Posted by ブクログ
2009年10月04日
難しい。
民主主義はふつう「支配が、被支配の合意によって正当化されており、それゆえ、それは、治者と被治者の同一性が実現していると―つまり人民による人民の自己支配の形式だと―見なすことができる」(p103)と理解されている。
しかしこれを大澤は「便利な嘘」だと喝破する。井上達夫の指摘によりながら「...続きを読む民主制は、多数者による少数者の支配の制度化であって、決して、すべての被支配者の合意によって支えられているわけではない」(p103)と述べるのである。
では民主制のメリットとはなにか。
すなわちそれは「社会内には、多様な利害や価値観がある。民主制は、それらの利害や価値観の存在と自己主張を許し、むしろ奨励さえする。非民主的な体制にあったように、ある種の利害関心や価値観をア・プリオリに抑圧したり、排除したりする、ということがないのだ。民主的な政治過程の核心的な特徴は、合意の創出にあるのではなく、非合意の可能性を留保している点にこそある、というわけである」(p103)
もうなんか、「ガーン!」という感じである。なんという発想の転換。
そのうえで大澤は、果てしない議論とも、異者の排除とも異なった形での、民主制が創出しうる「普遍的な公共性」とは何か、というところへ思考を進める。
「普遍的な公共性」とは何か。すなわち「制度化された社会秩序の中で位置づけをもたず、公認の誰の意思をも直接には代表しない、排除された他者を、普遍的な開放性を有する社会の全体性と妥協なく同一視してしまうこと」、それがすなわち「来たるべき民主主義の基本的な構想である」(p233)とするのだ。
ちなみに「排除された他者」として具体的には、磔刑死したキリスト、あるいは、95年米兵に暴行された少女を挙げている。
もうなんか、すごすぎてどうしたらいいのかよくわからないが、単純に「本当にそういうことができるのか?」という疑問しか湧いてこない。「排除された他者」をわれわれと同一視することは、大澤がいうところの「媒介者」を当事者と委員会(議会?)のあいだに介在させることで、本当に可能なのか…?そもそも「媒介者」の選択はいったい誰がするのか…?
まあしかし、僕の狭い読書量のなかでは、今まで触れたことのない民主制に関する議論であることは間違いない。衝撃的という意味で、確実に一読の価値を感じた本であった。