永井均のレビュー一覧
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読み終えた感じたのだが、本書はヴィトゲンシュタインの入門書ではないかしれない。
つまりは手っ取り早くヴィトゲンシュタインについて理解したいという「入門者」向けではなく、どちらかというとヴィトゲンシュタインのテクストを丁寧に読解していくスタイルをたのしむ、読み飛ばしせずに深く読んでいく、という「入門書」として優れた内容だった。
そのため、読んだ結果を感想として「まとめる」のはおかしな話なのだが、それでも本書についてなにがしか言おうとするならば、ヴィトゲンシュタインを新書サイズで読解するというのは想像していた以上におもしろかった、ということくらいかくらいにとどめておいたほうがよい気がする。
本 -
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ネタバレ自分は頭がいい(猫=永井)という書き方が鼻につくが、私が持っている永井本の中で最も読みやすい。(中学生にも読めるようにとの記載があったが、それでもそれほど容易ではないと思う)
・ウィトゲンシュタイン:語りえぬものについては沈黙しなくてはならない。
・「ぼくらがそれについて語れないものっていうのは、結局のところ、存在、ってことになるんだよ。存在しないもの、って言わざるをえなくなるんだよ」
・「きみの言うその人形みたいなやつが、伊豆蔵翔太として生きているなら、他人は誰もその変化にきづかないだろう?きみから心が抜かれるっていうとき、実はきみは、伊豆蔵翔太って呼ばれているこの少年が、きみでなくなった状 -
Posted by ブクログ
ネタバレ永井本の中では読みやすい。(が、すべてさらっとは頭に入らない)
・だからニーチェは「重罰になる可能性をも考慮に入れて、どうしても殺したければ、やむをえない」と言ったのではない。彼は「やむをえない」と言ったのではなく、究極的には「そうするべきだ」と言ったのである。
・人生の価値は、何か有意義なことをおこなったとか、人の役に立ったとか、そういういことにあるのではない。むしろ、起こったとおりのことが起こったことにある。他にたくさんの可能性があったはずなのに、まさにこれが私の人生だったのだ。そこには、何の意味も必然性もない。何の理由も根拠もない。その事実そのものが、そのまま意義であり、価値なのである。 -
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ウィトゲンシュタインは難しい。はっきり言って、一つ一つの文章は、何をいっているのか、ほとんど分からない。でも、なんか気になってしょうがない。そういう存在だ。
なぜ、分かりもしないものが気になるのか?
それは、私が、彼の風変わりな人生の物語と彼の哲学を重ね合わせて読むという非常にロマンティクな読み方をしているからとしか言えない。そういう観点で、ウィトゲンシュタインを読む私にとって、もっと強烈な読書体験は、「論理哲学論考」の結語「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」という言葉。
「ウィトゲンシュタイン入門」は、まさに「語りえぬもの」の問題を軸にして、ウィトゲンシュタインの哲学 -
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哲学に憧れと魅力を感じつつもうっすらと勘づいていたが、やはりと言うべきか、哲学は私にとって縁のないもののようです。これは中島義道『哲学の教科書』を読んだ時も思ったことだが、本書ではっきりと自覚した。自分は「子どもの問い」なるものを強く抱いたことはないし、そういうものに特別興味があるわけでもないのだと。私が求めていたのはどうやら哲学ではなく思想だった。自分を支えてくれる思想。本書の中で著者が竹田青嗣氏のことを「彼の姿勢は哲学ではなく思想だ」(意訳)と批判しているが、私が竹田氏の『自分を知るための哲学入門』に好感を持ったのもまさに同じ理由だったのだろう。本書に登場した印象的な言葉を使えば、私の関心
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ニーチェはニヒリズムの人だ。ニヒリズムというのは一般的には全てのものごとには意味や価値なんてないという考えだろう。
以前,哲学史の本でニーチェの考えに触れたとき,私の心はすごく動揺した記憶がある。もちろん,ニーチェの考えの表面的なことしかそこにかかれていなかったが,自分の心をひどく動揺させた。
道徳的に正しいとか言われることは,ただ偶然に社会に好都合であるから,誰かが考えたその論理が「正しい」とされ残されてきたにすぎないのかもしれない。世の中で正しいと言われていることは偽りなのかもしれない。
強者は優良であることを,弱者は善良であることを「よい」とする。しかし,どちらも自分の立場から -
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空前の私的哲学ブームに乗って。ネットで勧められていた入門書2冊目。
本書は決して子ども向けの哲学書ではない。これから哲学をする人のために、著者自身の子どもの頃の問題である、「ぼくはなぜ存在するのか」「悪いことをしてはなぜいけないのか」を《例題》として、哲学をする《方法》について《手本》を見せている。著者の言う「哲学」とは、「結論よりも議論の過程を重視するタイプの思考法」のこと。哲学者の思想を学ぶことではなく、自分自身が疑問に思うことをとことん考えることなのだ。「彼ら(歴代の哲学者)の問題は、ぼく(著者)の問題ではない」。よって、著者の問題にわたしがついていけるはずがない。それでよいのだ。著者の -
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第2の問いの思考の過程の方がラディカルで良かった。第1の問いは、なんだかな。〈 〉の表記自体がこの場合、業界的で説明不足でイヤだった。
哲学を学ぶのではなく、哲学すること。結論ではなくその過程。潜水の例えはよく分かった。私は潜っている、しかし、〈ウソ〉を生きることに自覚的だからだろう。
読後は、自分が肯定されたようで、力を得た。
・理科教育での科学哲学。歴史教育での史実の推定の根拠と方法。
・哲学の問いが公共的な問いになる可能性はない。
・哲学の役に立たなさこそが存在理由。救い。
・道徳を使いこなせる力と鈍感さ。
・道徳が機能するために倫理学というイデオロギーは絶対に必要。ぜひとも必要な -
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話の内容としてはどこかで聞いたことがあるようなものばかりだが、特に印象に残ったのは、「培養器の中の脳」である。小さいころ、巨人がいて宇宙を飼っている(小さな箱のようなものに「宇宙」というものが入っている)持っているのではと妄想していた。雨が降るのは巨人が泣いているからだ、地震が起こるのは箱を落としたからだ、と考えていたが、あながち嘘ではないのかもしれない。
「培養器の中の脳」は、人間の脳だけを培養器で培養され、そこからコンピューターに接続されている。人間が見たり、感じたり、考えたりするのは脳の電気信号だと考えれば、ありえない話ではないだろう。
ただ小説ということで、しつこかったり、少年の考え -
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Posted by ブクログ
ネタバレ「この本は中学生・高校生向きの哲学の本です。」とのことですが、既にオジサンになってしまった私にとっても、とても難しい理解しにくい内容です。本書は1995年12月25日に刊行されたとのことですが、後の1997年7月に刊行された「子供のための哲学対話」の方が、ずっと分かりやすい内容にです。
この違いは、対象としている年齢の違いにもよりますが、翔太~の方が、読者自身が読者自身の疑問を読者自身で考えることを促しているのに対し、子供の~の方は、永井均さんなりの答えを明記しているという違いによるものだと思います。
つまり、哲学的な問いは、その問いそのものの意味を共有することが難しいので、そこに何らか