前半41章、後半41章の、計82章から構成されている。前半は特に、章ごとにクレッシェンドが激しい。後半は逆に、各章の全体がフラット気味になる。
哲学することは、自分を消すこと。一人称ではない、ということ。
例えば、本書の冒頭で、自殺する人がこんなに少ない、ということは、本人が自殺したいわけではな
...続きを読むいし、他人に自殺をすすめるわけでもない、という主旨がある。
一人称の自分の悩みを解決することは哲学ではない。解決するのは、それはおそらく宗教。しかし、宗教には嘘がある。これには共感できる。そして、私も宗教からは遠ざかっていたい。
あとは、「ほぼ」著者の今まで通りの独自の理論。みんなが並んでいる世界。その中で自分だけが特別だという世界。さらに、じつはみんなが自分が自分だけだと考えていたという世界。これが精査に調べ上げられていた。
自分は特別だから、ケーキを、もう一個食べるのが正しい。しかし、みんなが、それぞれ自分自身を持っているので、それは正しくない。いや、でも、それでも、自分がそういう世界にあって特別だというのがこれまでの永井理論だったのが、今回の話では、そのさらに上への止揚が否定された。これは特記に値する。「ほぼ」と上記に書いたのは、そのためである。
その理由として、吸収や超越によって、どこまでも続くのだが、言語という面からすると、区別がつかないわけだから、ということになる。
あと、自分の疑問として、「私は例外期間を生きている」「世界に私は一人しかいない」という二つの公理が成り立っていた。それなら、別の時間を生きる私がいてもいいことになる。いわゆる生まれ変わりだ。これについては触れられていないことが気になる。
私が悟じいさんになるということは、悟じいさんが悟じいさんとしての私でなくなる、ということを意味するだろうが、それは、それまでの悟じいさんがどこかへ消えてしまうことになる。もちろん、私と悟じいさんが入れ替わりになるというのでもいいのだが、それは不自然に感じられる。すでに、悟じいさんとしての知識を知っているときに、悟じいさんになるということがおかしいのではないか。悟じいさんの目から見え、悟じいさんの足が踏まれると痛い、というのはおかしい。
それよりは、まだ誕生してもいない将来の私、何の身体的特徴もなく、まだ何もわからない私になることは、悟じいさんになるよりは、楽ではないだろうか。神様としての仕事としても楽ではないか。あっ、でも、これって、毎朝起きるときのことでしかないのか。
変身願望があるのは、その人の性質を得たいからであって、そこから開けた世界を見たいとか、そういうことではないと思う。総理大臣になりたいから、安倍晋三になりたい、とかは、安倍晋三の顔や言葉遣いが欲しいからでしかない。
だから、安倍晋三の顔で鏡を見たいとか、安倍晋三の声でしゃべりたい、というのは、結局、安倍晋三のそっくりさんになりたいのと同じではないか。
本物の安倍晋三になることと、偽物の安倍晋三になることの違いは何であろうか。双子は時として、なりすましができる。本物性を崩すことによって、偽物が本物の安倍晋三になることも可能になるというのが私のここまでのところの結論である。
なんだか全く関係ない話の展開になってしまった。でも、刺激的な本であることは間違いない。