永井均のレビュー一覧
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筆者の問い2つを例に、外の哲学(実際の批判や考えうる哲学的立場からの批判)を織り交ぜながら筆者の哲学を走らせていく。それぞれの考えが錯綜しながら進むが、語り口が易しく明快なので、ゆっくり読んでいれば振り落とされることはない(と、思う)。前半はやや難解だが、後半は大人にも響きやすい内容だと思う。
大人が「当然こうだよね」と説明しないで作り上げている上げ底の世界に適応するために、その差をどのように埋めていくか底上げを模索するのが青年期の哲学だと表現していたのが、なるほど過ぎて笑ってしまった。そして、結局その差をうめたとて、0にしかならないという儚さゆえにも、哲学を必要とする人と必要としない人がくっきり別れていて、互いにわかりあうことが難しいのかもしれないと思った。 -
Posted by ブクログ
実践としての哲学入門書。
筆者が〈子ども〉のころから抱いた二つの問いである「なぜ〈ぼく〉は存在するのか」「なぜ悪いことをしてはいけないのか」について、筆者の施策の筋道が語られている。
哲学者の引用も少しあるが、そういう前提知識を必要とせず、とにかく筆者が考えを深めていく過程が書かれている。比較的平易な単語を使っており、難しい書き方で読者を煙に巻くようなこともない(それでも難しいところはあるが)。
そして筆者は言う、「哲学は、哲学なんてぜんぜん知らないうちから、なんのお手本もなしに、自分ひとりではじめるものでなければ、けっしてはじめることができないものだ。つまり、哲学の勉強をしてしまったら、もうおそいのだ。勉強は哲学の大敵である」「大人になるまえに抱く素朴な疑問の数々を、自分自身が本当に納得がいくまで決して手放さないこと、これだけである」と。
本書を読むと、その主張がよく分かる。筆者は本当に疑問を手放さない。おそらく今も、そして死ぬまでこの疑問を考え続けるのだろう。安易に答えを決めて納得してしまわない、ネガティヴ・ケイパビリティと思考体力のすごさに舌を巻いた。
そして筆者は、問い続ける過程こそが哲学だと言う。恐らくそのとおりなんだろう。
哲学とは、高名な哲学者の理論を学ぶことではないという筆者の言葉に目を開かれる一冊。ぜひ。 -
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[BOOK]2024.6.8 みなさんあたまがいいわね
2024年06月10日04:07全体に公開 みんなの日記23 view
よってこって読書会、3回目の参加になりました
今回もチームが2つに、4人ずつで分れて
本の書評を、なんとかネタバレさせないように
するという、ちょっとハードル高そうな
いえいえ、皆さん、とっても上手に本を紹介されて
つい、読んでみようかな、と思わせてしまう
子どものための哲学入門
これ、よかったですねぇ
哲学猫のペネトリィと子どもの対話で展開していく
人間は何のために生きているのか、、、、
えっ、3ページ、で説明している
ねくらとねあか、、、この説明も面白くて
ねあかは「根本的に自分自身で満たされている」
ねくらは「ほかのだれかに認めてもらわないと満たされない」
自分が思っていた世界と違っているところを見つけるのがとても面白い、む
ああっ、ちょっと子ども、お母さん
うるさいなぁ、、、
できれば次回からは
2階とかもう少し静かな所で
やりたいなぁ、、、
あっ、こころの声が漏れてしまったぁ
翌日、たまりばたけでTさんが「みなさんあたまがいいわね」
本当にそうだなぁ、と思いました(^^♪
smile(^O^)
[BOOK]2026.6.5 学問はこの世で一番楽しい遊び編集する
2026年06月25日04:06全体に公開 みんなの日記 133 view
「子供のための哲学対話」、これは数回前の読書会で紹介されて
興味を持った本でした。
、、、しかしペネロペの特に後半の哲学的遊びには
少しついていけないものがありました
なので、(^O^)が一番学べたのは
遊ぶ=自分のしたいことをしてその中だけで完全に満ち足りている状態を楽しむ
⇒で学問はこの世で一番楽しい「遊び」と結ばれました。
人間は何のために生きているの?・・・結局「遊ぶ」ためさ
(^O^)なりに考えてみると
自分が研ぎ澄まされた「直観(物事の本質や真理を直接的に洞察する能力)」
を駆使して、時宜を逃さず、身に着けた「遊び=学問(例えばニコニコ学)」
に生きがいを感じて粛々進めていく
ということかな、とちょっとDEEP過ぎますかねぇ
まぁ、それなりに読み応えのあるものでした(^^♪
smile(^O^)
2026/5/12(火)~
・遊ぶ=自分のしたいことをしてその中だけで完全に満ち足りている状態を楽しむ。P37へんな仕事の意味~P48情けは人のためならず
・(P39~)いやだと心に残ること―消したい、ではなく忘れるのは惜しいと心にいつまでも留めたくなるもの。いやなことは「不図ふと(意図なしに)」やってみるもの、ただやり始めてみること(~P68)
・P63人間は「自分のことをわかってくれる人なんかいなくても生きていける」ってことこそが「人間が学ぶべき何より大切なこと」
・(P69~)根が明るい-根本的に自分自身で満ち足りている。なんにも意味のあることをしていなくても、ほかのだれかに認めてもらわなくても「ただ存在しているだけで」満ち足りているということ
(P16)左翼:民族、国家に縛られない民衆の創意と自発性を信頼、右翼:民族の伝統の中で培われたものの見方や精神的な拠り所としての国家の役割を重視(P74)(~P77)
・P78第3章地球は青くない―ほんとうはやっぱり存在しているではなく「見える」ってことがすべての出発点(P84)~P93
・P111神さまにできることは様々な心や体を待った様々な人間を作ることだけ―それが自分であるということはわからない(P94~P112) -
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正直、あまり分からなかった。ニーチェ思想がニヒリズムの代表例で、生に意味がないという事を自明にした上で、生を味わい尽くそうとする姿勢であることは、改めて理解することができた。よく誤解されてるのは、ニーチェは生きる意味なんてないから、退廃的で何も頑張る必要もないんだと諦めの思想で捉えられることがある気がするが、実際にはそうでなく、どうせ意味なんてないのだから、期待を捨てて前向きに味わおう、という視点なのだろうと思った。宗教の権威性が失われてきている現代社会だからこそ、求められる思想なのではないだろうか。毎日上司と嫁の言いなりになっているロボットのような日本のサラリーマンも、考え方としては救われるのではないだろうか?
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ネタバレそれが実際の人間の存在であろうが言葉であろうが絵や本や創作物から感じた人間的な概念であろうが理想の未来の伴侶であろうが過去の想い出であろうが動物や真の世界などの非人間的なものであろうがなんでもいいが、たとえばどんなに孤独な人間であってもなんらかの所謂「繋がり」を感じる瞬間がなければ生き続けていられないような気はしている。しかしそれにも関わらず真の意味で「 “本当に” ひとりになってしまった(しまう)」と思い知る瞬間が人生のどこかの段階で必ず来るような気がする。そしてそう考えたりそれを敢えて言葉にしたりすることによってそれ以上のまだ「なにか」があると信じたいということだろうか(そのなんと心強いことだろう!)
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「上品な人は道徳的な善悪なんてたいして重視しないから、けっこう平気で悪いとされていることができるからね。逆に、下品な人は、道徳的な善悪を重視しがちだな。-達成される目標じゃなくて、過程そのものを味わえるようになるって点は同じだな。それが、人生が遊びである人があまり悪いことをしない理由だな。」
「人間は自分のことをわかってくれる人なんかいなくても生きていけるってことこそが、人間が学ぶべき、なによりたいせつなことなんだ。そして、友情って、本来、友だちなんかいなくても生きていける人たちのあいだにしか、成り立たないものなんじゃないかな?」
「ちゃんとした人っていうのは、自分の未来のために自分の現在を犠牲にできる人のことなんだ。逆に、自分の現在のために自分の未来を犠牲にしちゃうのがどうしようもないやつさ。」
「約束を守る」という約束
「もし、きみがだれかに対して、そういう世界の中心がそこにあるって感じたなら、それは愛だよ」
「対立っていうのは、ほとんど前提を共有しているもののあいだでしか、起こらないんだよ。」
右翼と左翼は対立していない。
右翼……民族の伝統の中で培われたものの見かたや、精神的なよりどころとしての国家の役割を重視する考えかた。
左翼……民族とか国家に縛られない、民衆の創意と自発性を信頼する考え方。
世の中が人に与えることのできる一番重い罰は死刑。つまり、死ぬつもりならなにをしてもよいということを暗に認めている。認めざるをえない。 -
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たまに読み返すが、一回目に読んだときより数倍面白い読書体験ができる。スルメ本や。
著者の言っている「哲学」が本当の哲学ならば、勘違いしている人が多い気がする。("本当の"なんて書いてしまっている。何事にも明確な答えがあると思っていたんだね。2025/10/20)
私は哲学も好きだが、それ以上に思想が好きだったのかな
著者の言う「哲学」というのは、問いに対して正しく考えていく作業のことだと解釈した。
実在論 懐疑論 可能世界 余人
p37二重スリット問題
「彼女がほんとうは怒りっぽいとか、この部屋は見られてないときには存在しないとか、ぼくたちが培養脳の中の脳だとか、そういうことが主張できるためには、ぼくたちが実際に手に入れられるような根拠がなくちゃいけないってことなんだね!」悪魔の証明、無知に訴える論証
p41「ふつうのひとは誰でも実在論的真理観を持っているね。つまり、人はこっち側に主観的な『考え』があって向こう側に客観的な『事実』がある。その二つが一致すれば、その考えは真理だった、ていうわけだ。」
p88「……最後に生じる味ってものが生じなくても、物理化学的には何の問題もないところだな。味蕾から脳までインパルスが伝達されて、脳に何か物理的な変化が起こるってことは、『味がする』ってこととは別のことだね?」
物理化学的な反応の後に精神主観的な「味」というものがなぜでてくるのかの理由は説明できない。
超越論的観念論……カントが考えたもの。心の外から出て、因果性が心の外の外界で客観的に成り立っていることを証明しようとした。そこでカテゴリーという概念を導入した。
さまざまな感覚的経験にカテゴリーが適用されることによって、はじめて、それが客観的な現実として認められることになる。統覚というはたらきを利用してカテゴリーに従って自分が知覚したり経験したりするさまざまなことを秩序付ける。
五覚では視覚が優先される「幻触」はあまり聞かない。
「ぼく」という存在を起点として「ぼく」の存在証明ができる。「ぼく」という存在に因果は通用しない。
仮に私と全く同じ遺伝子を持ち、全く同じ環境で育った人がいたとして、それは私になり得るか?否。私はここにいる私のみ。こういうことかな。自我で操れないものは自分ではない。
「ぼくらはぼくらの言語とぼくらの理解力の外に出ることはできないんだ。可能性というのはその中でしか考えられない」
p78「色盲っていうのはね、ある色が別の色に見えることじゃないんだよ。ふつうの人が識別できる複数の色が識別できないことなんだよ。」
「意味をちゃんと習得したと認められた後になってはじめて、事実に関して常軌を逸した主張をすることが可能になるんだよ。」
p94「人間の表情や動作や発言は、痛みの本質そのものと直接につながっているんだ。意味そのものを定めているんだから、必然的な関係って言ったっていい。それに対して、中枢神経や脳の状態は、そもそも痛みとは何であるかってことを決めているんじゃなくて、痛みの概念が確定した後で、それがどういう状況と関連しているかってことを言っているにすぎないんだよ」
微笑みうつ病はどうなるのか?
「嘘とはなんであるか、という嘘の意味を考えるときに、嘘発見器を使おうとするようなもの」
夢の本質は眠っている時に見る、ということにある。
恋はその人の持つ性質に向けられたものだが、愛はその人そのものに向けられるもの。p105
存在を定義づけているもの、存在の本質は何であるか?
時空的に連続していること。時空的に連続して生きた人間でありさえすれば、ほかの何が変わってもその人はその人。(自己に限る?)
補足 時空間をテレポートしたとしても、そういうことが現実に起こっていない、ということがぼくらの同一性の概念に影響を与えており、テレポートが起こったように見えても信用しないという前提で人の同一性は考えられている。
勝ったという事実すら消える。現実においては当然のものとなった。人権概念は勝利した。それが「勝てば官軍」の本当の意味
「自分の側からは決して到達できない、相手の固有の価値みたいなものがあることを、どうしても信じたい」……相対主義p183
正義原理は過去思考的、功利原理は未来志向的p146
オウムやナチスに、倫理的な間違いを証明することはできるか?私達が今いる世界が倫理的に正しいと言えるか?
利便性のために交通事故での死や森林破壊や大気汚染を肯定する私達の世界は正しいと言えるか?
分からない。なぜなら人間の倫理性がたまたまその程度にできているというコト以外考えられないから。
「特に倫理的な問題はね、現に生きている大人の多くが、なぜかそれに納得を感じるっていうことによってしか、究極的には根拠づけることができないんだ」p156
「事実判断から価値判断が導き出せないって主張なんだけど……(略)」p164「ほんとうはよくないんじゃないかって、問題にしていけるってことが、事実から価値が導き出せないってことのポイントなんだよ」p165「価値から価値が導き出せないってことが、問題のすべてなんだよ。」
虚偽意識p163
自覚障害と実践障害p187 「意味が分かる」とは 言葉は理解するものではない。使うもの。実際に使えているかどうかでしか「意味が分かっているか」は分からない。
p199三段論法
意思と欲望は同じ
死は体験ではない。受け容れるべき現実。
理性と理由と根拠はもともとみんな同じ言葉p158
ウィトゲンシュタインのパラドクス
ニヒリズム……全てに意味がない = 全てに意味がある
「道徳の存在を前提としたうえで自分を特別扱いする仕方を考え出す」
利他的な行為は無い。すべての行動は利己的に為されている。
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哲学書と自己啓発本がおり混ざっており、評価も難しい。自己啓発本というジャンル自体はろくでもないが、それに哲学的バックグラウンドが合わさるだけで評価を難しくする。
この本の作者(ペネトレ)は、様々な問題に対して答えをあまり用意していない。これにより、読者は作者が何を言いたいか考えなければならない。『この本のほんとうの意味っていうのは、この本の読者のひとりひとりにとって、それぞれちがっていていいのさ。だいじなことは、自分で発見するってことなんだ』
『ネアカな人や上品な人はちがうよ。そんなものなしに、未来の遊びのための準備それ自体を、現在の遊びにしちゃうことができるんだよ。他人のための奉仕それ自体を、自分の娯楽にしちゃうことだってできるさ』これ、二つ上の社会不適合先輩に聞かせたい -
Posted by ブクログ
難しい. どうまとめたら良いか,上手く表現できない. ただ多くの気づきがあ流と同時に味わいきれない歯痒さもある.
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筆者の問い
・ニーチェや彼の哲学について書かれたにある何か有益なものを抜きだそうという姿勢への批判
・多くの書物がニーチェから問いではなく答えを受け取っている。
"哲学は主張ではない。それは、徹頭徹尾、問いであり、問いの空間の設定であり、その空間をめぐる研究である。"
"子供は無垢であり、忘却である。新しい始まりであり、遊びである。自ら回る車輪であり、自動運動であり、聖なる肯定である。"
「どうして人を殺してはいけないのか」
ある種の人はこの手の素朴な質問を素直に受け取れない。問い自体に不穏なものを感じ取る。
→ダメなものはダメなんだという大人より、そこに真正な問いがあると見抜いた質問者こそが誠実さと真理への意思を持つもの。
実際の回答でありがちなのは相互性の原理。→自分にやられたくないことをしてはいけない。→もし自分が「いつ死んでも良い」と思っている人には通じない。
→
いつ死んでもいいと思う人(無敵の人、ジョーカー)に倫理は無力。
倫理の自分の生を基本的に肯定していることが基盤となる。
→子供にまず教えるべきなのは道徳ではなく、自己と生が根源的に肯定されるべきものだということを体に思い込ませること。
生の肯定あっての倫理。逆は成り立たない
ニーチェ→究極に空気を読まない人?ラディカルの極み?
道徳を否定する道徳
・道徳的判断が真理に基づいていることの否定
・道徳がある行動を駆り立てたことの否定
"すべての宗教は、人類初期の未熟な知性にその起源をおうと言う特徴を持つ。それらはどれも真理を語るという義務を驚くほど軽視する"
"真理が有益であるかどうか、真理が自分に災害をもたらすんじゃないか、そんな疑問を持ってはならない。"
”キリスト教道徳によって育まれた誠実な真理への意思は,これまでの人生に意味を与えていたものが嘘であることを宣言することによってーさらにはそのような新入り意思そのものの卑しい出自を自己暴露することによってー人々を徹底的なニヒリズムに陥れる”
”本当は無であるものを誠実に無と認めたこと,真実をごまかさずに直視し,真理を認識したということを,それは意味する.”
狐「あれは酸っぱい葡萄だ」→相手の価値空間の内部で価値を引き下げているに過ぎない.
「葡萄を食べない人生こそが良い人生だ」と自分の内部で実感する価値の転倒=ルサンチマンが発揮する創造性,新しい世界解釈
罪を犯すものおよびそれを罰する者(報いる者)= 債務者と債権者
”キリスト教の本質は個々の人間が唯一の神に対して負債を追っている.という解釈の創造”
→人は生まれながらにして罪(負債)を背負っているという設定の強制
”この解釈こそが人間を救うのである.はけ口を失った不安な生は「罪人」という烙印を押されることによって,初めて意味を持つからである”
→「罪人」という烙印に救われる人間がいる.
”人間の生全体を「罪」という観点から意味付ける,新たな強力な道徳空間”
→「まだ気づいてないかもしれないがお前は生まれながらにして莫大な借金を抱えているんだ.でもその借金は俺たちの親分が支払ってくれたんだ.」という欺瞞・でっちあげ.
・キリストの磔刑は債権者が愛を持って債務者に手を差し伸べるというさらにより返せない債務を押し付ける行為
”僧侶は,この世で苦悩の原因を取り除いてはくれないが,それに意味を与えることで,生に希望を与えてくれるのだ.”
“真理は醜い,真理によって滅びないために我々は芸術を持つ”
キリスト教:罪にどう抗うか
仏教:苦しみにどう抗うか
意味を問わず,あるもの・起きたことををあるがままに受容し,それ自体を肯定する.
永劫回帰. -
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永井均は、大学一回生の頃に『転校生とブラックジャック』を読んで一目惚れし、それ以来ずっと気になっている哲学者である。とは言え、彼の著作は今までほとんど読めていない。それは、彼の著作に挑むには、かなりの勇気を要するからだ!
本書は、副題に「哲学的諸問題へのいざない」とあることからも分かるように、哲学の入門書である。読むのに哲学の特別な知識は必要でない。中学生の翔太と猫のインサイトが対話をする中で考えを深めていくという内容になっている。だが、この設定や可愛らしい表紙に騙されてはいけない。入門書と言いつつも非常に本質的な議論が展開され、読者は、普段の生活のなかでは気にも留めなかったがよくよく考えてみると不思議な問題について自分の頭でトコトン考える営みに誘われる。レビューの最初に「永井均を読むには勇気を要する」と書いたのはこれである。つまり、生半可な覚悟で読み始めると目は紙面を滑るだけで議論を追えず、ましてや自分の考えを深めることなどできず、ただ時間を浪費するだけになりかねない(僕自身の経験です笑)。哲学は、決して知識の羅列ではなく、自分の頭で考え続ける営みそのものだ、ということに気づかせてくれる一冊だ。
・p.11 少し前に書いた『鬼滅の刃無限列車編』のレビューと偶然にも関連している。
・p.32 「立花由美」が生まれてから死ぬまでに一度も怒ったことがないのに、(彼女を怒らせる出来事がなかっただけで)彼女は実は怒りんぼうだったということが有り得るかという問題について。「怒りやすさ」のアナロジーとして「才能」が思い浮かんだ。例えば、「何に才能があるか分からないから色々なことを経験するべき」という言説があるが、これは暗黙のうちに才能というものの実在を仮定している。現実としてあるのは、「人物AがあることBをして上手くいった」ということだけで、それを後から見て「AはBに才能があった(だから上手くいった)」と言っているだけなのに。そういう言い方をすると、人の一生は予め決まっているのだ、みたいな決定論・運命論に繋がってくる。あたかも実在があるかのように言っていることは、身の回りにたくさんある気がする。そのほとんどは別に実在的だろうがそうでなかろうが特に困らないだろうが、才能のようなセンシティブな事柄については慎重にならなければならないように感じた。
・p.35「自然な」超越とはなんだろうか?何をもってその自然さは妥当なものとされるのだろう。以前読んだ『科学哲学の冒険』には、科学の一推論手法としての帰納法は、世界の連続性がないと成り立たないと書いてあった。多分、自然さも世界の連続性から担保されるのだと思う。ただ、世界は連続だと言っても、僕たちが感じている世界には不連続性が至るところにあるし、僕たちにとっては僕たちが感じ取れる世界がすべてなのだ。例えば、瞬き(コンマ数秒の不連続)・夜寝ること(数時間の不連続)。確かにそれこそ「寝ている間」にも世界は実在していると思い込むしかないだろう(し、それが自然だと思う)。
・p.56 「H2O」が物質であるのに対し、「水」は現象であるように感じる。「水」というものは、僕たちが普段感じるあの「水らしさ」から定義されていると思う。例えば「水に流す」など、比喩の中で水という言葉が使われることも多いが、そういうとき、水を物質としてではなく、性質から構成されるものとして捉えている気がする。つまり、「水」は「H2O」であろうとなかろうと依然として「水」だ。
・p.110 時空間的な連続性が他者の同一性を保証しているとあるが、普段の生活の中ではそんなことはしていないだろう。ある日友人と別れて次の日また会ったとき、(その間の連続性を確認していないわけだから)ある日あった友人と次の日あった友人を同一であると見なすのは、結局顔や声・体つきだ(もちろん、別れてからずっと監視していれば、時空間的に連続しているかあるいは不連続かが確かめられるけど)。自分がどのように同一であるかを他者にも当てはめているか、見た目で区別がつかない人間が二人現れることは滅多にないという確率的・統計的な推論をしているのだと思う。
・p.135 有名なラッセルのパラドックスに構造が似ている。
・p.206 大学に入ってすぐの頃、数学基礎論を少し勉強してなんか大学っぽいことをやってるなぁと嬉しがっていたのだが、例えばモーダスポネンスといった推論規則は公理として認めることにガッカリした記憶がある。それを最初から認めるなら、全然「基礎」じゃないじゃん、と正直不満だった。大学院生のチューターの方はそれについて「メタ的な議論なわけだね」って言ってたけど。今考えてみれば当たり前で、数学は公理が与えられないとどうしようもない(それは、数学基礎論であろうと)。数学も「言語ゲーム」の一つなわけだ。今となってはそのとき勉強した知識を使う機会もないけど、数学基礎論とか公理的集合論とか勉強して良かったと思っている(唐突な自分語り)。
・p.232 「ここ」と「いま」の違いには、空間は前進・後退ができるけど、時間は一方向にしか流れないという違いも大きいと思う。