高橋義孝のレビュー一覧
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やはり純文学って難しい。
理解しきれないけど考えさせられる。
どうして虫になってしまったのか明かされず淡々と進んでいく様子が恐いけど面白い。
カフカ氏は、表紙に虫そのものの姿を描くことを断固として拒否していたとのこと。
虫に変身したというのは比喩で、「家族が突然体を動かせなくなり言葉も発せられなくなり醜い姿になってしまった時に果たして今まで通り愛せるのか」というメッセージなのかなと思った。
兄は働くことのできない両親と妹に代わって朝早くから働きに出て一家を支えていて、音楽好きの妹を音楽学校へ入れてやろうと計画を練っていた。
そんな家族思いの兄なのに最初から最後まで理不尽すぎる。
最後、蛹になって羽化して蝶になって飛んでくみたいな展開あるかなって思ったけどただただ悲しいラストだった。 -
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ネタバレ最初に読んだのが10代の頃で、20年ぶりに再読。すごく胸に響きました。
ウェルテル青年はとても感受性が強く、目の前の人々や自然、自我や孤独、色んなものの捉え方が鋭くハッとさせられます。
許嫁のいるロッテを深く愛し葛藤する気持ち、恋心一つとっても、こんなにも人間の内面をありありと描いた作品は他に出会った事がないくらいです。
200年以上も前に書かれた作品とは思えませんでした。
人々の生活は変わるし、階級社会や信仰などピンと来ないものがあったとしても、普遍的なものってあるんだな、そしてそこに文学の凄さがあるんだと思いました。
恋をして、舞い上がって、期待して、不安になって、絶望して。人と人との間にある嫉妬も葛藤も愛も苦しみも、変わらないものは変わらない。 -
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ネタバレなぜグレーゴルは虫に変身という状況にそんなに取り乱すこともなく、冷静に対処しようとできたのか。本書内ではもちろん理由は書かれていなかった。「そんなことよりも、自分は働かなければならない」という意思があったんだろうか。
そして、そんなグレーゴルが最後には家族の負担になってしまうという不条理。でも家族のことをただ責めることはできないのかも。コミュニケーションも取れず、でも世話をし続けなければならない。家族が暮らしていくために全員で働かなければならない。終わりの見えない長く暗いトンネル。「グレーゴルさえいなければ、、」と思ってしまう気持ちも否定はできなかった。
突然の事故や病気、高齢者の認知症など、ザムザ家に訪れた突然の暗闇は、私たちにもいつ訪れるかは絶対にわからない。でも、そうならないよう努めようと思った。 -
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ネタバレ目が覚めたら虫になってた…という設定は有名ですし知ってはいたのですが、内容は初めて知りました。
そもそも『虫』ってなに?というところなんですけど、別に虫であることが重要というよりは、愚鈍で醜くて役立たずで嫌悪を駆り立てる存在、ってことなのかなあ?
目が覚めたら…というのも現実に向き合った、みたいなことの比喩なんでしょうか。
ザムザは『ろくに働けない家族のためにやりたくもない仕事をして稼いでやってるんだ』という認識でいたけれど、本当は案外家族みんな自立できてるし、ザムザの助けがなくても十分だし、みんなザムザが自負するほど彼に感謝も愛着もない…という現実を目にしてしまっただけなのかも?
つまるところ、現実と向き合って最後『消えることが唯一できること』と受け入れ消えていく、そして残された家族は明るさを取り戻して前に向いて歩き出す、という結論からも、諦観と厭世観のようなものがすごく感じられました…時代もあるのかな?
なんとも言えない後味の作品でした…でも割と好きかも。笑 -
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ネタバレある日突然虫に変貌してしまった男、グレーゴル•ザムザとその家族の顛末を描いた作品。
何故、どうして虫に変身したのかという理由は一切語られずに、一家を支えるため仕事に励んでいた好青年が突如人の言葉を介さない存在になるという不条理さ。しかもグレーゴル本人は人の心と思考を残しているのに、他人から見たら巨大な甲虫以外の何者でもないという、このなんとも言えない悲しさ...月日が経つにつれ、彼の感性が段々とそちらに寄っていくような描写があるのも悲しさを助長させます。
誰よりも父母、そして妹の事を考えて行動していた筈なのに、変わってしまった事で彼らから相容れない異物として扱われる描写の苦しさは言い表しようがありません。
グレーゴルがゆっくりと息を引き取った後、残った家族は未来への希望を見、或いは妹のグレーテが希望そのものとなりました。カフカがどのように彼の内でテーマを定めてこれを執筆したのかは図りかねますが、
『醜く変化してしまったものを過去のものとして忘れ、光ある未来へと目を向けろ。』
と言われているような気がします。
カフカはグレーゴルに自身を準えているという説がありますが、それはあながち間違いではないのではと感じられます。カフカは生涯を通じて、自分は何もできない、社会に適合できない、あるいは誰かを愛することもできない人間だという劣等感を抱いていたという話もあるようです。孤独に死んでいくグレーゴルの姿は、カフカ自身の投影そのものであるように思われます。 -
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ネタバレ解説を読んで少し理解が深まったと感じた。グレーゴルの虫への変身は人が普通でなくなることを表現したのかもしれない。
グレーゴルは元軍人のセールスマンで間違いなく普通の人であった。普通ではあったが、順風満帆という訳でもなく、親がいなければ仕事などとうに辞めていたという描写がある程度には自分の仕事に対して不満を抱いていた。また、彼の主観から語られる地の文からは、自分が家族の収入源だという自負が伺えた。
これらの不満や精神的負担は彼を人から虫に変身させてしまうには十分すぎるものだったのかもしれない。
解説されている通り、この物語を夢の世界だと考えるなら、描かれている家族の行動はグレーゴルのから見た家族の行動なのかな。最後のグレーゴルが息絶えるシーンでも自分は死んだ方がいいと考えているあたり、家族に金銭をもたらさない自分は価値がないと考えていそうで辛い。現実のグレーゴルがゆっくりお休みできることをお祈りします。 -
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正直に言いますが下巻前半のセテムブリーニvsナフタの議論はほぼほぼ読み飛ばしました。そのあとの雪の章でも乗れなくて1ヶ月くらい放置して、戻ってきてみたらペーペルコルンが登場して、そこからが本当に面白かった。圧倒的人格者と議論好きの口先おじさんたちの対比。これまでおじさんたちの長い長い議論を読みながらモヤモヤとしていた気持ちが一気に晴れる感じ。そこにいるだけで周りの人を魅了する人っているよね。話す内容より、誰がそれを話すか。でも悔しいので、口先おじさんより人格者の方が優れているとは思いたくない。
上巻でも思ったけど、語り手が主人公について意見を述べる形式が面白くて好き。あと、語り手がおもむろに語りだす人生の教訓が響く響く。乗れなかったら読むのをストップしてしばらく寝かせるのって大事ね。
山の上と下、西洋と東洋、モラトリアムと地に足のついた生活など、数えきれないほどの対比構造を見いだせる内容。本の内容もだが、そもそも「ブログやYouTubeで数々の批評や解説を聞きながら世の大名作を読む」という経験が楽しかった。 -
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若さゆえにロッテに恋して浮かれて暴走してしまったけど、もとのウェルテルは身分関係なく友達をたくさんつくれるような人当たりのいい青年だから、ロッテの婚約者アルベルトのことも嫌いになれず、むしろ完璧な人だと認めて、自分が入り込む隙はないんだと理解してどんどん自分を追い詰めていってしまう。
自分のほうがロッテに相応しいと言ってしまえるくらい図々しかったらこんなに思い詰めることはなかったのかな。
友人のウェルヘルムに宛てた手紙で自殺を仄めかしていたし、本当は心のどこかで誰かに自殺を止めてほしかったのかな。
まだ若いんだし何より一途だし、なんとか自殺を思いとどまって生きてみたらロッテと同じか、それ以上に愛せる相手に出会えたんじゃないか。
恋に浮かれている最中はロッテはそれはもうとても素敵な女性に見えたかもしれないけれど、離れて時間が経って振り返ってみたら別にそこまで惚れ込むほどの女性でもなかったな、ってちょっとした笑い話にできる日がきたかもしれないのに、切ないなあ。 -
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フロイト 精神分析入門メモ
フロイトは、精神分析における「象徴関係」、
夢の要素中の固定された翻訳が明らかになっている一群(1)の中で、圧倒的に「性的表現」が象徴の多数を占めていることを明らかにする。「男性器」棒、傘、ステッキ、サーベル、小銃、じょうろ、ネクタイ、鉛筆、「勃起」気球、飛行機、飛行体験そのもの、「女性器」ポケット、溝、瓶、トランク、戸棚、貝類、聖堂、「乳房」くだもの一般、岩、森、「性的快楽」ピアノの演奏、階段を登る。フロイトは、これらの背景には、最初の言語発達が性愛の相手を呼び寄せるものであり、つまり、あらゆる言語はかつて性的表現を意味していたが、やがてそれが労働においても共有されるようになり、いつしか完全に労働に移り代わり性的意味は忘却されたのだという事情があるという主張を引用している(2)。要するに、我々のあらゆる行為、言語、物のルーツには「性的表現」がある。
「象徴関係」、言うなればそれは「例える」ことである。「例える」言語活動は日常会話の中でしばしば行われる。例えば、何らか難しい事象を平易に説明する際や、滑稽な事象を想起させて笑いを誘うなど。
後者について、これをプロ化し、テレビ番組におけるトークの中で、或いは「大喜利」という試合仕立ての中で披露し視聴者に笑いを提供しているのがお笑い芸人である。
彼等の存在をもって、つまり、一般的言語活動である「例える」が巧みな技術として称賛されている事実をもって、如何に「例える」行為により笑いを生み出すことが困難であるかについて証明されていると言って良いだろう。
しかしながら、ここには一つの例外がある。それは「下ネタ(性的表現)」による例えである。日常会話における「下ネタ(性的表現)」による例え、比喩の簡易性・頻出性はあらゆる他の分野に比して突出していると言える。その社会的制限により、場面こそ限られるものの、若年の同性間会話或いは飲み会などにおいて、下ネタの絡んだ例えに限定されて、それは目を見張るスピードと唸らせるクオリティをもって披露され、更には芸術的とも言える畳みかけ、天丼、展開がなされることがまま見られるのである。半ば当たり前になってしまっているこの奇妙な現象について、今一度「例える」ことの困難さを認識すればするほどそれは特異に映る。
また、当然のことながら、この奇妙な現象の発生源には、共通の下ネタワード(象徴関係)、例えば「大きい」「行った(イッた)」等がある。
この奇妙な現象をもって、象徴関係(例える)における性的表現(下ネタ)の多数性はより、信ぴょう性を増す。 -
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ネタバレちょっと昔に読んだから、思い出しながら書くけど…
ウェルテル効果という心理学用語がある。メディアが自殺を報道すると、その後自殺率が高まるということらしい。
この本を読んで同じように自殺する人が増えたことからそう呼ばれているんだって。
そんな感じで、これを読む前から結末は知っていた。結局ウェルテルは最後に叶わぬ恋が原因で死んでしまうのだ。そこまでどうやって向かうのか、どんなことに苦しんでいたのかをみつめながら読んだ。
ウェルテルは既婚のロッテを好きになってしまい、もう、病的に好きになってしまう。ロッテしかいない、と思い込む。でも結婚してるから諦めるしかなくて、死んでしまう。
何がすごいって、ウェルテルはロッテに自分と付き合うように迫ったりだとか、ロッテの夫をばかにしたりとかしないのだ。ただストーカーなら、相手やその家族を攻撃したりするだろう。でも、”本当に愛している。”満たされない心は矛先となり、ただただ、耐えられない苦しさや、激しい攻撃は自分へと向く。だから、最後に自殺という方法を選んでしまうんだと思う。
でも、そんな愛って本当に愛なのかな?
燃え上がるような恋をしている最中って、たしかにあの人じゃなくちゃ絶対だめだ。この世にあの人の代わりはいない。一生他の人を愛せないと思い込むんだけど、意外とそうではなくって。
恋の激しさも数年したら落ち着いてきたり、また、別れて新しい人に出会えばこの人じゃないとだめだって、もう一度思うもんじゃない?
ウェルテルはまだかなり若いから、初めての恋だから、こうなってしまったのかなぁ。可哀想だ。こんなに人を深く愛せるのであれば、もう少し生きていれば、ロッテとじゃなくても絶対に幸せになれる道はあったと思う。
ちなみに、日本ではあまり聞かないが、海外だと失恋は自殺の原因の多くを占めるらしい。 -
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ネタバレ少しだけ読んだことはあったが「淋しい夜のページをめくれ」がきっかけで再度手に取る
初めてのゲーテの作品
とことんウェルテルになりながら、気持ちを想像しながらじっくりじっくり読んでいった。
小説というよりも詩に近い印象を受けた。
ロッテを初めてみて、天使だと思った。とか
ぼくはまるで神が聖者たちのためにとっておいたような幸福な日々を送っている。
とか、浮かれっぷりがすごい、現代と何も変わらない感情に、人間の普遍性を感じる。
このさきざきがどうだろうと、ぼくは人生のよろこびを、最も清らかなよろこびを味わったんだとか
死亡フラグすぎる
身を引こうとするウェルテル
それでも吸い寄せられるように会いに行ってしまうウェルテル。
奪うでも無く、殺すでもなく、身を引く。それができればどんなに良かったか。
できないからこそ、もがき、苦しみ、最後の選択をする。
恋の悩みの話だと考える人もいるかもしれないが、
一つの愛なのではないかと感じた
この本を今の歳で味わえて良かった。
A+