永井均のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
ネタバレ哲学初心者の私ですらこの分野のアイドル的存在との認識がある、ニーチェ関連本に初挑戦。しかし、永井均先生の主張が多分に織り込まれており読み解くのに四苦八苦してしまったのです。
なぜ読むのに苦労するのかと考えると、ニーチェの王道的な思想を学ぶ前に、本作の世間一般的なニーチェ論に対する批判と対峙することになったからだろうと憶測されます。でも逆に、私のニーチェ像は本作から出発することとなり、ある意味で恵まれているではあるのかなと感覚的に察する。
相手の気持ちを慮ってできることを手助けしようといった慈愛なんてものは、何となく刷り込まれているけどもそれが同情になっているとそれは暴力であると指摘する。その精神的な侵略は逆に相手を傷つけてしまう可能性を感じた。
P47:敵は私を理解しようなどとはしない。だから、私の固有性は敵からはいつも守られている。だが、同情者は違う。彼らはいつも自分自身の知性と感性を携えて私の内面深くに入り込んできて、私を理解という名の暴力でずたずたにされてしまう。
ルサンチマンにおける僧侶的価値評価の巧妙な例え。タームとしては、奴隷道徳に該当するのかな。
P95:ぶどうに手の届かなかった狐が、「あれは酸っぱい部ぶどうだ」と言ったとしても、それはすでにある価値空間の内部で対象の価値を引き下げているにすぎない。・・価値の転倒が起こるのは「ぶどうを食べない人生こそが良い人生である」と‐人に言いふらすだけでなく‐自分の内部で実感したときである。
「力への意志」概念について言及していると思われるが、理解が追い付かない。むずい。。。
P140:いまだ実現していない自分の欲望を「そうあるべき」という形で世界に押し付け、それゆえに暗に「ものごとの進行の全体を断罪」しないではいられない。欠如と苦悩を背負った者の隠微な復習意思を起点とする、本質的にルサンチマン的で、そうであるがゆえにロマンティックな世界観である。
ここにも「力への意志」を理解する一助となる文章がある。
P144:ニーチェの力への意志説は贋金をモデルにした貨幣論なのである。それは何かを‐じつは自分の必要から‐真理であると信じ込むことなしに生きてはいけない弱者の存在様式をモデルにした人間理解であり、弱さと卑小性を最も抽象化された本質を世界へ投影した世界解釈なのである。
永遠回帰は仏教にある輪廻と相似かなと思ったら、全然違った。たった一つの固有である人生を良いも悪いも一切合切違わぬ形で永遠に繰り返すという思想だった。諦観・無常なんて概念はなく、途轍もなく人生への熱量が大きい気力たっぷりの概念かなと理解。
「超人」は実社会には全く適応できない感は否めない。偶然の連鎖における必然性。話が逡巡するしていて掴みどころがないが、胸のわくわく感は止まらない。そんな感じ。
P208:人生の無意味さは、耐えるべきものなのではなく、愛すべきものであり、悦ぶべきものであり、楽しむべきものなのである。
ニーチェの第一歩を踏み出しましたが、ここにハマると沼だな。過激でカリスマ性を感じずにはいられない。気持ちを落ち着かせるためにも、次はもう少しフラットなニーチェ解説をしている本で中和しようと思う。 -
Posted by ブクログ
これぞタイトル買い。
ニーチェの本は読んだことがない。今まで読んだ本にたくさん引用があったけれど。100分de名著のようなものを読むのをやめて原典にあたろうと思っていたものの、これは積dle。
この本は著者の永井氏のニーチェ論であり、学術的な「正しい」ものを解説しているというよりは、ひとりの人間として感じたことが書かれている。
宗教的比較で仏教にも触れられているのだが、いわゆる正しい認識でないなと自分は感じたものの、永井氏の書かれるニーチェ像がかなり真宗チックで意図せずそうなっているならすごいなと思った。ニヒリズムからの絶対の肯定。うーむ。
「第一空間」、「第二空間」、「第三空間」というニーチェの思想の変遷、それぞれの段階で展開されたこと。ニーチェ自身の人生も合わさって、なんだか著者によってニーチェっていう変な人がいたんだぜっていうお話を聞いている感覚もある。
「永遠回帰」の解説。
”人生の価値は、何か有意義なことを行ったとか、人の役に立ったとか、そういうことにあるのではない。むしろ、起こったとおりのことが起こったことにある。他にたくさんの可能性があったはずなのに、まさにこれが私の人生だったのだ。そこには、何の意味も必然性もない。何の理由も根拠もない。その事実そのものが、そのまま意義であり、価値なのである。偶然であると同時に必然でもあるこの剥き出しの事実性のうちにこそ、神性が顕現している。そこにこそ〈神〉が存在する。その奇跡に感嘆し、その〈神〉を讃えて、ニーチェがなした祝福の祈りこそ「永遠回帰」の祈りなのである。”
意味のない人生こそがわれわれの悦びの根源…。絶望の壁を眺めていたらそれがそれでいいなと思えるみたいな感じかな。こういうのって詩的な人がきっと共感するものでないかな。芸術性の高い人とか。と勝手に思う。なんとなく二種深信。
この本ではおおよそのニーチェの思想がつかめるし、勢いのある著者のニーチェ論も楽しく読める。ただし専門的なものを求めている人には向かないのではないかと思う。
著者おすすめは『この人を見よ』(自伝)、『悦ばしき知識』、『反キリスト』。自分用メモ。 -
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風間くんとは話を交わしたことがある。その風間くんに影響を受けて書かれたようだ。というより、理解されない可能性が高いのだよ。注が多くて、分かりにくかったりしてね。でも、なんというか、『私、今、そして神』を読んでからじゃないと意味が通じないかもね。この本は後半の時間論にこそ重きを置いているようだ。でも狂いそうだよ。ここに今、私が存在していることが。驚きは増せど減ることはなし。物凄く当たり前なことのそれが、全く奇跡なんだ。直接話法があることによって間接話法が存在するように。同じ対象があるかもしれないけど、それを指示する方法って色々あるものでして。でも、それによって違う対象を指すことにもなるわけで。でも、何かが共有されていることもあるのでしょうか。言葉が成り立つっていうのはすごく不思議。誤解されるところは存在論と認識論の違いがあって、永井さんは存在論のなかを生きている。自分は認識論のなかを生きていたように思う。認識できないものは存在しない、という原則に生きていた。
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「人はなんのために生きるの?」
「どうして勉強しなきゃいけないの?」
「“遊ぶ”ってどういうこと?」
「右翼と左翼って?」「ネアカとネクラって?」
なんとなく通り過ぎてしまうさまざまなテーマについて考えるきっかけをくれる、頭を使う=哲学することの入門書のような本。ペネトレという名の人間の言葉をしゃべる理屈っぽいネコと、飼い主の少年との対話篇という設定が可愛らしい。字が大きく、一つのテーマが数ページと短いので、サクッと読める。そこでとっかかりを掴んだら、もっと自分で掘り下げてみようという気持ちになる。子どものための、というタイトルではあるけれど、大人にも読み応え十分。
印象的だった部分を引用。
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ペネトレ: たとえばね、きみのクラスに、いやなやつがいりだろう。(中略)でもね、どんないやなやつだって、そうならざるをえなかった必然性というものがあるんだ。どうしようもなく、そうなっちゃってるんだよ。その人はね、自分がであってきたいろんな問題を自分の中でうまく処理するために、そういう人格をつくることがどうしても必要だったんだよ。そうでしかありえなかったんだよ。その人がそうでしかありえなかった理由が、ぜんぶすっかり理解できたら、その人に対してきみがいだいている感情は、消えてなくなるんだ。(p.61-62)
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今わたしが最も興味を持っているテーマというか概念?である、岸政彦さんが提唱する「他者の合理性」。人には人の乳酸菌♪じゃなくて合理性、あるいは必然性があるのだということ。すなわち、人が何か言ったりやったりするとき、側から見ると不合理と思えたとしても、その本人にとっては「そうせざるをえなかった理由」が必ずあるはずだ、ということ。それを前提にして、人の話を聞いたり理解しようとしたりすることで、その人に抱いていたネガティヴな感情が徐々に消えていく。わたし自身、意識するようになってからこのことを身をもって実感している。岸政彦さんは社会学者で、この本の著者は哲学者。分野を跨いで似た内容が違った切り口から書かれているのを読んで、きっと物事の本質に近い考え方なんだろうなあと改めて感じた。 -
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ネタバレこの本が導きだした結末に、僕はバカボンのパパを見た。
軽くググってみると、どうやら同じ感想を抱いた人は多いようで、ちらほらと同様のことが記されているページを確認することができる。
「これでいいのだ」という言葉を見たり、聞いたりすることで、ほっとしたり、どこか救われたような気がするのは、ニーチェがその身一つで普遍的道徳にメスを入れ、様々な嘘やごまかしに誠実に立ち向かった結果、たどり着いた境地だったからなのかもしれない。
もちろん「これでいいのだ」の裏にニーチェがいると断言できるわけはないし、そもそも赤塚不二夫がニーチェを知っていたかもわからない。そんなことはどうでもいい。
これは、とんでもなくおめでたい考えなのかもしれないけれど、そんな当たり前のことを導きだすために、尽力しつづけたニーチェはやっぱり偉大だと、僕は思った。
そして、その結末が図らずとも日本人なら誰もが知っている「これでいいのだ」に帰結するのは、単なる偶然でありながら、それは偶然性を維持した上での必然でもあり、そんな事実でさえも「これでいいのだ」と言ってしまいたくなった。
そんなこんなが、僕のニーチェだ。 -
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小中学生が過ごす日常を元にして、それから派生する「哲学的な問い」を一緒に住む猫、ペネトレが問いかけるようにして進む話。
内容はきれいに善悪で切れないことも多く、実際に子供に教えるのはとても難しいような気がするが、大人でも多くの学びがあって、面白い本。
哲学とは「答えのない問いを勝手に立てて、それを勝手に探る学問」であるという見方は面白かった。
だから、人それぞれ哲学があるのは普通の事。
そう思えば、哲学も手の届かない高尚なことではなくなりますね。
いいなと思ったこと。
・ネアカとは自分を持っていて、やりたいからやる人。ネクラとは周りの目線ばかり気にして認めてもらうためにやる人。
・自分に起こるいやなことや、不愉快な気分を自分の中でうまく処理する方法を身に着けるのが大人になるという事。
・人間は自分のことをわかってくれる人なんかいなくても生きていけるという事が、人間が学ぶべき何より大切なこと。
・将来、より深く、より楽しく、人生を遊びきるために勉強する。
・未来の準備そのものを現在の遊びにしちゃう。
後半は人の人生というよりは、そもそもの世界の成り立ちは?みたいなトコに視点が行ったので、あまり共感できなかったけど、なかなか面白かった。 -
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読み終えた感じたのだが、本書はヴィトゲンシュタインの入門書ではないかしれない。
つまりは手っ取り早くヴィトゲンシュタインについて理解したいという「入門者」向けではなく、どちらかというとヴィトゲンシュタインのテクストを丁寧に読解していくスタイルをたのしむ、読み飛ばしせずに深く読んでいく、という「入門書」として優れた内容だった。
そのため、読んだ結果を感想として「まとめる」のはおかしな話なのだが、それでも本書についてなにがしか言おうとするならば、ヴィトゲンシュタインを新書サイズで読解するというのは想像していた以上におもしろかった、ということくらいかくらいにとどめておいたほうがよい気がする。
本書はヴィトゲンシュタインの生涯とその思想について「まとまり」があり、検証、規則などヴィトゲンシュタインの思想のキーワードについて、著者の力の入った解説をかなりたのしみながら学べた。
次に読む(同じ講談社新書から出ている)鬼界彰夫『ウィトゲンシュタインはこう考えた-哲学的思考の全軌跡1912~1951』を数ページ読み始めているのだが、本書を読み返しつつ読み進めてヴィトゲンシュタインに「入門」していきたい。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ自分は頭がいい(猫=永井)という書き方が鼻につくが、私が持っている永井本の中で最も読みやすい。(中学生にも読めるようにとの記載があったが、それでもそれほど容易ではないと思う)
・ウィトゲンシュタイン:語りえぬものについては沈黙しなくてはならない。
・「ぼくらがそれについて語れないものっていうのは、結局のところ、存在、ってことになるんだよ。存在しないもの、って言わざるをえなくなるんだよ」
・「きみの言うその人形みたいなやつが、伊豆蔵翔太として生きているなら、他人は誰もその変化にきづかないだろう?きみから心が抜かれるっていうとき、実はきみは、伊豆蔵翔太って呼ばれているこの少年が、きみでなくなった状況を考えているだけなんだ。その伊豆蔵翔太には、あくまでも心があるんだよ」
・人生の意味:「幸運、不幸、偶然は何の根拠も意味もない。そういう意味のないことがたまたま起こったってことには意味があるんだ。その意味のなさこそをよくよく味わないと。そこでこそ、全宇宙の存在の奇跡と君の存在がの奇跡が出会うんだ。そいういう偶然を味わうためにこと、君は1回かぎりこの世に生まれてきたとさえ言える。」 -
Posted by ブクログ
ネタバレ永井本の中では読みやすい。(が、すべてさらっとは頭に入らない)
・だからニーチェは「重罰になる可能性をも考慮に入れて、どうしても殺したければ、やむをえない」と言ったのではない。彼は「やむをえない」と言ったのではなく、究極的には「そうするべきだ」と言ったのである。
・人生の価値は、何か有意義なことをおこなったとか、人の役に立ったとか、そういういことにあるのではない。むしろ、起こったとおりのことが起こったことにある。他にたくさんの可能性があったはずなのに、まさにこれが私の人生だったのだ。そこには、何の意味も必然性もない。何の理由も根拠もない。その事実そのものが、そのまま意義であり、価値なのである。偶然であると同時に必然でもあるこの剥き出しの事実性のうちにこそ、神性が顕現している。そこにこそ<神>が存在する。その奇跡に感嘆し、その<神>を讃えて、ニーチェがなした祝福の祈りこを「永遠回帰」の祈りなのである。 -
Posted by ブクログ
ウィトゲンシュタインは難しい。はっきり言って、一つ一つの文章は、何をいっているのか、ほとんど分からない。でも、なんか気になってしょうがない。そういう存在だ。
なぜ、分かりもしないものが気になるのか?
それは、私が、彼の風変わりな人生の物語と彼の哲学を重ね合わせて読むという非常にロマンティクな読み方をしているからとしか言えない。そういう観点で、ウィトゲンシュタインを読む私にとって、もっと強烈な読書体験は、「論理哲学論考」の結語「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」という言葉。
「ウィトゲンシュタイン入門」は、まさに「語りえぬもの」の問題を軸にして、ウィトゲンシュタインの哲学を初期から中期、後期へと著者独自(?)の解釈を進めていく。
著者は、ウィトゲンシュタインの「論考」での「語りえぬもの」という問題は、後期の「哲学探求」では「すべては言語ゲームであり、どんなことでも語りうる」となっているとしたうえで、「語りえない」ものは、「正当な言語の範囲拡大とともに、それは文字通りまったく語りえないものとなった」のだとする。
「入門」を超えた(しかしながら、「考えるという事が何なのかという事に関するそもそもな入門」ではある)スリリングな本であった。だけど、私にはこの本ですら、難しかったので、内容はともかく、自分の満足度としては星は4つとした。