高橋義孝のレビュー一覧
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ネタバレついに読み終わりましたよ、上下巻1400ページの大作!
若い時なんで読まなかった、いえ、読めなかったのでしょうね。大作ということならもっと長大編を読みましたものね。でも、とにかく夏の暑い盛りに(豪雨もありましたが)汗かいてよくこの歳で読めたと自分で感心してます。
作家倉橋由美子さんは病気になるとベットに持ち込み読んで、読み終わると病気が治るのが理想だそう(『偏愛文学館』)10年ごとに読みたくなったそうですが、そんなに病気になるのはちょっとどうも、ですよね。
主人公のハンス・カストルプがスイス高原のサナトリュウムへ、いとこの見舞いに行ったら自分も結核になっていたということがわかり、いっしょに入院、療養に長き時を過ごすその間に、いろいろな人たちがああでもないこうでもない。
ストーリーは複雑ではありませんが、登場人物達のセリフというかおしゃべりが摩訶不思議なので、なかなか噛み応えがあります。
考えさせられるような、しかしわけのわからないような登場人物たちの御託、まじめなんだかどうなんだかですけど、ちょっとユーモラスでもありかつ大変勉強になります。
ハンスが不倫の恋に落ちるクラウディア・ショーシャ夫人は、竹久夢二が描く女性のように「くんにゃり」としているようにわたしは感じました。『トニオ・クレーゲル』に出てくる少年達のように、ハンスが少年の時に好きだったプシービスラフ・ピッペ少年にその夫人がそっくりなところもちょっとドキッとします。思わず『トニオ・クレーゲル』も再読してしまいました。
これはほんのさわり、内容は思索的、精神的なことに色濃い作品です。当然ですよね、ノーベル文学賞作家ですもの。しかし、純真無垢なハンス青年がスイスの恵まれた療養所でゆっくりと(7年も!)思索的人生勉強なんて、やっぱり物語だからです。
トーマス・マンはこの物語で「時の流れ」ということを、とてもうまく表現していると思います。あれもこれも時の過ぎ行くまま、読み終わってほっとしております。 -
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自我とは自分の意識のことであり、意識は理性でコントールできる。自分の行動は自分の意識で理性的に決めている。デカルト
意識された部分(理性や合理性など)は表層的なものに過ぎない。自我の意識の活動にのぼらず、自覚されていない心の奥底がある。無意識。潜在意識。無意識の内容は夢などに現れ、起きているときは意識の底に沈んでいる▼幼い子供にあるのは本能的な欲動だけ。成長するにつれ本能的な欲動を抑える道徳・社会規範を身に着ける。「自分」という意識(自我)が生まれ、本能的な欲動と道徳・社会規範とのバランスを取れるようになる。本能的な欲動が充たされないとき、人は社会的価値の高い欲求に置き換えて昇華させる(芸術など)▼男性が母を愛の対象とし、父親を殺そうとする願望(エディプス)。女性が父を愛の対象とし、母親を殺そうとする願望(エレクトラ)。兄弟間の敵対感情(カイン)。人を救済することで自分の存在意義を得ようとしたり、相手よりも優位に立とうとする(メサイヤ)。ジークムント・フロイトFreud『精神分析入門』1916
西欧の錬金術の図は曼荼羅に似ている。各国に似たような模様がある。各国の神話も共通点が多い。人間ひとりひとりの無意識のさらに奥底に全人類に共通した集合的な無意識があるのかもしれない。ユング『自我と無意識』1934
雨が降っているとき、雨と闘ったり、負かそうとしても無駄だ。今、あなたは雨と闘って時間を費やしている。雨に勝っている、と思っている。しかし、他の誰よりも、あなた自身を害している。アルフレッド・アドラー『人生の意味』1932
被収容者はショックの第一段階から、第二段階である感動の消滅段階へと移行した。内面がじわじわと死んでいったのだ。 感情の消滅や鈍磨、内面の冷淡さと無関心。これら、被収容者の心理的反応の第二段階の特徴は、ほどなく毎日毎時殴られることにたいしても、なにも感じなくさせた。この不感無感は、被収容者の心をとっさに囲う、なくてはならない盾なのだ▼忘れられない仲間がいる。誰もが飢えと重労働に苦しむ中で、みんなにやさしい言葉をかけて歩き、ただでさえ少ないパンのひと切れを身体の弱った仲間に分け与えていた人たちだ。そうした人たちは、ほんの少数だったにせよ、人間として最後まで持ちうる自由が何であるかを、十分私たちに示してくれた。あらゆるものを奪われた人間に残されたたった一つのもの、それは与えられた運命に対して自分の態度を選ぶ自由、自分のあり方を決める自由である。ヴィクトール・フランクルFrankl『夜と霧』1946 -
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舞台は第一次世界対戦前、スイスの山奥にあるサナトリウム。ヨーロッパ中から結核患者が集まって療養している。
マンは講演で「私は一生を通じて一つの物語を語りつづけてきた市民的作家であって、市民性から脱却する過程を語りつづけてきた。」と言っており(河出書房版解説)、
主人公「ハンス カストルプ君」は、「ドイツ君」だと考えれば、読みやすく分かりやすい。
キャラクターの濃いのがたくさん出てきて個人的にはめちゃくちゃ面白かった。
中でもゼテムブリーニとナフタの、ハンスカストルプを賭けての思想合戦が面白い。が、難しく理解したとは言えないので、知識を付けて、10年後ぐらいに再読したい。 -
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上巻しか買っていない本
ゲーテ 「 ファウスト 」 上巻は ファウストが世界の真理を知るために悪魔と契約し、信仰を捨て、世界の快楽を知る巻。
命題は 「ファウストは 信仰を取り戻して救われるか、悪魔と化して裁かれるか」
上巻で「刹那に向かって とまれ、お前はあまりにも美しい と言ったら〜喜んで滅んでいく」の結論は出ていないので、ファウストは 悪魔と化していない
序章部分が、献詞→前狂言→天上の序曲の3章を経て、本編の悲劇第一部「夜」が始まる構成。時間と場所(舞台)の違いが明確で、インパクトのある始まり
ストーリーテラー=ファウスト=ゲーテ という構成
中間にある前狂言の章の意味は 何か? 座長→詩人→道化役の構造を ゲーテ→ファウスト→メフィストフェレス(悪魔)の関係性に引き継ぐため?
気になるのは「書斎」「夜」という章タイトルが繰り返されていること。書斎=知性=人間の精神、夜=闇=悪、罪、破滅と捉えた
もっと別の解釈や深読みできる本だと思う。解説や注がもう少しほしい
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上下巻の大長編なので読み通すのに精一杯、というのが正直な所だが教養小説を志向しただけに、様々な、そして趣の異なった魅力がふんだんに詰まった小説だった。
第一としてはセテムブリーニ、そしてナフタとの議論、この部分が通読して一等面白かった。第二はシャーシャ夫人との恋の行方だろうか。第三にはマンの本作における時間感覚。小説内の時間の問題についてはジュネットの『物語論』を適用させられるのだがそれだけでは済まない〈魔の山〉独特の時間の流れ方を考えてみるのもよいかもしれない。
続けようと思えば何処までも続けられる類の小説なのだろうが、一応の筋はあるので、それに関して思った事と言えば、これは獲得と喪失の話なのだろうな、という事。なるほどハンス・カストルプなる青年は教化されて上巻に比べれば一端の論客になれそうなくらい、知恵はついたし深く物事を考える態度を得た。その一方で、親しい人々が次々と死んでいく。この経験は果たして青年ハンスに何をもたらしたか、そこに内面の成長を喚起させるものがあったか、まああったのだろう、敬虔さを身に着けたのかもしれない。それにしても親しい人の相次ぐ〈死〉という喪失による精神的ダメージを次々と経験していくさまが痛ましいとは思えないか。わたしならこれは堪らない。後追いというわけではないが、ハンス青年は切実な心持ちで〈死〉に接近していたはずだ。
しかしながらマンもあこぎな事をする書き手で、ハンス青年は病が癒えてしまう。結核療養所である〈魔の山〉においては、死神がすぐ横に侍している病人ばかりである。その中でハンス青年は〈魔の山〉においてはストレンジャーになりうざるを得ない。快癒したのならば下山すればよいのだが、彼は幼い時に両親を失っていて、七年間も過ぎたら彼の帰りを待つ人や場所(勤め先)もなくなった。死神に去られたハンス青年は〈魔の山〉の居住資格を失って、かつ帰る場所もない。喪失したアイデンティティーである〈死〉を求めて、あるいはヨーアヒムの果たせなかった軍務を代理して成就させるためを以て、いずれか、それとも両方の理由から第一次世界大戦に出征したのではなかろうか。
この幕引きのための最後の十ページほどの中に戦場に臨むハンス青年の心理や思考は詳しくは描かれない。解釈に正解も間違いもない、マンが答えを示さなかったのだから読んだ人間の数だけ解釈があってよいはずで、なので幾つか『魔の山』論を読んでみたい気にさせた。読み終えてもまだまだ考えたい事柄が残るというのが名作の条件だと個人的に思っていて、その点からすれば本作は紛うことなき名作である。 -
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文豪ゲーテの代表作とされる長編の戯曲。第一部は1808年、第二部は1833年(ゲーテの死の翌年)に発表された。
15~16世紀にドイツに実在したと言われる高名な錬金術・占星術・魔術師ファウスト博士が、悪魔と契約して最後には魂を奪われ体を四散されたと云う奇怪な伝説をベースにしている。
ゲーテは文人であるとともに、自然科学者、政治家、法律家でもあった万能人で、代表作『ファウスト』においても、その思想・人生観が随所に表現されている。
(6265行)ファウスト「母の国。その言葉をきくたびに、何かはっとさせられる。なんとしても耳にしたくない言葉だ。・・・それでも己は物に動じないということを必ずしもいいことだとは考えないのだ。驚く、これは人間の最善の特性ではあるまいか。世間はこの「驚き」という感情を味わわせてくれないようになってきたが、驚き撃たれてこそ、巨大な神秘に参入しうるのだ」
(11936行)天使「絶えず努力して励む者を、われらは救うことができる」
(12104行)神秘の合唱「すべて移ろい行くものは、永遠なるものの比喩にすぎず。かつて満たされざりしもの、今ここに満たさる。名状すべからざるもの、ここに遂げられたり。永遠にして女性的なるもの、われらを牽き手昇らしむ」等
一般に言われているように、第二部は冗長な感は免れないし、主題もわかりにくく感じられるが、それはおそらく第一部から一貫する「世界を奥の奥で統べているもの、それが知りたい、また世界のうちに働く、力と元素のすべてを見極めたい」(382行)というファウスト(=ゲーテ)の思いであり、その根源とも言えるのが「母の国」なのではあるまいか。
現代においては決して読み易い作品とは言えないが(しかも、第二部は500頁弱ある)、ゲーテ自身の人生観を示した代表作として、一読する意味はあるように思う。 -
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文豪ゲーテの代表作とされる長編の戯曲。第一部は1808年、第二部は1833年(ゲーテの死の翌年)に発表された。
15~16世紀にドイツに実在したと言われる高名な錬金術・占星術・魔術師ファウスト博士が、悪魔と契約して最後には魂を奪われ体を四散されたと云う奇怪な伝説をベースにしている。
ゲーテは文人であるとともに、自然科学者、政治家、法律家でもあった万能人で、代表作『ファウスト』においても、その思想・人生観が随所に表現されている。
(382行)ファウスト「世界を奥の奥で統べているもの、それが知りたい、また世界のうちに働く、力と元素のすべてを見極めたい、そうなったら、もう言葉を漁ることも要るまいと思ったからなのだ」
(534行)ファウスト「わが身にしかと納得せずには、人の心は動かせぬ。自分の魂から迸り出て、力強く切々と語るのでなければ、聴く者の心は得られぬわけだ。・・・真に心の底から出たことでなければ、決して人の心には訴えぬものなのだ」
(1224行)ファウスト「「太初に言ありき」と書いてある。ここでもうつかえてしまう。さてどうしたものか。・・・そうだ、うまい言葉を思いついた。こうすればいい、「太初に行ありき」」
(1759行)ファウスト「休みなく活動するのが男というものなのだ。・・・知識欲とは縁を切った己の胸は、今後どんな苦痛をも避けぬつもりだ。己は自分の心で、全人類に課せられたものを、じっくりと味わってみたい。自分の精神で、最高最深のものを攫んでみたい。人類の幸福と苦悩とを己の胸で受けとめてみたい」等
すなわち、『ファウスト』とは、「考える人」ファウストが「行動する人」に変身し、広い世界に出て、いかなることを成しとげたかいう物語と言えるのではあるまいか。
現代においては決して読み易い作品とは言えないが、ゲーテ自身の人生観を示した代表作として、一読する意味はあるように思う。 -
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トーマス・マン。
とにかく長大・重厚な作品を書いた大作家という印象だが、本書は比較的ボリュームの軽い、中編を2編収める。
とはいえ、ここにも「過剰なる叙述の片鱗」と言ってもいいような、詳細かつ細部に分け入っていく、畳みかけるような描写がある。
2編に共通しているのは、「決して混じりえぬものへの憧憬」とでも言えようか。。
『トニオ・クレーゲル』は一人の芸術家の半生を描く。謹厳な父に、異国から嫁いだ、夢見るような母。周囲に完全に溶け込むことのない一対の観察する目のような少年時代が印象的である。少年トニオが愛したハンスは、トニオよりも乗馬友達の方がお気に入りだ。長じて詩人となったトニオが女流画家に当てた手紙はそのまま、マン自身の芸術論であるように思える。
『ヴェニスに死す』では、気分転換にと大作家がヴェニスを訪れる。やはり旅行に来ていたポーランド人一家の中に、端正な顔立ちの少年がいた。ギリシャの美少年を思わせるような中性的な美しさを愛で、老作家は密かに見つめ続ける。生ぬるい風に消毒薬の匂いが混じる。死の伝染病が流行しているが、当局が伏せているらしい。この地を去るべきだと思いつつ、少年に魅せられた作家は、そこを離れることができない。
「美」を見出し、描き出すのは「芸術家」だが、「美」そのものを体現するものは、それを描写する必要を持たない。「芸術家」は「美」の一番の理解者でありながら、「美」自体になることはできない。「美」は自身が「美」であるがゆえに、「芸術家」が「美」を求め、それを捉えようと苦しみ、遂に手中にする喜びを、真に理解することはない。
かくしてこの片恋は、永遠に片恋のまま。
『ヴェニスに死す』では、間接的にではあるが「美」への愛のため、「芸術家」は命を落とす。ある意味、幸福な結末であるようにも見えるし、辛辣な喜劇のようにも見える。途中からは引き返せない道であることがありありと見えることから、一直線に奈落へ落ちていく悲劇のようにも見える。
読むたび印象が変わりそうな、万華鏡のような不思議な世界である。
*トーマス・マンといえば思い出すのは北杜夫。敬愛するマンの「トニオ・クレーゲル」から筆名を「北”杜二夫(とにお)”」とし、読みにくいため「杜夫」に改めたのはよく知られる話。代表作の1つである「楡家の人々」もマンの「ブッデンブローク家の人々」に影響を受けたものとのこと。
*「ヴェニスに死す」は学生時代にヴィスコンティの映画を見ました。当時は、不健康で退屈、と思ったのですが(^^;)、先日、オペラ仕立てのものを見たら存外おもしろくて原作を読んでみる気になりました(映画とオペラの作品の出来不出来ではなく、自分の方が年を取ったということだと思うのですが)。
*水の都、ヴェニスは、実際に感染症の蔓延に悩まされていたんでしょうかね。このあたりもちょっと追ってみたいような。
*マンは後年、反ナチスの姿勢を明確に打ち出していきます。金髪・碧眼という本二作で描かれる美の象徴はそのまま、ヒトラーの賛美した「アーリア人」的容貌であるようにも思えます。その重なりが余計に許せなかったのかもしれない、とちょっと思ったりします。