倉本一宏のレビュー一覧
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藤原氏を専門とする歴史家による、蘇我氏に関する研究結果をまとめた本。教科書にも載ってはいるものの、ほとんど知識のない蘇我氏について、詳しく知ることができた。研究、分析はかなり精緻であった。
「記紀に見える「葛城氏」とは、すなわち蘇我氏が作り上げた祖先伝承だったのである」p18
「蘇我氏をすべて悪と決めつけ、聖徳太子や中大兄王子による天皇中心の中央集権国家の建設を善と認識する歴史観では、この蘇我氏の開明性は説明できない」p30
「隋はもとより、朝鮮三国の使者も、その地位を表す冠と服を着していたはずであるが、自分たちよりも下位にあると主張している朝鮮諸国の使者の方が自分たちよりもはるかに文明化し -
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藤原氏という古代から中世にかけて日本の中心にいた一族。中臣鎌足の話はあまりにも有名ですが、そこから始まる藤原氏のことについてははっきりとした一本として把握できていませんでした。日本史の中ではところどころにその名前が出てくるので、政治組織には絶えることなく続いていたのだとはわかるのですが、その実態はあまりにも広大で良く分かっていませんでした。
鎌足の子供の不比等があり、そこから四家が起こり、平安時代に道長などが栄華を誇り、その後武士の世の中になり、近衛家、九条家に別れ、さらに五摂家になり・・・という日本史にところどころ顔を出す藤原氏。その間を埋める、藤原氏の流れを、本書を読むことで把握でき、少し -
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藤原氏がその盛名を近代まで永らえさせた理由とは何だったのか。
大化改新の「功臣」であり藤原氏の祖・鎌足でも「摂関政治」の頂点を極めた道長でもなく、律令国家整備の立役者だった二代目・不比等こそが藤原氏繁栄の礎を築いたプロデューサーだったと著者は指摘する。
平安期と比べれば、白鳳〜奈良朝までの藤原氏は未だ未だ不安定な存在。氏族としてのスタートが鎌足一人で、後継者も不比等以外に官途に付く子弟がいない状態。著者も言うように鎌足だけの「一代限り」で絶えてしまうこともあり得た訳だ。
そこで鎌足の功績を「人臣最高クラス」と顕彰した上で、父祖の経歴が子孫に「下駄を履かせてくれる」蔭位制を鎌足直系である自身 -
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「蘇我氏を蒸し殺す(645年)大化の改新」と教わった我々は、あのクーデターで天皇家を乗っ取ろうとした不埒な蘇我氏は滅び、律令国家へ向けた歩みが始まったと考えている。しかし、その後の歴史には蘇我赤兄や蘇我果安といった人物が登場する。大和盆地と河内の要地を抑えた蘇我氏がそう簡単に滅びるはずもなく、プロパガンダ虚飾された歴史は解釈を加えながら読む必要がある。
その立場でいうと、例えば、蘇我氏は実質的な大王家だったのではないか、と読む向きがあり、そのような本も多いのだが、本書はその立場はとらず、あくまで日本書紀と後続の公刊史書を読み解きながら、蘇我氏の歴史を追ってゆく。
そもそも、本当に律令制が始 -
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蘇我氏といえば日本の古代豪族として栄えた一族である事は、小学校の歴史でもよく学んできた。しかも、大方の人の記憶では、645年大化の改新とセットで、乙巳の変により、中大兄皇子と中臣鎌足が、権力を握っていた蘇我入鹿を暗殺した事件の「悪役」としての記憶ではないだろうか。そこに至る経緯も、聖徳太子死後に権力を握った蘇我氏一族(蘇我蝦夷と、その子入鹿)が天皇との外戚関係を維持強化しながら、天皇すら凌ぐ権力で我が物顔で横暴を振るうといったイメージが強い。その結果、中大兄皇子と中臣鎌足(正義)が蘇我入鹿(悪)を殺害、蘇我氏を滅ぼす、という歴史として人々に記憶されている。実際にその様な記憶が正しいのか。本書は
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摂関期の平安京の下級官人や庶民の姿を古記録から浮き彫りにしようとしたもの。
当時については、天皇や道長などの摂関家、それに公卿ぐらいしか書かれておらず、極めて興味深いテーマ。
しかしながら、当時の記録は全て公卿の日記であり、下級官人や庶民も彼らの目でしか出てこない。到底全貌はわからないものの、それでも雰囲気は味わえる。
驚くのは、平安京の王朝の緩さ。
内裏まで盗賊や庶民が出入りし、ろくな警備もされず、犯罪者もすぐに許される。
死罪がない平和な時代と著者はとらえているようだが、官憲が機能しない時に犠牲になるのは弱者であることは必然。
厳しい規律を行うことは自らも正さねばならないが、平安貴族は