原卓也のレビュー一覧
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ネタバレ最終章となる第17章がとても印象的だ。
マドマアゼル・ブランシェとのパリでの浪費生活を終えたアレクセイは、ルーレット賭博のためにルーレテンブルク、ホンブルクと流れ着き、各地で手痛く敗北する。
やがてホンブルクで再開したアストリーから、かつて恋い焦がれていたポリーナの真の気持ちを告げられる。その内容は、あれだけつれなかったポリーナが、実はアレクセイを愛していたというものであった。これを機にアレクセイは再起を志す。しかし、既にアレクセイの生活から賭博は切り離し難く、再起のための手段と称して再び賭博に手を出そうとする…。最早、彼にとって賭博を打つことは経済的再生の手段ではなく、刺激を得る為の目的となったようだ。
私は小心者であるから、博打ごとはとても苦手だ。お金が増えるのは有難いが、無為に失くすかもしれないと思うと興奮よりも恐怖が先立ってしまう。そのような自分には、この賭博者で描かれているアレクセイやワシーリエブナお祖母ちゃんの心境について理解仕切ることは難しいだろう。分かるといえば、失ったものを取り戻すために更に失うおそれのある行動をしてしまう心理は分かるかもしれない。
月並みな感想だが、博打は怖そうだから極力避けようと強く思った、というところです。
この本のもう一つ印象深いところは、自分自身の価値観に照らすと、登場人物のほぼ全員が嫌な奴ばかりで、イライラさせられるのに、途中で読むのを放棄したいとはならないところかな。それだけ惹きつけるものがある。
人柄としてはアストリーが一番マシだが、ポリーナに対する対応は英国流の騎士道精神に隠した下心がありそうで嫌だし、他人の破滅をそっと眺めて楽しんでいるようにも感じてしまう。
最大のイライラ人物はブランシェでしょう。次点で賭博場にいたポーランド人たち。
やたらとこの本はフランス人とポーランド人、そしてロシア人に厳しい。どんな作者も一定の批判精神を持って作品を書く場合、自国民には当然に厳しくなるかも知れないが…。
ところで、この本は初版が1861年に出版されたそうです。そうするとクリミア戦争でフランスがトルコ側についた恨みや、ロシアがポーランド王国を支配していたことからくるポーランド人への蔑視なんかがあったのかもしれないですね。また、罪と罰で悪し様に扱われたユダヤ人ですが、端役ではあるものの、この本ではちょいと良い人として現れるのも不思議な感じです。ネットで調べる限りではドストエフスキーさんは、晩年、ユダヤ人嫌いだったようです。これを書いていた当時はまだそこまで嫌いではなかったのでしょうか。 -
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ネタバレ人生論というよりも、トルストイ個人の視点から「生命」というものを分析した論文のような文章です。
生命を構成する分子、更にもっと細かい物質まで科学によって研究を重ねていけば生命を理解できるというのは誤った視点であるという問題提起から始まります。
そもそもその分子レベルでの研究を重ねっていく目的自体はなんなのか?今、我々にある苦悩や幸福は本当にその科学的な分析で明らかになるものなのか?今自分にある「生命」とは本当にそんなものによるものなのか?
という問いかけが常になされます。
そこから人間の中に存在する「動物的個我」と、「理性」についての説明や対比を述べ、いち個体の幸福の追求、つまり「動物的個我」の幸福の追求は不幸の拡大にしかならず、生命、つまり「理性」としての幸福の追求こそが人間の生命であるという結論に至ります。
これはキリスト教でいう愛であり、他の宗教でも言葉を変えて語られていることでもあります。
かなり難しい文章であり、読むのに苦労しましたがもし今後自分が苦しむような事があればこのトルストイ君の言葉を思い出せると思います。
読むのに本当に体力が要りました。 -
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ギャンブルの描写が、
ギャンブルを知っているからこそ書けるというものでした。
主人公が後半に大勝負するところも含めて、
ギャンブルにはいろいろな面があり、
いろいろな局面をつくり、
いろいろと作用することがよく描かれていると思った。
そして、その魔性についても。
このギャンブルの描写はちょうど良い距離感なんでしょうね。
もっと深く、微に入り細を穿って描けそうな気もするのだけれど、
そうなると個人的すぎて、
ギャンブルとしてはひとつの断片的性格が強くなりそう。
『賭博者』の極端なギャンブルの例たちが合わさって、
ひとつの全体性みたいなものが感じられるようになっている。
ギャンブルそのものについては、そう。
ぼくもね、
けっこう競馬とパチンコではあるけれど
ぐぐっとギャンブルに両足を突っ込んだことのあるひとだから、
その点でこういう『賭博者』を書く作者(ドストエフスキー)の
ギャンブルについての知識というか、
どれだけわかっているのかを
値踏みするように読もうとしてしまうところがあります。
さてさて、賭博の成功体験をもつ主人公はどうなってくのか。
重要な脇役からの辛辣な「見抜き」で締めくくられています。
そうなんです、ギャンブルにハマるとはそういうことなんです…。
五大長編の読破以来、
久しぶりにドストエフスキーを読みましたが、
やはりよかったですね、おもしろいです。 -
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なんだろう、真面目というにはことばが足りない。このジッドに似たこの信仰心。光さすような力強くておもわず目がくらんでしまうような。
別に父なる神という大いなる存在の前にひれ伏して身を委ねているというわけでもない。彼のことばこそが光となって動いているのだ。名前が悪いかもしれないが、トルストイ教、そんな感じ。
タイトルは人生論となっているが、人生の「生」どう生きるかではなくて、「生きる」とは何か。ひたむきな考察である。彼は決して論じているのではなく、「考えて」いる。「生命考」といった方が正確かもしれない。
生命とは遍く幸福を求める存在である。幸福とは動物的な自分の快楽ではなく、理性が求める他人の幸福だ。これこそ、愛の力である。ひとがひとであるのは、この動物的なもの、すなわち肉体に加え、理性的なもの、精神が備わっているからである。理性は必ずすべてのひとに備わっているが、その発芽・自立は決して自分ではわからない。理性は空間や時間とは関係なく存在するからだ。ゆえに、理性は生まれることもなければ、死ぬこともない。それならば、理性的存在であるはずの人間の魂が消滅するということはありえない。人間よ、死におびえることなく、理性に従い、愛に生きなさい。
というのが、彼の教えのようだ。理性に対する考察、生きる愛の力、これほどまでに力強く述べるものは宗教以外に知らない。
だが、おそらく、ニーチェはふん、と鼻で笑ってそっぽを向くだろう。カミュなら一通り話を聞いた後で黙って背を向けてトルストイの前から去るだろう。
自分の幸福ではなく、他人の幸福を。理性の求める幸福は自分と他人の間に違いはない。では自分の幸福や他人の幸福から幸福をひいたら何が残るか。自分と他人である。彼にはこの考察が決定的にかけている。どんなにあがいても、自分ではない他人の幸福というのは、自分という存在の前提なしにはありえない。他人がいないといっているのではない、他人を知るのはひとえにこの「自分」の存在がまずなければありえない。他人の身体をつねっても、決して自分が痛いということはない。痛いというものは知っているけれど、それは他人の痛みではありえない。ひとの痛みを知ることはできても、それを代わることはできない。これを彼はどう考えるのか。
後半になって、個我と理性という区別を彼はしている。個我は動物的なもの、理性とはそうではない精神的なものだという。個我を理性に従わせること、これが人間には必要だ。では、なぜ個我は理性に従えるのだろうか。動物や植物に理性はないと彼は断言する。けれど、そうであるなら、なぜ植物は春に花を咲かせることができるのか。なぜ、動物は食物を求めようとするのか。動物にだって理性は在る。物質的な因果と彼は切り捨てるが、物質的な因果がなぜ起こるのか、これを理性と呼ばずに何と呼ぶのか。はじめから、彼の言う動物的なものと理性的なものは同じものであるはずだ。彼はそれを切り離してしまった。だが、切り離せば切り離すほど、逃れることはできない。ちょうど、表だけが存在しないのと同じように。彼が理性を声高に述べれば述べるほど、もう一方の動物的な部分がどんどん力を増す。個我も理性も同じ「わたし」でなければなんだというのか。
そういう点でやっぱり宗教は詐欺なのだ。彼もまた、愛という名で、この両方を併せ持つ人間という存在を覆い隠したのだ。巧みに「自分」というものの考察を避けているのだ。
おそらく、彼にとって、自分や他人という存在は疑うことのない、確かな存在だったのだと思う。ゆえに彼は他人の幸福というときに、なぜ自分が他人ではなくこちら側なのか、という端的な事実に驚かないのだ。他人の幸福を求めるというのは、他人が幸福だと自分に思われるもの、そういう在り方なしには求めることはできない。
キリストが、自分の父や母・きょうだいを愛するのではなく、神の子キリストを愛せ、というのは決して自己犠牲に努めろというのではなく、キリスト自身が自分も他人も含む全き存在であるから、自分という存在が他人という存在に裏打ちされた存在であるから愛せ、と言っているのだ。ひとに宿るこの精神を目覚めさせるのには、自分の立ち上がった精神を示さなければならない。キリストにはそれを負う覚悟がある。だからこそ、すべてのひとの罪も憎しみも、愛も引き受けようと言えるのだ。
そう考えると、トルストイの言う死というものはないのだから恐れるなというのはどうも難しい注文だと感じる。生命は滅びないのではなく、自分が存在しない、というこのことをひとは考えることができないのだ。考えることができないということと、存在しないということは別の話だ。宗教のずるいところは、その存在しないということは考えられないということを逆手にとって教義に組み込んでいるところだ。
愛というものは、他人のために善いことをなすことはもちろんだが、すでに今ここに、「わたし」ということが存在してしまっている、これこそが神の愛であり、許されている事実なのだ。生れてしまったからには幸福を求めなさいというのはわかる。理性が時間や空間に独立しているのも確かにわかる。だが、その理性がどうしてこの肉体に宿ってしまったのか。どうして幸福を求めるのはこの自分なのか、ここに対する彼の驚きがどうしても感じられない。 -
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ネタバレ2015/01/05
ドストエフスキーはこの作品をわずか27日間の間に口述筆記で書き終えている。
ルーレットに取り憑かれた病的な青年の絶望的な恋が悲しい。
ドストエフスキーの経験が大きく影響しており、後半の展開は熱中させられた。
2026/07/22
10年来の再読。アレクセイ、フランス野郎、将軍、ポリーナをはじめ登場人物の露骨さや熱情さは日本でまずお目にかかることがないほど極端なため、思わず笑ってしまった。自分も歳を取って、今回は特に誰にも感情移入することなく、ただの傍観者として読み進めたため、素直に物語として楽しめたと思う。 -
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好色で吝嗇、品性下劣なフョードル・カラマーゾフの下に生まれた3人の兄弟――激情的で心の弱いドミトーリイ(ミーチャ)、賢く冷笑的なイワン、純朴で信仰深いアリョーシャ。物語は、信仰の意味をめぐる問い――神がなければ、すべてが許され、人は何事をもなしうるのか?――を背景におきながら、ひとりの女性と金をめぐる父と子の対立から、殺人事件の発生と裁判劇に展開していく。
キリスト教が維持してきた規律を否定してしまったとき、社会はどうなるのか、人間の良心は耐えられるのか、とは、現代のわれわれから見ると、あまりに大上段すぎて的外れな問いに思えるけれど、当時の大変動の中にあったロシア社会においては深刻な問題だったのだろう。現代でいえば、グローバル化の波によって国民国家や地域社会が崩壊してしまったら、人は「自由」に耐えられるのか、それとも自ら宗教やナショナリズムの軛を求めるのか――という問いに匹敵するのではなかろうか。
特に、イワンが語る「大審問官」の寓話は普遍的な真実を突いていて、もっとも印象的な部分だ。現世によみがえったキリストに対し、異端審問で民衆を盲従させている大審問官が、人は自由の重みに耐えられはしない、人々にパンをあたえて自由を手放させてやるという重荷を担う少数者が必要なのだと論じる。これをキリストは黙って微笑みながら聞き、最後に大審問官にキスをするのだ。だがもしも「愛」をもって答えとすることをよしとしないのであれば、私たちは、耐えられない自由の重さという問題に、どのような答えを提出しうるのだろうか?
みなに尊敬されていたゾシマ長老の死体が、期待に反して腐臭を発したときに引き起こされる秩序の崩壊と悪意の噴出を描いたシーンも、恐ろしく衝撃的であり、その後の歴史の暗示にさえ見えてくるくらいだ。
宗教的要素が強く打ち出されているために、一見、現代においては関連性を失っているように見えて、時代の秩序の崩壊と人間の自由と倫理という、時代を超えて届く重みのある問いを差し出している小説と受けとめた。
ただ、これだけ魅力的なテーゼを提出していながら、物語全体に力強い一貫性が欠けているように見えるし、キャラクターも弱すぎるように感じる。アリョーシャは面白みのない善人にすぎないし、冷笑的に既存の秩序を否定してみせるイワンやスメルジャコフでさえ、良心の重みに耐えかねて自ら死に赴いてしまう脆さを露呈する。『悪霊』のスタヴローギンやペトルーシャほどの悪の魅力が感じられない。
結論からいえば、ドストエフスキーの小説の中で、これが最高の傑作とは、私には思えません。『悪霊』の方がずっといい小説だと思う。
もっとも、ひさしぶりにドストエフスキー読んで、人間観察の鋭さにはあらためて舌を巻きました。クズなふるまいをするために軽蔑されているフョードルが、だからこそもっとクズなふるまいに走る心理だとか、相手を愛してもいないくせに、傷つけられたプライドを愛と思いこんで突っ走るカテリーヴナとか。そしてもちろん、スメルジャコフの指摘に、はじめて自身の責任と怯懦とを自覚するイワンの衝撃。さまざまに魅力的要素をはらんだ小説であることには間違いないと思います。 -
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能動的に仕掛けているようで、実はほとんど運任せという受動的な遊び
それがギャンブルだ
お金とは、人間にとって社会的な生命とも呼べる重要なものだが
ギャンブルという「大人のお遊び」においては
この、お金というものを、おもちゃとしてあつかってしまう
お金を賭けたが最後
否応なく生と死のグレーゾーンに直面させられるのだ
だがしかし、それは勝負が決するまでのほんの一瞬において
彼がすべての社会的責任を放棄できるということでもある
つまり、幼児に返るということだ
こう考えると、ギャンブルはまさに「享楽」と呼ぶにふさわしい遊びである
一方、ギャンブルを「信仰」と解釈することもできるだろう
なにしろ、信じて賭けつづけていれば、いつか当たりがくるのだ
破産しない限りは!
しかし、今や神の実在を無邪気に信ずることのできない時代でもある
たった一度の偶然をもって、奇跡の実現とみなすことは不可能だ
ゆえに、ビギナーズ・ラックは地獄の門となりうる
奇跡をもう一度、いや何度でも確認したいばかりに
ギャンブルの神を信じる者たちは、どんどん深みにはまっていくわけだ
悪い男にだまされて
純情だったロシアの娘は、もはや神の実在を信じることができない
賭博者が、一生に一度の大当たりをすべて彼女に捧げたところで
そんなものは偶然の産物でしかない
そう考えざるをえないのが、現代の絶望である
だから賭博者は
世界の絶望を癒すために、今日も賭けつづけるのだ
悲しい話だと思いませんか -
Posted by ブクログ
ネタバレバクチって怖いよね、と雑に一言で終わらせてしまってもいいかもしれん。賭け事に嵌ってしまい、ズルズルと破滅していく登場人物の心の動き方、周囲の人との関わり方が克明に表現されています。一方、描写そのものはくどくもなく、ダレる感じもないのであっさり読み進めていける感じです。
中盤から登場する、ある人物がルーレットで凋落していく様子は、「きっとこういう人が当時は間違いなくいたんだろうな」という感じで、シニカルであると同時に戦慄すら覚えます。
ドストエフスキーの他の作品はあまり読書経験がないのですが、恐らく読みやすい部類に入るのではないかと。それほど厚くもないですし。
一部は著者自身の経験にも基づいているらしいので、著者の人生の一部を覗いてみるという感覚で読むのも面白いかもしれません。 -
Posted by ブクログ
クロイツェルソナタ
電車で乗り合わせた男の話。
始めは『人生論』のような固い一般論から、次第に男の話は熱を帯びて、その一般論をかざすに至った自らの起こした事件について語り、その語りは読み手の感情を揺さぶり始める。妻の死前後辺り以降が秀逸。あー面白かった。
トルストイというと神の視点のイメージがあり、人間そのものの生をじわじわ太く書くのが良さだと思っていた、そして今回読んで実にそうだと思った。やはり一人の人物に語らせ、前半の一般論の証明のような作品のかたちは、テーマというか作者の意図が絞られるというか、どうしてもパンチは軽くなる、そのぶん切れ味は鋭いんだけどね。まぁ、前半の愛論はなくても、後半だけでもすごい読みごたえあるわ、繰り返すけど、やっぱり最後の妻殺すところ。男は妻を愛しているとかそうじゃないとか、まとめられないけど、小説の中には全ての感情が書かれているよ。全然陳腐じゃない。
女はいつの時代も性の対象でしかない、堕落するくらいなら人類滅びろ的な論もぶっ飛んでて新鮮だったし、納得できるものだった。妊娠した妻のために自慰で耐える旦那(おれ)はえらい。文庫の裏側に『性に関するきわめてストイックな考え』ってあって、性とストイックって考えてみると本当に面白い組合せで、やっぱり性に関しても妥協を知らないトルストイが好き。
悪魔
確かに、結婚前にすごくいい思いをさせてくれたセフレ的女と、結婚後に再開したら破滅する。結婚後ってのが大事。別にただ女と付き合ってるだけならそこまでは思わない。しかも嫁も暮らしてる同じ領地内で、毎日会わざるをえないとなると、うーん、想像しただけで掻き立てられるものがある。誰しも小さい悪魔を心のなかに飼ってるんだろう、大きくなっていかないだけで。
誰かの死を期待してしまうのも、改めて人が書いた文章で確認すると恐ろしさがわかる。文庫の収録の順番は逆の方がいいんじゃないだろうか。
伯父さんの『で、別嬪なのかね?』の一言でゲスい感じを表現できるのはさすが。トルストイにもっとコメディ書いてほしかった。 -
Posted by ブクログ
著者自身が南ドイツのヴィースバーデンに滞在していた頃の経験を元に、ロシア人特有の気質ゆえにルーレットで身を滅ぼしていく人々を描いた一冊。
序盤で出てくる、誠実な勤労によるドイツ式蓄財法とロシア式の無謀な博打の対比が良い。
ドストエフスキー『賭博者』の中で一番の名文だと感じた箇所をまるごと引用↓
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「しかし、僕の考えだと、ルーレットというのはもっぱらロシア人のために作られたものですよ」とわたしは言い、わたしのこの感想にフランス人が蔑むような薄笑いをうかべたので、そりゃもちろんわたしの言うことが正しい、なぜならロシア人が博打好きだとわたしが言うのは、ロシア人を賞めると言うより、むしろけなしているのだし、したがってわたしの言葉を信じてもらって差支えない、と述べた。
「あなたのご意見は、いったい何を根拠としているんです?」フランス人がたずねた。
「根拠ですか、それはつまり、文明化された西欧人の美徳と徳性の基本的テーゼの中に、歴史的に、それもほとんどもっとも重要な項目として、資本を獲得する能力が含まれた、ってことですよ。ところが、ロシア人は資本を獲得する才がないばかりか、ただいたずらに、むちゃくちゃに浪費するんです。それでいながら、われわれロシア人にだって金は必要です」わたしは補足した。「したがってわれわれは、たとえばルーレットみたいに、二時間ほどで労せずしてふいに金持になることができるような方法を歓迎しますし、ひどく取りつかれやすいんです。こいつはわれわれには大きな誘惑ですからね。だけど、われわれは勝負するのも、苦労せずに、ただいたずらにやってのけるから、負けるんですよ!」
「それはある程度正しいですね」フランス人がひとりよがりに指摘した。
「いや、それは間違っている。君は自分の祖国をそんなふうに批評して、よく恥ずかしくないね」きびしく、いさめるように、将軍が注意した。
「とんでもない」わたしは将軍に答えた。「だって、実際のところ、ロシア式のめちゃくちゃと、誠実な労働によるドイツ式蓄財法と、いったいどっちが醜悪か、まだわからないでしょうに?」
「なんてめちゃくちゃな考えだ!」将軍が叫んだ。
「実にロシア的な考えですな!」フランス人が叫んだ。
わたしは声をあげて笑った。ひどく彼らを挑発してやりたかった。
「でも僕は、ドイツ式の偶像にひれ伏すくらいなら、むしろ一生キルギス人の天幕で放浪しつづけていたいですね」わたしは怒鳴った。
「何の偶像だって?」将軍がもはや真剣に怒りだしながら、怒鳴った。
「ドイツ式の蓄財法にですよ。僕はここに来て日が浅いけれど、それでもやはり、ここですでに気づいたり、確かめたりしたことが、僕の中のタタールの血を憤激させるんです。まったく、あんな美徳なんぞ、厭なこった!僕はここの周囲を昨日いちはやく十キロばかりまわってみたんですがね、寸分違わずそっくりですよ。ここでは、どこへ行っても、それぞれの家に、おそろしく行い正しい、並はずれて誠実な父親がいるんです。そばへ寄るのも畏れ多いほど、誠実な父親がね。」そばへ寄るのも畏れ多いほど誠実な人間なんて、僕には堪えられませんよ。そういう父親の一人ひとりにそれぞれ家庭があって、毎晩みんなして声をあげて教訓的な書物を朗読するんです。こぢんまりとした家の上では楡や栗の木がざわざわと鳴っている。夕日と、屋根にとまったコウノトリ、何もかもが並みはずれて詩的で、感動的なんだ・・・
怒らないでくださいよ、将軍、もっと感動的な話をさせてください。僕自身だって、死んだ父親が小さな庭の菩提樹の下で、毎晩、僕と母にそういった本を朗読してくれたのを覚えているんですから・・・だから僕自身、こういうことに関してはきちんと判断できるんです。ところで、ここのそういった家族はすべて、父親に完全に隷属し、服従しているんです。みんなが去勢牛みたいに働き、みんながユダヤ人のように金をためている。で、かりに父親がもうある程度のグルデン金貨をためたとなると、家業なり、ちっぽけな土地なりを譲るべく、長男を当てにするんです。そのために、娘は嫁入り支度もしてもらえず、いつまでもオールド・ミスでいることになる。そのためには、下の息子は奴隷奉公に売りとばされるか、兵隊にやられるかして、その金は一家の資本に繰りこまれる。実際、ここではそういうことが行われているんですよ、僕はいろいろたずねてみたんだけれど。そうしたことすべてが行われるのも、誠実さゆえにほかならないんです。それも、自分が売りとばされたのは誠実さゆえにほかならないと、売られた下の息子まで信ずるくらい、強化された誠実さですよ。‐生贄に曳かれていく犠牲自身が喜ぶなんて、これは理想じゃありませんか。それからどうなると思います?その先は、長男だって前ほど楽じゃない。長男には心で結ばれたアマリヘンだとか何とかいう娘がいるけれど、まだそれだけのグルデン貨幣がたまっていないから、結婚するわけにはゆかない。二人はこれまた品行方正に、まじめに待ちつづけ、笑顔で生贄に赴くってわけです。アマリヘンはもう頬がこけて、しなびてゆく。二十年ほどたって、やっと財産がふえたし、グルデン貨幣も誠実に、行い正しく貯えられた。そこで父親は、四十歳の長男と、乳房もしなびて鼻の赤くなった三十五歳のアマリヘンを祝福してやるんです・・・その際にも泣いて、人の道を説き、やがて死んでゆく。長男は今度は自分が行い正しい父親と化して、ふたたびまったく同じ物語がはじまるんですよ。こうして五十年なり七十年なりのちには、最初の父親の孫が実際にもうかなりの資本を作りあげて、自分の息子に譲る、それがまた自分の息子に、そいつがまた自分の息子にといった具合で、五代か六代後には、ロスチャイルド男爵だか、ホッペ商会だか、何だかわからないけれど、そんなものが出現するって仕組みなんだ。どうです、実に雄大な眺めじゃありませんか、百年も二百年もの代々の勤労、忍耐、知力、誠実、根性、不屈さ、打算、屋根の上のコウノトリ!この上何が要りますか、だってこれ以上のものはないんですからね、そしてこういう観点から彼ら自身は全世界を裁いて、罪ある者、すなわち彼らにほんの少しでも似ていない者をすぐさま罰するようになるんです。どうです、こういうことなんですよ。だから僕はいっそロシア式にどんちゃん騒ぎをやらかすか、あるいはルーレットで大儲けするかしたいんです。五代後にホッペ商会になるのなんか、厭なこった。僕が金を必要とするのは僕自身のためにであって、僕は自分を何か資本にとって必要な付属物とはみなしてませんからね。ひどく大法螺を吹いたことは、僕にもわかってますけど、それはそれでいいじゃありませんか。僕の信念はこうなんです。」
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クロイツェルソナタ
嫉妬と思い込みから妻を殺してしまった男の独白。
ここまで徹底した独白の小説を読んだのは初めて。物事の経緯やその時々の心情を事細かに描写している。
悪魔
クロイツェルソナタが男性上位な思想によるもの(に私には思える)としたら、こちらはその中にあって、妻に誠実であろうとする主人公の苦悩。
時代や文化やいろいろな背景があるけれど、私はこんなに道徳や嫉妬や宗教にがんじがらめになるのはつらいし、この男たちは面倒くさいと思った。そして、その面倒くさいことで出来上がっているこの小説はとてもおもしろかった。
翻訳もきれいで読みやすく、ところどころ面白い表現があって笑えた。40年も前の訳なのに日本語がちっとも古くない。 -
Posted by ブクログ
ドストエフスキーの寿命が長ければ、この作品の続編があったという構想が遺されていたようです。悲惨な物語でなければ読みたかったですね。アリョーシャみたいな人はあなたの知り合いにいませんか?
ついに、この大作を読みました。
芥川賞作家の金原ひとみさんが、上巻を読むのに4ヶ月かかったとか
中巻の帯に書かれていました。最初はつまらない、と。
でも、僕は読んでみて、そんなことはなく、初めから面白く読めました。
これからどう物語が展開するんだ?という興味をひかれるんですよね。
俳優のきたろうさんの息子さんはこれを読むのに半年かかったとか
『ほぼ日』で読みましたが、僕みたいな「今、自由人」にさえ、
読むのに1ヶ月ちょっとかかったのだから、それくらいかかるものかもしれません。
面白かったですよ。著者がもしも死ぬことが無かったなら、
第2部もあったようなんで、それが読めないのが残念。
解説を読むと、小林秀雄さんが、第1部だけでも続きが考えられないほど完成されている
みたいなことをおっしゃったようで、未完というほど物足りなさは感じません。
ドミートリイ、イワン、アリョーシャという三人兄弟。
僕は誰に一番ちかいだろうかと考えてみましたが、イワンやアリョーシャほど、
頭が良くない。じゃ、消去法でドミートリイかということになります。
たしかに、僕の心の奥底にはドミートリイのような、放埓な部分があります。
小学4年生のころに、一つの上の学年ですが、神奈川から引っ越してきた
友人がいました。そのころの僕らには思いもつかなかったような、金遣いの荒さ、
活動的な遊び人気質に、価値観に大きな影響、それも破壊的な影響を与えられましたが、
そんな彼を思い出させる人物でした。そういう人っているんだよなぁ、と。
また、無神論など、神に対する考察とかいろいろな思想的な言い合いとかも
あるんですよね。犯罪について、真実を知ることの難しさなんかもある。
数年前に、東大の教授にアンケートをとって、学生に読ませたい本はなにか、
というのがありました。その第一位がこの『カラマーゾフの兄弟』でした。
歴史に残る大作、重要文学の一つですね。
じっくり読書をしたい人にはおすすめです。