トーマス・マンの一覧
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ユーザーレビュー
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長期滞在が続くハンス・カストルプは、ショーシャ夫人との出来事のあとも、様々な出会いと別れを重ねていく。
まぁ、本を手に取った時点でわかっている話(700ページ近い厚さ)ではあるが、下巻もとにかく長い(汗)。ストーリーそのものだけにしぼればもっと短くできそうなものだが、音楽(レコード)やオカルト(こ
...続きを読むっくりさん的な降霊術)などにハマる長々とした描写も含め、ダラダラと論争や語りが続くところに意味のある小説なんだと思う。
上巻以上に重要な出会いと別れが続き、単調であるはずのサナトリウム生活には話題が尽きない。多様な登場人物との触れ合いがこの小説の魅力だ。病いと死に隣り合わせのため、面白おかしいというわけにはいかないが、下界とは一線を画する環境であるゆえの人物描写が独特の味わいをみせている。
本書最大の山場はおそらく、第六章にある節「雪」だろう。スキーに出た雪山で吹雪におそわれたハンス・カストルプは、幻想的なビジョンを夢で見たあと、対照的な思想を持つセテムブリーニとナフタの論争を超越し、理性に代わって生と死の対立を超える「善意と愛」に目覚めていく。
後半でハンス・カストルプに大きな影響を及ぼすペーペルコルンが物語に活力を与えている。三角関係のようになってしまうショーシャ夫人との顛末も面白く、素直に楽しめた。
作中で「人生の厄介息子」と称されるハンス・カストルプの生き様は、現代でいえばニートに類似するものではあるまいか。訪問者が時間の感覚を失って居座ってしまう、この「魔法の山」での生活のなかで、生と死、社会と人生における広範なテーマを模索し学び、長いモラトリアム期間を過ごしたあと、現実に戻っていくというような、青年期におけるイニシエーション的な奥行きがあると思った。
映像的かつ詩的なラストの描写には大きな感動を覚えた。ああ、そうなるのか、と。
非情に深い感慨を受けた本作。一読では消化不良の部分もあるため、ぜひともいずれ新潮文庫版も読んでみたい。
Posted by ブクログ
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1924年刊。スイス高原のサナトリウムで療養生活を送ることとなった、青年ハンス・カストルプの精神の軌跡。
20世紀三大小説家のひとり、との声もあるトーマス・マンの代表作。年配の某文学系YouTuberの方が、『魔の山』はトーマス・マンの中では亜流で『ブッデンブローク家』こそ正統派だ、とおっしゃって
...続きを読むいて、なるほどそうなのか~と思いつつも、やはり有名なので先にこちらを選んだ。何よりも、「今読みたい」と直感が働き、これがドンピシャだった。
というのは、本作で主人公の青年ハンスが、過去に想いを寄せていたプリビスラウとの関係を引き合いに出しながら、ロシアの婦人への恋心をひそやかにしつつ、あまりにも控えめな行動力で陰キャ的なやり取りをする描写に、たまらなく共感を覚えるタイミングだったからだ(汗)。
P250 「現実的に、いまのひそかな関係以上の交渉は持てないという確信、二人のあいだには越えられない深淵が横たわっていて、彼女と一しょでは彼の承認しているどんな批評にも及第できないという確信」
絶対に越えられない壁がある相手に恋をしてしまったら、こうするしかないだろうな、という行動をハンスがとるので、恋の行方が気になり、それが引力となって読み続けられた。
したがって、自分は本作の上巻をほぼ恋愛小説として読んだのだが、もちろん下のレビューや各所で言われているように、本作は20世紀初頭の思想や医学などについてつらつらと書き綴られた教養小説というやつで、読んでいて退屈な部分は確かにある。あまりにも変化のないサナトリウムの生活は、実は死と隣り合わせで、いやでも思索的にならざるをえない環境でもあり、こういった議論や語りが続くような小説には格好の舞台といえる。
しかし、数多い個性的な登場人物と人間関係の描写はなかなかに面白く、高原の景色も趣に富む。物語というよりも、こういった光景を楽しむ小説として考えていると、いつしかハンスと共に自分自身もその場にいるような不思議な感覚すらわいてきた。章の間にいくつもの節で区切られているためコツコツ読むには向いていて、この小説に取り組んでいる数日間ずっと手元のそばに置いていたので、サナトリウムの世界にどっぷりつかっていた感じが強い。その他、時間感覚についての考察は興味深い。
上巻ラスト付近の急展開は楽しくて仕方なかった。ハンス君やらかしすぎ(笑)。つくづく自分には合う小説だなぁと。下巻はもっと長いようだけど、全然イケそう。
Posted by ブクログ
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最後に至るまで思弁的で、冗長で、密度が高く、読むのが辛かった。
しかし、読み終わって思索してみると、ハンス・カストルプの凡俗さに人間存在の危うさが垣間見れる力作であった。
女性の描かれ方が考えさせられる。観念、理性が男性に割り振られ、情緒、感情が女性に割り振られている。
ショーシャが連れ戻って
...続きを読むきたピーター・ベーペルコンの存在感が印象的だった。
Posted by ブクログ
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コロナ騒動でカミュ「ペスト」を読み、さて次はと本棚から取り出した。
「ペスト」よりもどちらかというと「ヴェニスに死す」や「ゾンビ」や「ノスフェラトゥ」など頽廃に惹かれるタチなのだ。
そもそもヴィスコンティ「ヴェニスに死す」は生涯ベストに入る。
(ちなみにヴィスコンティはカミュ「異邦人」も監督している
...続きを読む。最近の読書をこっそり架橋していたのだ。さらにドストエフスキー「白夜」も入れて文豪映画化シリーズに入れておきたい)
それで読んでみて。
「ヴェニスに死す」
びっくりするくらい原作に忠実な映像化だったのだ。
というか小説を読むと映像が鮮烈に甦る。
違うのはアシェンバハの職業くらいか。
思うだに奇蹟の采配と執念が完成させた映画なのだろう。
ところで小説は映画と違い人物の内面に比重を置くが、本作の語り手は結構アシェンバハから距離を置いている。
とはいえ映像と重ねることでより立体的に迫ってきて、今回小説を読んで一番の収穫だったのは、
アシェンバハがはっきりと「疫病との共犯意識」を持っていたと書かれていることだ。「理性を越えた甘美な希望」とも。
老境迫る壮年が「あちらがわ」に行くきっかけはタジュウだが、その背中を押したのはコレラだったのだ。
「トニオ・クレーゲル」
は事前知識を特に入れず、流れで読んでみた。
が、まったく他人事とは思えないし、既視感たっぷり。
まずは絵柄。小説にこういうのはなんだが、はっきり萩尾望都先生の絵で浮かんだ。
そして既視感はヘッセ「車輪の下」からも。単純に似ているのだ。
少し離れるが宮沢賢治「銀河鉄道の夜」のジョバンニのカムパネルラに対する憧れも連想(ここまで行くと脱線だがのび太と出木杉をジョバンニとカムパネルラに重ねることもできそうだ)。
極私的には宝塚「激情ーホセとカルメン」(1999年の姿月あさと、花總まりを中心とした宙組による初演時)も連想。
要は生真面目な人物が劇的な恋に死ぬ話に、一言では言い尽くせない感情を抱いてしまう。
表面的には「激情」に比されるのは「ヴェニスに死す」なんだろう。「あちら側へ行く」話だから。
そして「トニオ・クレーゲル」は「芸術家」ー「市民」という対立軸を作った上で、「市民的気質を保つ芸術家」に落ち着こうという結論だから、ちょい違う。宮崎駿ふうに言えば「生きねば」に落ち着くのだ。
が、もはやここまで来たら死ぬも生きるも恋も鈍感もどちらも同じでどちらでもよいような地点に行きつくのではないか。
おそらくこの「遠くへきてしまった感じ」は萩尾望都先生も皆川博子先生も同意してくれるのではないか。
終盤に「あの男女」が再登場するが、「ただの似たカップル」という説もあるらしい、が、もう当人でも空似でもどうでもいいところに、トニオは来ているのだと思う。
選民思想インテリ向けに書かれている部分は確かにあるだろう。
が、決して凡人にも無縁ではない、というか思春期を一度でも体験した者には全然他人事ではないことが、書かれている。
構成も描写も多少退屈で迂遠なところはあるが、なんでもソナタ形式なのだとか。
この堅牢な構成には、再度注目しつつ読み返してみたいところ。
三島由紀夫や北杜夫など連想の幅も広がった。いずれ「魔の山」にも挑戦すべきだ。
Posted by ブクログ
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この上下の大長編を読み終えて無言で本を閉じることはありえるだろうか。否、ありえない。私たちはニヒリズムという平行線から逃れ、ベルクホーフという山あいで生み出した綜合的な思想の萌芽を見逃さずにはいられない。退廃主義、退嬰的、ニヒリズム、ペシミズム、デカダンス、などありとあらゆる悲観主義を表す言葉は物語
...続きを読む上では一定の水準に収まった一個人の叫びにすらならない悲壮の体現者の特徴にしかならず、どのような感受性も生まれない。それに対してトーマスマンはセテムブリーニの啓蒙主義とナフタの原初主義かつ神秘主義の思想がぶつかり合わせる弁償的論理でハンス・カストルプに新たな見地を植えつけた。その後ペーペルコルンの身に起きたことも含め、全てがバランスの上で螺旋状に向上する物語であったといえよう。それはある意味、たった一つの世界の定理を求める問いであるように思えた。
Posted by ブクログ
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