エミリー・ブロンテのレビュー一覧
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怒号や非難の応酬が飛び交う物語はまるで任侠映画だが主人公達は義理も人情もなくひたすら自己憐憫や恨みをぶちまける。突き抜けた自由さがこの小説の魅力の一つかもしれない。出生故とは言え異常に経済観念の発達したせこい復讐が長々と続き、アッシャー家の崩壊のような終わり方になるのかと思っていたところ、頑丈な彼が唐突に亡くなったと知らされるいよいよ終わりの部分で物語の雰囲気が切り替わった。次の世代では、負の感情が集約されたリントンが夭逝、つらい経験を経た、欠点もあるが優しい性格の2人が、復讐の呪いを振り切る結末は、それまでの話が暗かった分、大いに爽やかで心温まる読後感で、推理小説の意外な犯人がわかったようなカタルシス。
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ヒースクリフがイザベラを含めたリントン家での平和をかき乱し始める所からの下巻。
ストーリーの大筋はヒースクリフのキャサリン(母)との恋愛と破局、その復讐の物語だが、聞き手となるロックウッドか家政婦ネリーから聞く形式となっており、このネリーがいかにも偏見を持った語り口なのでその内容を鵜呑みにできずに読むという状況を作っているところが読者の想像力を要求しており面白い。故に読み手の考え次第では評価は大いに分かれそうです。
終盤でロックウッドが聞き手から物語に参加する可能性が示されたときは少しときめいたが、残念ながら空白の数カ月は意外な方向に展開して、しかも主人公とも言うべきヒースクリフの死が予告され困惑する。読み終えて考えるに1番座りのよいところに落ち着いた印象もあるが、亡霊に取り憑かれて絶食して死するヒースクリフの末路は強靭な肉体と精神を宿す者のはずなのに納得がいかない。
とはいえ何か余韻の残る読み応えのある作品と感じるのは巧みな描写、繊細な感情表現、時代を感じる設定などを味わえたことです。1847年作品とのことで、その当時を体感できる感覚は古い小説の味わいですね。 -
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第一章、ネリーに手紙を預けたヒースクリフが実際にキャサリンを訪れるシーンには圧倒されました。
ヒースクリフの心情描写がものすごく濃ゆくて濃ゆくて。
お互いからすべてを奪い合うような恋ってこういうことなのか。正気の沙汰じゃない。
そしてキャサリンが亡くなってからの転がり落ちるようなアーンショウ家の悪夢。エドガーも結局一度もキャサリンは振り向いてくれず、報われない男でしたね…。
なにより母のいない幼いキャシーが可哀想でしかたなかった。リントンもヘアトンもみんな蔑まれながら生きていて、読み進めるのしんどすぎ。
でもきっと、この物語はヒースクリフが最も気の毒な話なのかもしれない。
ーー世界全体が、かつては彼女がいたのにおれはその人を失ってしまったという、恐ろしい記録そのものなのだ。
っていう彼の言葉が悲しい。
終盤には希望がさし光があふれるようで本当に救われた。
ヒースクリフ、キャサリン、エドガー。嵐が丘に安らかに眠れって感じです。 -
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7年前のクリスマスに買って、それで満足しちゃって本棚にさしっぱ。
なぜかクリスマスが近づくと毎年そわそわ気になってたのですが、満を持して?ようやく上巻読み終えました。
イングランド北部、ヨークシャの荒野に立つ屋敷〈嵐が丘〉と、4マイル離れたスラッシュクロス屋敷の、2つの一族で巻き起こる愛憎劇。
時代を経て、新たにスラッシュクロス屋敷を借りようとするロックウッドが、ベテラン女中のネリーに寝物語のようにその過去を教えてもらうという回想形式です。
ヒースクリフがとんでもない奴だと思っていたのですが、なんのなんのやばいのはキャサリンでした。
破天荒というかメンヘラというかトリッキーというか、まぁそういう情緒不安定な高飛車な女の子。
でも、ヒースクリフと彼女との間にある目に見えない絆というか、イノセンスな感情がたまらなく私好みでした!
キャサリンが嫁いでしまっても、二人の間に永遠にあるもの。それは決して恋であるとか、べつによろこびであるとかではない。ヒースクリフはただキャサリン自身なのだ。
であるのに、彼はこんなこと知らないだろうし、絶対に聞かせてはいけないと言い切ったキャサリンの健気な、でも不器用な、女性らしい芯の部分もみてしまってむしょうに切ない。
対してヒースクリフが一体何を考えてるのかは分からなかったから、下巻ではやくそれを知りたい。
二人には幸せになってほしいのになぁ。 -
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ネタバレ途中で二代目のキャシーやリントンの振る舞いに辟易してしまい、読み続けるのがしんどくなったが……
それぞれに自分の境遇に対する不満や、それに伴う自己正当化があるのだろう。それをもとに展開される発言は、読み手に媚びずに登場人物たちを存在させる。(自分勝手で意地汚くて、結構ストレスにはなるけれど…) 人が人らしいのは、見られているという意識が感じられないからではないか。
はっとするほど印象的な、活き活きとした場面がある。多くはヒースクリフの熱のこもった多弁さが披露される時だ。この作品には、手放しで尊敬できたり好きになったりする好人物というのは存在しないが、すべての人物の運命を貫くヒースクリフが、やはり一番存在感がある。
結末にヒースクリフの血は残らない。幸福は彼を必要としなかった。同情の余地はないものの、さみしい。 -
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人間の心の底のマグマが描かれてはいる。ただやはり解説の内容から忖度しても、それは母国語で読んでこそ伝わってくるマグマであり迫力なのかもしれない。
非常にこなれた訳で読み易くはあるが、まどろっこしく無駄なセンテンスも多くあると感じてしまうのは、私だけだろうか…?傑作と呼ばれる小説ほど、長編であっても無駄なセンテンスが一切無く、繰り返し読めば読むほどに「この箇所はこういう意味、役割を担っていたのだなぁ…」といった発見があるものだ。
そして何より、初回に読み終わった時の衝撃といったら、計り知れないものがある。
そうした衝撃は、あまり感じなかった。 -
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ブロンテ姉妹の二番目エミリー(1818-1848)の唯一の長編小説、1847年。原題は"Wuthering Heights"で、直訳すれば「風吹きすさぶ丘」といったところか。これを「嵐が丘」と初めて訳したのは英文学者の斎藤勇で、中野好夫らの師にあたる。この訳語には、日本語読者の内にめいめいに或る荒涼とした風景を思い描かせるだけの力がある。それが読者にとって読書時間を過ごすことになるこの小説世界の舞台となるのだ。いつまでも継がれていくであろう名訳である。
近代英文学に、これほどスケールの大きな悲劇を描き切った、「悪」を造形し切った、小説があったことを初めて知り、読後しばし呆然とする。本作品には、個性的という以上に、各々がそれぞれの形で常軌を逸した激した性格を持つ者たちばかりが登場する。人間性が否応もなく歪められてしまった、狂気の持ち主たち。そんな彼ら・彼女らの愛憎劇である以上、それはどこか【運命】的な趣きさえ帯びた悲劇ではないか。
「やけっぱちの男にとっちゃ、こいつ[銃身に飛び出しナイフのついたピストル]はすごい誘惑さ、そうだろう? ・・・。そんなことはやめろ、と直前までは山ほどの理由を並べて自分をおさえようとこころみるが、どうしても行ってしまう」(ヒンドリー)
「あわれみなんか持たんぞ、俺は。これっぽちもな。虫けらがもがけばもがくほど、踏みにじってはらわたを出してやりたくなる性分なんだ」(ヒースクリフ)
「おれの血を引く者がやつらの土地屋敷の持ち主に堂々とおさまるのを見て、勝利を味わいたい。おれの子がやつらの子供たちを雇い、賃金をもらって先祖の土地を耕す身分に落としてやる」(ヒースクリフ)
「なにしろ、あいつ[ヘアトン]、自分の野蛮さを自慢に思っているくらいだ。動物レベルを越えるようなことはいっさい、軟弱でつまらんと軽蔑するように、おれが教え込んだ」(ヒースクリフ)
「自分[リントン・ヒースクリフ]の苦しみには同情でき、お嬢さん[キャサリン・リントン]にも同情してもらいながら、お嬢さんの苦しみには同情しようともしないのね」(ネリー)
「そんなことはわかっているさ。しかし、あいつ[リントン・ヒースクリフ]の命には一文の価値もない。そんなやつに一文だってかけるつもりはないね」(ヒースクリフ)
卑しい出自として虐げられた怨念とキャサリン・アーンショーに対する愛憎が、ヒースクリフをして憑かれたようにアーンショー家とリントン家に対する復讐劇へ駆り立てる。虐待に対する反発として、ヒースクリフは自らが虐待者となって帰ってくる。一方、彼の虐待によって自尊心を挫かれてしまった者には、虐待者に対して自発的に隷属してしまう奴隷根性が根を下ろす。或る人間の内に悪が植えつけられて悪魔的な所業を為し、それによって別の人間が人間的でなくなっていく描写は、実に濃密で息も詰まらんばかりだ。
「おれの宮殿をこわして、かわりに建てたあばら屋をあてがいながら、さも立派な慈善事業でもしたような顔をされても困るのさ」(ヒースクリフ→キャサリン・アーンショー)
「この世はすべて、かつてキャサリンが生きていたことと、おれがあいつを失ったことの記したメモの、膨大な集積だ!」(ヒースクリフ)
人間として【運命】的な内なる悪と、それが生み出す悲劇の普遍性を描いた作品であると云える。現代まで続く無数の通俗的物語の雛型となっているのも、その普遍性ゆえだろう。
河島弘美訳は、物語の激しさを損なうことなく、かつ実に読み易い。 -
Posted by ブクログ
英文学の講義を取っている。課題その2。
『嵐が丘』は子供向けにリライトされたものを読んだことがあって、キャサリンとヒースクリフの恋愛小説だとずっと思っていた。
のだが。
これ、恋愛小説?
二人の間にロマンティックな感情が介在するようにはとても思えないのだけど。いや、確かに強靭な絆は存在していて、二人は互いに互いの片割れという唯一無二の存在なのだが、その関係性が「あらかじめ与えられている」ように見える。いつから、なぜ、彼らがこれほど強く結びつくようになったのかが全く不明なのだ。恋愛小説の重要なファクタとして恋人たちの関係性の発展を描くという面があるはずなのに、そこんとこはまるっとすっぽ抜けている。常人の理解を超えてどこまでも惹かれ合うキャサリンとヒースクリフは、なんだか人間のように思えなかった。
さて、一旦気づいてしまうと、ほとんどすべての登場人物が人間とはかけ離れた動きをしているような気がしてきて困る。聞くところによると、『嵐が丘』は登場人物の誰にも感情移入できない名作として名高いらしい。それも頷ける。これでもかとばかりに強烈な喜びや憎しみが描かれるのに、その感情の発生メカニズムがほとんど見えてこないのが不気味でならない。奇妙な隔絶感をずっと感じていた。
下巻に入ると、第二世代が登場する。第一世代と同じ名前と気性を受け継いだ子どもたち。相変わらず行動原理がよく分からないままに愛し合い、憎み合う。与えられた人格が永遠に固定している。持ち主のいない激情の塊がただ飛び交う様を見せられているようで、だんだんと当てられてくる。疲労困憊しつつ終わりを見届けた。
私には最後まで、ヒースクリフのことが分からなかった。ただ何か大きな恐ろしいものが滅びるのを見た。