大澤真幸のレビュー一覧
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資本主義の「暴力」とか、「必然」なんてタイトルだったら買わなかったと思う。惹かれたのは「謎」というタイトル。帯に挙げられている「謎」は次のようなもの。曰く「なぜ西洋で誕生したのか」、「法人の起源はどこにあるのか」、「利子率革命とは何か」、「成長なき資本主義は可能なのか」。
ぼくの浅薄な知識によれば、最後の「謎」には「否」と即答することになる。但し、門外漢のぼくが即答するようなレベルのことが、わざわざ「謎」として例示されているはずもない。「もしかしたら可能性があるのか?」という興味から購入。
読み終えてみると、高校時代に読んでいたら経済学を志したかもしれないと思うほどに面白かった。あるいは、面白い学術系書籍によくあるように、読者のもつさまざまな学習体験とうまくリンクすることで一層面白く感じられる本に仕上がっているということなのかもしれない。
個人的には前半の歴史的システム的考察がとくに面白かった。影響されて理論史系の本をたくさん買ってしまった。またひとつ、ぼくに新たな楽しみを与えてくれるきっかけになった本。 -
Posted by ブクログ
近年、著者が巡らせてきた様々な哲学的論考(『不可能性の時代』、『ふしぎなキリスト教』など)を切り口に、3.11を読み解いた作品。著者独特の表現が多用されていること(「第三者の審級」、「アイロニカルな没入」など)も踏まえると、はじめて著者の本を手に取る方には難しいような気もします。
論考の中身も、キリスト教の終末思想や、ノン・アルコールビールの思想などをむりくりに3.11に結びつけて語っているようなところもあります。私個人としては『不可能性の時代』を読んだ時に感じた衝撃(特に秋葉原の事件を切り取る社会学的視点に驚いたわけですが…)は感じることはなかったのでした。期待が高かったといえばそうかもしれませんが…。
それにしても、3.11を契機に何かがもっと大きく変わる気配が合ったのですが、いつの間にかそれもしぼんでしまった感じがするのは私だけではないと思います。見て見ぬふりをしてきて、技術的な出発点は同じである原子力を、原爆という形で恐ろしさを知っていながら、原発を抱え続けたこの国のこれまでの道を、どのような視点から見つめなおすべきなのか。その最初の一歩でもあるような気がします。タイトルにある「深い覚醒」はまだ先だとも感じました。 -
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「家族ゲーム」松田優作、食事のシーン、テレビ
V 不可能性の時代
3 反復というモチーフ
「終わり」の回復
このようにして第三者の審級を逆説的に回帰させることによって初めて、偶有的であった選択に関して、「必然性」の感覚をもつことが可能になる。選択したことに関して、「これでよい」「これしかない」という感覚をもち、それを引き受けることができるようになるのだ。 p.213
VI 政治的思想空間の現在
1 「物語る権利」と「真理への執着」
「物語る権利」と「真理への執着」
「物語る権利」を擁護するのは、典型的には、多文化主義である。「真理への執着」として現象しているのは、たとえば、原理主義だ。 p.221
原理主義の「真理への執着」は、あの「現実」への衝動と、指向を共有していないだろうか。少なくとも、「現実」への逃避は、物語=虚構からの逃避、つまり多文化主義が「真理」の代わりに置いた多様な物語からの逃避である。それは、物語へのーーそれぞれが抱懐する世界がただの虚構であることへのーー根本的な欲求不満の表現だ。前衛的な哲学や思想においてすら、「現実」への衝動が支配的であったことを思うならば、多文化主義の優位は、一見そう思えるほどには自明ではない。 p.221-222
5 無神論への突破
憎悪における愛
逆に、もし「完全に均整の取れた美人」がいたとすれば、「とても知的で道徳的にも完全な男」がいたとすれば、彼/彼女はどこか魅力を欠き、情熱を引き出すきっかけや手がかりをもたないという印象を人に与えるのではないか。つまり特異的な欠点がない者を、われわれはかえって愛することができないのだ。 p.259
それゆえ、こう結論できる。憎悪と完全に合致した愛こそが、つまり裏切りを孕んだ愛こそが、われわれが求めていた普遍的な連帯を導く可能性を有しているのではないか。ところで、これこそ真の無神論であろう。正義を基礎づける「超越的な第三者の審級=神」が与えられているなかで、その神への愛を神への裏切りーー神の存在の否定ーーと等値することが重要だからだ。 p.264
結 拡がり行く民主主義
活動的な民主主義は小さい?
神的暴力の要諦は、神の無能を、つまり超越的な第三者の審級の不在を引き受けることにある。だとすれば、現代社会は、神的暴力にとって好機であると同時に、障害でもある。 p.272
統治者と被治者の厳密な同一性によって定義できるような、活動的な民主主義こそ、神的暴力の理念の直接の具体化である。
だが、しかし、ここで、われわれは、技術的な困難にぶつからざるをえない。このような意味での民主主義は、ごく小さな集団、ごく小規模な共同体においてしか、実現できないように思えるからである。集団の規模がある限度を超えると、被治者の意思は、不透明なものとなる。あるいは、多様な意見や価値観、利害関心を有する多数の個人を内部に含むがために、そこに被治者の統一的な意思を見出すことが不可能になる。その結果、被治者である人民とその意思が、その実際とは独立に実体化されることにもなるだろう。言い換えれば、「人民」が(現実の人民とは独立の)第三者の審級として機能し始めるのである。このとき、特定の指導者や特定の機関(たとえば党)が、われこそは「人民」の代理人であると僭称し、あるいは自分は「人民」の純粋な手足、純粋な道具であると宣言し、人民を支配することが可能になる。
このように、統治者=被治者の関係が成り立っていると見なしうる民主主義は、小規模でローカルな共同体においてしか成り立ち得ない、と一般には考えられている。 p.273-274
※パットナム、草の根民主主義、ソーシャル・キャピタル、日常的な社交で維持される、…
※東浩紀『一般意志2.0』出版に際しての佐々木俊尚氏との対談(現代ビジネス Ustream)の問題意識とほぼ同じ。
民主主義への希望
小規模で民主的な共同体が分立しつつ、他方で、それらのどの共同体にも、外へと繋がる、外の異なる共同体(野メンバー)と繋がる、関係のルートをいくつかもっているとしよう。そうすれば、共同体の全体を覆う、強力な権力などなくても、何億、何十億もの人間の集合を、個人が直接に実感できる程度の関係の隔たりのなかに収めることができるのだ。この直接の関係の上にこそ、述べてきたような活動的な民主主義を築き上げることができるのだとすれば、市民参加型でありつつ、なお広域へと拡がり行く民主主義は十分に可能だ、ということになるのではあるまいか。 p.283-284
※一般意志2.0、Twitter、Facebook
※ペシャワール会、現地へ行く、近づく、河野義行氏、松本サリン事件の被害者、オウム信者と交流、「ランダムな線」は敵対しあっている者同士の間にもひかれうる、希望
30分で読んだ
メモ10分 -
Posted by ブクログ
[ 内容 ]
グローバル化は地獄への道だ。なぜ私たちは受け入れるのか?
いま必要なのは、力もない、地位もない、排除された人を社会の代表とみなし、日本の民主主義をつくり直すことだ。
いまこそ、先の見えない時代を打ち破る“ユートピア”を!
そう、未来を決して諦めず、“理想”を取り戻す時である。
[ 目次 ]
第1章 北朝鮮を民主化する-日本国憲法への提案1
第2章 自衛隊を解体する-日本国憲法への提案2
第3章 デモクラシーの嘘を暴く-まやかしの「美点」
第4章 「正義」を立て直す-「みんなのルール」のつくり方
第5章 歴史問題を解決する-隣国とのつきあい方
第6章 未来社会を構想する-裏切りを孕んだ愛が希望をつくる
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ] -
Posted by ブクログ
[ 内容 ]
いま戦後思想を問うことの意味はどこにあるのか。
戦後民主主義を潮流とする戦後知識人の思想は、アメリカを中心とする世界システムのマージナルな部分として位置づけられた戦後空間のなかで醸成された。
だが、70年代を転回点にして、アメリカの善意を自明の前提とした構造がもはやリアリティを失いはじめているのは明らかだ。
西田幾多郎、田辺元の京都学派や和辻哲郎などによって唱導された戦前の「近代の超克」論を検証し、ポストモダンから「戦後・後」の思想へと転換する戦後の思想空間の変容を、資本の世界システムとの関連において鋭く読み解くスリリングな戦後思想論講義。
[ 目次 ]
第1章 戦後思想の現在性(なぜ「戦後」を語るのか 戦争と敗戦 戦後知識人とアメリカ 1970年代の転換点)
第2章 「近代の超克」とポストモダン(脆弱な天皇 資本主義とその挫折 「近代の超克」論 天皇制ファシズム)
第3章 戦後・後の思想(記憶の不在 戦後・後思想概観 消費社会シニシズム ガスについて 自由の条件の探求に向けて)
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[ 参考となる書評 ] -
Posted by ブクログ
この本の時代区分をすれば、
1.戦後〜70年代「理想の時代」
2.70〜80年代「虚構の時代」
3.90年代「リスク社会」(=大澤『虚構の時代の果て』(ちくま新書、1996年)
4.2000年以降「不可能性の時代」。
って感じになるのかな。
どちらかというと、「理想の時代」から「虚構の時代」までが説得力を持つが、これは後付論であるし、基本として見田宗介の論を敷衍しているから、まあ、定着した当然の道筋のような気がする。
全体としては、「腑に落ちた」感が少なく、ここのところの社会の「不全感」が「不可能性の時代」にネーミングされちゃうのは当然過ぎてオドロキがないと、思ったり。
それでも、本旨とはあまり関係ない2、3箇所が気になったり、感心したりしたので引用してみる。
1.リスク社会
「(リスク社会は)システムの再帰性の水準が上昇し、システムにとって与件とみなされるべき条件が極小化してきた段階の社会である。このとき、ときに皮肉な結果に立ち会おうことになる。リスクの低減や除去をめざした決定や選択そのものが、リスクの原因となるのだ。たとえば、石油等の化石燃料の枯渇はリスクだが、それに対処しようとして原子力発電を導入した場合には、それが新たなリスクの源泉となる。あるいは、テロへの対抗策として導入された、徹底したセキュリティの確保は、それ自体が、あらたなリスクである。このように、リスクそれ自体が自己準拠的にもたらされるのである」(P.132)
リスク社会の、二律背反をここではよく分析されていて、リスク社会の予想されている「リスク」は極めて大きく、破壊的な結果をもたらすことと、しかし、そのリスクは判定不能であること、リスク社会におけるリスクに対しては中庸と言う対策が効果をもたず、全か無かの極端な選択をせまられること。
さらに、リスク防御のための行動がすべてまたあらたなリスクになりえること。 それを「自己準拠的」というコトバでまとめている。
2.ポストモダンにおける自由の規範化について
「かつて、自由とは、第一義的には規範からの自由であった。言い換えれば、規範は、第一義的には禁止であった。そして、快楽は、規範への侵犯の内に宿るものであった。たとえば、婚前前の性交は、禁止されていることによって、快楽の度合いを高めたのである。だが、今や、こうした古典的な関係が逆転してしまった。自由そのものが規範化されてしまっているからである。そして、まさに規範と合致したその行為が快楽そのものでなくてはならないからである」(P.142-143)
卑近な例をだすと、自由恋愛は快楽そのものじゃなくてはならないとか、愛のあるセックスはすべて快感じゃなければならない、というような規範に私達は脅かされすぎてはいまいか。逆に言えば、快楽のない恋愛には愛がない、快楽をともなわないセックスはセックスではないというような。
自由が規範化される、というのは、自由に選択したはずだから、楽しいはずだという強迫観念のこと。自由業は必ず楽しいか?
3.不可能性の時代
「『現実』から逃避するのではなく、『現実』へと逃避する者たちがいある。現代社会を特徴付けているのは、伝統的な前者(「からの逃避」ではなくて、後者(「への逃避」)である。この場合、『現実』というのは、日常のそれではない。それは現実の中の現実というべきもの、つまり激しく、ときに破壊的である現実である。現代の大衆社会の中では、このような破壊的な『現実』への嗜好や期待が、広く共有されている」(P.218)
確かにつねに論者達は、悲観的なトーンをもって、現代社会(や日本)が破局へと傾斜していく、と警鐘をならしている。まるで「破局」を待ち望んでいるかのように。
その欲求とはいかなる精神的バックグラウンドをもっているんだろうか。
4.ムーゼルマンの境位
「アガンペンは、強制収容所のユダヤ人たちを特徴付ける基本的な感情について述べている。それは羞恥である。(中略)
羞恥とはなんであろうか?(中略)わたしが恥ずかしさを覚えるためには、まず、それは私自身だ、と見なす他ない内密なものが暴かれ、<他者>に現前している。たとえば、この裸は私自身である、と。同時に、―それは私にとって奥深く親密なものであるにもかかわらず―私はそれを引き受けることができないとも直観している。要するに、私にとって徹底的に内密なものが、究極の疎遠性を払拭できないままに、<他者>のまなざしにさらされているとき、私は恥ずかしいのである。収容所のユダヤ人たちは、ムーゼルマンとしての己の身体が、そのような内密性と疎遠性を同時に備えていたのではないか」(P.245-246)
羞恥には「疎遠性」と「内密性」の双方が必要とされる、というのは、言われてみりゃ当然でも、実は目からウロコである。自分がゲイであることを認められなかった時は、それは羞恥であった。バレることは何よりも恥ずかしかった。自分そのものでありながら、もっとも自分が疎遠にあつかってきた部分。自己であり他者であるような。あるいは他者の中に認めがたい自己を見るような。ホモフォビアとは羞恥の別名である。
そうした「羞恥心」というものが、「ムーゼルマン」(=収容所のあまりに過酷な環境の中で、人間性の零度まで到達したユダヤ人)、すなわち、気力も体力も感情も失って、一切人間的な感情を示さなくなった人々から、唯一取り出しえる感情というのは、一体どういう摂理によるものなのだろう?
大澤は実はここに究極的な絶望を見るほかに、われわれに内在する普遍的・偶有的な可能性を見ている。
4.「不可能性の時代」の希望
「愛は、特定の<他者>を囲い込む、排他性を持たざるを得ない」
「愛と憎悪は随伴関係にあるのだが、極限のケースにおいては、愛の対象と憎悪の対象とがまったく同一の<他者>になりうるのではないか、と」
「人は特定の身体や装置に具体化され尽くされない不定の他者に見られている―見られたい(※羞恥)という感覚を持っている。この不定の他者への感受性を帰結する作用と、愛の内に憎悪(の萌芽)を孕ませる作用とは、まったく同じものである」
「それゆえ、こう結論できる。憎悪と完全に合致した愛こそが、つまり裏切りを含んだ愛こそが。われわれが求めていた普遍的な連帯を導く可能性を有しているのはないか」(P.260-263)
この本の結論部である。
排他性をともなう愛よりも、憎悪の方が排他的側面をもたない。だからこそ、普遍的であり、遠いものとも連帯ができる、という(かなり乱暴な要約だが)結論である。アクロバティックのように見えるが、大澤はそこをホッブズ、ベンヤミン、ジジェクなどを引きながら、論証していく。
愛より憎悪の方が開かれているっていうのには、ある一定の説得力はあるんだけれど、憎悪によって暴力をともなわない「連帯」が可能かどうかは自分にはわからない。確かにもっとも敵対しなわなければならない相手にこそ、最も多くの関心を払ってしまう、ということはある。ペシャワール会にしろ、オウムの被害者河野義之氏にしろ。しかし、その前に「憎悪」を暴力に結び付けない、何がしかのコントロール装置が必要なのではないか。
好きな相手のことよりも、苦手な相手のことを常々考えてしまい、結果的に、「自省」を生み出してしまう時のような。
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Posted by ブクログ
この本は戦後日本が、理想→虚構→不可能性 の時代という変遷をたどってきているという主張をしていて、今は不可能性の時代と呼ばれるらしい。所々自分たちになじみの具体例についても言及されていてとてもおもしろかった。酒鬼薔薇聖斗の事件やオウム真理教、ニコニコ動画やオタク、オタクの漫画やアニメ、エロゲなどについても触れられていて、そのいろいろな社会現象に大澤なりに意味を与えていた。最後の結論の部分でネットワーク理論という理系の学問分野を利用して締めていたのが新鮮だった。言葉の綾の空虚な胡散臭い学問になりがちな社会学に科学という裏づけをしたのが面白く、新鮮だった。
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Posted by ブクログ
2008年4月に発売された本だからかなり新しい。戦後から、理想の時代、虚構の時代と進んできて、現在の不可能性の時代に至るという話。なんだか、ところどころうまく身に入らない部分があって、著者に付いていけてないと自ら感じたりする時もあったが、以前この著者が書いた本に関連づけて考えると非常によくわかる部分がけっこうあったため、たぶん、大澤真幸の今までの本とかをだいたい読んでたら、もっとよく身体化されるのだろう。とても興奮した。特に、酒鬼薔薇聖人のくだりと、最後らへんの思想分析の部分が、大変おもしろかった。大澤真幸を読んだことのない人でも楽しんで読める本だと思う。色々なアイディアや興味深い社会的事件が本の中に散りばめられていて、知的興奮を与えるだろう。2008.7.9-11(3d).