1982年にパルコに入社した三浦氏が手がけた仕事は新所沢店出店のマーケティングで、それはパルコが創刊したマーケティング情報誌「月間アクロス」につながっていく。入社5年後の27歳の時に編集長になり郊外論はそのまま三浦氏のライフワークとなっていった。この本はそんな三浦氏が入門編として用意した東京の山手と下町、郊外の変遷から田園都市などが取り上げられている。三浦氏のこの本の続編とも言える「東京は郊外から消えていく」は以前に読んでてこちらは今住んでる人が次に住みたい町はどこかとかアンケートを中心にこれから人気の集まる街を予想して、一方では空き家問題を取り上げていた。どちらかといえばこのほんの方がお勧め。
明治期の地図を見ると鉄道は海岸線、時々海の上を走っており築地や月島は既に埋め立て地になっていたがお台場やら羽田やらは昭和の初めでもまだ海苔の養殖場だった。さらに遡ると1603年に埋め立てられるまでは日比谷は入江になっており和田倉門は海に面していた。銀座のあたりは前島という半島だったが丸の内は良くて湿地帯だったのだ。明治期に入ると本郷界隈が住宅地と開発され最初の山手となった。
路面電車が整備されるとそれまでは郊外だった山手線内側の西半分に人が住むようになり山手となった。御殿山、代官山などその名の通り高台にあり、坂を下ると下町がセットになっている。大正〜昭和初期に中央線の高円寺、阿佐ヶ谷、西荻窪が郊外住宅地として開発され渋沢栄一の田園都市会社が洗足、大岡山、田園調布を開発しはじめた。田園調布の分譲開始は関東大震災の1923年でこのころ東京の下町だった東側から西側への重心の移動がすすんだようだ。
「アクロス」が第四山手ゾーンと呼んだたまプラーザに代表される東急田園都市線沿線が発展したのは1960年代で85年に「金妻」の舞台となったことからメディアにも取り上げられるようになっていく。バブル期には郊外はとんでもない範囲にまで拡がるがこの当時の千葉・茨城の新築マンションの広告コピーが非常に面白い。
「ゆったり暮らす。(牛久)」「シティの風、リゾートの風、レイクフロントへようこそ(土浦)」「都心へツー・オン50分圏(野田線はっきりしないが運河のあたり)「暮らしが都会へ急接近しています。(東金)」
当時は住宅の平均分譲価格が年収の10倍以上で例えば吉祥寺駅前の70平米、築15年のマンションが1億2千万円、今なら6千万円ほどなのだが。今の蘇州でもちょっとした高給取りで年収が10〜20万元なのにアパートの価格はちょっと安めで平米8千〜1万元とかから、高いと2万を超えている。最近は60平米台の部屋の広告もあるけど普通は100平米からとかだからローンで家を買うのはお勧めできないのだがまだ上がると信じてる人達はなかなかブレーキがかからないらしい。給料は上がり、買った家の資産価値は上がり続けローンの支払いは実質減るという時代が確かに10年ほど続いたのだけどね。
郊外がどうなるかというと確実に進むのが少子化と高齢化。これと言った解決策が出てるわけではないが住んでる人達がどうやって街の価値を高めていくかだろう。空き家対策にしても防災対策にしても地籍がはっきりしないケースが足をひっぱりそうだ。アベノミクスでは少子高齢化対策と女性の社会進出を両方やると言っているがそのためには職住接近して共働きでも子育てできる社会にしていかないと無理があるように思える。