エンゲルスのレビュー一覧
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Posted by ブクログ
マルクスやエンゲルスの体裁が整った著作とは違って、これはノートのような紙に思いついたこと、またはどこかで学んだことをひたすら書き連ねた本である。またエンゲルスが主に執筆した箇所をマルクスが書き加えたり、線を引いて消したり、また絵のような内容を書き加えたりしている。
体裁が整った著書は当然だが取捨選択しているので、彼らがどのような発想をしているか、も当然だが取捨選択している。しかしこの本に関しては思いついたこと、また学んだことの成果をそのまま載せているので、彼らがどのようにして「唯物史観」や「共産主義」の原理を構築したかが読み取れるし、またフォイエルバッハの哲学をどのように学んでいたか、が分かる。
とはいえ、断片的であるのは当然で、分かりにくいのはたしか。ただ生々しいマルクス、エンゲルスの頭の中身がわかる気もする。 -
Posted by ブクログ
貧富の差は自己疎外により拡大再生産される。
資本主義社会では、持てる者は更に持ち物を増やし、持たざる者は更に持ち物を失う。
この理由を「疎外」概念で説明した。
これはとても明晰な分析だと思う。
働く、否働かざるを得なくなる、というのは、その非自主性故に、
心も体も懐も貧しくなってしまうのだ。
これについては、アリストテレースも言っていた。
「だから真っ当な市民は政治以外の場面で働いちゃダメなんだよ。生活の為に働くのは奴隷だけで良いんだよ。」
つまり、資本主義下で働く者は、本質的には資本家の奴隷なのだ。つまり、自由を身代とされた金の奴隷なのだ。
何か暗い話になりそうですが、ここで素敵な助け船が登場。
バタイユは言う「ある時点に達すると、拡張の利息は逆の利息、すなわち奢侈のそれによって相殺される。」。
稼ぎすぎるとマイナスになるくらい吐きださなくちゃいけなくなるよ、と。
つまり、富を独占しちゃうと革命を起こされちゃうよ、と。
あ、マルクスと同じだ。
(でも、ココから私有財産否定にまで跳んでしまったのは、マルクス痛恨のミスだろうなぁ。。) -
Posted by ブクログ
このシリーズの、資本論、続資本論を読んだ後、そのままの流れで手にした。
資本主義では補いきれない部分を共産主義が持っているって何かの本を読んだときに学んだのがきっかけかな。
少し話は違うかもしれないけど、今の仕事に当てはめて考えてみた。
営業で頑張った結果をインセンで評価してもらって、給料をアップさせていける仕事。これが資本主義的な考え方に近いのかな。結果をだせば評価してもらえるっていうのは、醍醐味な部分で良いけど、頑張っていても、結果が出ない場合は評価されない。
反対に、1人が頑張るんじゃなくてみんなで結果をつくっていく仕組みができていて、評価は1人に対してではなくチームとか、会社全体としての売上をつくっていって、定性的に評価されて賞与ではなく、次回のペースアップにしてくれるっていう制度。これが共産主義的な考え方で、出てきた利益を平等に分配されていくっていうことかな。
どっちが優れているのかは正直わからない。ただ頑張って結果出しても評価されなかったら頑張り続けることはできない。
平等とは何か?優劣を極める方がよいのか?価値観によるものかもしれないけど、自分なりに心地よく感じられる場所を模索していくこと、何かに固執してしまうんじゃなくて、考えながら可変していける環境がつくれたら幸せなんじゃないかなって感じた。 -
Posted by ブクログ
この岩波第8巻は、資本論のクライマックス、地代論である。
詳細な土地評価を通じて、土地という天然物から地主が絶対地代という不労所得を得ることが証明される。
マルクスは、信用論の後にこの地代論を置くことで、自然と結びついた地代こそが、金融資本に増して資本の増殖にとって決定的だと見ていたのだろうが、
今の自分からは、利子も地代も共に不労所得であり、そこまでの差は感じない。
逆に、様々なルール変更を通じて利益を吸い上げる銀行の方が、現代では資本主義のラスボスという感じがするが、そこは時代の違いなのだろう。
あと残り1巻だが、ここまでの流れを簡単にまとめる
■《現状分析》当時の労働者の窮状
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■《原因分析》資本家による労働者搾取。剰余価値は労働者のタダ働きによりもたらされる
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■《証明》流通過程の分析。生産費用は個別のものではなく社会全体で決まります
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■《根本的問題追究①》信用論。産業資本家は実は管理労働をする労働者にすぎない。本当に巻き上げているのは金融資本、つまり金貸し、つまり銀行
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■《根本的問題追究②》地代論。地代も金融資本と同じく不労所得
だから、結論から書いてほしかった。 -
Posted by ブクログ
何で先に結論から言わなかったんだ。
と、著者に無粋な質問をしたくなる。
後半に来て、ようやく利子と信用の話。
金貸し=銀行が利子を追求することが、そもそもの資本の支配の根源である、と言う内容だ。
ここまで議論されてきた、
当時の労働者の窮状や、
企業オーナーつまり産業を通じてそれを推進する産業資本家
(ここに至って結局「管理という仕事内容の労働者」と呼ばれる)、
社会全体の流通過程、
と言う話は結局、
利子という不労所得の追求にその根本的原因が求められる。
この肝心要をこんなわかりにくい本の後半戦に書いても、
辿り着く前に読むのをやめてしまう人がほとんどだ。
その失策こそが、以後数百年の共産主義がマクロ視点にたどり着かず、
平等やプロレタリア主義と言ったミクロ視点の範囲に留まってしまった元凶ではないか。
純粋にこの『資本論』を読めば、
それは理路整然とした、そしてもちろん現代にも普遍的に通じる、
「資本制への批判」に過ぎない。
そして、資本が人間を置き去りに暴走する、という制度的問題に対しては、
革命よりもルールや規制=手綱が適したのではないか、という気がする。
この信用論の後は地代の話になるとか。
もしもマルクスがマクロから書き始めるか、せめて本書の最終的な方向性を先に示しておきさえしてくれたならば、
歴史はもう少し違っていたのかも、などと考えた。 -
Posted by ブクログ
この岩波文庫第六巻、本編の第三巻では、生産過程の分析を経て、流通過程を含め、資本制度が商業全体を動かす流れと、その中の利潤の発生過程を分析している。
驚くべきは、マルクスが資本制度の分析から的確に未来社会を予測している点である。
と言うよりも、それは資本制の当初から何も変わっていないとも言える。
社会の中での機能的役割を重視した教育制度。
市場価格の下を潜る新たな薄利多売モデルの継続的な出現。
企業の競争や吸収、合併により、小規模ビジネスが巨大資本に飲み込まれる、など。
マルクスと言えばマルクス主義=共産主義、という月並みな知識で読み始めたが、改めて本著は資本制についての批判の書であり、共産主義についての書ではないと意識させられた。
以下、内容のメモとして。
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第三巻 資本主義的生産の総過程
第一篇
剰余価値の利潤への転化と剰余価値率の利潤率への転化
-利潤とは、単純な販売価格とコストの差ではない。
そもそも、コスト自体に不払い労働=剰余価値が含まれている、つまり労働を犠牲にしている。
第二篇
利潤の平均利潤への転化
-利潤とは社会全体的な視点により決まっている。
それが、生産と商業の流れのなかで個別資本家に振り分けられるだけ。
第三篇
利潤率の傾向的低下の法則
-規模の経済の話。
生産は、大量生産に向かうことで、単位当たりの不変資本(設備など)に対する可変資本(労働)の割合を減少させる。
これに伴い、剰余価値率が下がるので利潤率が下がるが、規模がその減少を遥かに上回って拡大し、利潤額は上昇する。
規模が拡大できない既存小規模資本は淘汰されるかより大規模な資本に合併される。
そして、利潤率の低下に伴い新規参入のハードルは下がるため、新規資本が参入して新たな競争が起こる。
つまり、競争があるから利潤率が下がるのではない、逆である。
第四篇
商品資本および貨幣資本の商品取引資本および花柄取引資本への転化(商人資本)
-産業資本(生産過程)が不払い労働という剰余価値を生むのに対し、商人資本(流通過程)は直接利潤を生まない。
-近代的信用制度のもとで、恐慌は常に、消費者側ではなく、銀行業及び卸売業にて勃発する。