を切り上げ帰宅する。列車が遅れて深夜に家に着いた夫が目にしたものは、夜遅くにもかかわらず仲良さげに演奏する2人だった――
ここで私は、この場面が妻の不貞を夫が証拠としてつかんだ瞬間という一般的評価(と思われる)とは少し違った読後感をもった。
私にも妻がいるし、女性を聖人化するつもりはまったくないのだけれど、妻と男の2人は、夫が不在の深夜という時間であっても、本当に性的関係を最終目的に逢引していたのだろうか?例えば、夫の想像に反し、実は2人は月が美しい夜だったので純粋に演奏を楽しみたかったのだとは考えられないだろうか?
トルストイの履歴に照らし、意識的にも無意識にも性欲に支配される男と女が必然的に陥らざるをえない悲劇が描かれたと読むのは簡単。だが、大阪弁でゲスく言うと「愛だの芸術だのって言いながら、結局はアレしかないんかい!」みたいな結末を文豪があえて書いたとは思えない。
だから私は「クロイツェル~」を、性欲の絶対性とそれに結局負けてしまう人間の悲劇を描きながら、性欲に芸術的欲求が打ち勝つ可能性も微量に含ませていたのでは、と考えるのである。
でもそんな読み方では三島由紀夫なんて読めないし。私が浅いだけなのだろうか。 -
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ルーレット賭博の魅力に取り憑かれ、泥沼に嵌まっていく人たち。賭博そのものよりも、賭博に取り憑かれる心理を通じて「人間」を描く。本作からも、「全てを平準化する力としての金の威力」という、ドストエフスキーの一貫したテーマの一つを強く感じとることができる。またギャンブルに対する関わり方や、金銭的な感覚を通じて、ロシア・フランス・イギリスの国民性の違いをかなり強調して描いている。ロシア=蕩尽、フランス=収奪、イギリス=分配といったかなり大雑把な分類(イギリス推し・フランス嫌いがすごい)ではあるが、それなりに説得力はあるし、なによりそういった分類が、作中の登場人物の特徴を際立たせ、魅力的な人物として描くことに貢献しているように思う。フランス人は怒るかもしれないが。
ドストエフスキーらしさ全開の面白い小説でした。 -
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ネタバレ本書は小説ではなく生命に関する論文であるが、トルストイを文豪たらしめているその表現力は存分に満喫することができる。多彩な比喩を用いたその表現は、人生、苦しみ、死といったものと対峙した人間の心情を鮮明に描き出し、トルストイの思想を説得力を持って表現する。これらの比喩の多さ、斬新さ、的確さはそれだけでも本書の醍醐味の一つと言える。以下に一場面を引用する。
「真の生命の発現とは、動物的な個我が人間をおのれの幸福の方に引き寄せ、一方、理性的な意識は個人的な幸福の不可能さを示して、何か別の幸福を指示するということにある。人ははるか遠くに示されるこの幸福に目をこらし、見きわめることができぬため、最初はその幸福を信用せず、個人的な幸福の方に引き返そうとする。しかし、ひどく漠然と幸福を指示している理性的な意識が、あまりにも疑う余地のなり確信に充ちた様子で個人的な幸福の不可能さを示すために、人はまた個人的な幸福をあきらめて、指示されるその新しい幸福にふたたび目をこらす。理性的な幸福は見当たらないが、個人的な幸福がこれほどはっきり粉砕されてしまった以上、個人的な生存をつづけてゆくことは不可能であり、その人間の内部には動物的なものと理性的な意識との新しい関係が確立されはじめる。その人間は真の人間的な生命に向って誕生しはじめるのである。」(本書p.71より)
身に覚えのある人は少なくないだろう。今まで幸福の要素であると信じて疑わなかった、成功体験や賞賛、肉体的・精神的快楽といったものが突然、無意味で空虚な幻想のように感じられ、それらをいくらかき集めても幸福には到達できないのではないかという疑念が自然に沸き上がってくるのを感じる。より高尚な人生の意義のようなものを求めてみるも、なにもそんなものは見当がつかず、一方でホルモンの分泌によって与えられている幸福感のみは、たしかに自分が感じている実在するものであるような気がすることから、その幸福感の追求こそが人生の意義であると納得しようと試みる。しかし、一度空虚に見えてしまった今まで幸福と思われていたものに対して、意味を再付与することは到底できず、困り果てる。これこそが、トルストイの表現するところの「真の生命の誕生」の体験に他ならない。
しかし、現代を生きる多くの人にとっては、こんなことをいつまでも考えていても始まらないし、今日も明日もやるべきことがたくさんあるのだから、こんなことは見て見ぬ振りをして現在よりマシと思われる未来の実現のために無心に行動するというのが妥当な選択であろう。もしくは、「理性的な意識によって生み出されるやりきれない内的矛盾」から逃れるため、「人生のこうしたがんじがらめの状態をひと思いに断ち切って、自殺」するという選択をとる人も少なくない。だがトルストイは、ここからさらに論を進める。肉体的・精神的快楽を求める存在としての動物的個我と理性的な意識を明確に分離した上で、理性的な意識にこそ人間の本質たる生命の存在を認め、この「理性的な意識を満足させうるような幸福だけが真実」であり、「個我の幸福の達成だけに向けられる人間の活動は、人間の生命の全面的否定に他ならない」と述べる。さらに、その理性的な意識を満足させる幸福とはなにか、そして、幸福と対極に感じられる苦しみや死とはなにか、三次元空間の比喩、円錐体の比喩、案山子の比喩などの斬新な表現を用いて論を展開する。
以前よりトルストイの作品に興味があったが、個人的にどうしても小説全般が苦手という事情があり、本書を手に取った。本書も魅力溢れる作品であったが、小説に苦手意識のない人にはぜひ「戦争と平和」などの小説作品をおすすめする。
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以下に、本書の内容についての反駁、および異なる解釈を述べる。
まず、肉体の死後も生命が存在し続けることの論証についてである。筆者は、キリストが死後も多くの人の精神に作用し続けていることを論拠に、生命が永遠に存在し続けることを述べている。つまり、現存する者への精神的作用に生命の存在を見いだしている。この生命の理解を採用すると、キリストのみならずアッラーやゼウス、さらには小説やアニメなどのフィクションの登場人物すらも人々の精神に作用していることを否定できない。しかし、これらのフィクションの存在に人間の生命を認めるのは無理があるように感じられる。
そこで、二つの新しい解釈を提案する。一つ目は、生命の働きとして本書では世界との関係の構築こそ本質としているが、ここに前提として手段たる動物的個我の支配の条件を付け加えることが必要であると考える。これにより、フィクションの登場人物と実在する人物との間に差異が生まれ、実在するもののみを生命と認識できる。しかし一方で、これでは本書の根幹とも言える生命の不死を証明できなくなる。なぜなら、肉体を失った時点で動物的個我の支配が不可能となり、フィクションの存在との差異が消失するためである。ここで、二つ目の解釈を提案する。本書の中でトルストイは頻繁に、理性的な意識は空間的時間的な束縛を受けない、それらの束縛を受けるのは動物的個我のみである、と述べている。それにも関わらず、生命が死を経験しないことを述べるために、肉体の死後の生命の存在を認識しようと試みている。ここに、矛盾が生じている。すなわち、そもそも時間的束縛を受けない理性的な意識の不死を述べるためには、肉体の死後の時間的存続を述べる必要はないはずであり、逆に、生命が肉体の死後も時間的に存続し続けていると認識可能であることは、理性的な意識の時間的束縛と同義である。つまり、次のように説明出来る。人間の生命たる理性的な意識は、その働きとして動物的個我の支配を前提とするため、肉体の死後は存在し得ないが、理性的な意識は動物的個我と異なり時間的空間的束縛を受けない故、肉体の死と同時に生命の死を経験することはないと言える。こちらの解釈の方が合理性と妥当性に優れるように感じられるが、どうであろうか。 -
購入済み
神の存在意義からミステリーへの
前半は、(前編)最終部の「大審問官」から続く神の存在についての考察が続きます。それは、アリョーシャが慕うゾシマ長老の死によって、さらに問われることに。この部分を読み進めるうちに、遠藤周作さんの名著「沈黙」を思い浮かべました。神への信仰が深まるにつれ、本当に神は存在するのか…。永遠に解決されない課題なのでしょうか…。
一転、後半からミステリー調の流れになって、現実に引き戻されます。そして、ついにその時は訪れるのです。
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購入済み
神の存在と人間の心の葛藤
19世紀ロシアの文豪ドストエフスキーが描いた、神の存在とこの世に生きる人間の心の葛藤をテーマとした小説。「人を愛する心とは」といった命題について考えさせられました。まだ上巻だというのに、深い。しかし、カラマーゾフ一家の父と3兄弟を中心に語られる物語は親しみやすく、女性を巡る情景やそれに嫉妬する人間の心がわかりやすく表現されており、ドストエフスキー初心者にもすぐ入りこむことができました。次の中巻も期待大。原卓也さんの翻訳も非常に好感が持てます。素晴らしい翻訳、ありがとうございます。
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『人生論』トルストイ メモ
◯内容整理
・「動物的個我」と「理性の法則」という考え方。動物的個我は、生命とは誕生から死までの期間である、その限られた生命の中で幸福は人生を達成しなければならない、みたいな考え方。目に見える(偽りの)生命。人間は目に見える人生こそが自分の人生という確信に陥ってしまった。
→人間の幸福は、理性的意識の覚醒=動物的個我の幸福の否定によってはじまる。
・動物的個我における時間的、空間的条件は、真の生命に影響を与えない。(限られた人生の中でどう生きるか、みたいなことは、真の幸福には影響しない。真の幸福ではない)
→理性への従属を通じて幸福を志向する力は、向上させる力であって、時間的・空間的制約を持たぬ生命の力そのもの。(時間と空間がx,y軸なら、理性的意識はz軸のイメージ?)
・真の生命は時間と空間にかかわらない。
・人間の幸福は、動物的個我を理性の法則に対して従属させること。
→動物的生存を生命とみなすのをやめたとき、はじめて真の生命が始まる。
p95「生命を維持する食物を作るためにある鍬を使い惜しむ人間は、使い惜しみすぎて、食物や生命まで失う」
◯理性的意識とは
・動物的個我としての自分自身(この人生で何を達成すべきだろうか...みたいな)よりも、他の存在を愛するような状態を目指す。
・これによって、それまで個我の幸福に向けられていた活動全てを、全世界の幸福の達成に向けた活動に変えられる。
・真の愛は、動物的個我の幸福を否定する際にのみ可能。
・愛とは、自分、すなわち自己の動物的個我よりも他の存在を好ましく思う感情。
・他人に対しては悪意を抱くときに「わたしはどうでもいい、わたしは何もいらない」と言い、ほんのいっときにせよ、何一つ自分のために望まぬようにさせてみるとよい。
→そうすれば、それまで閉ざされていたすべての人に対する好意が心の奥から奔流となってほとばしりでるのを認識するだろう。
・ここで言う他人は、家族や友人のような選ばれた人への愛(動物的個我の一時的な幸福を増大させる対象)のみならず、自分以外の全てに対する愛。
・生命とは世界に対する関係であり、生命の運動とはより高度な新しい関係の確立であるから、死とは新しい関係に入ることである。
→(解釈)人との関係の中に自分の生命は存在し、新しい人や世界との出会いの中で新しい関係を築いていく、ということが生命の仕事。人(世界)との関係の中で、愛を増大させていく。
・人は死んでも、大切な人の心の中に思い出として生き続ける。世界とその人との関係は、死後も強く残された人々の中に作用し続ける。
→自己の動物的個我を理性のうちに従属させ、愛の力を発揮した人は誰でも、自己の肉体的生存の消失後も他の人々の中に生きつづけ、現に生きている。
・関係を確立することが、生命の仕事。
◯感想
自分に引き寄せると、動物的に、エゴイスティックに自分の幸せだけを考えるのではなく、「わたしはどうでもいい、わたしは何もいらない」と唱えて、理性的に生きてみよう、と考えた。
また、新しい人々と出会って、関係を築いていくという点は、ストンと腹に落ちた。自分自身、人は接する人との関係の中で磨かれていく(作りかえられていく)ものだと思っているので、どんどん新しい出会いに向かって踏み出していく人生にしたいと思った。
椎名林檎&トータス松本『目抜き通り』の歌詞の、「あの世でもらう批評が本当なのさ」というフレーズを思い出した。自分が死んだときに、自分との思い出が生き続ける人をどれだけたくさん作っていけるか(たくさんの関係を確立していけるか)
「関係」という言葉は自分の人生にとってとても重要な考え方だと思う。どういう人と生きて、どういう関係を築いていくか。そこに人生の本質があると思う。そんなことを考えさせられた。
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Posted by ブクログ
世界的文学作品というのはどういうものなのか?フラットな気持ちで読んでみた。冷静に見ると、形としては滅茶苦茶なところがあるし物語の流れもスマートとはいえないと思う。サスペンス的な要素を含む話の骨格の周りに沢山の視点と物語がある。流石の文量なのでそれぞれに厚みがあり世界がある。百年以上前の小説に「萌え」をみたり。親子、兄弟、恋愛、友情。お腹いっぱいの作品。一言で言うのは難しい。読んだ。印象を持った。というのは財産だろう。読み応え、という点では間違いなく一級品。ドストエフスキーの別の作品も読んでみようかなと思うくらいの読み応えはあった。読むのが大変だった。が、また読み返したいなと早くも思う不思議な作品。
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Posted by ブクログ
特に印象的なのは当然物語のクライマックス、母親が死ぬシーンになるが、トルストイが書きたかったのは、その後の主人公の心理、思考描写だろう。おれも最近ばぁちゃんが死んだが、そこには悲しい人の役をどれだけうまく演じられるか競っているような面があって、本当に自分が考えていることを見つめるのが怖かった。トルストイはそれをあっさり書いていて、彼の鋭い眼差しは自分にも容赦がない。ただ宗教的な面で彼だけ見えてる部分があったが、それでもおれからしたら宗教的な面で本当にそうだろうかと思う部分もある。幼年時代の終わりとして、誰しも母親なるものの死が必要になる。しかしおれはトルストイが好きだ。アンナ・カレーニナなど他の作品では人の心をいきいき、時に残酷なまでに描き出すのに、この作品ではその文体のままあどけない主人公の目線をみずみずしく描いている。
再読。 -
Posted by ブクログ
ベートーヴェンのクロイツェル・ソナタを聞いてから気になって手にとった。
トルストイの作品の中でも”性”について扱う中編二作品を収録。どちらのタイトルも抗いがたい欲望の引き金を象徴している。
特に『クロイツェル・ソナタ』で行われる、列車の長旅の中で行われる人物たちの対話はとてもおもしろく感じた。
どちらの作品もazuki七さんが常日頃感じているように、愛というものをどんな形にするのか、よくわからなくてイライラしてしまう。人間の動物的欲求を克明に描き出していると共に、そんな中でも清くあれと叫んでいるような感じがそれでもしてしまう。
トルストイ自身も愛というものを探していたのかもしれない。