大澤真幸のレビュー一覧
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p.53
「いま現に「私がそれであるだろうものである」(je suis celui que je serai)」のは「それではないという仕方において」(sur le mode de ne l’être pas)のことである。つまり、私はいつでもそれでないものでありうる。「それでないという仕方でじぶん自身の未来であるという意識」(la conscience d’être son propre avenir sur le mode du n’être-pas)こそ、私たちが不安と名づけるものにほかならない。」
→前回の大森荘蔵『流れとよどみ』でも取り上げた「それでない道を選ぶことができたという事実により生じる責任・後悔」という主張がここでは不安概念に適用されている。文筆家かつ哲学者であるサルトルの文章はやはり一級品で、「それでないという仕方でじぶん自身の未来である」という表現が非常に美しい。
p.183
「私は自由である。しかし、自由であるのを止めることにかんしては、自由ではない。(…)人間はときに自由であり、ときに自由ではないことができない。「人間は、全面的につねに自由であるか、あるいは存在していないか、のどちらかである」(…)。対自である「私」の自由は、かくてその存在そのものであり、存在と同義であるような呪縛となる。その意味ではたしかに、私は自由であるべく呪われている。私は存在するかぎり、自由なものとして存在するほかはないからだ。」
→とすると、「それでない道を選ぶことができる」という点で自由が呪いとして存在している限り、不安・後悔・責任も呪いであるということか。また呪いとしての自由が奪われている人々はどうすれば呪われることができるのか?呪いであると同時に祝福でもあると主張することは可能か? -
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私的な富は、他者との関係において意味を持つため、希少なものとして存在しており、交換価値を持つ。たくさんあったものが少ないものへと転換すると、私的な富は増えるが、公的な富が縮小したことを意味する。公的な富と私的な富は、負の相関関係にある(ローダーデールのパラドクス)。
新しいアイデアや発明は既存の支配機構を脅かしたり破壊したりする可能性があるため、支配者が嫌う傾向にある。そのため、包摂性が乏しく収奪的な政治制度は、十分な経済成長をもたらさない。
資本主義の競争の中で後発的なグループにある国民国家は、経済的な豊かさを確保しようとすると右派ポピュリズムに基づく権威主義的な体制に近接していく。例として、2010年以降オルバン首相が独裁的なリーダーシップをとるハンガリーがあげられる。
資本主義は、不均質性を必要としており、時には政治的な権力や軍事力を用いてそれを維持したり、創出されることがある。したがって、グローバルな市場は、周辺化されたり抑圧されたりしている人々を生み出すことになる。彼らは、その境遇を特徴づけるナショナルやエスニックや文化的な特殊性に同一化して、特殊な属性に自らのアイデンティティの拠り所を見出すことになり、結果として分断をもたらす。
暴力的な政治運動よりも、非暴力の運動の方が、成功率は約2倍高い(チェノウス)。人口の3.5%以上が動員された運動で失敗したものはひとつもない。
トランプ支持者は、トランプの欠点や否定的な性質にこそ同一化し、愛着している。そのため、トランプを貶めようとするリベラルなコメンテーターの発言はかえって反発を呼び、トランプへの支持を高めることになる。また、トランプのリベラルな人に対する顰蹙を買うようなふるまいや、不適切な言葉を使った発言は、支持者に対して自分たちの仲間であることを示す強いメッセージとして機能した。
1990年頃までの資本主義と異なり、サプライチェーン型のグローバリゼーションに基づく資本主義は、先進国の中産階級だけが所属が伸びない仕組みになっている(ミラノヴィッチ)。そのため、格差が急激に拡大する。
寛容な社会、許容的な社会という理念の極限には、一切の道徳の効力が停止する状態、すべての道徳から解放された状態が待ち構えている。したがって、リベラルの多様性・公平性・包摂といった理念は、道徳の不在の不安という疑念を生む。こうした不安を抱くものは、寛容や許容の中で消滅しかけている保守的な価値観、古き良きコモンセンスを称揚し、リベラルの理念に対置する。その道徳や規範が時代遅れのものと感じる保守派は、リベラルが成しとげようとしていることをただ否定することになる。 -
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「動物化するポストモダン」を思い起こさせるアニメ・映画を題材とした論評含め、各論は面白い。ただ、月刊誌連載した論評をまとめたものなので、全体としてのトピックのまとまりには欠ける。勿論、重要な関連性もあるのだが、個人的にはもう少し主題が絞られていた方が◯
・グローバルな資本主義のもとで同時発生するナショナリスティックな権威主義。
・ガザの問題は植民地主義と民族主義という西洋の二つの罪悪を鏡映しにする。
・敗戦後日本の民主主義はGHQによって作られたものであるために、反植民地主義や反民族主義を真に内面化しトラウマを克服することなく、戦後を引きずっている。
・虚構の「セカイ」を描く日本人は、世界に対する直接的なコミットメントを持たない。「事実」とは区別される「真実」性とは、コミットメントによりもたらされる。一方で、現実に意味を与えるのも主観的な虚構でありナラティブという、ポストトゥルース的状況。
・啓蒙主義に基づく西洋近代思想の本質は自己批判性を備えること。しかし、封建制の歴史のあるヨーロッパと比べても西洋の「純化」とみなせるアメリカが、西洋の普遍的価値を否定している。
・もともとリベラルだったはずの層がテック右派やオルタナ右翼として共和党支持層へ鞍替えしているが、そこにはリベラルが推進する「寛容な社会」の先に予感される道徳の真空地帯への恐怖がある。許容性の拡大は、伝統的な道徳から離脱していくプロセスでもあり、その結果、排外主義や不寛容へと転じている。トランプ大統領はむしろリベラルの指向する姿の極限。
・こうして、資本主義経済下での中間層の没落を経験したアメリカは、基盤となるはずの自由や道徳資本の喪失、理念の揺らぎを経験している。
上記が特に重要/鋭い洞察と思ったポイント。一方で、他のレビューでも書かれていたが、「日本はかくあるべし」という論にはあまりにも現実感が感じられない。なぜなのか。 -
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タイトルからは予想できませんが、これは日本史に関する対談本です。
一般に知られている歴史的事実をテーマにとりあげ、なぜそうなったのか?を語り合うのだけど、著者ふたりが詳しすぎて、「一般的にはこうだけど」の部分が既に初耳ということも少なくない。
詳しい人が読んだらもっと楽しめたと思う。
たとえば、
・日本の親族構造は父系とも母系ともみなしがたい、太平洋諸島と共通するもの。
・縄文文化もシベリア方面から来たと思われるが、南方の要素もある。
・日本語も、文法は北方系だけど、母音は南方系。
・これらを見ると、誰かがまとまってやって来てほかの連中を追っ払った、ではなく、いろんな人々がやってきて時間をかけて混ざり合った、ということ。
・縄文文化ですでに、決定的な対立を回避しようとする文化があった。
みたいな、例えばそういう話。
聖徳太子が「和をもって尊しとなす」と言ったからそうなった、みたいなことやないよー、と。
読んでてもっとも「なるほど」感があったのは、幕府はなぜ(やろうと思えばやれるのに)朝廷を倒さなかったか。
政治的判断、損得の勘定を超えた、日本人の根本的価値観や、日本人の無意識下の「統治の正当性」とは。 -
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『(前略) その大澤さんが、やっぱりキリスト教だよ、と言う。キリスト教を踏まえないと、ヨーロッパ近現代思想の本当のところはわからない。現代社会もわからない。日本人が、まず勉強すべきなのは、キリスト教ではないだろうか。
まったくその通り!と私も思った。
「キリスト教入門」みたいな本なら、山ほど出ている。でもあんまり役に立たない。
「信仰の立場」を後ろに隠して、どこか押しつけがましく、でもにこにこ語りかける。さもなければ、聖書学あたりの知識を、これならわかるかねと上から目線で教えをたれる。
人びとが知りたい、いちばん肝腎なところが書かれていない。根本的な疑問ほど、するりと避けられてしまっている。
そこで大澤さんと相談して、対談が実現した。ボケとツッコミの要領で、ふつうのクリスチャンなら怖くて言えない話題もとりあげた。「信仰の立場」を尊重しつつも、自由にそこから出たり入ったりする、「社会学的な」議論をくりひろげた。』(p.345橋爪大三郎あとがき)
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「旧約聖書を知っていますか」
「新約聖書を知っていますか」
阿刀田高著
「名画と読む イエス・キリストの物語」
中野京子著
と本作の四本立てで読むと、キリスト教界隈さっぱりちんぷんかんぷん勢でも、ザザザーッと雑ながら頭の中にキリスト教界隈モノサシが備えることができるかも。
そして、宗教や信仰としての話だけではなく、人間が生きる世界を見つめる違う目線が一つ、いや複数増える。と思う。
※ちなみに私はクリスチャンではありません。
※ゆえにキリスト教布教目的の推薦でもありません。 -
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まず社会学とは何??って知識レベルから読み始めたので、社会学がどういう学問か知れただけでも収穫アリ。
実はSNS上で見る社会学者さんたちの発言に首を傾げることが多くて、じゃあ彼らの研究している分野ってどういう学問なの?という疑問がすごく強くあったので。
宗教や王の立場が強かった時代が終わってから社会学という概念が生まれた、というのはなるほどなーという気づきでした。
確かに言われてみれば、自由意志のある個体が強い支配を受けてるわけでもないのに勝手気ままやりすぎずちゃんと「社会」をやってるのは不思議なことだし、どうしてそれが成り立ってるのかは研究の余地があるんだなぁ。 -
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まず、まえがきにやられる。
1ページ目から、なんとも刺激的な問いかけである。
「日本社会には、革命と見なしうる社会変動がなかった。革命の不在は、日本の歴史の特徴である。/・・・いや、実はそうではない。よく目を凝らして見るならば、一度だけ成功した革命があったことがわかる。一人だけ、成功した革命家がいたのだ。」
日本の歴史上、革命家という言葉のイメージに最もよく重なるのは、織田信長だろう。しかし、彼の革命は、道半ばで途絶えた。
では、明治維新や大化の改新はどうか。これらは確かに、革命的な政変ではあったが、どちらも大きな外圧に対して起きたのであって、ここで扱うのは国民の内発的なきっかけで起きた革命に限る(太平洋戦争敗戦後の民主化を革命とは呼ばないのと同じ)というのだ。
そこまで話を限定して、日本史上唯一の革命とは何であったか。
その答えは、いささか意外なものだった。
その答え以上に面白いのは、革命が起きる精神性、その成り立ちについて、西洋、中国そして日本を比較し、日本では革命が起きにくく、西洋や中国では革命が成就する理由を、ひとつの理論の中で説明しようとする試みである。
構造主義的で、刺激的な、知的論考。