倉本一宏のレビュー一覧
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そもそも蘇我氏とは何か?
大化の改新で敵役となった氏である。
表題にある豪族とは何か?
ウイキペディアによれば、
古墳時代・大和時代頃までの
地方の首長層、在地勢力を豪族と呼ぶ。
つまりは、古代の地域の勢力を言う。
本書のポイントは
蘇我氏は大化の改新以降も
氏として生き延びた、という点である。
文献を駆使しながら、その興亡を追う。
興味深かったのは、古代、朝鮮や中国との関わりが
密であった点である。
日本の朝庭を支える中心的氏であった蘇我氏は渡来人を抱え、
その知識や経験を武器に中枢にいたのである。
鎖国以降、海外との距離が広がったが、
古代はむしろ朝鮮や中国など
近隣アジアとの関わ -
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蘇我氏が天皇家との外戚関係で権力を築いていったことは藤原氏の先例。同じく外戚を築いた葛城氏が没落し、蘇我氏は稲目から突然生まれるが、葛城氏とは蘇我の先祖伝承だと主張する。彼らは開明的な海外との取引を進めた一族で決して守旧派ではなかった!そして蝦夷・入鹿の死後も蝦夷の弟・蘇我倉麻呂一族(後の石川氏)によって実権は継続していたのであり、乙巳の変(大化の改新)は蘇我氏内部の抗争の色彩が強かった。壬申の乱では倉麻呂の三男連子の系統だけが天武側につき、他の兄弟は大友側に。反大海人派との負のイメージが強い蘇我の名前を捨て、石川氏に。そして藤原不比等の妻(連子の娘・娼子)を通して武智麻呂、房前、宇合へ、蘇我
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蘇我氏の興亡の歴史。中大兄皇子と中臣鎌足による大化の改新で蘇我稲目、馬子、蝦夷、入鹿の系列は断ち切られたが、親せき筋は石川氏と姓を変え平安時代まで実務官僚としてくらいを落としながら生き延びることになる。またそれ以降、宗岳氏に姓を戻すが記録からは途絶えてしまう。長宗我部氏などは地方にて武士化した蘇我氏の末裔の可能性もある。
もともとは葛城郡のあたりで、渡来人などを従えた有力氏族で、天皇家と婚姻関係を深めてのちの藤原氏の勢力発展のモデルのさきがけとなる。大化の改新以降は藤原氏に代わられるが、蝦夷、入鹿系列以外は藤原氏川に付いたものもおり、藤原不比等の妻に蘇我氏の娘がなるなど、高貴な血筋として奈良時 -
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途中にて終了ーー
“内戦”という点から日本史を振り返ろうとする試みのようですが、著者の語る「古代戦うことは珍しく交渉ごとが多かった」という視点は余りにも突然で、根拠に乏しく、読み進めるにはツラくなる。また、他人の書いた資料をもとに論立てするのも頂けません。いわば、とある国に行ってもいないのに、とある国に行った旅行者のブログや、とある国に関する特集番組を見て、それらだけから風土記を画くようなものです。もちろん、序章においてそれらに触れることで得た“仮説”を呈示し、以後、一次資料・二次資料に当たりながら仮説を検証していくということであれば真っ当なのですが、ただただ突然に現れた仮説と、「あの先生たちはこう言っている」