あらすじ
蝦夷・入鹿父子は六四五年の乙巳の変で討たれたが、蘇我氏は滅亡せず、以後も国家権力の中枢に位置した――。稲目を始祖とした馬子、蝦夷、入鹿の四代はいかに頭角を現し、大臣として国制改革を推し進めたのか。大化改新後、氏上となった倉麻呂系は壬申の乱へとつづく激変の時代をどう生き延びたのか。六世紀初頭の成立から天皇家を凌駕する権勢を誇った時代、さらに平安末期までを描き、旧来の蘇我氏イメージを一新する。
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蘇我氏の始まりと歴史の表舞台から姿を消したその後…。
資料に基いた説得力のある推測と同族氏族の追跡調査。かなり詳しく調べられていて非常に興味深く読めました。
わたしにとっては、蘇我氏に対する知識が物凄く深まりましたし、古代ロマンに没頭できる素晴らしい一冊でした。
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蘇我氏滅亡してないやん!っていう面白さ。あと家系図が独特で良かった。昔は親族で結婚することも多かったからというのもあるが、蘇我氏の血がどれぐらい入ってるか(1/2とか1/4)っていうアプローチが新鮮。
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蘇我氏渡来人由来説は誤り。現在の奈良県曽我が発祥の地と考えられる。始祖は葛城氏から独立した蘇我稲目。それ以前の家系図も存在するが実在は疑わしい。
王位継承に血縁原理が導入されたのは5世紀のことであり、欽明天皇と稲目により確立した。戸籍登録も行った。蘇我氏を悪と決めつけ聖徳太子や中大兄皇子による天皇中心の中央集権国家の建設を善とする歴史観では蘇我氏の開明性は説明できない。
馬子の時代、物部氏を滅ぼし政治抗争に勝利した。この時蘇我氏側についた王子に厩戸王子がいた。馬子は崇峻天皇を暗殺し、推古天皇が初の女帝として即位した。馬子、推古天皇、聖徳太子の三者共同政治体制が敷かれ、長く続いた。
次代の蝦夷は舒明天皇を補佐し、皇極天皇(女)の頃には入鹿が力をつけた。日本書紀ではこの頃から蘇我氏の横暴が描かれているが、乙巳の変を正当化するための編者の意図が窺われる。
入鹿は中大兄王子に惨殺され、蝦夷は自害させられたと考えられる。その実態は単なる権力闘争であり、どちらが善というわけでもない。
天智天皇となった後も蘇我氏から大臣が選ばれるなどしており、大化の改新で蘇我氏が滅んだというのは誤り。蘇我氏の系譜は平安時代末期頃まで見られ、下級官吏を輩出していたが、その後は没落し歴史から消えた。
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乙巳の変で蝦夷・入鹿父子が討たれるまではもちろんのこと、大化改新から平安末期までの時期も扱われている。壬申の乱以降の律令制国家の下、中下級氏族になって生き残り続けた時代の様子は中々に新鮮だった。
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藤原氏を専門とする歴史家による、蘇我氏に関する研究結果をまとめた本。教科書にも載ってはいるものの、ほとんど知識のない蘇我氏について、詳しく知ることができた。研究、分析はかなり精緻であった。
「記紀に見える「葛城氏」とは、すなわち蘇我氏が作り上げた祖先伝承だったのである」p18
「蘇我氏をすべて悪と決めつけ、聖徳太子や中大兄王子による天皇中心の中央集権国家の建設を善と認識する歴史観では、この蘇我氏の開明性は説明できない」p30
「隋はもとより、朝鮮三国の使者も、その地位を表す冠と服を着していたはずであるが、自分たちよりも下位にあると主張している朝鮮諸国の使者の方が自分たちよりもはるかに文明化していたことを目の当たりにしたというのは、大きな衝撃であったものと想像できる」p61
「(平安時代にも)蘇我氏はまだまだ滅びていなかったのである」p235
「乙巳の変(大化の改新)は中大兄王子と古人大兄王子との大王位継承争い、中臣鎌足と蘇我入鹿との国際政策構想争い、蘇我氏内部における本宗家争い、大夫氏族層内部における蘇我氏系氏族と非蘇我氏系氏族の争いなど、様々な矛盾が一気に噴出して起こったクーデターであった。しかし、日本書紀編者としては、大化の改新こそ律令制国家建設の直接的な起点として語らねばならなかった。その際の中大兄王子の敵対者として、その実像以上に反天皇の立場で描かれたのが、蝦夷と入鹿だったのである」p250
「蘇我氏の地位低下と軌を一にして、新たな「蘇我氏的なる者」が生まれてきた。そう、藤原氏である」p252
「律令国家における藤原氏の権力の根源は、大化前代における蘇我氏と全く同じ構造なのである」p253
「8世紀の藤原氏と天皇家とは、蘇我氏を通してミウチ関係にあったことになる。これによって、8世紀前半の律令国家の中枢部分は、あたかも天智・天武兄弟と、蘇我氏と藤原不比等の三者の血によって構成されていたかの観を呈することになったのである」p255
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20160126~0203 蘇我氏の栄枯盛衰を描いている。明日香・甘樫の丘・板葺宮等々の名前だけでハアハアしちゃう位には古代史ファンの自分にはとても興味深く読めた。大化の改新では一方的に悪者扱いされているけど、統治体制の将来像を巡って蘇我氏と中臣氏や一部皇族(中大兄とか?)が争った結果なのだろう。
そして、中級官僚から名もなき地方官などになって歴史に名を残すことなく広がっていったのだろうけど、後半は何か悲哀を感じたなあ。
原点資料を丹念に追っているのが信頼できる。
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「蘇我氏を蒸し殺す(645年)大化の改新」と教わった我々は、あのクーデターで天皇家を乗っ取ろうとした不埒な蘇我氏は滅び、律令国家へ向けた歩みが始まったと考えている。しかし、その後の歴史には蘇我赤兄や蘇我果安といった人物が登場する。大和盆地と河内の要地を抑えた蘇我氏がそう簡単に滅びるはずもなく、プロパガンダ虚飾された歴史は解釈を加えながら読む必要がある。
その立場でいうと、例えば、蘇我氏は実質的な大王家だったのではないか、と読む向きがあり、そのような本も多いのだが、本書はその立場はとらず、あくまで日本書紀と後続の公刊史書を読み解きながら、蘇我氏の歴史を追ってゆく。
そもそも、本当に律令制が始まったのは8世紀の藤原不比等の時代であり、7世紀中葉の時点では皇族(百済王族)と蘇我氏内の権力争いに過ぎなかった。やがて白村江の戦を経て国の形が落ち着くと、不比等は壬申の乱で天武天皇を支えた古代豪族たちを天孫族、つまり神であると祭り上げながら、国家が直接土地を支配し、その国家を藤原氏が支配する戦略に出る。そんな時代にあって歴史家によっては大王家とも擬された蘇我氏はどんな歴史を刻んだのか、丹念に追ったところにこの本の価値があるのだと思う。
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漫画『日出処の天子』を読んで蘇我氏に対する理解を深めたく読んでみた。
蘇我氏は葛城氏として起こり蘇我氏として独立し、その後馬子、蝦夷、入鹿の活躍を経て本宗家は途絶えるものの、蝦夷の兄弟である倉麻呂の家系が蘇我から石川へと氏を変え、生き延び、再び宗岳氏となり歴史の中に消えていく…。
蘇我氏と聞くと、十数年前に学校の授業で教えられたことを思い出す。蘇我は悪い奴らで、大化の改新でやっつけられた─。本書はこのような従来の捉え方に疑問を呈する。私個人としても蘇我氏(主に蝦夷)に感情移入しているので彼らが悪党そのものであったとは思えない。著者はただの憶測ではなく、あらゆる文献や史料を参考として解説してくれる。古文を読み慣れてなかったり、時代に詳しくない人にはだいぶ難しいと思うが丁寧ではある。
乙巳の変の部分は迫力がある。どうしても『日出処の天子』の作画で想像してしまうので悲しさと切なさが強い。。この結末を詳細に知ってから漫画を読むと切なさが倍増しそう。。
蘇我氏本宗家が滅んでからは徐々に藤原氏が台頭してくるが、藤原氏も蘇我氏と同じように外戚の立場を強めていく。平安時代の摂関政治のはしりは蘇我氏だったのか。
とても学びのある本だったが難しいので完全には理解できていない。これからも手元に置いて度々読み返したい。
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蘇我氏と言えば歴史上では、蝦夷・入鹿親子が大化の改新(今は乙巳の変というようです)で権勢の極みから没落し、一族は歴史の表舞台から姿を消した印象が強かったのですが、本書ではそれが意外なほど長く存続していた史実を知りました。
蘇我氏が渡来人の先進技術を取り入れたり、仏教の導入を後押ししたりと当時開明的であったのと同時に、豪族間の権力争いを一族に有利に進めていき、隆盛を得ると同時に、大王と姻戚関係を結んで権力の中枢での地歩を固めます。
以降、馬子、蝦夷、入鹿と親子三代で権力を一層固めて行くのですが、乙巳の変で中大兄皇子と中臣鎌足を中心とするグループによる権力奪取により、蘇我本宗家は滅亡します。
分家も壬申の乱などの政変の渦中で、次々と滅びていくも、一つは石川家として、後に後継の宗岳家として平安期まで存続しています。
大和王朝、また当時の東アジア情勢への対処や、後の律令国家建設の土台となる6-7世紀に、蘇我氏が国益に果たした役割がいかほどであったか、また乙巳の変が起こらず、英明と言われた蘇我入鹿が権力の中枢にとどまっていたら、日本の歴史はどうなったのか、興味が尽きぬところであります。
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蘇我氏が天皇家との外戚関係で権力を築いていったことは藤原氏の先例。同じく外戚を築いた葛城氏が没落し、蘇我氏は稲目から突然生まれるが、葛城氏とは蘇我の先祖伝承だと主張する。彼らは開明的な海外との取引を進めた一族で決して守旧派ではなかった!そして蝦夷・入鹿の死後も蝦夷の弟・蘇我倉麻呂一族(後の石川氏)によって実権は継続していたのであり、乙巳の変(大化の改新)は蘇我氏内部の抗争の色彩が強かった。壬申の乱では倉麻呂の三男連子の系統だけが天武側につき、他の兄弟は大友側に。反大海人派との負のイメージが強い蘇我の名前を捨て、石川氏に。そして藤原不比等の妻(連子の娘・娼子)を通して武智麻呂、房前、宇合へ、蘇我の血は受け継がれ、一方、石川氏そして蘇我に因む名称に戻った後の宗岡氏、宗岳氏などは、平安時代に犯罪人も何人か出るなど、寂しい末路の記録を詳細に語る。この他、蘇我系統として田中、田口、岸田、桜井などの名前が登場することも楽しい。
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蘇我氏といえば日本の古代豪族として栄えた一族である事は、小学校の歴史でもよく学んできた。しかも、大方の人の記憶では、645年大化の改新とセットで、乙巳の変により、中大兄皇子と中臣鎌足が、権力を握っていた蘇我入鹿を暗殺した事件の「悪役」としての記憶ではないだろうか。そこに至る経緯も、聖徳太子死後に権力を握った蘇我氏一族(蘇我蝦夷と、その子入鹿)が天皇との外戚関係を維持強化しながら、天皇すら凌ぐ権力で我が物顔で横暴を振るうといったイメージが強い。その結果、中大兄皇子と中臣鎌足(正義)が蘇我入鹿(悪)を殺害、蘇我氏を滅ぼす、という歴史として人々に記憶されている。実際にその様な記憶が正しいのか。本書は蘇我氏の成り立ちから、衰退までを、様々な記録・文献から推測し、定説となっている悪役説に真っ向から挑んだ、といった内容だ(特に筆者がそういった立場で蘇我氏を擁護する訳ではなく、単純に事実と推測ベースで、真実に迫ろうとするものである。但し、読んでいる内に徐々に蘇我氏の不名誉を晴らそうとしてる様に、読者たる私が感じた率直な感想だ)。
歴史は勝者が作ると言われる。後世に生き残った勝者が、それまでの自分たちの正当性を訴えるために作っているといっても過言ではないだろう。本書は何よりも先ず、そこに蘇我氏に対するイメージ操作が発生している事を突いてくる。特に蘇我氏が活躍する時代は、同一族を中心に政が進められてきたのであるし、合議制に参加できる地位も同士の一族が独占している状態、極端な権力集中状態にあったと言える。誰が天皇になるかではなく、誰を天皇にするか、といったレベルにまで上り詰めている。当時は婚姻等で天皇との血縁の濃さ・強さが、そのまま権力の大きさに繋がるため、天皇になり得る皇太子同士の権力争いには常に巻き込まれ、一族以外から敵対視されるのは当然のことだ。その様な中で発生した乙巳の変と、その後の勝者の歴史という中で、敗者となった蘇我氏が当然の事の様に悪役イメージになるのは致し方ない。だが蘇我氏自体は様々な分家に分かれており、事件後もなお中央権力に力を残したまま、存続し続ける。そして再び皇子たちとの婚姻関係で、力を維持し続けている。やがては平安時代を築き上げる藤原氏として、日本史に大きく名を残す事になる。
本書からは、そうした蘇我氏の歴史を振り返る内容が主でありながら、それはそのまま日本の古代史から中世までの歴史を振り返る事とほぼ同一である事への気づきも与えてくれる。そして、歴史をさらに進めると、よく聞く戦国武将の中にも、その血を受け継いだ者たちがいた事を教えてくれる。中々、現代とは異なる名前の体系、何より似た様な名前や、地名を冠した名前などが大量に出てくるので、読み進める内に、誰が誰だったか混乱する事も多い。だが、その中でも中心的な役割を担った人物は、日本史をよく勉強した人なら、記憶から呼び起こす事は容易であろう。
何よりも、歴史は勝者が作り、尚且つ今を生きる我々は、誰かが描いた歴史物語を読んでいるに過ぎない。奈良にある多くの古墳が、誰の墓であったか、絶対的に正確な回答など誰もできない。様々な文献や誰かの分析結果を積み上げながら、更に自身の分析を加えて、遥かな悠久の時が流れた過去をイメージするしかない。絶対的な答えがなく、歴史の授業が絶対の過去を説明してる訳でもない(通説に過ぎない)。どれだけ想像力を膨らませて、推測していけるか、そこに歴史の面白さがある。本書は改めてその面白さを教えてくれる一冊だ。
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蘇我氏は大化改新で滅亡したという固定観念を覆す。生き残った一族は、その地位を藤原氏にとって替わられた。藤原氏がその後1000年にもわたり栄華を極められたのは、不比等の巧みな制度設計によるものなのか。
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そもそも蘇我氏とは何か?
大化の改新で敵役となった氏である。
表題にある豪族とは何か?
ウイキペディアによれば、
古墳時代・大和時代頃までの
地方の首長層、在地勢力を豪族と呼ぶ。
つまりは、古代の地域の勢力を言う。
本書のポイントは
蘇我氏は大化の改新以降も
氏として生き延びた、という点である。
文献を駆使しながら、その興亡を追う。
興味深かったのは、古代、朝鮮や中国との関わりが
密であった点である。
日本の朝庭を支える中心的氏であった蘇我氏は渡来人を抱え、
その知識や経験を武器に中枢にいたのである。
鎖国以降、海外との距離が広がったが、
古代はむしろ朝鮮や中国など
近隣アジアとの関わりは今以上に深かったと見られる。
もう一点、蘇我氏は
天皇家との婚姻関係によって
政権内におけるポジションを
高めていったことである。
これはのちの藤原氏も同じやり方を取っている。
海外の古代ヨーロッパでもそう。
これは執政の中枢に入り込む
定番のやり方だ。
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蘇我氏の興亡の歴史。中大兄皇子と中臣鎌足による大化の改新で蘇我稲目、馬子、蝦夷、入鹿の系列は断ち切られたが、親せき筋は石川氏と姓を変え平安時代まで実務官僚としてくらいを落としながら生き延びることになる。またそれ以降、宗岳氏に姓を戻すが記録からは途絶えてしまう。長宗我部氏などは地方にて武士化した蘇我氏の末裔の可能性もある。
もともとは葛城郡のあたりで、渡来人などを従えた有力氏族で、天皇家と婚姻関係を深めてのちの藤原氏の勢力発展のモデルのさきがけとなる。大化の改新以降は藤原氏に代わられるが、蝦夷、入鹿系列以外は藤原氏川に付いたものもおり、藤原不比等の妻に蘇我氏の娘がなるなど、高貴な血筋として奈良時代の初めは通用していた可能性が高い。その後はおそらく藤原氏に疎まれて、洋食からは外されていく。
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蘇我氏は大化の改新=乙巳(いっし)の変で滅んだわけではない。
蘇我石川麻呂の存在、馬子、蝦夷、入鹿が開明的な政治家で決して反逆者ではなかことは知ってたが、壬申の乱で本流蘇我が滅んだこと、奈良・平安時代にも本流以外の氏族が生き延びたこと、藤原氏にその地位を譲ったこと(藤原氏の皇族との結び付けで勢力を伸ばしたのは蘇我氏がその以前にやってきたこと)は知らなかった。石川氏等々の名前で存続、ソガ氏(宗岳氏)へ平安時代には復帰(改姓)したが祖先の栄光には程遠い。
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皇族の蘇我氏との関わりを示すのに、「蘇我氏濃度 ◯/◯」という表現が用いられていて実にキモイ…。いやわかりやすくなってるのはいいんですが。
その後の蘇我氏に注目しているのが特徴で、本宗(石川氏)のみならず、同族氏にまでそれが及んでいる。
事前情報から蘇我氏に対して復権的というか顕彰的な面があるかもと危惧したが、それほどでもなかった。違和感なく読めた。たぶん十年前に見た遠山美都男氏の『蘇我氏四代』にイライラしすぎて耐性ができたんだろう。
水谷千秋氏の『謎の豪族 蘇我氏』は越えられないという評価にしておきます。