倉本一宏のレビュー一覧
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タイトルから早合点してしまったのだが、本書は皇位継承に一貫する原理を解析するといったものではなく、各代の皇位継承に関してなぜこの人物が選ばれ、なぜ他の人物は選ばれなかったのか、一つ一つ当時の政治状況やステークホルダーを鑑みて事情を解き明かしてゆくといったものである。
古墳時代から承久の乱後の皇位継承...続きを読むPosted by ブクログ -
書名に「はじめての」とある割には、予備知識がないと読み通すのは難儀な本。まあ、この時代の日本の権力中枢が、誰々が天皇家と姻戚関係を結び、誰々と誰々が対立して…とややこしいのでそれをまともに記述されると読むのが難儀になるのは仕方ないのですが…
私に充分な知識がないためにかなり消化不良。逆に言うと、日本...続きを読むPosted by ブクログ -
説話集ということで、あまり肩肘張らずに読める一冊である。特に語釈がなくとも大意は取れるし、現代語訳と各話の背景事情についての解説が付いていて、理解が進む。
主として遠い平安時代の話が多いが、人事を巡る人間模様や人物評価がゴシップ的にも興味深い。巻末の系図を見ていると、自分の成功や出世、一族の繁栄...続きを読むPosted by ブクログ -
タイトルは悲劇であるがそもそも15%
7人中で1人しか皇位に付けないから
その度に死が付きまとうと怨霊の話で
大変である
奈良時代の皇位継承の惨劇に比べても
嵯峨天皇以降皇位継承に死は見えない
まだ宇多天皇辺りまでしか勉強をして
ないので後白河が出てきてホッとしたPosted by ブクログ -
こいつは確かに「プリマー」の域を越えている(笑)
しかし、高校日本史を終えてさらに踏み込んでみたいと関心をもってる若者が読むにはいいと思う。はじめて見る用語なんかもあるだろうが、それを自分で調べるのもいい勉強になるだろう。すこし背伸びをするくらいがちょうどいいのだPosted by ブクログ -
蘇我氏は大化改新で滅亡したという固定観念を覆す。生き残った一族は、その地位を藤原氏にとって替わられた。藤原氏がその後1000年にもわたり栄華を極められたのは、不比等の巧みな制度設計によるものなのか。Posted by ブクログ
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『承久の乱』から『応仁の乱』まで新書で歴史を読み進め、ここで古代の戦乱に時代を遡る。最初は戦乱に焦点を絞らず、古代国家と外国との関係に言及。邪馬台国が九州に所在したという著者の見解に同意。日本は、天孫降臨を背景にした天皇制を拠り所にして、「前九年後三年の役」まででさえ、天皇家に取って代わろうとした者...続きを読むPosted by ブクログ
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大化の改新で功績があったとされる藤原鎌足に始まり、天皇家とのミウチ的結合を基本戦略として日本古代・中世政治史の中で中心的役割を果たしてきた(その後近代史に至る中での時々政治の表舞台に顔を覗かせる)氏族である「藤原氏」について、主に古代国家の成立過程から院政期、そして中世の成立までを舞台として、どのよ...続きを読むPosted by ブクログ
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バランスよく日本の古代史を学ぶことかできる。激しい内乱のなかった日本古代史についてコンパクトに概観できる。最後に語られる後三年の役が対比的に語られ、武士のじだいの過激さ、過酷さが見透される。義家はやはりやばい。Posted by ブクログ
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島国である日本は地政学的に外部からの攻撃を受けにくく、また外部への攻撃もしにくいという特色がある。加えて、天孫降臨以降の天皇を中心とした統治がなされ、ある意味絶対的な存在に歯向かう輩も現れにく状況でもあった。そのため、意外に思うが日本では内戦は少なく、あっても規模は小さく穏やかであったという。なるほ...続きを読むPosted by ブクログ
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日本が古代から中世までは、世界の歴史とくらべても、戦乱といっても小規模で、大量虐殺はあまりなく、多くは話し合いによって解決されていた。ということ。
貴族武士から武士になって、明治維新から他国に侵略するまでになっていくという仮説は、興味深く面白く思えました。Posted by ブクログ -
蘇我氏と言えば歴史上では、蝦夷・入鹿親子が大化の改新(今は乙巳の変というようです)で権勢の極みから没落し、一族は歴史の表舞台から姿を消した印象が強かったのですが、本書ではそれが意外なほど長く存続していた史実を知りました。
蘇我氏が渡来人の先進技術を取り入れたり、仏教の導入を後押ししたりと当時開明的...続きを読むPosted by ブクログ -
白村江、大坂の陣、禁門の変など、
時代はバラバラだが、戦乱の際に庶民が
どう振る舞ったかという視点が面白い。
意外にしたたかな、一般ピープルの横顔が
浮かび上がる。Posted by ブクログ -
7世紀の東アジアでは、地域覇権国唐が、朝鮮半島において新羅を援け、高句麗と百済と対立する展開を見せていました。
ここに、かねてより百済と関係の深い倭国(日本)が、百済の救援要請にこたえる形で半島に出兵し、唐・新羅連合軍と一戦を交えることとなるのが、白村江の戦い(663年)です。
百済・倭連合軍は...続きを読むPosted by ブクログ