どの作品も、読んでいるとひんやりとした薄気味悪さが残る。
「パレード」みたいになったらどうしようと、どきどきしながら読む。
表題作は、主人公の大輔が恐い。
よかれと思ったことは強引なまでに押し付けてくる、話の通じなさが恐い。
ろくにつきあってもいないのに、同棲するにあたって彼女には仕事をやめさせ、養ってやる。
子どもの面倒も、もちろん見てやる。
母の再婚相手の連れ子だった光男が転がり込んでくれば、もちろん一緒に暮らして面倒をみてやる。
ボーナスが出たら、彼女とその娘、義理の弟を海外旅行に連れていってやる。誰も望んでいないのに。
そればかりか、大家さんである独り暮らしの老人、時先生まで、連れて行ってやる。
さすがに度が過ぎている。
人に何かをしてもらうことが嫌いで、反対に何かをしてやることが大好き。多分無自覚。
無意識の優越感?
大輔は、真実や小麦(娘)や光男を守ってやっているつもりでいるのだろう。
人が手をかけてやらないと死んでしまう熱帯魚のように。
でも、大輔の方が優越感を持たせてもらっていることで、守られている。
彼らを見下すことで、かろうじて自分を肯定できるのかもしれない。
本当に世間と関わろうとしていないのはどちらなのか。
光男より、大輔の方が一歩間違えるととんでもないところへ行ってしまいそうで、それがとても怖かった。
“学生と話しているときの先生は、大輔の前では見せたことのない顔をした。もちろん彼と一緒の時でも、先生は楽しそうな顔はする。ただ、学生に何かしら難しい質問をされたときのような、嬉しそうな顔はしたことがない。楽しそうな顔と嬉しそうな顔は、似ているようでどこかが違った。”
誰からも一番に好かれたいというのは、傲慢なことではないか。
なのに、誰かに一番好きなわけではないと思われたら、途端に不安になってしまう。
危ういバランスで保っているプライドが、痛々しくてつらい。
「グリンピース」「突風」共に、ここにいる自分は仮の姿と思い、周囲の人間を見下して、ひとり孤高を保つ青年が主人公。
皆、目の前の人を見ようとしないし、知ろうとしない。
見たいものしか見ない。知りたいことしか知らない。頑なに。
コミュニケーションを拒み、自分を守ることだけに懸命になる主人公たちは、守った末に何を得るのだろう?
“いくら高くても悲観論を買え。騙されちゃいけない、もともと楽観論は無料なのだ、と。”