フェルディナント・フォン・シーラッハのレビュー一覧
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Posted by ブクログ
一筋縄ではいかない人間の愛と憎悪、ドイツの弁護士でありの小説家シーラッハが描く至極の短編集 #午後
■きっと読みたくなるレビュー
悪に落ちていく人間を描いた短編集『犯罪』『罪悪』で有名なフェルディナント・フォン・シーラッハ。
今回は作家であり弁護士の主人公が、パリ、東京、ウィーンなど世界中の訪れた先で様々な人と出会い、彼らから不思議な話を聞くという筋立て。
また世界各国の文学や出来事についての言及もあり、そもそもこの本に書かれている内容は、フィクションなのかシーラッハ本人のエッセイなのか、よくわからなくなってくる。
出会った人から聞くお話は比較的短めではあるのですが、どれも異様な世界観に包まれるのよね。それぞれの国の社会問題や事件を切り取っていて、薄暗くなっていく午後の時間を黄昏ているような気分。
ストーリーも辛辣な現実やアイロニーな結末で切れ味鋭く描いており、思わず目を見開いてしまうこともあってさ。風刺が効いた古の白黒短編映画を観ているような感覚になってくるんですよ。
■おすすめ作品の簡単レビュー
・3-東京
我が国日本、令和の現代だとちょっと違うかなって思うけど、問題の本質としてはあってるよね。人間の汚らしさが痛烈に描かれていて吸い込まれる。
・8-ヴェネツィア
最も好きなストーリー。愛情と憎悪のふり幅がスゴイのよ、パワフルなお話だった。でも愛情と憎悪も、どっちも勘違いみたいなもんだからなーと、妙に納得してしまった。ラストもですよねって感じで大好き。
・12-ウィーン
第二次大戦に巻き込まれたオーストリア、これからは平和であって欲しい。こちらの作品も人間の業、軽蔑、裏切りみたい負の気を感じるよね。人間ってのは一筋縄ではいかない。
・19-シカゴ
アメリカはもちろん、日本でも同じ。どれだけめんどくせー世の中なんだ… と、悲しくなるよね。次の世代では胸を張って自分らしく自由を謳歌して生きられる世の中にしてほしい。
■ぜっさん推しポイント
「午後」といえば、いちにち24時間の「後半」の部分になる。
人生で例えると、明るく元気で活発に生きてきた「前半」とは違い、「後半」は少しずつ体力や知力が衰えてくる。そして遂には死の足音も聞こはじめるのだ。
本作は「愛」と「死」の遠くて近い距離感や、表裏一体な関係性が伝わってくるんだよね。人間の清らかさと醜悪さを味わえる作品でした。 -
Posted by ブクログ
シーラッハ2冊目、最新刊の短編集です。200ページ足らずの本書には26編が収められ、長くて20ページ程度、短いものは1ページ、それもわずか3行という掌篇もあります。そして各話にタイトルがなく、通し番号が付されています。
読み始めは1話ごとの脈略やテーマがよく判らず少し困惑しましたが、デビュー作同様、弁護士・作家である著者の〈私〉が登場し、かつて仕事等で訪れた世界各地で誰かと出会い、打ち明け話を聞くというエピソードが淡々と語られます。
過去にあった事実、その人生の断片は、どこまでが創作か境目があやふやで、幻想か現実かが曖昧な印象です。各掌篇の好みの振れ幅が大きいと思いました。トータルで俯瞰した時に、つかみどころのない哲学的な要素も感じ、戸惑いにつながるかもしれません。
それでも、本書タイトルの「午後」に限らず、夜をイメージする話も多く、孤独や苦悩の人の生き様を喚起する展開と意外性のある結末など、味わい深い掌篇が魅力的です。評価を3寄りの4とします。
デビュー作と最新作、それも短編集しか読んでいないので、機会があればシーラッハの長編を含めた多作品を読んでみたいです。もしかしたら、シーラッハは読後の不穏さが癖になる作家なのかもしれません。 -
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自殺幇助は許されるのか。
憲法は自己決定権を尊重しているが、自分を殺すことは許されるのか。そして、死にたい人の自己決定を十分に尊重し、その手助けをするべきなのか。そして、その判断は誰がするのだろうか。神やコミュニティがそれを許すのだろうか。
難しい。個人的には、自殺は許容できても、それを手助けすることまでは許容できない。自殺の意思を改めさせようと手を差し伸べるのが社会の役割であることには変わりがないようには思う。そして、コミュニティがそれを許してしまったら、やはり不寛容な社会が到来するようにも思われる。
魂は神ものなのか?幸福こそが生きる意味なのか?難しい議題ではあった。 -
Posted by ブクログ
弁護士である「私」が携わった事件、その背景を追いかけながら、被告人たちの真実を描く11篇の連作短編集。
現代ドイツを舞台にしているのだが、難解で共感も困難な事例が多く出てくる。それを一番感じたのは、移民や難民などの他民族他国籍の人々との絡みだった。「この民族は〜な性質」「この国籍は〜レベル」といったような暗黙の既成観念があるように感じ、それを覆せなかった人々による犯罪は、日本にいるとあまりピンとこないように思った。読み進めると、痛々しくて生々しい人々の叫びが文中から聞こえてくるようで、淡々とした「私」視点も相まって、一篇一篇にキツイ読後感を味わうこととなった。
後書きを読んでもう一度本文を読み直したのだが、確かに全部の話にリンゴが登場しており、作者の仕掛けたちょっとしたトリックに驚かされた。「これはリンゴではない」なるほど、確かに。
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最近気づいたシーラッハの新作。
タイトルから別の話を想像していたのですが、主題は「臨死介助の是非」でした。「自死選択の是非」ではなく。
法学、神学、医学の観点からそれぞれ意見を求め、戯曲なので、観客に最終判断を委ねる…「テロ」の時と同じ手法。
個人的には、なしであってほしいです。
倫理観は、時代で変わっていくものかもしれないですが、ナチの事例をシーラッハが持ち出していることが、警鐘だと思いたいからです。
この本を読む寸前にジャン=リュック・ゴダールがいわゆる安楽死を選択していた、という記事を読んだこと、また、やはりこの本を読む寸前に読んだアチェベの「崩れゆく絆」の主人公の最期のシーン、など、時折脳裏をかすめなました。
シーラッハ、好きです。
ドラマチックなタイプの書き方ではないのですが、作品のひとつひとつに心が揺さぶられます。
短編と戯曲が特に良いと思います。
酒寄さんの翻訳もすばらしいです。これからもよろしくお願いします。
マイナス一つ星は、やはり書き手として、結論はどうか、が見えないので。でも、それはそれで良いんですけどね(笑)読み手もアマノジャク(笑)
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Posted by ブクログ
英小説は邦訳が読みにくくて苦手意識を持っているのですが、ドイツ小説はそうでもありませんでした。やはり言語にも相性はあるんですね。
帯のとおりのあらすじです。刑事を担当する新米弁護士が一番最初に弁護人となったのは殺人事件の被疑者(被告人、コリーニ)でしたが、その被害者は実は親友の祖父だった、と。これだけ読んで、てっきり刑事弁護人の立場からくる心の葛藤を描いたものだと思っていました(それにしては政治を動かしたとは…程度で)。しかし、読み進めるにつれ、それだけではないことに気が付きました。コリーニが頑なに犯行の動機を口にしない理由が何だったのか、法廷の弁論で漸く明らかにされます。まるで自身も傍聴人のように弁論に現れるストーリーにのめりこんでしまいました。
とりあえず、知識不足を感じたドイツ史を勉強しておきます。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ冒頭の方で「自死」というべきです。「自殺」ではありません。自分自身を死に至らしめることは殺人ではありませんから(弁護士ピーグラー)という箇所があるが、日本ではほぼ同義に使っているが漢字を帰るだけで印象が変わると感じた。
「わたしは死にたいのです。」(ゲルトナーの意思)
「生きていたくないからです。」(それは何故か問われたゲルトナーの回答。)ここは死にたいという意思を言い換えているだけの印象をこの時点では持った。
「孫のことは愛しています。しかし、孫がはたして理解してくれるかどうかわかりませんが、エリザベートが死んでから、わたしは半身をもがれたような感じなのです。(ゲルトナー)」他人同士が繋がりながら結婚生活によって到達した想い、日本人的な発想かもしれないが血を分けていても孫は妻より遠い存在か。他人同士が家族なり愛情なりを築き上げていくからこそ意義があると感じた一文。
「なにからですか?自分の命を絶つ権利は、いま申しあげたように人間の自由権です。(リッテン)」ここから、個々の命とはどこに帰属するのか議論が始まる。
「刑法というのは、わたしたちの生命を守るものだと思っていました。(ケラー)」ここについては命を絶ちたいという意思も含めたものなのか?自死は認めないというスタンスなのか?歴史上、法が命を守るというのを過信するのは難しいのではないか。
「価値のない命」というナチスの言葉について、ドイツにおけるナチスの呪縛を感じた。意思にかかわらず殺すナチスに対して、意思を持って自身ではなし得ない死を他者になすよう望むのがここでの議論のそうてんではないか。
「老人は負担だ。金がかかりすぎる。資源を消費する。もう充分生きたじゃないか。(略)」ここは邦画のプラン75に類似してると感じた。日本人もドイツ人もある意味、命ですらコストのように扱うことがあるのだなと感じた。
「ナチによる犯罪は小さなところからはじまって肥大化した。最小限は医師の基本姿勢をさりげなく変化させただけだった。生きる価値がない状況が存在するという安楽士運動の基本的な考え方のニュアンスを変えていった。初期段階では重病者と慢性病者だけが対象だったが、範囲が徐徐に拡大され、社会的に生産性のない者、イデオロギー的に望ましくない者、人種的に歓迎されざる者が加えられていった」生きる価値とは個人が決めること、他者が決めるものではないと思った。しかし、人は田車に対して不寛容になりつつあるいま、また、おなじ過ちを犯そうとしていないか?
「市民はみな、自分の好きなものを信じていいということです。人間はなにを信仰し、どういう世界観を持っても言いのです」西洋社会は圧倒的キリスト教社会と思ってたので少し驚いたが納得。また以下のリッテン(法学の参考人)の言葉に共感。「全体主義国家は自らを絶対だとみなします。自ら以外に真実はなく、国家はそれを実現するものだと。戦後、ドイツ基本法を生み出した人たちはそれを否定したのです。すべての法律と仝ように、憲法もまたアクニ感染しやすく、欠点があると彼らはしむていました。国家の秩序に完璧はないのです。人間のすることには限界があると自覚すること、それが謙虚さのあらわれなのです。ですから、憲法の前文に神が言及されているわけです。」神は人の良心に訴える存在?ティール(神学の参考人)は「古代から啓蒙主義の時代にいたる二千五百年間、自分の命を絶つという暴力的な行為は一貫して否定されてきました。(略)キリスト教かいは社会において、いまでも監視役なのです。」切腹や殉死などがあった日本と相違?!以下のティールの言葉にはポピュリズムへの問題提起を感じた。「役に立つかどうかで命を落とす天秤にかけるなら、じきに「健全な国民感情」がもてはやされ、わたしたちの社会に望ましくない人たちが特定されることになります。身体障害者、うつ病患者、高齢者、愚鈍な人。ダムが決潰する恐れはすでにているのです。」「自然死は生きることとセットです。それを奪ってはならないと思います。」
「わたしたちの命は自分ひとりのものではないということになりますね?」(ケラー 倫理委員会委員) 一人でいきているわけではないから出てくる。一方でティールの「士民には保護され、尊厳をもって歳をとり、死んでいく権利があるのです。」という言葉に、例えば発狂した姿ではなく、自分らしさ、自分の望む自分の姿で死にたいという意思の肯定も感じ、共感した部分。ティールは神学者らしく「命は神の賜であるとされたのです。生きるか死ぬかを決められるのは神だけということです。」とも語っている。個人的には日本人なので神のところは「御先祖様」と考えたほうが腹落ちした。
また、戯曲らしい極論として面白かったのは、ビーグラー(弁護士)の「幸福を追求し、苦しみを避けようとするのは人間にとってただしいことではないですか?それは人間の本性ではありませんか?(略)司教。人間が苦しむのは無意味ではありませんか?」とそれに対するティールの「いきることは苦しむことです。」という対極のやり取り。現実はこの中間といったところか。生きるというやり取りに対し、安楽死を望むゲルトナーの「ひとたび死んでしまえば、何もかも残りません。暖かいところも、すてきなドレスやきちんとしたスーツも。死の床には自分以外なにも持ってはいけません。」という言葉からは物質は無理でも愛した感情、心はその身に宿したまま死ねるという思いも感じた。
「わたしたちの命は誰のものなのか?」「みなさん、わたしたちのしは、わたしたちのものでなければ、イッタイだれのものなのでしょうか?」個に帰属してきたものとはいえ、生かされているということを忘れてはいけないと感じた。
ハルトムート•クレスト
「自尊心が傷つけられ、尊厳をもって死ぬ権利が毀損されると見ているのだ。こうした人々は、矛盾をはらんだ死のプロセスを避けるために、医師といったしかるべき人による自死の介助や最期の看取りを求めている」
◎「孵化に耐えうる答えを、わたしたちはまだ持ちあわせていないといえるだろう。生きる喜びや生きる意味を高齢になってもいかにイジするか、また、それが失せたときにどうするかといった、長寿との付き合い方を、甥も若きもまなばなければならない。」これからの大きな仮題