Posted by ブクログ
2020年07月01日
『共産党宣言』マルクス・エンゲルス著を読む。
自殺者が年間十万人を超え、
不登校引きこもり、無気力が多く、
鬱病などの精神疾患が席巻しているわけは、
やはり、
「人間が人間らしく生きられず、
生産を高めるための機械であることが生きる意味」になっている社会の現状があると思います。
いかに心が優し...続きを読むくても、人を思いやる心があろうとも、絵を描いたり音楽を奏でる才能や、美しい文章が書ける人、いかに知識や教養のある人でも、
資本を拡大するための定められた単純な作業さえもできなければ、
「社会不適応」
「お前には生きる権利はない」
という扱いを受けることになります。
鬱になろうが、病気になろうが、人がその結果死のうが、
資本と生産性が、人命よりも優先されることになります。
人命や人権の尊重は、「そうしないと結果生産性が上がらないから」という建前で守られているだけです。
いわば、世界は資本主義という宗教に侵略され、洗脳されており、
貨幣というお札に宿る神さまに対する偶像崇拝を強制され、
そのために人が死んだり殺しあったりするわけです。
星空の美しさや、大海原や大自然の美しさ、
人間存在の神秘にゆっくり想いを馳せる余裕もない。
マルクスは、
資本主義社会の問題点を提起し、
「一人ひとりの自由な発展なくして、
全ての人の自由な発展はない」
という互いに助け合う社会の理想を説いたわけです。
資本主義社会というのは、
お金を生み出す仕組みを持っている金持ちがますますお金持ちになる。
というか、どんどん発展していかないと、潰れてしまう運命にあるから、
馬車馬のように資本を拡大させ続けなければいけない。
働く人は、
その資本を拡大させるための「商品」であり、利潤を生み出す機械の一部でしかない。
たとえ、何でも生産してくれる機械ができたとしても、
それでも、「人間」から「人間」が搾り取る構図は変わりません。
それどころか、仕事の喜びや特殊技能は、ますます機械に奪われます。
誰が悪いというわけでなく、
「そういうゲーム」なのです。
「モノポリー」というゲームの勝敗は、
誰か一人が、全ての市場を独占し、ほかの全てのプレイヤーを破産させることで決まりますが、
ゴールが破綻と決まっているのが、資本主義というゲームのシステムなのです。
そして、誰一人としてこのゲームから降りることはできません。
マルクスは、資本主義の終焉を予言し、
世界中の労働者が、国境を越えて団結し、革命を起こして、
工場や資本を全員で共有する、分かち合う社会を言いましたが、
社会主義の歴史実験は失敗に終わり、
百年経っても、現状は変わっていません。
ただ、
マルクスさんの分析は「正しい」かもしれないけれども、
真ん中の一行を除いてはほかに、
「ワクワク」はしないのです。
世の中こういう風におかしい、
社会の構造のため、こんなに苦しんでいる人がいる、
こういう風に変えなければ!
というのはものすごく共感できるのですが、
これって果たして「生命の原理」に合致するのかという問題です。
生命の原理とは、宇宙が膨張し生成発展していくのと同じで、
自己の可能性を最大限に発揮していくことだと思うのです。
自然界って、強いものと弱いもののバランスで成り立っているわけで、
「捕食者は許せない」と、捕食者を一掃して、みんな草食動物だけにしたら、結局みんな死ぬよ?
正しい階級分け、正しい差別、正しい格差は必要です。
強者は弱者を搾取するのでなく、威張るけれども、護る。
弱者は、自分の分を受け入れる。
武道には強さによって帯がヒエラルキーのように見事に分かれていますけれども、いい仕組みだと思うのです。
無論、日本にも部落差別などありましたし、支配者の差別的な政策もありました。
そういうところは、変えていかねばなりません。
共産主義がうまく立ちいかなかった原因って、
ある意味この、「ワクワクのなさ」だと思うんです。
世の中こうじゃなきゃいけないばっかりで、
個人の立身出世や夢や自己実現というものが押さえつけられているわけです。
より高次の理想社会のために個人が犠牲になる全体主義は、
ナチスにも言えました。
日本やアメリカの発展は、
頑張ったら、テレビやクーラーが買える、彼女とデートに行けるみたいな些細な夢だったりしたんですね。
あと、精神性を大切にしたこと。
祈りと言ってもいいかもしれません。
全てを唯物的に考えた社会主義諸国が物質的に没落して、
精神性を大切にした自由主義諸国が発展したのは皮肉としか言いようがありません。
資本主義の権化と言われたロックフェラーは、
実は経験なクリスチャンで、ずっと教会への十一献金を欠かさず、人生後半生は慈善事業に財産を使っています。
マルクスは、思想も哲学も真理も法も普遍的なものでなく、
所詮は物質的な経済状況の上に置かれるものでしかないと言いました。
マックス・ウェーバーという社会学者は、
マルクスの言い分を認めつつも、
精神性が物質的世界を変えてしまうケースがあることを指摘しました。
「哀しみ」「憎しみ」「許せない」「被害者意識」ベースではじめたものって、
確かに、「正しい」し、「共感」もできます。
ですが、その先が見えないんです。
負の感情で巻いた種や、起こした行動は、
それが「正義」に満ちたものであればあるほど、
負の結果を刈り取ることになると思うのです。
左翼の方々や、社会活動をしておられる方は、
誠実で優しくて、弱者の苦しみや不正義に対して敏感という方は多いのです。
そしてその問題に対してしっかり行動を起こして訴えかけている。
でも、それで幸せになった人って見たことないんです。
それどころか、余計自分自身に苦しみが跳ね返って、矛盾は大きくなったり、
仲間同士で憎しみあいや暴力が始まる。
「許せない」「こんな社会間違っている」ではじめたものは、
同じものを、自らの内部に抱くようになります。
同情をやめろとか、差別や貧困を放置せよ無関心になれというのではなく、
根っこにある心の部分を見直して欲しいのです。
マザーテレサは、
「反戦活動」はしませんでした。
そのかわり「平和活動」を喜んでしました。
物事何でも、言葉が大切です。
初めっから、
「ヨーロッパに共産主義という幽霊が出て、みんな恐れているぜ!」
「階級闘争こそ歴史」
と、敵とバトる前提ではじめているじゃないですか。
締め括りも、堂々と、
「これまでの一切の社会秩序を暴力によって転覆することによってのみ自己の目的が達成されることを公然と宣言する。」
って、恨みベースでやってるから、
どこまで行っても、敵と憎しみと闘争を必要とするんです。
平和や人権を唱えながら、暴力的になる左翼活動家、
なんでもかんでも、被害者になって取るに足らない些細なことを差別だと騒ぎ立てる人々、
実際のところ、本人に原因のあるコンプレックスを社会のせいにして無限に正当化して、怒ってるだけではないでしょうか。
これは、もちろん、他国に対して差別的になる右翼にも言えることですが。
被害者意識や苦しみで団結するのではなく、
愛と尊敬と夢を叶えるビジョンによって団結し、
それぞれのフルパワーを出しながら、みんなの夢の実現に寄与する団結が必要です。
キリストの言う、それぞれの十字架というのは、
自分が自分であること全ての苦しみだけれども、
それを愛と生命と喜びにつなげていく連帯だと思うのです。
愛と光で連帯していこう、
愛と祈りで革命を起こしていこう。
具体的にやることはそれぞれ違うですが、
根っこの種のところそれを置くことが一番大切だと思うんですね。