Posted by ブクログ
2015年10月24日
対談本という性質上、ある事柄について体系的な知識を学べるというようなものではなかったが、憲法学者と社会学者が、特定のテーマについてそれぞれの専門分野からの知見を述べ合っており、刺激的な内容だった。政治や法律に関心のある人なら何かしらの考えるヒントが得られるはず。
個人的にこれはと思った部分を以下に...続きを読む引用する。
木村「憲法研究者ではない一般の人から見れば、憲法というのは国の物語の象徴としての役割のほうが重要なのではないかと思います。それがどのよに誕生したのかという物語と不可分に結び付いている。……ところが、日本国憲法の場合には、大多数の国民が共有できるような、よりどころとしての具体的な歴史的物語がない」(pp58-60)
大澤「日本国憲法の原点には、敗戦がある。それは、敗戦から始まる物語にならざるを得ない。ところが、先ほど述べたように敗戦を否認しているために、物語にならないのです」(p61)
木村「表現の自由が萎縮しやすいのは、表現の自由には、それ自体に対価がないからということになりますね。……しかしながら、人々の発する情報が自由に流通することによって、社会全体のレベルでは利益を得られます。個人が表現するということは、自分の利益ではなく、社会の利益を実現するための贈与としての性質があり、そこに社会的価値がある」(pp86)
木村「……ヘイトスピーチにはグノーシスのようなものも感じます。……グノーシスをどう理解するのかというのは、それ自体すごく難しいのでしょうが、私が注目しているのは、「現に流通している標準的な世界観はすべて間違っているのであって、自分たちだけが真理を知っているのだ」という一種の秘教主義、選民思想的な部分です」(pp110-111)
木村「〔集団的自衛権の〕賛成派は、アメリカに見捨てられたら日本はやっていけないから……集団的自衛権をもとうという。それに対して反対派は、集団的自衛権を認めたら戦争に巻き込まれるからだめだという。激しく対立しているようでいて、いずれの議論も利己的である点は同じです。どちらも国際公共価値には目を向けていないわけです」(p171)
大澤「「日本の国益のために」という論理は、本当はまだ、理性の私的利用の範囲なんです。……究極的には、国の振る舞いも、理性の公共的使用という観点から考えるべきだと思っています」(p180)
木村「〔命令委任の禁止について〕そもそも何のために独立して判断しなければならないのかというと、単なる地域の代表としてではなく、全国民の代表として、日本全体の公共的な価値を実現するためです。そうした地点から議論しなければのらないのに、それがないままに命令委任から解放されてしまうと、国会内論理みたいなものに突き動かされてしまう」(p201)
大澤「理性を公共的に使用せよ、といったところで、何が公共的な判断なのかは本当はわからないわけです。公共的に使用されたりせいがどう判断するかは、結局、不可知のままだ。とすれば、そもそも、公共的な判断などというものはないのだ、と開き直ってはいけない。内容は定かでなくても、公共的な判断は必ずある、と想定することが重要です」(p261)