倉本一宏のレビュー一覧
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藤原氏を専門とする歴史家による、蘇我氏に関する研究結果をまとめた本。教科書にも載ってはいるものの、ほとんど知識のない蘇我氏について、詳しく知ることができた。研究、分析はかなり精緻であった。
「記紀に見える「葛城氏」とは、すなわち蘇我氏が作り上げた祖先伝承だったのである」p18
「蘇我氏をすべて悪と決めつけ、聖徳太子や中大兄王子による天皇中心の中央集権国家の建設を善と認識する歴史観では、この蘇我氏の開明性は説明できない」p30
「隋はもとより、朝鮮三国の使者も、その地位を表す冠と服を着していたはずであるが、自分たちよりも下位にあると主張している朝鮮諸国の使者の方が自分たちよりもはるかに文明化していたことを目の当たりにしたというのは、大きな衝撃であったものと想像できる」p61
「(平安時代にも)蘇我氏はまだまだ滅びていなかったのである」p235
「乙巳の変(大化の改新)は中大兄王子と古人大兄王子との大王位継承争い、中臣鎌足と蘇我入鹿との国際政策構想争い、蘇我氏内部における本宗家争い、大夫氏族層内部における蘇我氏系氏族と非蘇我氏系氏族の争いなど、様々な矛盾が一気に噴出して起こったクーデターであった。しかし、日本書紀編者としては、大化の改新こそ律令制国家建設の直接的な起点として語らねばならなかった。その際の中大兄王子の敵対者として、その実像以上に反天皇の立場で描かれたのが、蝦夷と入鹿だったのである」p250
「蘇我氏の地位低下と軌を一にして、新たな「蘇我氏的なる者」が生まれてきた。そう、藤原氏である」p252
「律令国家における藤原氏の権力の根源は、大化前代における蘇我氏と全く同じ構造なのである」p253
「8世紀の藤原氏と天皇家とは、蘇我氏を通してミウチ関係にあったことになる。これによって、8世紀前半の律令国家の中枢部分は、あたかも天智・天武兄弟と、蘇我氏と藤原不比等の三者の血によって構成されていたかの観を呈することになったのである」p255 -
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藤原氏という古代から中世にかけて日本の中心にいた一族。中臣鎌足の話はあまりにも有名ですが、そこから始まる藤原氏のことについてははっきりとした一本として把握できていませんでした。日本史の中ではところどころにその名前が出てくるので、政治組織には絶えることなく続いていたのだとはわかるのですが、その実態はあまりにも広大で良く分かっていませんでした。
鎌足の子供の不比等があり、そこから四家が起こり、平安時代に道長などが栄華を誇り、その後武士の世の中になり、近衛家、九条家に別れ、さらに五摂家になり・・・という日本史にところどころ顔を出す藤原氏。その間を埋める、藤原氏の流れを、本書を読むことで把握でき、少しすっきりとしました。
ただ、読んでも読まなくても分かることですが、藤原氏は広大に膨らんでおり、とても全体を把握しきることは不可能です。できるだけそれに挑戦しようとしたところに、本書の価値はあると思うのですが、同時に読むものに忍耐を強いるものでもあると思います。日本史の古代と中世についてあらかじめ勉強しておかなければ付いて行きにくい、前提として知っているはずで勧めてくる部分もあります。中級者向けと言えるものではないでしょうか。 -
Posted by ブクログ
藤原氏がその盛名を近代まで永らえさせた理由とは何だったのか。
大化改新の「功臣」であり藤原氏の祖・鎌足でも「摂関政治」の頂点を極めた道長でもなく、律令国家整備の立役者だった二代目・不比等こそが藤原氏繁栄の礎を築いたプロデューサーだったと著者は指摘する。
平安期と比べれば、白鳳〜奈良朝までの藤原氏は未だ未だ不安定な存在。氏族としてのスタートが鎌足一人で、後継者も不比等以外に官途に付く子弟がいない状態。著者も言うように鎌足だけの「一代限り」で絶えてしまうこともあり得た訳だ。
そこで鎌足の功績を「人臣最高クラス」と顕彰した上で、父祖の経歴が子孫に「下駄を履かせてくれる」蔭位制を鎌足直系である自身の四子(南家・北家・式家・京家)により有利に働く制度として導入する一方、姻戚を通じて天皇家と「ミウチ(血縁)」となり、自らの血筋による皇統維持を願った持統太上天皇との協力関係を築き上げた。この二つの手法が藤原氏の権力掌握のロールモデルとして機能していく。
事実、不比等没後に四子が揃って天然痘で亡くなったり、仲麻呂(恵美押勝)の失脚など権力中枢に不在の期間がありながら、その都度権力の座に返り咲いたのは、不比等の制度設計が有効に働いた証拠と言えるだろう。
不比等の深謀遠慮とその仕組みを活かす人材の登場もあって栄華を極めるに至った平安中期、藤原氏とは距離を置いた上皇の登場と王家・藤原氏共に内紛を抱えた院政期、その混乱から生まれた武家の時代へと移り行く中、氏長者の資格を持つ「五摂家」から院政を支えた中下級官人に至るまで、藤原氏一族の家格と家職がそのまま朝廷の秩序として江戸時代まで受け継がれていくことになる。
「おわりに」で記される藤原氏各流派を眺めれば、帯に「日本史の真の“主役”」とあるのも頷ける。これほど枝分かれしながら、且つ多くの家名が残るほど栄えた一族は例を見ないのだから。
本書では語られなかった中世藤原氏一族同士の激しい就職活動や暮らし振りについて、同じく中公新書『日本史の森をゆく』の「中世一貴族の慨嘆」「貴族の日記と朝廷儀礼」辺りを読まれるのもお勧めです。 -
Posted by ブクログ
「蘇我氏を蒸し殺す(645年)大化の改新」と教わった我々は、あのクーデターで天皇家を乗っ取ろうとした不埒な蘇我氏は滅び、律令国家へ向けた歩みが始まったと考えている。しかし、その後の歴史には蘇我赤兄や蘇我果安といった人物が登場する。大和盆地と河内の要地を抑えた蘇我氏がそう簡単に滅びるはずもなく、プロパガンダ虚飾された歴史は解釈を加えながら読む必要がある。
その立場でいうと、例えば、蘇我氏は実質的な大王家だったのではないか、と読む向きがあり、そのような本も多いのだが、本書はその立場はとらず、あくまで日本書紀と後続の公刊史書を読み解きながら、蘇我氏の歴史を追ってゆく。
そもそも、本当に律令制が始まったのは8世紀の藤原不比等の時代であり、7世紀中葉の時点では皇族(百済王族)と蘇我氏内の権力争いに過ぎなかった。やがて白村江の戦を経て国の形が落ち着くと、不比等は壬申の乱で天武天皇を支えた古代豪族たちを天孫族、つまり神であると祭り上げながら、国家が直接土地を支配し、その国家を藤原氏が支配する戦略に出る。そんな時代にあって歴史家によっては大王家とも擬された蘇我氏はどんな歴史を刻んだのか、丹念に追ったところにこの本の価値があるのだと思う。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ網羅性があるので読むのが・・・眠かった
『平氏―公家の盛衰、武家の興亡(中公新書)』
高棟王流桓武平氏(公家平氏)は「日記の家」として公家社会で重宝されて別流の平氏と日記を借りあっている存在に対して、武家平氏(清盛ら伊勢平氏など)が坂東を含めて時代のニーズをとらえて独自発展し、清盛の時代に両者が対等の存在として邂逅した事実を抑える
日記の家は時代背景として律令制の公文書管理組織(外記局・弁官局など)が10世紀頃に機能しなくなると、朝廷の儀式・政務では過去の先例(故実)を日記から探る必要性が高まり、業務記録=日記を豊富に所持・研究する家が重要視され、院政期頃から平氏の一部が「日記の家」と呼ばれるようになる(同様に音楽の「楽の家」、武芸の「弓馬の家」と家の存続をかけた特殊化が進む、現代ならば家伝芸人等の方向性かも)
主な役割: 単に日記を書くだけでなく、写本・抄本・部類記(分類整理した記録)を作成、他家の日記も収集・研究し、摂関家などの家司(家政補佐)として奉仕
家産としての価値: 日記は経済的基盤(家領)と並ぶ「知識的基盤」、譲状などで嫡子に継承される重要財産だった
公家平氏(高棟流桓武平氏)と「日記の家」平氏のほとんどは桓武天皇の子孫で、高棟王流が公家として続き、中級・下級官人(蔵人、検非違使、弁官など)として実務を担いました。彼らは「堂上平氏」と呼ばれ、明治まで存続
倉本先生らしい古記録(面白くない日記類だそうで)を基にした実証的な語り口で、系図や人物関係を適時整理しながら、日本史の大きな流れ(武士の台頭、院政・幕府成立)を平氏という軸で再解釈している
(やや人名・系統の多さで読み疲れる人もいるかもね)