【感想・ネタバレ】日本人の精神Ⅰ 権威と空気の構造(新潮選書)のレビュー

あらすじ

日本人はなぜ「日本人論」が好きなのか? そこには西欧文明との遭遇によるアイデンティティの危機がある。この問題を出発点に、天皇と外来文化という二つの「権威」の交差と、それを「空気」として受け止める独自の社会構造から、日本人の無意識に作用する「見えざる原則」を探究する。渾身のシリーズ第一弾!

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Posted by ブクログ

 日本社会全般にわたって働く「見えざる原則」の分析について語った山本七平の「日本人論」。
 この山本流の「見えざる原則」探究の、佐伯啓思なりの継続がこの本の主旨らしい。それを、佐伯啓思さんは「根源的価値」と言い直した。
 そして、この「根源的価値」をわれわれは決して日常的に意識しているわけではない。
 この「根源的価値」の中心をなすのは、その国の自然観、死生観、歴史観、宇宙観といったもので、より具体的にいえば一種の宗教的な意識だろうと思う。
 ところが、今日、われわれは、われわれの「根源的価値」というべき自然観、死生観、歴史観などをうまく理解できなくなっているのではなかろうか。
 その意味で、日本人が背負っている無意識の文化や価値観を探るのが本書の意図なのである。
 とはじめに書かれてあった。そして、その内容は以下の通りである。
第1章 日本における「権威」の構造
 第1節 「日本型権威」のからくり
 第2節 「ムラ共同体」とエリートの苦悩
 第3節 「天皇制度」のからくり
 第4節 「アメリカニズム」と戦後日本
第2章 「空気の支配」について
 第1節 日本は果たして「同質社会」なのか
 第2節 「空気の支配」をもたらすもの
第3章 「応報原理」と「日本教的自然法」
 第1節 ハビアンの「ナツウラの教え」
 第2節 「日本的応報原理」について
第3章 日本近代、ふたつのディレンマ
 第1章 福澤諭吉のにがい「予言」
 第2章 道義をもった敗者への愛惜

となっていました。
 その中で、第3章 「応報原理」と「日本教的自然法」のくだりを紹介したいと思います。
 山本七平(イザヤ・ベンダサン)の『日本教徒――その開祖と現代知識人』(角川書店)。
 この本は、安土桃山から江戸初期に生きたハビアン(不干斉ハビアン)という日本人について論じている。
 彼は、もともと禅僧であったが、天正14年(1586年)にイエズス会に入会し、イエズス会のイルマン(修道士)になる。
 ところがその後、彼はキリスト教も捨てる。面白いのは、それら棄教の理由をハビアン自身が書き残していることで、仏教、儒教、神道に対する批判を述べた『妙貞問答』、それにキリスト教批判の書である「破提宇子』を残した。
 どうしてハビアンはキリスト教から離れたのか。
その理由を山本は、次のように解釈している。
 ハビアンにとって真に信じうるものは、決して「でうす」の教義などではなく、いわば「日本教的自然法」とでもいうべき、日本に特有の一種の擬似的宗教的観念であった。
 それを、ハビアンは「ナツウラの教え」と呼ぶのだが、その内実は「現世安穏」と「後生善所」だと山本は言う。
 これはもともと『法華経』で説かれる言葉であるが、山本が言いたいのは、万事万象にはおのずとなる秩序が存在し、人もその秩序に従う限りで現世を安穏に過ごし、死後はよき場所に生まれるという信仰があり、それが日本特有の「ナツウラの教え」である。
 ハビアンは、ただその「日本教的自然法」を現実に実現する便法としてキリスト教を信奉しただけだ、というのである。
 かなり独創的な解釈だと思うが、山本の言いたいところは明快であろう。仏教であれ、儒教であれ、キリスト教であれ、もともと外来の宗教的な価値体系を日本人は受け入れるものの、「本心」からそれを信じているわけではない。
 その背後には、常に変わらない「日本的な価値」が流れている。そして、外来の信仰体系は、この底流の日本的価値と矛盾しない形で、むしろそれと融合しつつ受用される。
 この独特のやり方こそが「日本的方式」なおのである。表層では、日本人は、いくらでも外来の価値刊を受容する。
 しかし、根底に流れるいかにも「日本的なもの」を決してうしなうことはない。
 ハビアンとはまさにそうして「日本人」だった。それは、おそらく、現代にいたるまで「世界」における日本人の生き方の基本モデルとさえいいうるものであろう。外来価値をいかうらでも受容するのだが、けっして、「本心から」受け入れたわけではないのである。
 ハビアンはいう。「柳は緑、花は紅。これこそは自然の道理である」と。柳の根を砕いてみても緑はなく、花の木を割いてみても紅はない。
 しかし、柳も花も自然天然のままに現成しているではないか。このあらゆるものが「天然自然のまま」という世の中のあり方、それこそが「ナツウラの教え」なのである。柳や花を分解して分析するのではない。そのまま、ありのままに見るのである。
 世界の万事万象が、バラバラに現成するのではなく、相互につながりながら秩序を保って現成するという思想。
 仏教的にいえば、因果生起による万物の相依相即したあり方、古神道的に表現すれば、人間も自然もすべてが「カミ」というべき生命力の発言としてそこに存在するという考え方と同様の発想をここに見ることができよう。
 この万象が万象が相依相即しつつ、それぞれが「おのずとある」ようなあり方、万事が「天然自然のまま」に現成している存在の仕方こそ「ナツウラの教え」の根本にあるものだ。

この本の真髄が書かれた部分でした。
古代から、現代にも通底する日本人の本質だと思いました。

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2026年10月04日

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