佐伯啓思の作品一覧
「佐伯啓思」の「死と生(新潮新書)」「ISに翻弄される世界 (Wedgeセレクション No.52)」ほか、ユーザーレビューをお届けします!
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Posted by ブクログ
日本社会全般にわたって働く「見えざる原則」の分析について語った山本七平の「日本人論」。
この山本流の「見えざる原則」探究の、佐伯啓思なりの継続がこの本の主旨らしい。それを、佐伯啓思さんは「根源的価値」と言い直した。
そして、この「根源的価値」をわれわれは決して日常的に意識しているわけではない。
この「根源的価値」の中心をなすのは、その国の自然観、死生観、歴史観、宇宙観といったもので、より具体的にいえば一種の宗教的な意識だろうと思う。
ところが、今日、われわれは、われわれの「根源的価値」というべき自然観、死生観、歴史観などをうまく理解できなくなっているのではなかろうか。
その意味で、日本人が背負っている無意識の文化や価値観を探るのが本書の意図なのである。
とはじめに書かれてあった。そして、その内容は以下の通りである。
第1章 日本における「権威」の構造
第1節 「日本型権威」のからくり
第2節 「ムラ共同体」とエリートの苦悩
第3節 「天皇制度」のからくり
第4節 「アメリカニズム」と戦後日本
第2章 「空気の支配」について
第1節 日本は果たして「同質社会」なのか
第2節 「空気の支配」をもたらすもの
第3章 「応報原理」と「日本教的自然法」
第1節 ハビアンの「ナツウラの教え」
第2節 「日本的応報原理」について
第3章 日本近代、ふたつのディレンマ
第1章 福澤諭吉のにがい「予言」
第2章 道義をもった敗者への愛惜
となっていました。
その中で、第3章 「応報原理」と「日本教的自然法」のくだりを紹介したいと思います。
山本七平(イザヤ・ベンダサン)の『日本教徒――その開祖と現代知識人』(角川書店)。
この本は、安土桃山から江戸初期に生きたハビアン(不干斉ハビアン)という日本人について論じている。
彼は、もともと禅僧であったが、天正14年(1586年)にイエズス会に入会し、イエズス会のイルマン(修道士)になる。
ところがその後、彼はキリスト教も捨てる。面白いのは、それら棄教の理由をハビアン自身が書き残していることで、仏教、儒教、神道に対する批判を述べた『妙貞問答』、それにキリスト教批判の書である「破提宇子』を残した。
どうしてハビアンはキリスト教から離れたのか。
その理由を山本は、次のように解釈している。
ハビアンにとって真に信じうるものは、決して「でうす」の教義などではなく、いわば「日本教的自然法」とでもいうべき、日本に特有の一種の擬似的宗教的観念であった。
それを、ハビアンは「ナツウラの教え」と呼ぶのだが、その内実は「現世安穏」と「後生善所」だと山本は言う。
これはもともと『法華経』で説かれる言葉であるが、山本が言いたいのは、万事万象にはおのずとなる秩序が存在し、人もその秩序に従う限りで現世を安穏に過ごし、死後はよき場所に生まれるという信仰があり、それが日本特有の「ナツウラの教え」である。
ハビアンは、ただその「日本教的自然法」を現実に実現する便法としてキリスト教を信奉しただけだ、というのである。
かなり独創的な解釈だと思うが、山本の言いたいところは明快であろう。仏教であれ、儒教であれ、キリスト教であれ、もともと外来の宗教的な価値体系を日本人は受け入れるものの、「本心」からそれを信じているわけではない。
その背後には、常に変わらない「日本的な価値」が流れている。そして、外来の信仰体系は、この底流の日本的価値と矛盾しない形で、むしろそれと融合しつつ受用される。
この独特のやり方こそが「日本的方式」なおのである。表層では、日本人は、いくらでも外来の価値刊を受容する。
しかし、根底に流れるいかにも「日本的なもの」を決してうしなうことはない。
ハビアンとはまさにそうして「日本人」だった。それは、おそらく、現代にいたるまで「世界」における日本人の生き方の基本モデルとさえいいうるものであろう。外来価値をいかうらでも受容するのだが、けっして、「本心から」受け入れたわけではないのである。
ハビアンはいう。「柳は緑、花は紅。これこそは自然の道理である」と。柳の根を砕いてみても緑はなく、花の木を割いてみても紅はない。
しかし、柳も花も自然天然のままに現成しているではないか。このあらゆるものが「天然自然のまま」という世の中のあり方、それこそが「ナツウラの教え」なのである。柳や花を分解して分析するのではない。そのまま、ありのままに見るのである。
世界の万事万象が、バラバラに現成するのではなく、相互につながりながら秩序を保って現成するという思想。
仏教的にいえば、因果生起による万物の相依相即したあり方、古神道的に表現すれば、人間も自然もすべてが「カミ」というべき生命力の発言としてそこに存在するという考え方と同様の発想をここに見ることができよう。
この万象が万象が相依相即しつつ、それぞれが「おのずとある」ようなあり方、万事が「天然自然のまま」に現成している存在の仕方こそ「ナツウラの教え」の根本にあるものだ。
この本の真髄が書かれた部分でした。
古代から、現代にも通底する日本人の本質だと思いました。
Posted by ブクログ
人間の欲望の拡張という観点から資本主義について述べた著作。学生時代の頃読んで衝撃を受けた思い出がある。
・株式会社制度によって巨大組織が登場し、経営者が実権を握る。これは19世紀的な抗争的市場経済でもないけれど、古典的な資本家が支配する資本主義でもない。ダーレンドルフはこれをポスト資本主義と呼んだ。
・ロビンズによれば、経済学とは希少な資源の配分にかかわる学問である。
・社会主義経済の何が問題だったか。「消費」という観点に絞って言えば、生産されたものが人々の欲しがっているものに見合っているという保証がどこにもないことである。また、新たな技術を開発し、新たな製品を開発し、新たなマーケットを開拓する精神、つまり未知の世界へ投企する精神、未知のものを現実化していこうとする精神が圧倒的に欠けているのだ。
・社会主義経済では「消費者」という概念が存在しない。人民が何を必要とするカア手にする、計画当局が決定するからだ。
社会主義には「労働者」というカテゴリーはあるが「消費者」というカテゴリーは存在しない。
・ただし、60年代は資本主義経済も社会主義経済もそれほど大差がなかった。軍需産業を別として、自動車、電化製品、住宅といった製造業が中心の時代は、いかに規格化された製品を能率的に大量生産するか、という課題が与えられた時代だった。
・ところが70年代は、コンピュータ技術の進展により、多品種少量生産をかつてはかんがえられもしなかったくらい効率的に行う技術が提供できるようになった。テクノロジーの進歩と情報化により消費者という概念が決定的な重要性を持ってきた。
同じようなものをいかに効率的に大量生産するか、という生産の場が企業の利潤の発生の場ではなく、いかに消費者の欲望に寄り添うかが利潤の発生の場になっていったのである。70年は「生産の場」から「消費の場」への転換が起きた時代である。
グローバル化も消費の場を重視することになった景気である。
70年代以降、
資本主義は消費者の多面的で多様な欲望を開拓することで市場を拡大しつづけた。
社会主義は労働者への動機づけと消費者についての情報という2点で決定的な弱点を持っていた。
・人々はゆたかになればそれほど物をほしいとは思わなくなるし、それほどはげしく働かなくなるし、企業をリスクを覚悟で冒険しようとしなくなるだろう。これがケインズ、マルクス、シュンペーターの予想だった。ではなぜこれが当てはまらないのか。
消費者というものにどこまで寄り添えるかが国際競争力の試金石になりつつある。
・80年代:差異化が必要になった。従来の画一化され、標準化された大量生産方式だと、いずれ消費者のニーズは落ち込んでくる。ある程度の質の車がひとわたり行き渡れば当然需要な落ちてくるだろう。そこで新たな形で消費者の欲望を喚起しなければならない。消費者の欲望は「人並み化」から「差異化」に変化していた。
Posted by ブクログ
素晴らしい。新自由主義の課題をこんなにわかりやすく的確に書いてあるものを読んだことがなかった。
まず、流動性にとける生産要素と製品の区別。製品は流動性を上げても良いが、土地、雇用者などの生産要素はある程度安定化させないと生産が不安定となる。また雇用者の流動性についても、技能適応などが必要で時間もかかる。単純に流動性を上げれば良いというものではないとの点。議論において、生産要素と製品を分けて市場の話を聞いたこともなく、基礎的ながら理解できていなかった。
次に財政出動したところで、実体経済や生産要素への投資でなく、金融商品への投資(投機)であれば、雇用は産まず景気も回復しない。
小泉改悪で土地などの生産要素の流動性をあげて、資産が流出し、アベノミスクでどんどん金融資本への投機がすすみ、実体経済は空疎なまま。しかも金融市場が強い米英と違って、日本はルールメイカーになれずコントロールもきいてないのがバブル後の四半世紀だというは非常にわかりやすかった。
そして、貨幣論にも近い話が最後に出てきた。先に余剰の象徴である貨幣がくるという話は非常に興味深い論だった。ここでもマルセルモースの贈与論がでてくるんだなぁ。
Posted by ブクログ
先に読んだ 「欲望」と資本主義 という本が面白かったので連続してこの人の本を読んだ。民主主義から主権、憲法へと流れる論考は大変スムーズで、これまでの憲法議論をバカバカしく思わせてしまうようにも受け止められるが、決してそうではなく批判をせずに自身の論拠を述べている。僕にとってはとても読みやすく、気持ち良く読めた。
【日常生活の中でわざわざ「自由」や「平等」、「権利」などという言葉を使わずとも、他人との会話の仕方、喧嘩のおさめ方、権威あるものとの接し方、金銭の使い方など、ほとんど習慣となった形でやりくりするのです。こういうことは特に政治的な主題になるわけではありません。しかしある社会における政治のあり方は、こうした習慣と不可分なのです。】【もっとはっきりと言えば、ギリシャの風土のなかで誕生し、キリスト教文化のなかで整えられた西洋の民主主義や主権や憲法(立憲主義)の概念を、日本という異なった文脈に持ち込んでもなかなか上手く機能しない、ということです。】
「神」−「モーセ」−「民」の契約の話と上の引用部分は妙にしっくりくる。こういう憲法論議を進めて欲しいと思った。