永井均のレビュー一覧
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難解なものを低いレベルに引き落としてまで分かりやすく解説することに意義を感じないとする筆者の態度が、もう、めちゃくちゃに伝わってくる。
ので、難しい。
論理学のような因果関係で結ばれる関係性が、言語とその対象や描写しようとしているものには存在しない。だから言語は生活に深く織り込まれており、暗黙のうちに言語に縛られている。ってこと?
あらゆる事を表現しようとしてもどうやっても言語から逃れることは出来ず、暗黙のルールによって取り組まれているゲーム(勝ち負け系ではなく遊び系)のようだ。ゲーム規範/ルールがあってゲームがあるのではなく、ただゲームがあるのであり、ゲームの外からルールを把握することはできない。
「私の痛み」というときの、「私」には、今この文章を書いている私と、それぞれの個人が自己を指すときの一人称としての私があり、同じ「私」でも絶対に意味が共有されない。ってこと?
検証可能な命題に意味があるのではなく、「青」や「黄色」のような経験によって満たされる言語が意味をもつ。???
むずかしー -
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最近、電車の中かどこかで他人の会話が聞こえてきて、フィリピンは親日的だからどうのこうのという話であった。フィリピンで日本が戦時中に何をしたかはあまり意識されなくなってきているのかもしれない。
終戦直後はフィリピンは対日感情がもっとも厳しい国だった。それは日本軍が、特に敗戦間際にメチャクチャをやったから。おもにA級戦犯をさばいた米軍管轄の裁判に引き続いて、多くのBC級戦犯は新独立国フィリピンの裁判にかけられた。ちなみにA級は戦争指導者の戦犯で、BC級は戦争中の非人道的行為などの戦争犯罪を指した。他の国々での裁判と比べても有罪率、死刑判決の率ももっとも高い裁判だったが、結局は一部の死刑が執行された後、多くは特赦されて日本に帰ることができた。本書はその経緯を日本側だけでなくフィリピン側の資料・証言にも多くあたりながら追う。
キリスト教精神などが特赦の理由としてあげられるが、共産主義勢力への対抗、復興のための賠償・経済協力など現実的な状況から迫られた面もあった。日本による大統領周辺の買収工作もあったようだ。特赦をきめた大統領自身も我が子らを日本軍に殺されており、容易な判断ではなかったろうが、政治的にはだからできたとも言えるだろう。この特赦は間違いなく日比両国のためにプラスであったとは思うが、どの国にしろ今日の政治にはむしろ同じ判断はできないのではとも感じる。 -
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永井の『これがニーチェだ』(講談社現代新書)の刊行を受けておこなわれた、当時話題になった「なぜ人を殺してはいけないのか?」という質問をめぐる対談と、永井と小泉それぞれの論考が収録されています。
個人的には、小泉の問題提起の鋭さに感銘を受けました。対談のなかで「生活」と「生」という対概念が提出されていますが、永井は大江健三郎のような世間的な意味での道徳的言説を「生活」に、ニーチェの権力意志を「生」に割り振っています。これに対して小泉は、永井のそうした立場が、「生活」と「生」の境界線を引きつづけるという振る舞いを通じてのみ担保されるほかないということへの問題提起をおこなっています。これはいわばハイデガーのニーチェ批判を道徳の領域で再演したものということができるように思います。
こうした小泉の問題提起に対して、永井は「分からない」といいつづけていますが、けっきょくのところそうした永井の振る舞いもまた、小泉の言説を「生活」のほうに繰り込むことにほかならず、結果的に小泉の提起している問題をいっそう裏づけているのではないかと感じました。
小泉にしてもおそらく、こうしたみずからの永井批判の言説に何ら特権性がないことを理解しており、その批判が言葉にもたらされたとたん、否応なしに「生活」へと繰り込まれてしまうほかないことを十分に承知しているはずです。そのうえで、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いに対しては、後は殺す実践あるいは殺さない実践によって答えられるほかないと述べているのだろうと思われます。 -
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この本は永井先生が集中講座として開いた内容を、まとめ直したものである。
彼なりにわかりやすくまとめたのであろうが、いかんせん話が行ったり来たりした印象を受けた。結論として、「脳と体の関係と心のあり方とは無関係」「他者は哲学的ゾンビ」であろうという結論に至っている。ただしそれはあくまでも「心の哲学」の範疇の話であり、一般的な感覚とは極めて異なるであろうということだ。哲学的ゾンビとは「見た目は人間であるものの、痛みや嗅覚などその他五感を感じることができない存在」を想定している。それはもちろんのことで、自分は自分の五感でしか感じることができず、他者の五感は知ることができない。それと永井先生の特性なのか、議論を煙に巻くような話しぶりが多かった。
「心の哲学」の入門としては良いであろうが、疑問を提起することに終始しており、「なるほどこんなことを考えているのか」という程度の理解でよいのではないかと思う。 -
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セブ島へ旅行に行くにあたり、予習のため読んでみた。
戦争裁判というものがよく分からないのだが、悲惨な状況があったのだろうということは改めて分かった。
勝者が敗者を裁き、戦地となり蹂躙された地がその裁きを引き継ぐ話。
戦地では、確かに様々な犠牲があったことは事実だろう。
しかし、その原因が、責任が、どこにあるかということは、本質的には誰にも判断できないことではないだろうか。
少なくとも、勝者が、勝者の正義でそれを決めたところで、心から納得できる人ばかりではないだろう。
だがしかし、それで上手く収まれば、全体としてはそれはそれで一つの収まりどころではあるのかもしれない。
収まりがつかないところが、テロなどとなって噴き出しているのではないだろうか。
善悪はおいておくとして、噴き上がる気持ちには、共感できる部分もある。 -
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中学二年生の男の子とペネトレという名前の猫の哲学対話です。
空想を用いた思考実験を平易な言葉で伝えるもののようでもあります。
なかなか面白いトピックを2ページだとか3ページだとかで語り合い、
答えを出していく形式。
この、猫のペネトレがやっかい者で、ときに難癖のように、
常識から外れたことを平然とのたまったりしますが、
それが、この本の醍醐味であり、大体、常識ってなんだろう、
そんなものは正しいのかどうか、みたいな問答の連続なのです。
まず、「人間とは何のために生きているのか」という
問いから始まります。
宗教的ではなくて、哲学的な答えがさらりと述べられ、
それは「遊ぶため」だという。
遊ぶっていったって、ひまつぶしだとかぶらぶらするとか、
そういう意味ではないんですよね。
自分のしたいことをして、それに夢中になることが遊ぶということだそうです。
そして、その後はよくわからない、言葉自体は簡単なのにその論理がつかめない
言葉でけむに巻かれるようにその章は終わっていきます。
そういう、とっかかりまで作者が連れていってくれて、
あとは自分で考えましょう、というようなのが多かったような気がします。
与えてくれる知識もあるんだけれども、それよりか、
考えるようになるための導火線に火をつけられる感じがします。
これ、子どものための、って銘打たれていますけれど、
まじめな子どもだったら、勉強そっちのけで考えてしまって、
成績が落ちかねません。そこらへん、利口さも兼ね備える気持ちで、
本書を読む若い子にはいてほしいですね。
僕としては、「青い鳥」の話と、「社会契約」の話がなかでもよかったかなぁ。
とくに「青い鳥」は僕の第二作目の小説のネタとして小さくながらも扱ったような
感じもしていたりします(幸せを求めていなくなる女の子の名前がミチルでしたし)。
あと、上品と下品という概念が紹介されていましたが、
僕としてはもうなんでもいいやみたいな感じで読んでしまいました。
最終章によると、
__________
こういうはなしは、どれも、たまたまある場所に立った人にだけ、
意味を持つんだ。別の場所に立っている人には、無意味で、
ただ、ごちゃごちゃしているだけなんだ。
__________
ということだそうで、
つまり、僕が読んでいてすごくごちゃごちゃしているなと思った部分はけっこう
ありましたが、それを違う人が読むと、全く違う印象を持ちうるということですね。
人によっては、そのトピックに触れるのが、はやいとかおそいとかもあると
書いてありましたし、たまたまその分野のその問いの周辺を考えていた人には、
響くものだということだそうです。
最後、解説とあとがきは、大人の僕が読んでも、
ごちゃごちゃしていてわかりませんでした。
まぁ、室内の暑さのせいで頭を使いたくなかったのもあるかもしれませんが、
それはそれとしても、僕もまだまだ頭がかたいということなんですかね。
精進します。 -
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結構難しいけど面白い予感がするよ~。
『翔太と猫のインサイトの夏休み』はかなり前に読んで、とても面白い!と思った記憶があるけど、この本とおんなじ作者とは気付かなかった。インサイトの本、もう一度読み返したくなったよ。
しかし、インサイトみたいに分かりやすく本を書ける作者であるのに、本書は何度か行きつ戻りつしないとなかなか理解できなかったよ。きっと著者が言うように、プロの哲学者でもウィトゲンシュタインの著作を誤解するひとが結構いそう、というのは想像つくよ。
「言語ゲーム」は、なんだかゾクリとする言葉だよ。より理解できたら、私の思う疑問と端っこがリンクしそうでちょっとワクワクしたよ。でもこの為だけにウィトゲンシュタインを詳しく調べるのには、エネルギーが要りそうだな… -
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ネタバレ*前期ウィトゲンシュタイン:論理哲学論考
沈黙すべきものを内側から限界づけ、そのことによってそれに正当な位置を与えるための書物。世界認識のための言語の限界を語る。「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」
経験によって知られるA→Bの関係(因果関係)が成立するとき、外的関係(経験的関係)と言える。しかし、言語と世界との結びつきは、それ以外が考えられないような内的関係(先験的関係)であると言える。この独特な関係は、「論理形式」を共有することで成り立っている
存在論として、事態とは諸対象が特定の仕方で結びついたもので、成立した事態のことを事実と呼ぶ。要素的な事態が複合的に結びつくと、状態になる。世界とは、論理空間の中の事実の全集合を示す。これは、「世界について語りうるためには、このようにできているのでなければならない」という論理から、言語と同じ構造である。論理空間そのものは全く偶然性がないが、どれが現実化するかはすべて偶然である。
あらゆるものを現実に表現し直すとそれは写像になるが、その写像関係それ自体を表現することはできない。命題は像であり、像を構成する諸要素は、それによって写像されるものの持つ諸要素に対応する。命題は対象の名前から成る名辞から成り立つ。命題における名辞の配列の仕方は、事態における対象の配列の仕方に対応する。ここから、世界の構成要素と言語の構成要素は対応していると言える。まとめると、命題は事実がいかにあるかを語り、名辞は命題の中において対象の配列を写しとり、指示する。このようにして、言葉は世界を写像する。
要素命題は要素的事態の成立を主張し、複合命題は複合的な事態=状態の成立を主張する。各要素命題間にはいかなる論理的依存関係もない。命題は現実を写像するために共有しなければならないものを、写像形式と呼ぶ。この外では言語の内に写像されない。したがって、写像形式は写像できない(例:『雨が降った』は雨が降ったことを意味する→循環論法。写像形式は写像不能)。ゆえに、これは語り得ない。
語り得ぬものは2つある。1つは、世界の形式そのものであるがゆえに語り得ない「先験的」なもの(論理)。もう1つが、世界の外にあるがゆえに語り得ない「超越論的」なもの(倫理)。世界の論理形式は変わることはないが、限界が変わることで世界の総体として実態が変わりうる。
独我論として、「言語」という先験的なものと「私」という超越的なものは、「私の言語」という媒体によって統一される。そして、私の言語の限界は私の世界の限界であり、主体は世界に属さず世界の限界となる。他人には他人の世界がある。
*中期ウィトゲンシュタイン
検証方法こそが命題の意味を始めて定める。語られるものは、まず真理(願望、仮説など)への志向があってそれが語られる。
*後期
言語ゲームとは、決して語られることのない、対象化されざる生活形式に基盤を持つ。そこに規則はなく、それを支えるものもない。例えば、実体化された「文法」は幻想である。 -
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ネタバレ>地球なんか全然なかったとしても、それが現実ならそれが現実ということである。
>ウィトゲンシュタインは「独我論」の表明のしかたとして「何が見えていようと見ているのはつねに私だ」というような表現を案出したが、これは「何が起ころうとそれは起こるのはつねに現実世界だ」という(自明な!言明との類比で理解されるべきものなのだ。「何が起ころうとそれが起こるのはつねに今だ」も同じだ。
>「私」も「今」も「現実」も決して複数化されない。それはどれも、本質的に他からを排除する本質のそれ(唯一本当の私、唯一本当の今、唯一本当の現実)というものがあって、どれもその概念の単なる一例ではないからだ。 -
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ネタバレ哲学の概念を、対話形式で紐解いて行く。小説というより、若者に向けて書かれた哲学入門書のような本。中学一年生の「翔太」と、言葉を喋る猫の「インサイト」が、二人でひたすら哲学的な話を繰り広げて行く。
「自分以外の人間は、自分に会っていない間は存在していないかもしれない」というようなことは昔私も少し思ったことがある。ただ、内容がけっこう小難しい。そして理屈っぽい。飛ばしちゃったもん。
哲学と小説を旨く融合させると、成功すればかなり面白い。私も愛読している本が一冊だけある。今回の本は期待しすぎていただけちょっと残念だった。
こういう本、もっと増えれば良いのにな。探してみよう。